拝啓 瀬戸弘幸 殿

平成21年10月10日、徐才喜冤罪事件の取材記録が瀬戸家の石倉から出てきたとの喜ばしい報告を下さってから、早いもので21が経過しました。

地裁の判決文全文(特に公印は必須)と、新聞が大きく報じたという、徐才喜さんの逮捕の記事の公表はまだでしょうか?

>>全文はコチラ
2009年10月31日土曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その21)


なるほど。瀬戸弘幸さんはこんな疑問をお持ちですか。「韓日」ではダメだと。


上記の通り、瀬戸弘幸さんは国際宗教連盟に所属しています。


これ、瀬戸弘幸さんが所属している国際宗教連盟のHPから拾いました。『日韓』と書いてない理由を尋ねたいところですね。他でもない瀬戸弘幸さんの所属団体ですよね?


「韓日友好」という表現は、右翼団体の街宣車にも書かれているとネット上で紹介されているんですか。その説を瀬戸弘幸さんは根拠もウヤムヤニ否定するんですか? ごく一部がやってるだけだと。

瀬戸弘幸さんは、国際宗教連盟に在籍している理由を下記のように説明しています。


行動右翼時代の知り合いのよしみで名義貸しなさっているそうです。間違いありませんね?

行動右翼時代のお知り合いのよしみで名義貸しするような団体が、黒塗り街宣車さんと同じように「韓日友好」を掲げているんですね。

キレイに繋がっているようですが。インターネットで流れている説は正しいんじゃないですか? 根拠も示さずに否定している瀬戸弘幸さんが間違っているように思えますけど。

他にも国際宗教連盟の役員さんを見ていくと、韓国との友好関係を構築することに熱心な団体の方が結構多いようです。普通、団体の趣旨くらいは把握してから加入するものだと思いますが・・・

国際宗教連盟が掲げる核廃絶とか、瀬戸弘幸さんの政治的スタンスと折り合いがつくんですか?


過去のエントリーを見ると、こんな事も書いていますよね? 黒塗り街宣車に乗っている右翼さん達の実情が必ずしもクリーンでないと、他でもない瀬戸弘幸さんが解説してるじゃないですか。


こんな事も書いておられますよね? 行動右翼時代のよしみで「韓日」なんて表現を喜んで使う団体に在籍する瀬戸弘幸さんですから、『私は10年前にこのような行動右翼と呼ばれた人達との交際が途絶えているので現在の状況は分かりません。』と説明されているのも、にわかには信じ難いです。

文鮮明が北朝鮮を電撃訪問した後も、勝共理論を捨てておらず、日本のネトウヨに対して、韓国農村部(=セマウル)の青年(つまり、統一協会に思想洗脳された青年)と共闘するよう呼びかけている瀬戸弘幸さんです。

言行不一致があまりに多いので、ご本人の説明はそのまま鵜呑みにせずに慎重に吟味する必要があります。

一事が万事とは言いませんが、こんな風に瀬戸弘幸さんの主張は、矛盾に満ちています。

私は、そういう矛盾を1つずつ丁寧に検証しているだけです。大半が、瀬戸弘幸さんの過去の主張の矛盾点の検証に過ぎません。

この時のshinok30さんとのやり取りを読み返すと、瀬戸弘幸さんが否定したかったのは、『瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む』と銘打った本シリーズ全体に見えます。

私に噛み付いて来た時には、話がすっかり変わっていて、

1)徐才喜さんが実在しないっぽいと言っている
2)瀬戸弘幸さんが、瀬戸孝一さんの親族っぽい言っている

以上2点だけでも、ワールドワイドウェブがデタラメばかり言っているのは明白。というような形になっていました。

反論できそうな部分はここだけだったんでしょうね。良く意図が分からないので、何が不服なのか再三意図を聞いたのですが一切回答なし。情けない人です。

自分が何について不服なのかすら、私にきっちり意思表示できないんですか?

しかも、この2点についても発言が二転三転します。

『30年前の記憶が鮮やかに蘇る』程の一級品の資料が出てきたならば、それを公表して、私の記事が全てデタラメだと立証すれば良いはずですが、『30年前の記事にそこまでする必要はない』と尻すぼみになって逃げ出しました。

そもそも、『30年前の記事にそこまでする必要はない』って理由になっていません。私がデタラメばかり書いていると断定したくてたまらなかったのは瀬戸弘幸さんだったはずです。

手元に資料があると公言している以上、それを出さない理由もないでしょう。何故逃げるのですか?

そもそも、事件番号や判決文は私が出せと言い出したものではなく、瀬戸弘幸さんが勝手に言い出したものです。

私は、『徐才喜さんが逮捕された事が新聞で大きく報じられたと記事に書かれているのに、肝心の新聞記事がどこにもないからフカシっぽい』と判断したに過ぎません。

何月何日の何新聞に掲載されたか適示するだけで、私の調べ方が甘かったと証明することが出来るはずです。何故それをしないのか、私には理解できません。

私は新聞記事を基準に判断し、断定はしていません。

公的機関に一切記録が残っていない事件番号、公印のない判決文正本と証する1枚紙等をもってきて、動かぬ証拠と次々に主張されても、どれも第三者が本物か確認する手段がない。

私の努力が足りないと言いながら、毎回正しい情報に辿りつけない誘導を繰り返す瀬戸弘幸さん。こんな不誠実な態度では、事の成り行きを見守っている人たちも不信感を募らせるだけでしょう。

明らかに説明がつかない矛盾だらけの主張を繰り返しているのは瀬戸弘幸さんではないでしょうか。

今回見せて戴いたエントリーも酷い矛盾だらけでしたね。

【追記】
瀬戸弘幸さんが国際宗教連盟に加入するきっかけになったのは、まきやすともさんが話を持ってきたからではないでしょうか?


このお話を見ると、五味武という方と、まきやすともさんが知己であった事が分かります。


西村修平さんとも縁が深い「國民新聞」が、デヴィ夫人らの訪朝計画をすっぱ抜く記事を上げていらっしゃるんですが・・・

赤軍派(※新左翼ですね。日本赤軍とは同系列ですが、必ずしも全く同じ組織ではないので混同しないよう注意が必要です。)の元議長である、塩見孝也さんの訪朝の仲介しているのが五味武さんですか。

この方は、北朝鮮に対する米支援などでも保守の方々の非難をかなり浴びていたはずですね。


瀬戸弘幸さん、まきやすともさんは、五味武さんと同じUNHUNGOAという肩書きです。何の略称かは全く分かりませんが、五味武さんの縁故で加入されたという事で、同じ役職についたのでしょう。

この方の海外協力事業の欄を見ると、確かに北朝鮮関連の事業が多いようです。「國民新聞」にも書いてあるぐらいですし、北朝鮮と何らかの不穏なパイプがある方と見て間違いなんですよね?

そういう方と、まきやすともさんは知己であり、そのツテで瀬戸弘幸さん共々国際宗教連盟に加入。なるほど・・・

また『デタラメだ!』とか伝家の宝刀、『訴えられるか検討してみます!』を振りかざしてみますか?

ニュースソースとして「國民新聞」は全くアテにならないと仰るなら別の切り口からの解釈を試みますけど。

【追記2】
瀬戸弘幸さんの文筆業、ジャーナリストの支障師匠(※Tomatotic-jellyさんが誤変換を発見して下さいました。)である岩崎定夢さんと、五島武さんは随分昔からのお知り合いなんですね。しかも「福島県」つながりですか。これは興味深い。


ところで、「優健美館」と言えば、ナノテクゼリーを販売しようとした時に、効能等について科学的に説明して欲しいという要望が殺到してブログが機能不全に陥って、質問は全てこの「優健美館」で受け付けると瀬戸弘幸さんが立ち上げたものでしたよね?

健康食品会社のブログという形を取っていましたが、統一協会との関係を質問されて、乗っ取られたという謎の回答を残されていたと記憶していますが。ここはShinok30さんに解説をお願いしたいところです。

岩崎定夢さんの「岩崎企画」、ナノテクゼリーの「優健美館」、瀬戸弘幸さんの「世界戦略研究所」などは、全部同じ住所なんですよね? 松沢呉一さんが、この辺りについては丹念に調査をされています。



福島県の郷土資料はもっと徹底的に洗うと面白いものがどんどん出て来るんでしょうね。


凪さんも、ブログ上で丹念に瀬戸弘幸さんや有門大輔さんが関与した会社整理などについて調査をしていますし、そうそう隠しおおせるものではないでしょう。

瀬戸弘幸さんの現在の活動に、右翼としての矜持が微塵も感じられないのは、これまでの人生をどう歩んで来られたのかとも深い関係があるんじゃないですか?

【追記3】
調べたら、コメ支援の件もアッサリ見つかりました。五味武さんとデヴィ夫人で120トンのお米を北朝鮮に送ってるんですね。しかも北朝鮮による拉致問題が発覚した後で。保守派の方々の受けが宜しくないのは当然だと思います。


朝鮮日報で取り上げられていますね。瀬戸弘幸さんと同じUNHUNGOAという肩書きの故・五味武さんは、北朝鮮には相当感謝されているんじゃないでしょうか?

