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教えられた気配り |
☆★☆★2009年11月06日付 |
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お世話になったお宅へお菓子を持参するために過日、ある菓子店を訪ねた。店内を眺め、値段も手ごろな詰め合わせを選んだ。 「のしはお付けしますか?」 応対してくれた女子店員さんにそう問われ、はたと困った。この場合は赤がいいのか、白黒がいいのか。自らの社会常識のなさを嘆き、悩んだ末にこう答えた。 「お仏壇にお供えしようと思っているので、のしは結構です」 その返事を聞くと、女子店員さんはサンプル通りに箱詰めするため、店内からお菓子を次々と選んでいく。 そして、こう話しかけてきた。 「お仏壇にお供えするのでしたら、神様の名前のお菓子は別のお菓子にお換えしますね」 その言葉を聞いた瞬間、思わず、「えっ」と絶句した。 確かに、サンプルの詰め合わせには「○○○神」と名づけられたお菓子が一個入っていた。注文した時、私もそのお菓子を見ていたのだが、なんとも感じなかった。 しかし、女子店員さんは私の言葉をしっかりと受け止め、私が恥をかかないように気配りをしてくれた。それだけではない。神仏にまで気配りをしていたと言える。まだ、若いのにである。 言われてみれば、そうかと思う。しかし、我が身に置き換えてみれば、そうは簡単に思いつかない。感心せずにはおれなかった。 本人が持っている生来の優しさや思いやりの心ももちろん、あるだろう。同時に、そのお店というか、その企業では、お客様を大切にする社員教育が徹底されているに違いないとも感じた。 「気配り」という言葉を何気なくインターネットで検索してみた。するとさまざま出て来るわ、出て来るわ。もっともその多くは、「成功する人は気配りが必ずできている」といった類の話だ。 そんな中の一つ、潟Wェリコ・コンサルティングという会社のホームページに「配慮」というタイトルの面白い記述を見つけた。 「配慮は別の言葉では気配りです。気配りは顧客への思いやりです。顧客に無関心、自分の思いだけで仕事に専念するのでは仕事で成功できません」 そして、ある有名企業の一風変わった従業員採用の面接方法を次のように紹介していた。 面接は応募者三人ずつで行う。面接担当者は三人の様子を観察し、他の人の発言に真剣に耳を傾け、敬意を払っている人を採用する。面接官ばかりでなく、仲間に対する気配り、同僚に対する配慮、共感する能力を持っているかどうかを判断している、という。 そういえば、大船渡市出身の『モスバーガー』創業者、櫻田E氏も気配りの大切さをことあるごとに説いた人だった。 櫻田会長語録というものがある。その中にも「気配り」という言葉が何度も登場する。 ある章では自らの会社の成長発展の要因を四つ挙げている。一つは「起業家魂を持ち続けたこと」。二つ目は「いつでもクイックアクションで行動していること」。三つ目は「継続力があること」。 そして最後に挙げたのが、「気配りの重要性を知っていたこと。目配り、気配り、心配りなど、五感を全部使って関心を払ってきた」と述べている。 語録集ではまた、夢を実現するために計画を立て、行動するように促している。その行動のポイントの一つとして挙げるのが、「四つの配り(目配り、気配り、心配り、手配り)を怠らず行動に移す」こと。四つの配りが多いほど能力や感受性は増し、正しい判断力が育まれるとも説いている。 この年になって改めて、若い女子店員さんに教えられた気配り。考えれば、心のこもった気配りはお金がかからない最高のサービスであり、世の中円満の潤滑油とも言える。遅まきながら、彼女を見習い、少しでも気配りを心掛けたいと思った次第だ。(下) |
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続・平氏の末裔「渋谷嘉助」D |
☆★☆★2009年11月05日付 |
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平氏の末裔である渋谷嘉助は、幕末に下総中村(現在の千葉県香取郡多古町)に生まれた。 多古町中村にある「渋谷嘉助旧宅正門」は、国の登録有形文化財(平成十一年八月)になっている。民家では異例の煉瓦造り門で、明治期に建造された。正面左右を倉とする長屋門風の形態で瓦葺き。イギリス積という半楕円形アーチの出入り口や丸窓があり、施主の進取な気概を感じ取ることができる建造物という。 その煉瓦造り門から人力車に乗る羽織袴姿の渋谷嘉助の写真が、「渋谷嘉助翁」(岡本作富郎著)の本に掲載されている。生誕地にある日本寺境内に建立された渋谷嘉助翁彰徳記念碑の建碑式が、昭和三年に行われた時に撮影されたもののようである。 