事件

母の退官祝い(2002年10月)

母の祭司職の退官祝いが、公民館主催で母の自宅(サラ実家)にて行われた。

兄と私が家族として参加した。長姉夫婦は海外在住なので祝電が届いた。

祈り場所全てに出向き、任務を離す祈りを捧げる。研究者や取材人も限定して混じっている。

途中、小島を残すところで母がふらついた。

無理だろう、後日という声が公民館幹部からあがる。

母に私が同行するから続けるかと聞いた。看護師なので、いざという時に動ける。

やるというので、離れ小島は兄と一緒に母に同行した。それまでは私は女なので家でお膳の用意などに追われていた。すぐにスーツに着替えた。

同行する。小島の最後の祈り場所で、祭司職を離す瞬間、「お前が祈れ。疲れた」 と母が言うので、そのまま母が言うように代理をした。

それから家は宴会となった。

現県議長に声をかけた。兄は座の真ん中に母といる。

「相談がある」

事件当日のことを話した。

「そうか」

しばらく無言で苦しかった。

「お母さんは54年務め上げた、今日はそのお祝いの日だ。サラは石垣市何年か?」

今日はお母さんを祝ってやろう。この話はあとでまた相談に乗ると。

現市長に勝てる人は、ここにはいないかも知れない。

体調が崩れ始める。その間にも市長から部長を通して業務でと応じるように電話がある。

部長は心臓疾患があり、「身体がきつい」 とこぼす。誰彼にも申し訳ない思いだけがわいた。

みんな生活があり、家族がいる。市長の電話は公私の両方から執拗に続いた。

現議長から連絡はなく、2009年の今日まで会っていない。

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2002年9月終わりごろ

日付の裏づけを後日、追加アップする。

石垣市川平の結願祭の日。

母が54年、祭司を努めてきた。例年、サポートする。息子が奉納棒術を舞うので、そのサポートも必要で、本来なら年休を出す。

だが市長が公式行事として毎年出席しているので、今回、サポートを研究で来ていたゼミの学生に頼み、自分は出勤した。

昼食前、

女性トイレから出てくると課長が腕組をして立っている。

「外勤に行け」

鍵とカバンを取りに行こうとすると止められた。緊急の処遇困難ケースの訪問だと思った。

「バカ、早く逃げれ。変態野郎がお前を探し回ってギラついて増進課に行ったり、介護長寿課に来たりしているんだよ。部長もついて歩くから大事になって、みんな仕事にならないんだよ。そのまま帰って来なくていい。午後は外勤扱いにする。カバンと鍵は預かっておく。早く行け」

「お金ないですよ」

課長の厳しい顔を初めて見たので、そのまま福祉事務所の所から表に出た。

認定調査員の誰かが来たら家までお願いしようかとも思ったが、誰も来ないし、お腹もすく。

勤務終了までうろうろと周囲を歩いていた。退勤者の姿が一応に落ち着いた頃、課に戻った。

課長、補佐が立っている。二人とも厳しい表情をしている。補佐は帰っていった。

「サラはどこに行った。外勤から戻せ。祭りに行ったのか」

と、ギラギラ目を光らせて行ったり来たりし、そのたびに付き添う人たちも動き、課の窓口の職員は起立し、騒然としていたと課長が事情を説明した。

課長が、「おまえ、誰でもいいから見合いでもして結婚やれな。仕事仲間としてお前を失いたくない。あんなマスターベーション男は、周囲も何も見えていないからやっかいだよ。僕らはみんな生活のために働いているのにさ。おまえもキツイな。辞めるなよ」 と、言った。

泣きそうになった。だが課長に16日のことを話すことはできなかった。

みな守るべき家族がいる。

携帯が鳴る。

頼んでいた人からだ。

市長車が3時間以上、ばあちゃん家に止まっていて、家に入れないで困っていると。

隣の家、数件にかけてみる。そうだと言う。息子を呼び出してもらう。

「ばあちゃんも僕もお腹がすいた。市長がキッチンの椅子に座って動かないから、食べれない。ばあちゃん、着物も脱いで、カンプーも外したけど、髪が洗えないときつそうだよ。でもお母さんは来ないほうがいいと思う。なんかが気持ち悪いよ」

息子はタクシーで着払いするから帰宅するようにさせた。市街地まで3000円以上かかる。

もったいないから待つという息子を説得し、サポートしてくれる方に車が出たら、すぐに家に入ってばあちゃんの髪の洗い手伝いを頼む。祭司のための琉球カンプーは油で頭を固めるので、落とすのに一時間以上かかる。母は高齢で腰まである髪を処理するのに、手伝う必要があった。

その数日後、女性数名から呼び出しを受けた。仕事仲間からの四面楚歌はきつい。

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始まったパワハラ(2002年9月18日)