ついでと言っては何ですが、こんなのも見つけましたよ。


国際宗教連盟の中井天山さんが実質的には取り仕切っているんですかね? 瀬戸弘幸さんの師匠である岩崎定夢さんと、五味武さんのお名前が並んでいます。平成12年6月2日に正式発足だそうで、結構以前からおつきあいがあるんじゃないですか?

瀬戸弘幸さんが名義貸しする渡世の義理は色々とありそうですね。みんな繋がっていらっしゃるようです。

それにしても、拉致問題が発覚しても北朝鮮に米支援するような方、新左翼の赤軍派の元代表を北朝鮮にお連れするような方とお知り合いで、その顔繋ぎで国際宗教連盟に加入したとまきやすともさんが説明してしまっているんですよね。

この件は、そのままにしておいて宜しいんでしょうか? 瀬戸弘幸さんの普段仰っている事から考えると相当まずいと思うんですが。



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2009年10月19日月曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その20)

切葉鳩@Free Tibetさんが久々に更新しておられました。

ちょっとその絡みで、と言うほどでもないのですが、瀬戸弘幸さんが、しつこく同じウソをつき続けるので、1回分のエントリーを使って再度丁寧に検証してみたいと思います。


・日本の生存権を、アメリカと中国のどちらに委ねるべきか?
・アメリカとは『自由と民主主義、基本的人権の尊重という人類の普遍的な価値』を共有出来る。
・日米関係を危うくするなら、日本民族の将来の運命こそ、第二のチベットや東トルキスタンである

要約としては、大体合っていますよね? 間違っていたら指摘して下さい。


この記事を覚えておいでですか? 2006年01月26日のエントリーです。この25年前というと、1981年前後です。

まず、『「自由VS共産」というイデオロギーの厳しい戦い』という虚偽説明をなさっていますが、実際は「軍事独裁VS共産」ですね。まぁ、とりあえず置いておきましょうか。


Wikipediaで調べてみると、全斗煥(チョンドファン)大統領就任前後だということが分かります。まだ韓国々内は「夜間外出禁止令」が解けるかどうかという物騒な時期で、韓国人の対日感情が良い悪いなどというお話をしていられる状況でなかった事も分かります。

更に、全斗煥大統領が民主化運動を武力鎮圧して、市民に大量の犠牲者を出した「光州事件」を中心に紹介します。



瀬戸弘幸さんが、左派として忌み嫌った金大中(キムデジュン)氏の名前がありますね。

この頃から金大中氏は民主化運動で人気がありました。逆に、民主化運動を押さえつけておきたい全斗煥氏にとっては、これほど邪魔な人物は居ませんでした。

この後、鎮圧軍と市民が衝突・・・



1979年12月27日、抗争指導部を率いていたユン・サンウォンを含む市民軍の多くが射殺され、鎮圧作戦は終了しました。

こんな事件があり、軍事独裁政権という形で権力を手中にした全斗煥政権を瀬戸弘幸さんは支持したんですよね。

さて、冒頭の瀬戸弘幸さんのご高説に戻って考えてみましょうか。

当時の韓国には『自由と民主主義、基本的人権の尊重という人類の普遍的な価値』は存在しましたか?

反・共産主義という旗印は掲げていましたが、保安司令官全斗煥陸軍少将率いる新軍部は、民主化を求める市民を武力鎮圧し、従わない者を虐殺しました。

瀬戸弘幸さんは、そういう政権を『反共の同士』として支持して、わざわざ現地に赴いてまで支援していたんですよね?

そんな人が、当時の軍事独裁政権に問題があったと一定の反省や批評もすることなく、共産主義国家だけを『人類の普遍的な価値』とやらを尺度にしてご高説を垂れ給うというのは、一体どういう了見なんでしょうか?

私には全く理解出来ません。

『人類の普遍的な価値』に照らして、瀬戸弘幸さんは最低の人間だと言われかねないのでは?

フリーチベット運動の方々などは、政治運動のために利用しようという下世話な考えで活動していなかったと思うのですが、「行動する保守」の方々は違いましたよね。

最初から、中国共産党批判などが主目的で、チベットと関係ない主張もバンバン言う。

周囲の保守層の方々から批判されたら「キレイ事保守」と逆ギレなさっておられましたが、こうやって瀬戸弘幸さんの過去を遡って調べていくと、元々がおかしな人だったと言わざるを得ません。

共産主義国家は、自国民を抑圧したり虐殺してはいけない。だが、反共国家がそれをやるのは大いに認める。

瀬戸弘幸さんは、そういう人なんですよね?

どこが間違っていましたら、きっちりご説明戴きたいと思います。



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2009年10月17日土曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その19)

「除才喜冤罪事件」の裁判資料の公開はもうないと思っていたら、何だか微妙なものが公開されました。


瀬戸弘幸さん、反論になっていません。最低限、以下のような部分は提示すべきではないのですか?

他裁判の資料提示の時は、全文公開で、上記のように裁判所の公印が押されていることが確認できるようになっていました。

今回お見せ戴いた資料は、裁判所が出したものかどうかすら判断できません。

再度言いますが、資料の公開は、必ずしも私を納得させるためだけにすることではありません。

誰もが納得する資料を出すことで、瀬戸弘幸さんの名誉が守られます。そのためにするという意味合いの方が強いでしょう。私に対して『どうだ、参ったか!』という態度を見せつけても全く意味がありません。

誰もが納得するような形で資料を出すことが大事です。手抜きをしては、見ている人たちの心象を悪くするだけですよ。

この資料を見た人が『ああ、これは間違いなく徐才喜事件の判決文なんだ』と納得できるような形で全文公開して下さいね。そうすることで、疑念は解消されます。

1週間お待ち申し上げましたが、どうも分かっておられないようなので再度説明しますね。

瀬戸弘幸さんが前回ご説明下さった日付けから考えると、初公判から判決まで時間がなさすぎます。お手元の裁判資料がどのようになっているか分かりませんけれど、被告(=徐才喜さん)が、起訴事実を全面否定していたら、国選弁護士しかつけられないような苦しい立場の人だったとしても、そんなに簡単に決着するわけがないと思うんですが。

(※追記:瀬戸弘幸さんの記述に合わせるなら、『詐欺容疑での起訴に対して「やっていない」と冤罪を主張した事件』として記事ということになる。しかし、否認していたら初公判から判決まで3~4ヶ月で済むわけがない。つまり、初公判の時点で全面的に起訴事実を認めていたでしょうという事。)

それでも、「徐才喜冤罪事件」の連載記事と一切矛盾せず、被告は精一杯戦った記録が残っているというのなら、見せてください。お手元の裁判記録からそれが読み取れるんですよね?

あと、被告が遠藤文子さん殺しの嫌疑をかけられていた事が大きく取り上げられていた新聞記事もスキャンして公開してください。当時の資料が出て来たのだから、お手元にあるのですよね?

出し惜しみするべきではありません。それを全部出せば、私が大きな勘違いをしていただけで、瀬戸弘幸さんが正しかったのだと皆が納得するんじゃないんですか?

私も、納得できる資料がきちんと提示されれば然るべき対応をしますよ。

何度も言わせないで戴きたいのですが、事実関係を全く確認できない状態で、謝罪せよとか、認めろとか、おかしな事を言われても、私はそれを受け入れることは絶対にありません。

今のところ、反論になっていません。前回もそうでしたが、これなら黙って居られた方がずっとマシだったと思いますよ。

瀬戸弘幸さんは、自分で自分の名誉をボロボロに傷つけていらっしゃいます。

1.対話も議論もせずに訴えると騒ぐ
2.事件番号と日付を公表するも、時程上の不整合から逆に不信感増大
3.公印すらない1枚紙を「判決文」と主張/新聞記事は出さず

資料を出す心積もりがあるなら、最初からきちんとしたものを出すべきです。誠実な対応をお願いします。

【追記】
論点は最初から全く変わっていません。「徐才喜冤罪事件」がフカシ記事かどうかです。

その裏を取ろうと、『大きく報じられた』はずの新聞記事を探して複数の新聞を1日も飛ばさずに読んだのに該当記事がないので、『限りなく架空人物の疑いが強い』と結論づけました。これは、確認手段の1つに過ぎません。

未だにそれを覆すまともな証拠な何一つ提示されませんね。

仮に実在したとしても、記事の内容と実際の事件の内容がかけ離れていれば『フカシ記事である』という指摘はそのままです。

もし、新聞にも載らないような犯罪者の事件を、冤罪のように捏造して「フカシ記事」に仕立て上げていれば、それを誇らしげに掲げて私に謝れというのは、誰が見たっておかしいですね?