渋谷嘉助が、大船渡湾に浮かぶ珊琥島を当時の赤崎と大船渡の両村に寄付し、大正十五年に島内に渋谷嘉助の顕彰碑が建てられた時から二年後の姿で、壮大な式典の様子を伝える写真の数々と一緒に載っている。 明治期に渋谷嘉助は、現在の大船渡市赤崎町永浜の弁天山で石灰石を採掘する渋谷鉱業を興した。創業者の渋谷嘉助翁の伝記を著した岡本作富郎は、渋谷鉱業二代目の渋谷今助社長時代に専務を務めた人物。その本の内容を繙いて渋谷嘉助の生涯をたどっていきたい。 平氏の末裔であるというルーツから記されており、渋谷氏の先祖は、上総介平朝臣高望から出ている。高望の子の平良文は、天慶二年、鎮守府将軍兼陸奥守となり、相模鎌倉郡村岡館にあって関八州に号令した。以後、平良文の後裔は代々東国を領有した。 良文七世の孫の荘司重國は、武蔵の渋谷に居し、渋谷氏は代々武勇をもって知られた。渋谷将監重知の代になり、天正十八年(一五九〇)、豊臣秀吉が大軍を率いて小田原城を攻めた。 敗軍の将の中に東国に聞こえた武勇の人、渋谷将監重知がいた。将監とは近衛府の判官のこと。重知は陣中で戦没し、その重知の子でまだ二歳の修理助重吉は、家臣に抱かれて城を脱出、下総中村の里に落ち延びた。 二歳で父を失った修理助重吉は、武人の血脈であったが、江戸の治世になると武を用いて祖先の声名を回復すること成しがたく、里人たちから崇敬を集めていた修理助重吉は、薦めによって里正の職に就いた。里正とは郷里制における里の長のこと。以後は代々その職を世襲した。 幕末に十一代の里正となった理左衞門は、嘉永二年(一八四九)七月二十六日、男児を授かった。その男児が渋谷嘉助であった。母親は名門千葉康胤の流れを汲む木内伊左衞門の娘で、木内家は貴族院議員の木内重四郎の宗家として知られた。 一村の誇りとされた里正の家に生まれた渋谷嘉助は、学を好む家風に育まれ、幼いころから秀才の誉れ高く、何よりの楽しみは父の理左衞門から太閤記を読んでもらうことだった。祖先の勇ましい武勇伝も聴いて育った。 しかし、渋谷嘉助が物心ついて目にしたのは時勢による家運の衰退。「太閤様は尾張中村に生まれて、日本一の偉い人になった。私が下総中村から出て、家を興すくらい何でもない事だ」と幼少のころから渋谷嘉助は胸に鉄のような意志を宿していた。 後年一世に名を成し巨富を築いた渋谷嘉助。その八十一年の生涯を一貫して活動の源泉とし努力の根元をなしたものは、この一信念にほかならなかった――という。(ゆ) |
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アパート供給過剰時代 |
☆★☆★2009年11月04日付 |
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最近、気仙地方でも賃貸アパートが飽和状態になり、供給過剰ではないかと気になっている。 先日も「人口も少ないのに、あまりにもアパートが建ち過ぎる。需要と供給のバランスが悪くなり、空室がずいぶん目立ってきた」と、陸前高田市内のアパート関係者が悲鳴を上げていた。 オーナーにとって、自分の所有するアパートの空室増加は深刻な問題だ。中には十室のうち八室が空室状態というところもあるという。今までのように不動産業者や管理会社まかせでは、なかなか解決できなくなっている。 それなのに、この不況にもかかわらず、相変わらずアパートの供給は続いている。とくにここ数年は、大手ハウスメーカーの地方への進出が顕著だ。アパートが飽和状態になっているのに、若い世代が飛びつきそうな瀟洒(しょうしゃ)なアパートが、あちこちに建っている。 新築アパートといっても、家賃が既存アパートよりべらぼうに高いというわけではない。むしろ新しい機能や居住性がアップしているのに、家賃は従来とあまり変わらない。とくれば、中には今住んでいるアパートから新しいアパートに乗り換える$lも出てくるだろう。 このように、新しいアパートの供給は、どうしても既存のアパートに住んでいる入居者の争奪戦の様相を帯びてくる。時代に取り残された物件が空室状態になってしまうのは、過去の例からしても必然的なことなのだ。 「建ててしまえばそのまま、それで常に満室経営、こんなうまい話がまかり通っていた時代がむしろ異常だった」と、開き直るつもりはないが、「今までと同じやり方では、いずれジリ貧に」などと悠長なことを言っているご時世でもなさそうだ。 アパート需要は頭打ちになっているとはいえ、大手ハウスメーカーは「立地や間取りなど、ユーザーが自由に選べる設計をしているので、その心配はない」と強気だ。アパート経営についても「入居者がなくても家賃収入は一定期間、わが社で保証します」と、家賃保証という特典≠武器に攻勢をかけている。 アパートの新築や建て替えで求められる設計設備、入居者募集といった経営ノウハウは、素人オーナーでは限界がある。