2002年9月16日、午前6時ごろ、県立八重山病院の帰り、割烹オーナー夫妻が経営する、海岸線沿いの、「ビハーラ」 傍を車で通る。

明かりが点いている。

階段を昇り、厨房にいた二人と会う。

椅子に三人で腰掛けて話す。私はザンバラ頭でそのままの姿にジャケットを着ていた。

オーナーは始終下を向いていた。

「私は、もうあなたがたとは何の縁もない。息子さんが介護長寿課に来ても、自分は退職の準備にかかる。自分も完璧な人間ではないし、愚かだからこんな目に遭っているんだと思う。自分はあなたたちにバチを与えたいとは思わない。だけど神様はおられるから、あとのことはわからない」

「市長が死ぬのか?」

オーナーが初めて顔をあげて私を見た。

もう一度、病院へ行ったかどうかがはっきり記憶に戻らない。カルテで確認することにする。

2002年、9月17日、公休日、翌18日、出勤する。

書類棚の所でいる時に部長が探しに来る。

9時過ぎ。

「市長室に行くぞ」

周囲の空気が変わる。

「体調悪いです」

「おまえも連れて来いと市長命令だ」

課長、課長補佐を見たが、タバコを吸いに外に出て行った。

部課長以外の職員が市長室に入ることはない。急ぎの決裁をもらいに入るので、秘書係長がそのスケジュールを元に、外来者との調整を図り、その間に急ぎの決裁の時など入れてもらう。

それほど、敷居は一般職員にとっては高い。またそこを易々と行き来されたら、秘書係長の仕事の支障どころか、市の行政じたいの秩序が成り立たない。

私は何度か部長に同行し入っているので、初めの頃は、実直な秘書係長は厳しい顔で見る。当然のことだ。

介護保険が立ち上げスタートという段で、行政と医療福祉、マネージメントの合体という未知のジャンル。行政の部のトップが医療福祉の説明補助として専門職の私を同行する、という意味合いで、秘書係長は、走っている事業の急ぎの決済との見解で理解を次第に示してはいた。

市長室に入った。

スーツ姿のN君が座っている。オーナー夫妻の息子だ。

応接室は、非常勤職員を紹介する場所ではない。

陳情者や表敬訪問など、市の公の応接室だ。

16日が蘇る。憤りというより、終わったと感じた。これで私の仕事場はなくなったと思った。

サラの下に置くと市長が言うが、部長は16日、誰よりも先に上手に逃げたので、一人市長の話を熱心に聞いている。

N君が認定担当の情報処理を担当するようになり、今までいた担当が外された。

部課長、補佐に、退職の意志を伝えた。

「俺らは知らない。自分のことは自分で解決してくれ。すぐに退職は無理。次を育てるまで責任を取るべきだ」

「おまえも息子さん、大学行かせたいだろう。俺らもみんな子どものためにできん我慢をする時もある。親は頑張らないと」

その日の会話はそれで流れる。

周囲から、いやがらせが少しづつ始まっていく。女性職員、組合の職員等から面と向かって罵倒されたり、一人だけ外されたり、同時期入職した看護師が組合に入会できたが、私は無視された。

サラが声をかければ市の職員になれると、勤務中、急に大声でわざと言い出す者もいた。愛人だからなんでもありって凄いね、と。

非常勤務の職員に、苦しくなって外勤の途中、16日のことを話した。

彼女は運転をしていたが落ち着かなくなり、しばらくして仕事を辞めた。

親友にも話せないと感じた。みなを巻き込む前に辞めようと決めた。

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事件発生(2002年9月16日)