瀬戸弘幸さんは、そのような姑息な記事は書いていないのでしょうから、手元にある資料をきちんと公開して白黒つけた方がよろしいかと思います。

また、私が農業事情に明るくないから、適当なお返事で十分とお考えのようで、非常に残念です。せっかくですから、浅学な私に色々教えて戴けると幸いに存じます。



GHQが農地解放する以前は、地主、自作農、小作農と、大きく3つのスタイルがありました。しかし、作付面積が小さな農家は収益率が低いので、土地を借りてまで農業を続ける人は東北以外ではどんどん淘汰されて行きました。

ところが、特に東北地方では、他の産業の発展が捗捗しくなかったこともあり、むしろ農業人口が増加する地域なども。これにより、労働単価が下がり、地主は安定的に大規模農業が営めたのでした。

安定収益を確保していた地主と対照的に、低賃金で困窮した農民たちは、女を身売りに出さなければならなくなったりもしたようで、東北地方各地には遊郭が点在しています。

リンゴ栽培発祥の地である瀬上町も、戦後しばらくは瀬上町遊郭が存在しました。



ここなどは、「石倉作り」の立派な建物だったようですね。(※私が知る限り、瀬戸家が遊郭の経営をしていたという記録は見ていないので誤解はしないで下さい。)

私なら、堅牢な「石倉」を建てる経済的なゆとりがあれば、少しでも早く自分の土地を持って「自作農」になるという選択肢を選びますけど・・・ どうしても倉が必要だとしても、当座をしのぐ、普通のを建てます。

農家なら、例え小作でも「石倉」をお持ちですかそうですか。瀬戸弘幸さんの珍奇な説明を鵜呑みにすると、東北の農家って頭がおかしな方の集まりに見えてしまいます。

戦後、農地解放で自作農になってから建てたとご説明になるのかと思っていたら、どこの農家でもと仰られたのでびっくりしてしまいました。

今更撤回できませんよ。

東北の困窮には様々な要因がありますが、瀬戸弘幸さんが先日触れた戊辰戦争にも、その要因の一端が垣間見えます。薩長主体の官軍将校の誰かが、『白河以北一山百文』と、東北地方を侮蔑する言葉を吐きつけています。(※この白河は、私が本シリーズで取り上げている「白河高原」でもあります。)

その言葉を裏付けるように、戊辰戦争で明治政府に逆らった土地として、ことごとく冷遇されたのが東北地方です。

瀬戸弘幸さんは、新しい維新を東北からと仰っているようですが、「二・二六事件」や「五・一五事件」の遠因は、こうした不当とも言える過度の貧困に追い込まれた農民の不満を背景に受けていたと言われています。ご存知ないというか、そうした実感をお持ちでないようで・・・

そうした辺りからも、瀬戸弘幸さんの家柄からは、東北の小作農民が抱えていた塗炭の苦しみの記憶が全く感じ取れないのです。

明治30年頃からは、白虎隊の忠孝の美徳などが高く評価されるようになったものの、それまでの扱いの酷さは筆舌に尽くしがたいものがありました。

戊辰戦争の会津藩側の戦没者は、埋葬どころか移動すら認められず、半年もの間城下に野ざらしで放置させられ、嘆願の末ようやく埋葬が許可されるという有様でした。同じ日本人がこういう蛮行をしたんですね。

幕府転覆を目論むテロリスト扱いだった薩長、取り締まる側だった会津の正邪が、時代の流れで逆転しました。その途端に、人を人とも思わないような扱い。

しかも、戊辰戦争が終わった後、会津藩のお侍だけでなく白河以北に住む全ての人々を不遇の扱いとする。ひどい話ですね。

(※追記:補足になりますが、生き残った会津藩の方々も北海道の開拓地送りなど、事実上の国替えになった方々が多かったようで、会津に残って不遇な境地においやられていたのは、むしろ農民など戊辰戦争に直接関わりのない方々でした。)

こうして振り返ってみると、明治政府のやった事も許しがたいものがあります。そして、蓄積した不満が「二・二六事件」や「五・一五事件」の青年将校を動かす原動力になりました。

地方の鬱屈した不満を利用して、政治をひっくり返す試みは、既に過去にも何度も起こっているんですよ。

瀬戸弘幸さんは、もう少し歴史のお勉強もした方がよろしいのではないでしょうか。大事な視点がかなり抜け落ちていらっしゃるようにお見受けします。

【追記2】
今回は、親愛なる『日本よ何処へ』コメント欄住人の皆さんに対してもお返事をしておきます。当該エントリーのコメント欄に感想を書き加えてみました。

コチラからどうぞ。

【追記3】


瀬戸弘幸さん、鏡をお持ちでないのですか? 都合の悪い話題から、みっともなく逃げ回っておられるのは、他でもない瀬戸弘幸さんではないですか。


手元に、冤罪であることを証明する資料をお持ちですよね。そう公言なさったはずです。

それを出せない合理的な理由を全く説明もせず、公印すら判別できない1枚紙だけを公開して胸を張っているのは、非常にみっともないとお思いになりませんか?

また、私が質問した事に対して、これまでろくに回答なさっていません。何度質問しなおしても、その度に無視してお逃げになる。

瀬戸弘幸さんが今回持ち出した理屈によれば、瀬戸弘幸さんは創価学会員だという事で間違いないですね?

毎度の事ながら、言論家としては幼稚すぎる物言いが多すぎるように思います。

差し出がましいようですが、鏡の前できちんと襟を正して、身なりを整えてからディベートに臨まれた方がよろしいのではないか。

【追記4】


全斗煥の犬ブログである『日本よ何処へ』に、こんな記述がありました。

自分の事は棚に上げてしまう態度も実に見事なものがあります。まるで、ネトウヨが嫌う特定アジア諸国の人々のメンタリティーをそのまま投影しているかのようです。

『主張の多少の間違いがあっても、それ以外の部分は認めろ』と言っているようですが、この人物が当ブログに対しては、『1~2箇所の間違いを指摘すれば、デタラメばかり書いていることは明白である。』と主張しています。

見事なダブルスタンダードぶりです。開いた口が塞がらないとは、こういう事を言うのでしょう。

自分の都合がよさそうな部分のみを切り取って騒ぎ立てて、それで勝ったかのように騒ぎ立てるのは、創価学会の得意技と吹聴なさってますが、明らかにそれを言っているこの人物が、当該エントリーで鮮やかにそれを実演なさっているという。

ギャラリーの皆さんも、それに気づいてしまっている。こんな恥ずかしい記事を書いて、普通の神経していたらブログごと畳みたくなりますけど、この方は、半島や大陸的なメンタリティーをお持ちなので、きっとまた逆恨みされるんでしょうね。

困ったもので。



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2009年10月15日木曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その18)

瀬戸弘幸さん、色々考える時期を迎えているようですね。

マキャベリーの「君主論」で言うところの、駄目な君子の典型が「行動する保守」をリードしている面々ではないでしょうか。

『政治的に最大限の効果を上げると判断した時には、悪評を恐れてはいけない。』
『世間の評判を良好に保つことだけに心を砕き、政治的選択肢を自らつぶしてはいけない。』

これらは、自分達が行う政治的手法がどういった成果を挙げるか、的確な判断が出来ていて初めて意味を持ちます。

『一部の聴衆の喝采と支持を得る』代わりに『大部分の国民の支持を無くす』行動を取り続けたツケは、自ら払うことになります。

マキャベリーが理想の君主と考えていたであろうチェーザレ・ボルジアは、領土や資金を得る等、具体的かつ大きな利益と引き換えに悪評を恐れず大胆な振る舞いをしていました。

瀬戸弘幸さん達は、最初から世間や支持者の風評頼みで、広範な支持か一部の先鋭的な支持者を取るか、いずれかという時に後者を選んだに過ぎません。「君主論」で述べられている『悪評を恐れてはならない』とは違うでしょう。最初から目線が低すぎたんじゃないでしょうか?

ルネサンス期のイタリアとは事情が違うとは言え、戦略的目標を立てて、そのためにという具体性があまりになさすぎますね。支持者に喝采浴びるための街宣を繰り返し、それが先鋭化していただけです。

あと、民族虐殺がどうのと言っておられますが、瀬戸弘幸さんは「光州事件」の事をどう思われているのですか?