だから、指導、アドバイスはプロの業者に委ねることになる。 それに、融資返済方法や家賃回収、維持管理面などのハードルもある。業者とオーナーがキチンと契約内容を理解したうえで建てるのであれば、何も問題はない。 ただ、長期にわたり入居状況にかかわらず、家賃を保証してくれるというのは、オーナーにとってかなり安心感があるが、その仕組みがよく分からない。将来、建物が古くなって空室が目立ってきたり、家賃も下げざるを得なくなった時、当初の条件のまま保証を続けることなどできるのだろうか。 聞くところによれば、それぞれ業者で契約パターンは異なるものの、多かれ少なかれ数年ごとに保証契約の更新というものがあり、例えば入居率が悪ければ保証金額は更新時に下がっていくケースも出てくるという。 つまり、空室が増えれば増えるほど返済計画が狂ってしまうということだ。もし仮に契約した業者が、立ち行かなくなってしまった場合、当然のことながら家賃保証はなくなるということも考えておかねばならない。 アパート投資は、二十〜三十年間にわたる長期的投資だ。たとえ新築時に既存アパートから入居者が移ってきたとしても、五年後、十年後は、新規参入者によって同じことが繰り返され、いつ勝ち組が負け組になるとも限らない。 せっかく先祖代々受け継いだ不動産。土地を遊ばせておくのはもったいない。真剣にアパート経営を考えている人も多い。 しかし、この供給過剰の時代に、かなりリスクの高い投資であることも肝に銘じておいたほうがよさそうだ。(孝) |
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おそるべきアドビ、そしてフォトショップ |
☆★☆★2009年11月03日付 |
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母がパソコンを更新するというので、ついでに画像処理定番ソフトの「アドビ・フォトショップ」を追加するよう勧めた。パソコンを買うとまずはデジタル写真の処理ソフトやお絵かきソフトなどがバンドル(添付)されているが、やはり定番は欲しい。ただし使う機能は限られているので廉価版の「エレメンツ」にした。まだインストールしていないが、「ライト(軽い)」ではなく、「エレメンツ(要素)」という名にしたからには、必要最小限の機能を持ち合わせているはず。自分のパソコンにはないソフトを結果として「だまして」入れさせたというのはこすい気もしないではないが、しかしあれば家?のためにはなるのである。 と、確信犯になるにはそれなりの理由がある。フォトショップというのは大袈裟に言えば、世界を劇的に変えたソフトなのである。それがどれほどの優れものかは以下の説明だけで十分だろう。 今から二十年ほど前のこと。イスラエルの「サイテックス」というベンチャー企業が「トータルスキャナ」という画像処理システムを開発した。日本でも大変な評判を呼び、東京・晴海の印刷見本市で早速展示された。ブースの前は黒山の人だかりでいくら待ってものぞけそうもない。とうとう諦めて帰ってきたが、これが世界中にトータルスキャナブームを巻き起こすきっかけだった。 スキャンした写真を修整、合成、色変換、誇張化など従来は不可能とされていた領域まで入り込んだこのシステムは大変高価だが、しかし印刷界はじめ画像を取り扱う分野では差別化のため当然導入が進んだ。かくいう小社でも 分不相応ながら、時代を先取りしようと導入に踏み切った。 この時代のパソコンは業務用ソフト主体のウィンドウズに対し、マックがDTP(デスクトップパブリッシング)を視野に入れており、そのためにも画像処理に特化したソフト開発を急ぐ必要に迫られていた。そこに登場したのが「アドビシステムズ」という会社で、描画ソフトの定番である「イラストレーター」の爆発的ヒットについで市場に投入したのが「フォトショップ」だったのである。 「すごいソフトらしい」と耳にはさんでマックを購入時ついでにインストールした。バージョン1でまだ英語版しかない。辞書を片手に機能を試して驚いた。パソコンがまさにトータルスキャナの座を奪ってしまっていたのである。 フォトショップはどんどん進化し、ついには商業印刷のデファクト・スタンダード(事実上の標準)となった。トータルスキャナは哀れ恐竜と同じ運命をたどったのであった。以上、このソフトのすごさがお分かりいただけたろ う。 アドビの成功はとにかくパソコンを実用機器に仕立てたことだろう。ポストスクリプトという記述言語によって滑らかな文字と画像をプリントアウトでき、パソコンをデザインツール(道具)に昇格させたこと。画像を含む重いデータをPDFというファイルに落とすことで通信でのやり取りを円滑にしたこと。日本語を印刷品質で出力するためフォントメーカーと提携し、ギザギザのないポストスクリプトフォントを世に出したことなど、その功績は偉大である。 まだ日本語が明朝とゴシックの二書体しかなかった当時、欧米ではアルファベットならではの扱いやすさですでに何十書体も発売され、まさにDTPが実用化の段階に入っていた。日本でもパソコンで新聞が組版できる時代が来ないかと望んでいたが、予想より早い段階でその時がやってきた。おそるべきアドビ。エレメンツ購入はそんな感謝の気持ちの表れであり、使ってみれば母も満足するはずである。 (英) |