「はなき」 で、

部長、課長、課長補佐、男性職員、サラが市長と同席する。

軽いつまみ程度とお酒が出され、店が客に出すには、少な過ぎて変な感じがする。

五分ほどして、オーナー夫妻が前掛けを外して座につく。

みな、あれっという感じになる。

続いてオーナー夫妻の息子さんが紹介される。息子さんは名前を名乗り、頭を下げ退座する。

夫婦はしばらく座る。

一人、一人、トイレに行くふりをして席を立つ。

上司を追う。

「俺らは関係ない。おまえの問題だ」 と突き放される。

「私も知りません。私も帰して下さい」

かばんを取りに戻ると、シャッターが下ろされた。

何度か帰ろうとするが、「待て」 と市長が帰さないので、上司もイベントで早朝から立ちっぱなしでだいぶ疲れているが、根気強く残って相手をしている。

またトイレの横の勝手口しか出口はなく、オーナーが鍵を開けなければ帰れない。やりとりですぐ市長が、「帰るな」 と言うので、時間は午前4時ごろになる。

トイレに立つようにして鍵を何度かまわすが開けられない。また夫婦も見つからない。座敷にかばんを取るふりをしてオーナー夫婦を探す。

市長、男性職員一人が残っている。異動してきたばかりの職員で、女性職員を一人残しては帰れないと、何度も市長に、お送りいたしますと話しかけていた。

そしてサラに目で、「帰れ」 と合図を送る。

オーナー夫婦がいないんです、と答えると、自分が探す、トイレに立つふりして、すぐおまえも帰れと。

2分ほどたった。会話が聞こえる。

いたんだなとわかり、サラもすぐに立ち上がる。

市長が酔ってふらふらと立ち上がった。

しまった、トイレかなと思った。でもそのすきに帰れると、かばんに手を伸ばしたとたん、両肩をいきなり捕まえられる。

サラは体制を崩し、木材床に、頭をごんと打ち、倒される。スカートを取られた。

そこから格闘が始まった。30分から40分、声もあげた。市長に、「私はクリスチャンなので、許してください」 と転んでいる時に声をかけた。

だが髪の毛をひっぱられ、また格闘。ドアが観音開きで押せば出れる。

押したが開かない。

足が二人分見える。オーナー夫婦は、作務衣を二人とも着ていたが、その作務衣のズボンがはっきり見える。

「開けて」「助けて」

と叫ぶが、オーナー夫婦二人もサラが出れないように、必死でドアを押している。また市長と格闘する。膝で顔を押さえつけられる。髪を引っ張られる。ストッキングは破れた。

突き飛ばした。角でごろんと市長が静かになった。その勢いで扉を開けた。二人がいない。

トイレ近くでスカートを着、パンプスは手に持って駐車場まで行く。

膝がガクガク動いて、駐車場まで走れない。

車に乗った。鍵がうまくかけられない。膝はガクガク笑った感じで、なかなかアクセルが踏めない。

車のロックをかけて、なんとか家まで運転する。

高校三年生の長女を起こす。

泣き出す娘を連れて、県立八重山病院へ向かう。運転はサラがする。受診をした。

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現石垣市長の犯罪ー事件当日(2002年9月15日~16日)

2002年9月15日、石垣市主催の敬老の日の祝賀イベントが石垣市民会館ホールで行われた。

当時、サラは石垣市介護長寿課職員。

イベントが終了、近くの美崎町にある居酒屋で、介護長寿課の慰労会が午後6時頃から始まった。

会場片付け等で、サラが慰労会の場所に到着したのは、午後7時30分過ぎ。

慰労会場所に上司の間に市長が座っていた。

着席したサラに、上司より市長へ乾杯しに来いと声がかかる。

しばらく傍に座る形になり、食事が摂れない。見かねて女性職員が、声をかけにきた。

離れた所に皿に寿司などが取られて置かれており、そこに移るようにと、そして代わりにその職員が傍に座った。だが、すぐに上司から、「おまえじゃない、サラ、来い」 と声があがる。

一課の慰労会に市長が出席するのは異例のことであり、初めは緊張していた職員もイベント終了の開放感から、次第に酒席は声も大きくなっていった。

そこでもほとんど傍に座らされた。

二次会に移動するという上司命令。

女性職員や非常勤職員はトイレに行くようにして、それぞれ帰るが、サラは傍に置かれているので動けず、また係長以上は市長命令ということで連れていかれる。

ビヤガーデン、市長の呼び出した若手のミュージシャンやその友人等も同席。

そこで、サラの書いた本を読んだかと市長が一人、一人の職員へ詰問する。だいぶ酔っている。

市長の強い口調に一時、空気が不穏になり、サラに直接、「おまえは何様か」という酔った職員の怒声もあがる。一職員を、首長が話題にするのは当然だがタブー。

酒席は、他で飲んでいた人も交じり、初めの数より倍ほどに人数が増えている。そこで長々とサラの話を酔って話す市長の独壇場となる。

同時に、市長の傍に座れ、というヤジ声あがる。

女性係長がトイレに立つ。サラもついていこうとするが、「サラは帰すな。まだ話は終わっていない」 と市長の声に、帰れず。午前零時をまわる。下の子どもを寝かしつけている長女から何度も、電話が入る。お母さん探して落ち着かないから、タクシーで近くまで来ていいかという電話。もう帰るから大丈夫、なんとか逃げるからと電話を返す。

三次会があるという。失礼しますというと、おまえの人事の件だ。俺らは帰ってもおまえは残れと上司が言う。

午前一時過ぎ、日付は、10月16日。

場所は、割烹、「はなき」

Nさん夫婦が経営する。奥さんはサラの小中学校の同級生。介護長寿課でも何度か来店したことがある。いつもなら閉店している時間。

「はなき」 の近くに契約駐車場があり、サラはついていくふりをして踵を返して駐車場まで歩いたところで、上司が気づいてついてくる。

「市長がおまえを連れて来いと言っている。自分達も疲れて帰りたい、さっさと市長が言うことを聞けば帰れるよ、こっちこそ迷惑だ」 と。

すみませんと謝り、ついて行く。

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