瀬戸弘幸さんは、全斗煥(チョンドファン)政権発足直後辺りからセマウル運動に参加されているようです。つまり、反共の同胞として全斗煥政権を発足当初から全面支持されていたと私は解釈しています。

1980年の5月の起こった事件ですね。市民軍の多くが射殺され、人口75万人の光州市に投入された総兵力数は2万に至った。

その前段階として、保安司令官全斗煥陸軍少将が、戒厳司令官の鄭昇和陸軍参謀総長を逮捕し、軍の実権を掌握した(粛軍クーデター)。これに対し、全国各地で民主化要求デモが巻き起こっていました。

結局、自国民を大量虐殺、武力鎮圧して全斗煥は軍事独裁政権を確立したわけです。

瀬戸弘幸さんは、民主化を求める自国民を武力行使によって大量虐殺した政権を支持して「セマウル運動」にせっせと参加なさっていた。

そんなお方が、天安門事件だ、チベット、ウイグルだと言っても何の説得力もありません。

反共の旗を掲げていれば、軍事独裁政権で自国民を大量虐殺していても大歓迎。共産国家だと許せないと仰る。

この手の問題は、イデオロギー抜きで一貫して『許せない』と言える人でなければ信用ならないと私は考えます。

いつだったか、従軍慰安婦の展示会を左翼系の方々がやろうとした時に、『日章旗で取り囲め』ってやられてましたね。あの時、さりげなく「光州事件」についての特別企画を韓国の方を招いて開催するってなっていたんですよね。

そうしたら、瀬戸さん達はそっちの話題はスルーしとけばいいのに「光州事件」の展示まで非難。多分Google先生に質問したらすぐ見つかりますよ。

こんな態度で、中国共産党の虐殺や少数民族、マイノリティーの差別などを非難できるんでしょうか?

特に、フリチベ系の人とかこういう実態を知ったら心底ムカつくんじゃないかと思いますよ。

これも、ちょっと「セマウル運動」から派生した話題でした。

次回あたりから昭和50年頃のお話に戻りたいですね。

【追記】
昼間は時間が足りなくて検索が出来なかったので、改めてGoogle先生に尋ねてみました。

http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52179875.html



kwoutも初めて使ってみました。思った以上に快適ですね。

ご覧のとおり、左翼系の人たち、従軍慰安婦問題などを取り沙汰している人たちへの不満は分らなくもないんですが(※でも、彼らにも「言論の自由」は認めるべきです)、「光州民主化闘争当事者」の方々まで一緒に不逞朝鮮人にしてしまっているんですね。

で、別にこの人たちは反日的な主張を持って日本にやってきたわけでもないのに日章旗を持って取り囲んでしまうと。

共産主義の対極は自由主義だと瀬戸弘幸さんは仰りたいようですが、当時の韓国は延々と軍事独裁政権が続いていました。国民は民主化を求めていました。

ただそれだけなのに、弾圧されて虐殺されました。共産主義国家は自国民を虐殺してはいけないけど、反共という看板を掲げている国は、軍事独裁政権で国民を苦しめて虐殺しても許されると瀬戸弘幸さんは考えているんですよね?

瀬戸弘幸さんは、反共のパートナーとして国民を弾圧する軍事独裁政権の指導者こそふさわしいとお考えだったのでしょう。民主化を主導した金大中(キムデジュン)氏や盧武鉉(ノムヒョン)氏が大統領になったら、彼らは左派政権で反日教育を行っているから韓国人の反日感情が一気に膨れ上がったと主張しました。

実際は、歴代の軍事独裁政権の大統領が反日教育を脈々と続け、政権が交代するたびに謝罪と賠償のお代わりニダと繰り返してきたことを嫌韓厨は知っています。

2ちゃんねるで、よーめん閣下の理想とする軍事独裁政権が笑いの種になることが多々ありますが、実は瀬戸弘幸さんの理想とする政体こそ、軍事独裁政権ではないかな、と思うことが多々あります。

少なくとも、中国共産党のマイノリティー弾圧を非難する資格など全く備えていないですね。

【追記2】
「マンガ嫌韓流」などでも、常識外れの遡及法として紹介されている所謂「韓国法」という法律があります。ある時点まで、その国の憲法や法律で罪でなかったものを、後付けの法律で裁こうというのは国際的にもナンセンスだというものです。



これも、「光州事件」辺りから端を発しています。軍事独裁政権下では真相解明が進まずに、そのまま時効を迎えてしまった案件を、民主化実現後に究明しようとしたのが始まりです。

真相解明が進み、今度は補償を請求する権利があったのにその時期を逸した人たちに権利を認めようではないかと言う法律が続々と作られた。

賠償責任を加害者本人だけでなく子孫にまで負わせることが行き過ぎかどうかという部分で是々非々の論争はあるかも知れません。

ですが、全斗煥ファミリーのように「セマウル運動」の資金横領など、一族全体で大規模な不正蓄財をしていて、肝心な全斗煥氏は死去というケースなどもあることは当然考慮すべきです。

全斗煥氏に傾倒していたであろう瀬戸弘幸氏らは、子孫に対する責任追及に猛反対なさるのでしょうが。


(※杉山真大さんの指摘で気づきましたが、全斗煥氏はご存命でした。死刑判決後、特赦されています。)

(※訂正文:軍事独裁政権時代の方々の中には、既に死去されている人も居ます。その方の一族全体で不正蓄財をしているケースの場合、賠償請求は宙に浮いてしまうのでしょうか? 軍事独裁政権下で請求する機会すら得られなかった権利は、そのまま諦めよと言うのでしょうか? 韓国の国民が民主的なプロセスで選んだ政権下の手続きでなら、時効切れで諦めろというのは正論ですが、この場合は一定の議論の余地があるのではないでしょうか?)

これを十分に理解せずに非難してしまっているのが嫌韓厨を始め、大半の日本人。そして、こういう誤解が定着しているのを喜んでいるのが「行動する保守」を牽引する排外主義者の方々。

kwoutのリンク元を辿って、解説をきちんと読んでみることをお勧めします。



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2009年10月14日水曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その17)

瀬戸弘幸さんはまともな対話や議論をすっ飛ばして『訴える!!』とまで息巻いていたのに、事件番号と日付の公表のみで、肝心の裁判資料や新聞記事をまだ公表されていません。

訴訟を起こさねばならないほど深刻な事態に陥っていると主張しながら、ご自身で容易にできる名誉回復手段を講じることもせず、中途半端な情報提示によって、却って状況を悪化させ、そのフォローもまともに出来ない。

今のままだと、『徐才喜さんは、逮捕当初から詐欺罪について容疑を全面的に認め、初公判でほぼ決着していた』と考えるしかありません。それでもギリギリ間に合うかどうかというスピード結審です。つまり、記事の内容と実際の事件の顛末はまるで異なるフカシであったという疑念が晴れません。

これについては、ご自身の手元にある資料で疑念を晴らして戴く他ないはずです。東京にお戻りになっておられるなら、最優先で関係資料をスキャナで取り込んでアップすべきです。これは私のためにすることではなく、瀬戸弘幸さん自身のためです。

あれほど大騒ぎしながら放置する神経が分からない。もしかして、私を訴えると仰ったのは、恫喝訴訟の類ではないか?と訝っている人も居るようですから、今になって、この問題はどうでもいいんだという、いい加減な態度はお取りにならない方が良いと思いますよ。

ますます、世間様の印象がそうした方向に傾いてしまいます。抗議を取り下げるなら取り下げる、保留するなら保留するで、意思表示をきっちりなさることが大切です。

私としても『訴える』とまで言われているわけで、抗議の意思を突きつけるだけ突きつけて中途半端で放り出されるのは大変遺憾に思う次第です。

また、刑事事件なので、裁判所ではなく検察が保管ところまではすぐ気づいたのですが、凪さんが保管期限が5年であることを教えて下さいました。これで福島に無駄足運ばずに済みました。感謝です。

で、裁判所に見せてもらえと仰られた瀬戸弘幸さんは、意地悪だったのか無知だったのか、いずれにしても恥ずかしい丸投げをなさいましたね。私には確認手段がないことが確定しましたので、勝手に調べろという言い草はもう通用しません。

「徐才喜冤罪事件」が書かれたタイミングがあやふやである事は、shinok30さんが鋭く指摘を始めています。私も、福島県立図書館に出向く前から、調べ物用に年表を作り始めています。瀬戸弘幸さんの思い出話の『昭和○○年ですから、○○才の頃』といった表現は、実年齢とも数え歳とも合わないことが多々あります。

平気で2歳くらいは食い違うので、検証の際は『○○才の頃』は過信せず、『昭和○○年』又は、その年に起こった事件に触れて書かれた記述で整合を取り直すという作業をしています。これは割と手が掛かります。ご自分の年齢くらいはしっかり書いて戴きたいものです。

で、瀬戸弘幸さんが削除しまくったshinok30さんの指摘をGoogle Docsでまとめておいたので、リンクしておきます。真っ当な指摘に対して、ろくな反論もせずに削除して逃げるのが保守原論家の看板を掲げている方のすることですか?