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地方の生き残り戦略 |
☆★☆★2009年11月01日付 |
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わずか三十年先に、人口が30〜40%も少なくなる地方の人口減社会。それがほとんど確実視されているにもかかわらず切迫感に乏しいのは、情報発信基地となる大都市が、それほどでもないからではなかろうか。 首都圏などでは、逆に人口が増えたり、県庁所在地なども人口減は緩やかだ。たとえば東北を代表する百万都市の仙台は、まだ人口が増えている段階で、三十年先の減少割合も8%にとどまる。中核市として30万人を有する盛岡も17%程度の落ち込みだけに、地域一番店≠目指すような企業なら、さしたる影響もなく営業が続けられるだろう。 しかし、こうした特別な都市を除く地方小都市は、軒並み大幅な人口減となる。今はまだその影響は小さいが、年を追うごとに櫛の歯が抜けるように閉店、廃業する商店や企業が続出することになりかねない。そうなる前に、今のうちに「どげんかせんといかん」という危機感を持つことが、まずスタートになる。 功成り名を挙げ、ある程度の財産もあって後は年金暮らしという人々には、こうした危機感を切実に感じることは難しいだろう。あと三十年後も、現役世代として企業や家庭を支えなければならない現在の三十〜四十代が、どれだけ時代の先を見ることができるかどうかで、その地域の将来が決まる。もう一度問う。自分の商売で、顧客が三割も四割も減って、それで経営が成り立つのか。 実は、地域の人口が減ろうと増えようと、生計にはほとんど関係ないという職業もある。リストラされない条件つきだが国家公務員がそうだし、農業や漁業で系統出荷で生活している場合も、人口とはあまり関係がない。ワカメだってアワビだって、地元が消費地ではないからだ。出荷先の多くは大消費地だけに、気仙の人口がどんなに減ろうと、自家の収入に大きな落ち込みはない。 製造業の中にも、県外出荷が多い企業は人口減など関係なく、インターネットを利用して全国から受注する企業もまたそうだ。問題は、人口すなわち顧客の減少がすぐ売り上げに影響する職種だ。現実には、こうした職種が圧倒的に多いだけに、今のうちから超・人口減社会≠ノ手を打っておく必要がある。 気仙は現在、大船渡市、陸前高田市、住田町の三市町で構成されているが、それぞれ自分の住んでいる市町が、十年先にはこうなる、さらに二十年先、三十年先にはこうなるという楽しみな事業が用意されているかどうか。もし、そのような政策をすぐに思いつくようなら、それで良い。しかし、「将来に備えた事業に何があるか、よく分からない」という人がいるなら、行動を起こさなければならない。 これからの時代は行政に何かを期待する場合、「自分たちはこうしたことに取り組んでいるが、この部分に助言や支援を願いたい」という形が大切だと思う。自分は何もせず、ただ要望だけする場合に比べ、受け止める行政側に与える迫力が全く違うからだ。そして情報を集め、将来に備えた計画を作り、行動を起こす団体が増えれば増えるほど、行政もまた目の色を変えた取り組みへと変わっていくと思う。 予算に限りがある中、これからの時代を背負って立つ壮年世代が行動を起こさなければ、行政の姿勢も変わることはないだろう。予算不足を背景に、これといった事業にも計画にも着手しないまま、表面的には静かな行政≠ェ展開され、住民も自分の住むまちには何の問題もないと勘違いしかねない。 繰り返すが、今のうちに長期的なチャレンジをしなければ、三十年先の人口三割減、五十年先の人口半減は確実に現実のものとなる。ひたひたと迫っている人口減をできるだけ緩和するよう、国策に地方振興を期待したい部分も大きいのだが、それにはまず官民を問わず、自分たちが本気になって地域おこしに取り組むことが必要になる。具体的に何に注目し、どう行動すれば良いのか次回に改めて考えてみたい。(谷) |
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地方の生き残り戦略 |
☆★☆★2009年10月31日付 |
