<虫プロダクションを67年に退社し、アニメ制作の現場をいったん離れた。虫プロは73年に倒産(その後旧虫プロ労組を中心に今の虫プロ設立)。アニメ業界の人材を輩出してきた虫プロだが、富野さんの評価は辛い>
辞めた理由はいろいろありますが、一番大きいのは飽きたということです。虫プロは映画やアニメの志が低かった。手塚治虫信奉者の集まり、ファンクラブなんです。僕は手塚ファンではなく、アトムファンだった。そのアトムでさえ、全部が全部ほめられた話ではないと考えていたから、なじめなかった。
手塚先生は短編アニメの名手ですが、長編はかなり凡才です。結局、マンガ家なんです。マンガという紙の媒体に映画的フィーリングは転写できるということです。映画はリアルな時間を想定して表現できないといけない。残念ながら、多忙すぎる先生は、そういう計算をする余裕がなかったのです。
<退社の翌68年、フリーで「絵コンテ」と呼ばれる演出の下請けを始めた。72年、手塚マンガ「青いトリトン」をテレビアニメ化した「海のトリトン」で初めて監督を務めた>
原作は新聞連載です。読んでみると、シリーズものにならない。「自分で作らなくちゃならない」というところから始まるわけです。初めての監督でいきなりオリジナルを作らなければならない。プロデューサーに「好きにやれ」と言われましたが、放送が始まると、周囲から“石つぶて”が飛んできます。「富野のバカが手塚先生の原作を改ざんした」と。
「海のトリトン」は視聴率が悪く、半年間・27話で打ち切りになりましたが、あとから人気が出て、世界で初めてのアニメのファンクラブができました。原作の単行本のタイトルも、アニメに合わせて「海のトリトン」になったのです。それは手塚先生が僕の仕事を認めてくださった表れだと思います。ただ、その後お会いした時に、「改ざんしてすみませんでした」とは絶対に言うまいと。間違ったことはやってないと思ってましたから。
手塚先生は若手に対しても、仕事をしていると認めると対等にあいさつをしてくれるんです。若い人を何十人、何百人も面倒見てきた方だから、学校の先生のようなもんです。ですから「先生に認められ、名前を覚えてもらえた」という喜びがあるだけで幸せでした。
<「海のトリトン」の最終回、富野さんは予定していた脚本を無視し、自ら絵コンテを書いて制作した>
「海のトリトン」は、イルカと生活するトリトンという男の子が怪獣に襲われるのが物語の基本です。ファンタジーものですが、毎回襲われることには何か理由がある。その理由をつくっていなかった。だから最終回で「大昔に怪獣を根絶やしにした種族の末裔(まつえい)がトリトン。生き残った怪獣の子孫が逆に襲ってきた」という話にしたのです。
<善と思っていたヒーローが必ずしも善ではなかったという逆転劇は、富野さんの信念に基づいていた。絶対的な正義は存在しないという思いは、後の「ガンダム」の原点になった>
世の中にはこういうこともあるんだよ、と子どもたちに伝えたかったし、マンガ的な設定でも筋を通すことができる。フィクションを成立させるためには、きちんとした構造を作り手が考えなければならないことに気づいたんです。
相手が大人であれば、右でも左でも、自己主張してもいい。でも、子どもが見る番組だから思想の偏ったものにしてはならない、最終的な決定権を彼女、彼らに与えなければならないというのが僕の考えです。
ただ、教訓を与えるために話を深刻にすると「お楽しみ」じゃないよね。「お楽しみ」に踏みとどまれる発信者でありたいと思っています。
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聞き手・高野聡/「時代を駆ける」次回は10日掲載です。
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■人物略歴
本名・富野喜幸。アニメーション監督、作家。神奈川県小田原市生まれ。日大芸術学部卒。代表作「機動戦士ガンダム」は放送開始から30周年。今年8月、ロカルノ国際映画祭で名誉豹賞を受賞。67歳。
毎日新聞 2009年11月4日 東京朝刊