Shinok30氏の「徐才喜冤罪事件」時系列分析レポート抜粋

この指摘を見ても、やはり時系列上の無理、不整合があると考えられます。これまでの説明に誤りがあったのなら、説明しなおして戴く必要があるでしょう。いずれにしても今のままゴリ押しというわけには行かないですよね。

明らかに、おかしな説明を繰り返しているのは瀬戸弘幸さんですから、shinok30さん等に『妨害だ』と言い放つのは幼稚な言い草です。

私などに対して『でたらめだ』と逆ギレする事についても、私の指摘の主要な部分は、瀬戸弘幸さんのこれまでの主張を元にしているんですから、自分の反論しやすそうな部分だけ選んで言いたい事だけ言いっ放しにしようというのは幼稚すぎます。

ここまでに、私の問いかけに殆ど何もお答えになっていませんね。その時点で議論に負けてるとは思わないんですか? ご自分では相手の一番弱そうな所をガンガン攻めてるつもりになっているんでしょうが、それですら、まったく攻めきれていない。

で、自分は相手の問いかけに全く答えられない醜態を晒している。いつまで、こんな無様なやりとりを続けるおつもりですが?

瀬戸弘幸さんは、柳原さんや、最近参戦した、りゅうさん達一部の創価学会員の方々以外の、東村山関係でご自身に批判的なスタンスのブロガーを片っ端から創価系と決め付けています。

そして、創価学会が故朝木明代さんを謀殺したと決め付けているようですから、瀬戸弘幸さんにレッテルを貼られたブロガーは人殺しの片棒を担いでいると決め付けられているのと同じ誹謗中傷をされていることになります。

私のような匿名ブロガーだけでなく、商用誌に連載を持つ松沢呉一さんや、おはら汁こと荒井さんなどに対しては、匿名者に対する誹謗中傷では済まされないでしょう。それなりの根拠を示さなければならないはずです。

更にブロガーだけではなく、元東村山署の副所長や、ライターの宇留嶋さん、万引き被害にあった洋品店の方まで、みんな瀬戸弘幸さんに人殺しの共犯者だと言われている格好です。

で、私がこれまで何度も指摘しているのにシカトなさっている件ですが・・・

瀬戸弘幸さんは、万引きが捏造されたという結論に持っていくために、『遺族らが洋品店を訴えた』とだけ紹介し、『だが、洋品店が勝訴した』という一番大事な情報を読者に伝えませんでした。

司法判決が不服なら不服なりに記事を書けばいい。判決が下っていることは正直に書かないと偏向報道と言われても仕方ないですね?

ご自分がやっている事こそ何なんですか? でたらめもいい所じゃないですか。大事な情報を伏せて自分が望む結論へ意図的に誘導する。間違いがあっても謝罪もしない。気に入らないなら訴えろの一点張り。

自分の事になったら、根拠を添えた指摘がされているのに、慌てふためいて、全く対話や反論というプロセスを介さずに、いきなり「訴える!」と騒ぎ出す。

きちんと対話する。で、納得行くところまでお互いの主張をすり合わせる。その際、ダブルスタンダードは恥ずかしい事だときちんとわきまえる。

これだけで十分なはずですが? 自分の言いたい事を言いっ放しにしているのは瀬戸弘幸さん側で、こちらはきちんと話し合えれば柔軟に対応する用意があると最初から申し上げているのに、どうして見苦しい態度ばかり取っておられるのでしょうか。

「徐才喜冤罪事件」で瀬戸弘幸さんが県警に疑われる理由、何かおかしな事が書かれていましたか? 補足しておきましたが、取材活動で太田町界隈に出向いたら、瀬戸弘幸さんはすぐに任意同行させられたんじゃないですか? 覆面かぶって取材は出来ませんし。

名字だけで判断して恥ずかしい間違いを犯すというのは、コシミズさんのご尊父を日中友好協会関係者と誤認した暴徒たちみたいな方々向けに贈るべき評価です。

加害者の人権にも配慮せよという趣旨をお持ちだろう「犯罪報道被害者の会」主催の瀬戸弘幸さん、いい加減逃げずにコメントして下さい。法務省などにも抗議して行こうというご立派な会なんでしょう?

『傘で目を突いたわけじゃなかった事件』の抗議でお忙しいこととは存じ上げていますが、関係資料の公開はお早めによろしくお願いします。他ならぬ瀬戸弘幸さんご自身の名誉のために必要な手当てだと存じます。

ところで、少し話が横道に逸れますが、この傘事件は故意に傘で目を突いて失明寸前に追い込むという凶悪犯罪だからこそ、徹底究明しようっていうのが当初のお話だったような?

探偵ファイルの語り口では、被害者も加害者も分かっている風ですし、傘はどこかに消えうせて、単なる傷害事件になっています。

もちろん、『たった1人を多人数で取り囲んで怪我を負わせる凶悪犯罪』という事は言えるのでしょう。批判は大いに結構です。

これをもってカルト集団と言うなら類似事件を起こした団体は、同じ評価をされることになるでしょうね?

秋葉原で、プラカードを用意して立っていた【日本人男性】を、よってたかって暴行していた「行動する保守」の方々は、紛れもないカルト集団ですよね、瀬戸弘幸さん。

結局は、「行動する保守」が『残忍極まりないカルト集団』だと認定するための評価判定基準を自分たちでせっせと作られているわけですね。ご苦労様です。

割と気長にお待ち申し上げたつもりですが、特に返事がないようでしたら私への抗議は尻すぼみで断念してしまったと判断して、本題に戻って行きます。

何卒ご了解下さい。



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2009年10月11日日曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その16)

瀬戸弘幸さん、事件番号を提示して頂けたようで感謝致します。

ですが、凪さんを始め、各方面から疑問の声が寄せられているのも又事実です。時系列的に整合が取れていないのではないかとの疑問は、残念ながら私も同様の見解です。

徐才喜さんが、詐欺の嫌疑をかけられた事について、事実関係を徹底的に争う構えを見せていたならば、瀬戸弘幸さんが示したタイミングでスピード結審することは有り得ないのではないですか?

仮に、徐才喜なる人物が実在したとしても、詐欺の容疑を最初から認めていた人物で、そのまま有罪判決を受けただけという疑念が沸いてしまいます。お手元の裁判資料には、被告が短期間に徹底的に無罪を主張し争った痕跡が勿論残っているんでしょうね? そうでないなら、フカシ記事だった事になりますが。

また、当時の取材記事が見つかったと仰るからには、新聞記事も見つかったことでしょう。裁判記録だけでは、徐才喜さんが遠藤文子さん殺しの疑いで取調べを受けた事が分かりません。単なる詐欺罪で捕まった人を適当に関係あるように書き立てることも出来ます。

事件番号と日付から得られる情報からは、逆に疑問が深まったという印象です。勝手に福島地裁で見ろと仰るなら、やっぱり怪しいという判断のまま先に進めます。

福島のご実家には、たまたまスキャナがなかっただけという好意的な解釈をしておきます。東京にお戻りになってから、裁判記録と新聞記事のアップが遅滞なく行われるものと信じています。そういう解釈で間違いありませんよね?

瀬戸弘幸さんのお手元にある情報の真贋を確かめる術がこちらにないのに、記事を訂正せよとか撤回せよと言われても、応じることは出来ません。きちんとやりとりをして、納得した上でと申し上げているのに、どうして理解して戴けないのでしょうか。

ところで、瀬戸弘幸さんが憤慨されている理由は確定したんですか? 『徐才喜冤罪事件が限りなくフカシっぽいと言われた』という点に絞った抗議なのか、セマウル運動の裏側や、町井久之氏と児玉誉士夫氏がコリアンマネーで白河高原買収と開発をしていた事も、否定するつもりですか?

児玉系右翼の瀬戸弘幸さんは、郷土福島を朴大統領の肝入りで買収されていたのに見過ごして、勝共思想どっぷりの行動右翼をなさっていたんですよね。「木村王国」という、朝日新聞社が作った造語を瀬戸弘幸さん自らがお使いになっておられるのを、私は確認しています。

町井久之社長、児玉誉士夫会長の東亜相互企業が福島県の政官財が癒着した汚職の一翼を担っていたことは重々承知して支持していたわけですね。昭和51年のロッキード事件発覚で全国的に風当たりが強かった上に、福島県では、こんなひどい有様。

それでも児玉系右翼で勝共。朴大統領のために福島県の白河高原を割譲しても構わないというのが、瀬戸弘幸さんだったのでしょうか?

瀬戸弘幸さん、郷土愛ってお持ちでないのですか?