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民主党を中心とする新しい連立政権が発足し、戦後政治の総決算が行われようとしている。臨時国会での論戦も始まっているが、当面の焦点は来年度予算に対する国民の評価だと思う。 何しろ、衆院で圧倒的議席を獲得した民主党だが、参院ではまだ連立しないと過半数には達しない。もし来夏の参院選で、少なくとも連立三党で過半数を維持できなければ、再び衆参のネジレ現象≠ニなってしまう。 民主党が野党の立場にあった時、参院過半数を持たない自民党をさんざん苦しめた経緯があるだけに、今度は自分たちがその二の舞になってしまわないためには、来夏が天王山となる。そこで国民の信を得ることができれば、安定多数を持つ衆院と合わせて向こう三年は民主党政権が続く。 安定政権維持のため、来年度予算は国民受けするような予算が組まれることになりそうだが、実際には税収にも限りがあってなかなか厳しい。そのため、赤字国債を発行してでも目玉事業は予算化したい意向のようだ。 「次期参院選は何が何でも勝たねば」との民主党の思惑はそうとしても、国民の立場から、あるいは地方に住む者の立場からすれば、どの政党が政権を取るかではなく、真に住民生活を守ってくれる政権かどうかが問題だ。 時には、経済のカンフル剤も必要だろう。しかし、目先のあめ玉政策で、将来にツケを残してもらっては困る。右肩上がりの高度成長時代には、国民の収入も国の税収も伸びたことから、借金返済も容易だった。ところが今はそんな時代でないことは誰でも知っている。それだけに国民や有権者としても、新しい政策が長期的にどういう意味を持つのか、との視点も持ちたい。 地方は今、かつてない衰退の危機にある。少子高齢化が急速に進行し、向こう三十年先には大幅な人口減が確実視されている。それも、地方のほとんどがそういう状態にあるという、のっぴきならない事態だ。 先に、本紙で二○○五年を基準とした三十年先の人口推計を気仙三市町について紹介した。その人口予測では大船渡市33・9%減、陸前高田市32・8%減、住田町40・6%減。気仙全体では34%ほどの減少見通しだが、本当の厳しさは周辺都市のさらなる落ち込みにある。 気仙地方は経済だけでなく、多くの面で釜石、遠野、気仙沼三市と交流が深い。この三市は、気仙とは運命共同体と言ってもいいぐらい密接に関係。通勤や通学、通院、買い物、イベントなど日常生活での行き来も活発だ。 ある意味、通勤範囲となる位置に力のある都市があれば、気仙はその衛星都市としてやっていけることになるが、現実は厳しい。人口の将来予測をみると、三十年先に釜石市は46・5%減、遠野市は37・9%減、気仙沼市は40・6%減との見通しが出ている。 わずか三十年で、人口が40%前後も減るとは一体どういうことなのか。それで、本当に地方はやっていけるのか。業種にもよるが、商店や企業は顧客の大幅な減少で経営が成り立つのか。 商店や企業が減ることは、それはすなわち雇用の場の減少を意味する。雇用の場が減れば、ますます若者の流出につながり、少子化は加速する一方となる。保育園や幼稚園はもちろん、小学校も中学校も児童・生徒減が進んでいくことは火を見るより明らかだ。 人口は増加することにも問題はあるが、あまりに急激な減少も多くの問題を引き起こす。個人の立場でみれば、向こう三十年から五十年先には、子や孫が自分の家を継いでくれる家は、半分しかなくなる計算だ。今ある住宅の、二軒に一軒は空き家となるような人口減社会の入り口に立って、国や地方自治体には十分な備えができているのだろうか。(谷) |
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「聴いて終わり」にせず |
☆★☆★2009年10月30日付 |
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小社の創刊五十周年(正確には今年五十一周年だが)を記念し、首都圏などで活躍する気仙出身者六氏を招いた「気仙応援団フォーラム」が過日開催された。 氏らの「故郷のために何かしたい」という申し出を受ける形で行われた催し。一般読者が来てくれるだろうか不安もあったが、杞憂に終わりホッとしている。豪華景品の抽選会という余録があったにしろ、よくぞこれほどの人が、と思う盛況ぶりだった。ありがたや。 社員は雑用のためじっくり腰は据えられなかったものの、私もところどころ拝聴した。岡目八目で、多様な提言・辛口批評がばんばん出るかと予想していたが、最初のうちはパネリストの皆さんもやや大人しめ?の印象。 大ホールの外で聴いていた同僚と、「意外と悪口(語弊ある表現だが)は言わないね」「たぶん最初は、地元の人が気づかない気仙の良さを喚起しようとしてるんだよ」「せっかく各首長も来てるから、ここぞとばかりにビックリ発言してほしいよね」などと勝手放題言いながら、成り行きを見守った。 であるから、櫻田和之氏(日本テレビバラエティー局長、盛町出身)が「東京タワーで行われたさんままつりも、正直もったいないなと思いましたね」とおっしゃったときには、「お、それそれ。どんどん言っちゃって」と不謹慎なほどワクワク。終盤にかけては歯に衣着せぬ発言や問題提起も飛び出すようになり、多くの観覧者が目からウロコの新鮮な気分を味わったのではなかろうか。 田舎生まれをハンディとせず、努力次第で何にでもなれることを証明してくれた各氏。しかし「気仙生まれにもすごい人がいるものだ」と希望を与えてくれたのに、我々が「でもあんなすごい人の話、地元にいる自分とは無関係」と卑屈になっては意味がない。 そこで欲を言えば、今回のような会では、あえて地元で踏ん張っている人たちも交えた話が聴いてみたかった。別の土地から来てここを盛り立てたいと考える人だって数多くいる。 今回お招きした六氏がいずれも首都圏を中心に活躍され、世界も股にかけるからと言って、気仙に暮らす人々がへり下る必要もない。「成功」の定義は、都市部や世界へ出ることに限られるものでは決してないからだ。 「気仙から飛び立った人」と「気仙に舞い降りた人」、そして「気仙に根を張り続ける人」。立場の異なる人々が対等に言葉を交わしたら、どんなにかエキサイトするだろう。そうして研磨し合えば、必ず新しい発見があるに違いない。 この場合は、数時間程度のフォーラムではなく、定期的な交流会が必要だろう。千田俊章氏(潟Vームレス通訳サービス取締役・相談役、三陸町綾里出身)のお話にも「役所等が関わってさまざまな思いをとりまとめたら、すごい力を生み出せる」とあった。民間だけでは難しいことも、行政が乗り出してくれたらきっと心強い。 ゆえに今回惜しむらくは、気仙の次代を担うべき若者と、市町関係者の参加が少なかったことだ。受付でこそろに@場者チェックをしていたが、数人の高校生を抜かすと、十代〜三十代とおぼしき人は数えるほどだった。 役所(役場)からは、「まちづくり推進課」とか「産業振興課」といった名のつく部署の若人が大勢来るんじゃないかなーと踏んでいたのだが、これもアテが外れた。 後援者である各市町長らはご招待で来場いただいたものの、市町職員は事前配布の整理券が少ないと聞いて、諦めたのかもしれない。ただ、ホワイエでは中の様子もテレビで流していたし、相談してくれればいかようにも対処する心積もりはあったのに(開催が「業務時間外」だったことも関係あるのだろうか)…。 手前味噌であるが、このフォーラムは外から見た気仙の現状を知り、有識者の助言を聴ける貴重な機会だったはず。いずれ、当日撮影した映像を希望者にDVDでお譲りする予定もある。ぜひご覧のうえ、多少なりとも業務にフィードバックしていただければと思う。せっかくの有用な意見、言わせっ放しでは勿体ない。(里) |
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売ることの厳しさ |
☆★☆★2009年10月29日付 |
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「子の矛を以て、子の盾を陥(とお)さばいかん」。矛と盾を売る男が繰り広げる辻褄の合わないセールストークに、客からの厳しいツッコミ=B矛盾の由来といわれる漢文の有名なこのくだり、学生時代に教科書で読んで、「モノを売るのは大変だなあ」と感じたことを覚えている。 モノやサービスが均質化し、品質面で競合との差をアピールするのは難しくなってきている。各業界では付加価値を与え、競合相手より少しでも多く、好値で売ろうと熾烈な争いが繰り広げられている。気仙の基幹産業の一つ、水産も激しい産地間競争にさらされ、「既存の売り方、作り方だけでは先細りだ」と危機感を持つ生産者も少なくない。 先日、大船渡市のリアスホールで開かれた気仙応援団フォーラムの中で、パネラーの櫻田和之氏(日本テレビバラエティー局長、盛町出身)が話した言葉が印象深かった。櫻田氏は東京タワーで開催された「三陸大船渡さんままつり」を振り返り、「正直もったいないと思った。東京の人たちは『大船渡と気仙沼のサンマはどう違うか』までは理解していなかった」と指摘、さらに「『大船渡サンマ』を作り、高くても品質チェックを厳しくして、限定販売すれば東京人は飛びつく」とも提案した。 この言葉を聞き、九月に社員旅行で訪れた北海道の新千歳空港で「サンマ一匹八百円」の値札を見かけたことを思い出した。明らかに買い手があったと見られる箱の中のまばらなサンマを見て、買う側の環境によっては、モノには売る側の想像を超える価値が生まれることを改めて思い知らされた。 全国有数の水揚げ量を誇り、三陸沿岸の各都市がイベント開催などアピールに力を入れるサンマ。大船渡は今季ここまで、漁場形成が好影響をもたらしたこともあり、昨年同期を上回る実績になるなど水揚げは好調だ。しかしそこに付加価値を与え、いわゆる「ブランド化」により販路拡大を目指すのは容易ではない。 