話が逸れましたね。まずは、裁判資料と新聞記事の公開をお待ちしています。

追伸:流石は瀬戸家、立派な石倉をお持ちですね。GHQの農地解放前は、さぞかし立派な大地主だったことでしょう。福島市には、親戚血縁関係など全くない「瀬戸家」がゴロゴロしていて、私が誤認すると、そう仰る。

なるほどなるほど。



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2009年10月9日金曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その15)

社会活動家であり、「犯罪報道被害者の会」という立派な名称の会を主催する、みなし公人の瀬戸弘幸さんが、何やら騒ぎ始めました

ボチボチこういう反応をするだろうと予想はしていました。予想外の攻撃に驚いてひるむだろうと瀬戸弘幸さんは期待しているようですが、訴えるぞというのは既に1年前に1度やられてますよ。

ブログを立ち上げた頃から予測していた事ですから、今更何を驚けと仰るのかと。きちんと根拠を添えて反論して戴きたいのですが。訴える訴えない以前の問題です。

まず、最初に確認しておきますが、瀬戸弘幸さんの憤慨は『徐才喜冤罪事件がノンフィクションなのにフカシ記事だと決め付けられた』ことに対するものですね? 今後勝手に理由を書き換えないように、きっちり確認しておきます。

少なくとも、次回辺りまでに理由を確定させて下さいね。後になって理由を変えてしまうインチキにはつきあいきれませんので、最初にお断りしておきます。

徐才喜さんが逮捕された記事が掲載された新聞の写し、裁判記録などをアップして戴ければ万事解決です。瀬戸弘幸さんの書いた「徐才喜冤罪事件」が事実に基づいて書かれたノン・フィクションであることが即座に証明されます。

当時の取材記録が既に散逸しているとしても、福島県立図書館に当時の新聞が保管されている事は確認しています。山本弘幸さんという新進気鋭のルポ・ライター氏によれば、徐才喜さんが逮捕された時には大きな記事になったとの事ですから、すぐ見つかるはずです。

私は福島民友と福島民報を、一日も飛ばさずに読んだにも関わらず該当記事を見つけられませんでした。通名報道の可能性も疑いましたし、山本弘幸さんがプライバシーに配慮して、徐才喜さんの名前も、日本人名として書いた名前も仮名にしている可能性まで考慮して、それらしい経緯になっている事件を探したのですが、それすら見つかりません。

遠藤文子さん殺しについて10日間以上も続けて記事を載せる地元紙を選んで、これだけ丹念に探しても痕跡すら見つからない。

百川六郎さん逮捕に絡んで遠藤文子さんの名前が出ているのを発見したのを見ても分かるとおり、私は朝刊だけでなく、夕刊まで丹念に読んでいるんですが、そこまでしても見つからないんですが、これ以上、どこをどう探せと仰るのか私には理解できません。

30年以上保管された新聞からは、記事が消えうせるとでも仰るのでしょうか? 福島県立図書館で当時の新聞そのままの情報を読んだのに、こんな幼稚な反論しか出来ないこと自体が信じられません。

あと、所詮はペンネーム。編集長がつけてくれたものだろうが何だろうが実名で書いた記事ではなかったのですよね? そこに権威主義を吹かせても意味はありませんよ。実名では書けないようなフカシ記事であったという私の感想は全く揺るぎがありません。

逆に、「政経東北」という雑誌が持ち込まれた原稿やライターについて、きっちり裏取りもしないでフカシ記事を世に送り出してしまった事に大きな疑問を感じざるを得ません。

私の匿名を非難する前に、「徐才喜冤罪事件」が匿名で世に送り出されたものであるという前提をまずお認めになるべきです。

次に、当時の状況をもう少し掘り下げてみましょう。昭和52年の正月頃、瀬戸弘幸さんは「徐才喜冤罪事件」に取り組み始めたとブログで説明しています。

ですが、瀬戸孝一さん任意出頭と百川六郎さん逮捕を報じた昭和52年1月14日付の夕刊を見ても分かるように、当時の福島市太田町には、遠藤文子さん殺害事件の捜査員、天野派選挙違反の捜査員がウロウロしていました。

瀬戸弘幸さんは、ほんの9ヶ月前に県警に日本刀の刃傷沙汰で逮捕されたばかりの前科者です。

遠藤さんの事件で有力な容疑者を挙げられずにいる県警が焦っていたというのは、瀬戸弘幸さんも認識していたはずですね。前科者の瀬戸弘幸さんが、こんな微妙な時期に太田町界隈をブラブラ歩き回っていたら、一体どういうことになるでしょうか? しかも、遠藤文子さん殺しについて、あちこち嗅ぎまわるという行動を取る。

新聞記者が、その肩書きで取材するのとは訳が違います。瀬戸弘幸さんは「政経東北」に原稿を持ち込んだんですから、取材時には出版社の後ろ盾もない全くのフリーです。しかも県警から見れば、こないだ逮捕したばかりの前科者。

遠藤文子さん殺害事件と半年も離れていない時期に、日本刀で傷害事件を起こしたような人物が、遠藤文子さん殺しについてご近所様に聞いて回っているという情報を聞きつけたら県警はどういう動きを取ると思いますか?

連載記事中で、遠藤文子さんが必ずしも善人ではなかったという情報を取材中に得ていたとルポライターの山本弘幸さんは述べています。この方が本当に瀬戸弘幸さんで、実際に取材活動をしているのなら、県警が聞き込み捜査をしている人と範囲がかぶっている人たちに取材活動をしたのでしょう。

すると、得体の知れないルポライターに根掘り葉掘り聞かれたことをいぶかしく感じたご近所様の1人が、うっかり県警さんに『遠藤文子さん殺しについて嗅ぎまわってる人がいますよ』なんて洩らしたら、それだけで瀬戸弘幸さんは、あっという間にピンチに。

私は、瀬戸弘幸さんの反論では、瀬戸孝一さんの親族ではないという説明になっていないと考えています。そちらの面からも問題が発生すると思うのですが、現時点では、『当時の瀬戸弘幸さんが前科者として県警さんにバッチリ顔を覚えられていた』という状況だけでも、まともな取材など不可能だったと推察できるので、まずは、それを疑問点として挙げておきます。

そもそも『名字だけで判断』したわけではないですよ。きっかけにはなっていますが。

『名字だけで判断』して、コシミズさんのご尊父を「日中友好協会」の関係者と即断して罵声を浴びせていた襲撃犯の皆さんがやった事が、批判に値するという事でよろしいんでしょうか、『犯罪報道被害者の会』主催の瀬戸弘幸さん。

私が『名字だけで判断』して暴れる人たちについて質問したことについては無回答じゃないですか。恥ずかしくないですか? 自分の事になると曲解してまで訴えると大騒ぎ。情けないにも程があります。

私は、事実誤認があれば、そのように仰って戴き、瀬戸弘幸さんのご説明に説得力があれば訂正にも謝罪にも応じると本シリーズの始まりで予めお断り申し上げています。瀬戸弘幸さんが反論できないようなタイミングでの記事の投稿も控えるようにしています。

こちらは、最初から議論できるよう配慮していますし、準備も整えています。これに対して『無視する』か『訴える』かの二択しかないというのは、言論者として致命的じゃないでしょうか。まともに『対話』や『議論』が出来ない人なんですか?

私は、断定できない部分は、正直にそのように表現していますから、読者もそのように理解してくれていると思います。自分が判断した根拠なり理由なりも、出来るだけ示すようにしています。自分にとって不利な情報も隠さず出しています。

瀬戸弘幸さんは、東村山の洋品店での万引き問題について、『亡くなった市議の遺族らが訴えた』とだけ紹介しました。実際には『亡くなった市議の遺族らが訴えたが、洋品店側が勝訴した』と紹介すべきでしょう。

万引き捏造という結論に導きたいがために、肝心の情報を一部欠落させて紹介する。ジャーナリストしてやってはいけないことをしています。非難されるべきは、こういう態度を言うのではないですか?

私は、こういうデタラメな事はしてませんよ。自分が調べられる範囲で丹念に調べ、それでも断定できない部分は断定できないものと正直に書いていますから、訴訟に持ち込んでも特に問題にはならないと確信しています。

瀬戸弘幸さんは、自分が書いたデビュー作が真実であると立証したいのですよね? 冒頭で述べたとおり、徐才喜さんが逮捕された新聞記事を見せてください。それで、瀬戸弘幸さんの名誉は完全に守られますし、きっと私は「穴があったら入りたい」恥ずかしい気持ちになるでしょう。

私を訴えるにしても、記事の真実性や相当性を争う上で決定打になる上に、立証が最も容易な部分ですから、すぐに証拠そろえをしてビシっと叩きつけて私を凹ませてみては如何でしょうか。

私は、間違いが指摘されても絶対に謝らない誰かさんとは違いますから、訴訟をチラつかせるまでもなく、きちんと手順を踏んで戴くだけで十分ですが、訴訟に拘るしても、口先ではなく、必要な証拠ぞろえなどは避けて通れませんよ。

まずは、きっちりとやるべきことをやって戴きましょうか。

瀬戸弘幸さんに言いたい事は大体こんなところですね。反論その他言いたいことがあれば、いつでもお待ちしております。

さて、エントリーをこれだけのために1回分消費して終了では読者の皆さんに申し訳ないので、少しだけ本題も少しだけ前に進めておきますね。

鳩山総理の故人献金問題などを問題視する瀬戸弘幸さんですが、確かに「政治資金収支報告書」などの記載が正直に行われていないと、『政治と金』の問題が適正に処理されていることを確認することが出来ませんから、クリーンな政治を担保するものがなくなります。

昭和51年暮れに天野光晴さんが衆議院議員選挙に絡んで選挙違反容疑をかけられた問題は、正にこうした要素を含むものです。当初は、票買いの賄賂が問題になり、天野派運動員が次々と逮捕されていたのですが、昭和52年1月14日の瀬戸孝一県議任意出頭と百川六郎さんの逮捕は、新しい嫌疑の浮上によるものでした。

『選挙運動費用収支報告書』に記載されていた出納責任者の名前が、でっち上げである疑惑が浮上。この人物が、この選挙には全くタッチしていなかったことが確認されたのでした。故人が献金できないのと同じように、選挙運動に全く無関係だった人が、出納責任者のはずがない。

このように、無関係の人の名前を勝手に拝借して、出納簿の類をチョロまかす犯行は古典的なもののようです。瀬戸弘幸さんが血縁関係を否定していらっしゃる、瀬戸孝一県議は、天野派の選挙運動を仕切っていたので任意出頭という事になってしまったようです。

この後も野党からの批判が止まず、県議会の副議長を辞任していらっしゃることまで以前紹介していました。

その後の展開ですが、賄賂のばら撒き、収支報告書デッチ上げなどの疑惑で、天野光晴さんの夫人、マサさんまでもが逮捕され、取調べを受けます。

赤の他人だそうですから、私がいくら瀬戸孝一さんや天野光晴さんの過去について書いても、瀬戸弘幸さんは一切文句は言わないでしょう。他人ですから。

鳩山首相の故人献金と同じく、過去のこうした問題も許されざる犯行ですよね。地元福島で行われた、このような不正について、郷土を愛する瀬戸弘幸さんが当時、どのような思いでニュースを見て居られたのか、感想を聞いてみたいものです。

たまたま名字が一緒だったせいで、色々迷惑したりすることもあったのでしょうか。

さて、ここまでの流れを新聞で追いかけて、これ以上は時間が足りなくなると判断した私は、郷土の政治家に関する資料だから、探せば見つかるだろうと蔵書検索コーナーへ向かいました。

自伝の他にもう一冊、興味深い本が見つかりました。「ずんねえ男一代記」という表題の本ですが、なかなか恐ろしいことが書いてあります。

簡単なメモ書きしかして来なかったのですが、こんな感じのことが書いてありました。

天野光晴氏は、県議会議員選挙立候補を決意し、妻のマサさんが収監されている拘置所前に立つとハンドフォンで出馬を報告。粘り強い選挙戦を展開して、県議会議員選挙に当選。手元の資料と照らし合わせると、多分、これが昭和54年4月8日。

県議会議員になると、自分の妻に対する県警の厳しい取調べが人権侵害ではないかと、審査機関の設置を要求し、自らその長に。県警トップを呼びつけて丸2日間こってり油を絞った。

これ以降、選挙違反の追及がピタリと止んだ、といったようなことが書かれていました。

昭和54年10月7日には衆議院議員選挙(公示は9月7日)なので、ごく短期間、県議会議員になって足元の火消しをしたということでしょうか。この本に書かれていることが事実なら、恐るべき豪腕だと言えますね。これについては、もう少しきっちり裏取りをして、また報告したいと思います。

今回は無駄話で長くなったので、「月刊ルポルタージュ」と「二本松タイムス」の紹介は次回にします。



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2009年10月4日日曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その14)

今回は、西村vsコシミズの決戦について触れながら、宿題遺棄事件シリーズ前半のおさらいと絡めたお話をします。

雑感としては、案の定まともなお話し合いは出来なかったし、ご近所迷惑でしたね。

西村修平さんの宣戦布告文からすると、『統一教会から資金提供を受けている』と誹謗中傷された事が発端だったはずです。瀬戸弘幸さんの工作で、「そよ風」への誹謗中傷への抗議にすり替え。

コシミズさんは脇が甘い上におバカさんだったようで、この挑発に乗って、「そよ風」の女性陣の写真にコラージュして誹謗中傷。黒田大輔さんと同じような幼稚なことをしてたらダメでしょう。瀬戸弘幸さん達は勝ち誇っていますが、相手が自分たちと同じレベルに堕ちただけなので、あまり自慢にはならない。

で、当初の抗議理由については全く解決していません。それをすっかり忘れたかのように瀬戸弘幸さんは、鳩山由紀夫総理の献金問題の追及をすると息巻いています。

例えば、小沢一郎氏が会計責任者を連れてきて『西松建設との関係は無問題』って説明させたら疑惑は全解消したと瀬戸弘幸さんは認めますか? 『国民を舐めるな!』と仰るんじゃないでしょうか。

鳩山由紀夫総理の場合でも、『秘書が処理したことですから』で済ませたら、やはり許さないんじゃないですか?

西村修平さんが、会計担当者を連れて行って、その場で口頭で統一教会との関係を否定させて胸を張って見せたパフォーマンスは、それと何が違うのでしょうか? 国民を舐めるのも大概になさった方が宜しいかと。

あれでは、何も説明しなかったのと同じですね。ゴネて穏やかに討論するのを拒む。そよ風コラ問題発生より前から街宣許可を取って居たことも判明しているようです。瀬戸弘幸さんの虚偽説明も破綻しています。

最初から、脅したり嫌がらせをすることで、『統一教会から金をもらっている疑惑』を蹴散らしに行ったんですね。そうとしか解釈のしようがありません。

瀬戸弘幸さんは、現地で穏やかに話をしようという姿勢が若干見られたものの、西村修平さん登場後は完璧に嫌がらせ街宣で相手を黙らせる作戦に終始していました。瀬戸弘幸さんは、終了後も西村修平さんの姿勢について何ら疑問を呈することもなかったようです。

もちろんコシミズさん達の態度も全く褒められたものではないですが、「行動する保守」の金銭面の疑惑はますます濃厚になったと言わざるを得ません。

『まともに情報を開示して話し合うことは出来ず、嫌がらせや脅し、家族まで狙って押しかけるという行為で黙らせる方法を取るしかない程、裏側は真っ黒なんじゃないか?』と多くの人が再認識したと思います。

また、「犯罪報道被害者の会」主催の瀬戸弘幸さんは、この分野においては卓越した知見や倫理観を持ち合わせていることが期待される「みなし公人」です。そういう基準で評価し、批判させて戴きます。

加害者にも人権があり、報道の過熱によって、家族に対する行き過ぎた取材などを制限しようという動きが一時期あって、「人権擁護法案」にマスコミ規制条項として盛り込まれかけた時期もありました。

現在は、報道業界が自主規制の枠組み内で行き過ぎをなくす取り組みをしています。瀬戸弘幸さんは、もちろん立派な趣旨の会を主催しているんですから、こうした流れをご存知ですよね?

然るに、『写真を使って名誉毀損する』という、黒田大輔さんと同種の犯罪ですが(※コシミズさんの方が悪趣味だとは思います。)、これに対してコシミズさんの実家に押しかけて嫌がらせをするのは行き過ぎだとお思いになられませんか?

マスコミの取材過熱による『加害者家族に対する取材』ですら、人権侵害の疑問が持たれている昨今だというのに、殺人事件等の重大犯罪ではなく、誹謗中傷レベルで実家に押しかけてご近所様に迷惑が最大限かかるように抗議街宣。マスコミによる人権侵害の比でないことはお分かりになるはずです。

加害者の人権にも配慮するよう求める団体の主催者として、どう思われるのですか? これが許されるなら、黒田大輔さんのご尊父の事務所に抗議街宣なども当然許されることになりますよね?

また、コシミズさんの実家が日中友好協会と縁があるとの誤報が飛び、それを根拠にコシミズさんのご尊父に暴言を吐いている方まで居られるようですが、こういうのを放置しておいて許されるんですか?

だったら、こういう情報は如何でしょうか?