厳しい品質、鮮度管理をウリにしたブランドは北海道などにも多数有り、「一本立ち歯舞さんま」(根室)のように商標登録を取得して全国的な知名度を誇るものもある。極論すれば「安心安全で鮮度抜群は当たり前」。当然、矛盾の由来のような品質偽装≠ヘもってのほか。近年では船上で漁獲したばかりのサンマを箱詰めし、帰港と同時に直送する鮮度維持の極み、沖詰め¥、品も大船渡市内だけでなく各地で展開されるなど、付加価値向上へ向けた取り組み競争は留まるところを知らない。 これほど産地間の競争が厳しい時代に、当地のサンマをどのように売って、販路拡大を図っていくのか。「漁師の顔が見える」「使っている氷がひと味違う」など、他を上回る安心や鮮度をキーワードに差別化していくのか。魚体など三陸産の素材で勝負するか、新たな加工商品開発を目指していくのか。あるいはブランド化から少し離れ、中国や新興国での需要増を図るなど、ある程度の価格で大量にさばける方策を立てていくのか。様々なアイデアが求められ、それぞれ活用していくことはもちろんだが、関係者が一体となり、柱となる戦略を立てて取り組むことが必要なのではないだろうか。 と、サンマのことを考えただけでもこの調子で議論は尽きなさそうだが、気仙にはこの他にも全国的にも評価の高い水産資源が山ほどある。「自分たちの作ったモノはもっと高くてもいいはずだ」と漁業者が立ち上がった漁村もあれば、既存の流通経路とは違った売り方を模索する漁協もある。 変化の激しい時代に生き残っていくのは容易ではない。それぞれの品目で販路拡大、魚価向上のために、他産地との比較や消費動向を踏まえて知恵を出し合い、変えるべきは変えていくことが求められているのではないだろうか。(織) |
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記者の仕事を例えたら |
☆★☆★2009年10月28日付 |
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取材をして記事を書き、原稿を提出する――記者の主な仕事の流れを何かに例えられないか、と思いを巡らせてみた。 きっかけは先日、職場体験に訪れた高校生のサポートをしたことだった。生徒たちに取材をし、記事を書いてもらった。 生徒たちは明るく、素直な子たちだった。事前に参考となる関連資料や過去の類似記事などに目を通してもらい、いざ取材。緊張しながらも一生懸命に写真撮影やコメント取りに努めてくれた。 次は記事を書く番。個人的には、できるだけ自分の力で書いてほしいと思っていた。形になったときの喜びが大きくなるからだ。 よく、取材先で「どうやって取材内容をまとめるの?」と聞かれることがある。国語の授業などで教わった方もあるかもしれないが、▽その記事の内容が一目で分かる見出しを付ける▽一段落目を読んでニュースの内容が分かるようにする――などの決まりに沿って記事を作成していくのだ。 ニュースの内容によって、記事の文量や見出しの大きさ、必要な情報量も決まる。記者になったばかりのころ、どんな情報をどれぐらいの文量で紹介したらいいか分からず、参考にしたのは先輩や前任者の記事だった。さまざまな記事を書くうちに、ニュースの書き方やコツが身に付いていった。 高校生にも同様に、まずは過去の記事を参考にしてひと通り書いてもらった。その後、「この辺、何か間違ってない?」「三段落目と四段落目の最後を見て気付いたことはない?」などと問いかけ、誤字、脱字がないか、同じ表現を使っていないか、読んだ際に分かりにくい表現はないかを考えながらまとめてもらった。 ニュースは写真と合わせて形になり、これを見た生徒たちは大喜び。この様子を見て、少しでもものを書く楽しさや、働くことの面白さを感じてくれたらと願った。 ニュースを形にしていく過程に改めて接し、記者の仕事を例えてみた。旅≠ノよく似ていると思う。 さまざまな情報と言葉から必要なものを選び出し、段落ごとに区切る。さらにそのニュースに適切な文量に合わせて内容を吟味し、記事にする。それが新聞になり、多くの人に届けられる。 旅に置き換えてみる。まずは日程に合った大きさのカバンを選ぶ。これがニュースの文量だ。 次に、旅に持っていきたいものの中から、本当に必要かを考えて持ち物を決める。こまごました荷物はポーチやカバンの内ポケットに詰めていく。この辺は、情報収集や段落ごとにまとめることに例えられる。 衣類は、コーディネートを考えて持って行きたい。スカートとジーパンだけで上がないとか、すべてが柄物ばかりでは困る。荷物は出しやすさを考えてカバンに入れる。これは言葉選びや、情報を必要な順に紹介する作業にあたる。 ひと通り詰めてみたが、カバンがパンパンになったり、重すぎて持てない。そこで、荷物を減らしたり、衣類を圧縮袋に入れて小さくするなどの工夫がいる。記事でもまた、情報を削ったり、表現をコンパクトにしていく。 荷物をそろえて支度が完了し、旅に出る。記事もまた新聞となり、読者のもとへ旅立つ。 大丈夫と思っても、旅行中に忘れものや間違いに気付いて肩を落としたりもする。記事でも(本来あってはならないのだが)、「あぁ、しまった」という説明不足やミスに陥るときもある。 そして、多くの旅は家路に戻る。さまざまな土産を手にして帰ることも多い。では、記者の仕事はどうだろう? 記者にとっての土産は、読者の方々から寄せられる感想や意見だと思う。そうして記者のもとに戻り、成長や経験に生かされる――こんな例えはいかがでしょうか。(佳) |
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古都で教えられた先人のすごさ |
☆★☆★2009年10月27日付 |
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大船渡商工会議所の庶業部会(菊池喜清部会長)が十四年前から続けている視察研修に今年も参加できて色々と見聞を広めることができた。以前は全国の港湾先進地視察が主だったが、エコ時代に入ってからは環境関連にシフトし、今回も滋賀県の県立長浜ドームで開かれた「びわ湖ビジネスメッセ二〇〇九」の見学がメーン。三百近い出展、五百に及ぶ小間数とあってその規模と内容に期待した。滋賀県の産学官が一体となって開催する国内最大級の総合見本市をのぞけるというのは、当方にとってまさに天与の機会といって過言ではない。 花巻空港がイメージチェンジをしていたのにはまずびっくり。旧ターミナルの反対側に近代的なビルが建てられ、駐車場も拡張されていた。それはいいが、JALの赤字路線整理の対象となっている名古屋便が廃止となったら、県民の翼が片方の羽をもがれる結果にならねばいいがとそれが心配になった。時代の変化というのは時に罪作りもする。 さて、あらゆる球技ができそうな巨大な空間をもった長浜ドームは、いまや時代の先端ともいうべき環境ビジネスの現況を物語るような賑わいで、限られた時間ですべての小間を回るのは不可能。そこで関心のある展示を探して歩く。プラントや現機の展示はさすが少なかったが、これから大きく膨らむであろう市場を狙って大手企業だけでなく小規模なベンチャービジネス、大学、研究機関などが盛んに新機軸を展示、PRしていた。 商売が目的ではなく、世の動きを確かめるのが主体の当方は、もっぱら環境保全、資源再活用の小間をのぞいたが、最も興味のあったのはキャスター付きの炭焼き窯で、竹炭や建築廃材などの再生炭を試験研究用に作るために一基あったらいいなと値段の交渉までしたが、取りあえずカタログだけをいただいて我慢することにした。なんでも衝動買いして失敗している過去の反省に立ってのことである。 そのあと蔵の街づくりを展開している奥州市江刺区がモデルとした「黒壁スクエア」を見学できたのも収穫で、わざわざ訪れる機会もない場所だけに、見本市会場の近くにありコースに含まれたのはラッキーだった。地域おこしのエネルギーをここまで凝縮できた地域住民の努力がしのばれる街並みを歩きながら、先祖の文化遺産があるのとないのとでは展開の仕方も大きな差があることを知らされる。表面を真似るだけは慎まなければなるまい。 視察研修の副次目的だったが実質白眉となったのは奈良だったろう。来年平城遷都千三百年を迎えるこの古都で何というタイミングか、かの正倉院展が訪れたその日を初日として開催されたのだった。会場となる奈良国立博物館には長蛇の列が出来上がり開館しても列がまったく進まない。それだけこの歴史的遺産に対する国民の関心がいかに高いかを物語っている。 六十六件のうち十四件が新規出陳とあって余計人気を集めたのか来場者はガラスケースの前にへばりついて身動きもしない。特に光明皇后の直筆である「楽毅論」の前がそうで、千二百五十年前に書かれた書が目の前にあるという感動は名状しがたいものがあった。歴史上でしか知らない人物が身近にいるという思いは痛烈で、大袈裟に言えば金縛りにあった。 相前後して書かれた写経や願文の筆蹟も見事の一語に尽き、しばし見とれた。われわれ現代人は進化していると錯覚しているが、それは遺産の積み上げに乗っかっているだけで、むしろ退歩しているのではないかと思い知らされたのである。 高松塚古墳、石舞台古墳などを回ってさらにその感を強くし、興福寺の五重塔の前に立って先人のすごさを思い知らされもした。普段は観光で一巡するだけの奈良の本当の姿を知らされた気がしたのは、今回の旅の最大の収穫だった。そしてそれとは別に特筆大書したいのは、気仙の食材というものがいかに素晴らしいものかということだった。これも旅の余慶というものだろう。(英) |
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