瀬戸孝一さんの自伝の巻末に「わが人生の足跡」という年表があります。昭和53年8月22日、「日中友好県民の翼訪中(副団長)」と書いてありました。

私は県議として日中友好の架け橋となられた瀬戸孝一さんは間違ってないと思いますけど、コシミズさんの実家を襲撃した暴徒の方々の理論だと、国賊という事になりますから、ご子息である現福島市長の瀬戸孝則氏宅辺りが街宣対象になってしまいそうな気がします。

実際は、似非愛国者でしょうから、瀬戸弘幸さんの親類は襲わない。コシミズさんのご尊父は誤報でも襲う。日中友好は口実に過ぎないってところでしょう。

(※似非じゃない証拠に福島市長を襲えと言っているわけではありませんので誤解なきよう。法治国家日本で人様を襲おうなどとは絶対に考えてはいけません。)

私は、偏狭なナショナリズムで煽動を持ち込んで、自分が抗議したい人の家族まで巻き込んで『お灸を据える』だか何だか知りませんが、無茶苦茶な私的制裁を加える「ならず者」には、問題があると感じています。

こういう「ならず者」に限って、自分たちが加害者側になっている時は、無茶な事をする正当性ばかり説き、同じ事を自分たちがやられそうになった途端に泣き言を並べ立てたりする情けない人達だったりするものです。

どうしても、あれは西村修平さん達が勝手にやった事という扱いにしろというなら、客観的に見て、あの行動をどう思うのか「犯罪報道被害者の会」主催、または普段からジャーナリストを名乗る瀬戸弘幸さんの報道倫理が、どの程度のものか世間に知って戴くためにも、きちんと表明して戴きたいものです。

ノーコメントでは、あまりにお粗末でしょう。それこそ何も答えられないのは「逃げた」と言われても仕方がない。

また、リアルの衝突が済んだ後も、瀬戸弘幸さんは言論でコシミズさんに追い討ちをかけようと考えたのでしょう。色々言い始めましたが、虚偽説明のオンパレードになっています。

統一教会の文鮮明氏が金正日と会談したのは1991年の12月で、それ以前に民族派右翼活動している時期に勝共連合と関係があったからと言って文句を言われる筋合いはないというような事を言いたいのでしょうが・・・

宿題遺棄事件シリーズ(その2)で説明させて戴きましたが、瀬戸弘幸さんは2006年01月26日付のエントリーで、セマウル運動について紹介しつつ、勝共理論丸出しで、『私は韓国における「反共・自由の青年戦士」達との共闘を呼びかけたい。』と呼びかけています。

文鮮明が北朝鮮訪問をした後も、瀬戸弘幸さんは勝共理論を捨てていません。その後のエントリーで嫌韓に転じた理由を盧武鉉政権などに押しつけています。

反日教育は、李承晩軍事政権以降ずっと行われて来ました。瀬戸弘幸さんが反共パートナーと認めてきた歴代政権がどれもやって来た事です。盧武鉉政権が急に反日教育を始めたかのように紹介しても騙されませんよ。

そして、セマウルに居るのが統一教会に思想洗脳された農民たちだという事はネトウヨに教えずにオルグしようと画策。文鮮明が金正日と会談した後にこういう事を平然とやっていたのが瀬戸弘幸さんです。

次回は、瀬戸孝一さんの自伝から天野光晴さんに関する話、更に選挙違反を天野光晴氏が豪腕で処理した話、瀬戸弘幸さんが発行していた「月刊ルポルタージュ」などの紹介に充てたいと思います。

【追記】
新エントリーを起こすほどの事ではないので追記にしておきますが…

瀬戸弘幸さんがコシミズさんへの反論として、「北朝鮮偽装右翼説と左翼偽装転向説に反駁する」なんて事を言い出しました。

『ヒトラー思想のススメ : 自然と人類を救済するナチス・ヒトラー世界観の120%肯定論』によると、瀬戸弘幸さんのネオナチの師匠であり、児玉誉士夫系民族派団体として師事した「民族思想青年会」代表の篠原節さんは、社民党系… つまり左翼からの転向組ですよね?

瀬戸弘幸さんも、この本で対談していて共同執筆しているんですから重々承知しているはずです。非常に身近なところじゃないですか。どうして自分と遠そうなところから左翼転向組の話題を持ってきて「他山の石」みたいなフリをなさるんですか?

そういうみっともない真似は、やめた方が宜しいかと。国会図書館の蔵書にある瀬戸さんの著書は、時間がある時にパラパラと読み始めてますから、ウソをついてもすぐ分かりますよ。



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2009年10月1日木曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その13)

徐才喜さんという在日韓国人が限りなく架空の人物らしい事は、福島県立図書館での調査でも確認できました。

そうなると、瀬戸弘幸さんが匿名のルポ記事で警察が不当逮捕や不当捜査をしているといった怪しげな印象操作をして世間に何を伝えたかったのかという点に興味を持った人も居るでしょう。

フカシ記事を書いても、ライターとしてもらえる原稿料はたかが知れているでしょうし、お小遣い稼ぎとしては妙な感じがします。

私は、この事件について調べるために昭和51年10月末~昭和52年の春先辺りまでの新聞をしらみつぶしに読んでいました。偶然、この時期には調べてみたかった事柄が集中的に起こっていたという事もあり、かなり丁寧に眺め回していました・・・

すると、遠藤文子さんの名前をとても意外なところから拾ってしまったのです。

新聞記事のコピーをとって来たので、興味のある方はコチラを見て下さい。

昭和52年1月14日 福島民友新聞 夕刊 

瀬戸弘幸さんの親族(多分、いとこおじ)の瀬戸孝一氏が、天野光晴氏選挙違反に絡んで任意出頭という記事が出ています。この中で、運動員の百川六郎氏という方が逮捕されたという記事があるのですが・・・


百川の自宅は福島駅西口の東北新幹線高架橋工事現場の近く。太田町の元女性校長殺しの現場から約五百メートル離れた住宅地の一角にある。


被害者宅と500メートルしか離れていないところに住んでいて疑われた太田町内の住人というと、徐才喜さんと全く条件が同じですね。逮捕された時期と、瀬戸弘幸さんが、「徐才喜冤罪事件」に取り組み始めたという時期はピッタリ同じです。

瀬戸弘幸さんは、天野派の県議会議員で、当時は県議会副議長だった瀬戸孝一さんの親族。そして、遠藤文子さんが殺害されて半年もしない時期に日本刀で傷害事件を起こして9ヶ月も拘留されています。

出所して早々、瀬戸孝一さんが任意出頭となり、天野派運動員の百川六郎氏が逮捕され、天野派と遠藤文子さん殺害が何となく関連づけられている空気が見えるや否や、全く違う作り話をこさえて世間に発表しようと動き出しています。

架空の在日韓国人である徐才喜という人物が冤罪でハメられて逮捕され、警察に人権を無視した不当な捜査をされているというフカシ記事を匿名ライターとして寄稿。

この「徐才喜冤罪事件」を瀬戸弘幸さんが実名で書いていたら、警察はどういう動きをしたでしょうか? また、山本弘幸というペンネームのライターの正体が、天野派県議の瀬戸孝一さんの親族で前科者の瀬戸弘幸さんで、迷宮入りしかけている遠藤文子さん殺しの捜査をかく乱するような記事だと認識したとしたら・・・

第一級の容疑者として浮上したんじゃないでしょうか? 絶対に堂々と実名で書けるわけがない連載だったはずですよ。誰が考えたって怪しすぎます。瀬戸弘幸さんが遠藤文子さんを殺したとまでは断定出来ないものの、何が事情を知っている可能性があると警察に判断されてマークされてもやむを得ないでしょう。

これは、「東村山の闇に光りを」などとバカげた事を言っていられませんね。東村山市議転落死問題と違い、遠藤文子さんは確実に殺害事件です。事故死や自殺といった疑問が入り込む余地は皆無です。

カビが生えたような古い話の裏を取る物好きが居ると瀬戸弘幸さんは考えなかったのでしょうし、万が一調べられても遠藤文子さん殺害事件は時効が成立していますから気が緩んだのでしょうか。記事が掲載された雑誌名や時期を得意げにお話してしまったのが運の尽きでしたね。

また、瀬戸弘幸さん達の東村山での活動を見ていると殺人事件等の重大犯罪については時効撤廃を求める姿勢のようです。

どれだけ古い問題であっても巨悪は眠らせてはならないと仰っているようですから、私が福島市太田町の殺人事件について何十年経っても追求し続けようと考えても一切文句を言うことはありませんね?

私が本件について拾ってきた情報は、まだ終わりではありません。むしろ序の口だと考えてください。まだまだ掘り下げていけるネタを持ち帰っていますので、追々取り上げて行きます。

瀬戸孝一さんは、この選挙違反問題を県議会で野党に徹底追及されて副議長の罷免要求まで出されますが辛くも否決。翌日に辞任して、福島県政は何とか平静を取り戻したようです。

これが、私が福島に行く前の調べ物で見つけていた、昭和52年3月5日の辞任の真相でした。色々ご苦労なさっていたんですね。

それにしても、この天野光晴氏の選挙違反問題、全国紙で拾おうとするとほとんど情報が見つからないんですね。福島に行って初めて色々知りました。

それまでは、木村守江県知事の逮捕劇の余韻が1年後もくすぶっていて・・・ くらいの予測しか出来ていませんでしたが、天野派が片っ端から逮捕や任意出頭という事態にまで追い込まれ、県議会がストップし、蜂の巣をつついたような大問題になっていたとは・・・

地元新聞を読まないと分からないことってあるんですね。

次回に続きます。



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2009年9月30日水曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その12)

瀬戸弘幸さん達、今度はリチャード・コシミズさんと揉めているようですね。

セマウル問題を取り上げ始めた時に、コシミズさんのところらしき掲示板にウチの記事の要約が貼られてるのを見て、コシミズさんたちの路線とは違うんだよなぁと微妙な気持ちになったのも確かなので、肩入れする気は更々ないですが、みなし公人である瀬戸弘幸さんには少し言っておきたい事があるので触れておきます。

地裁の判事が創価学会から金品をもらって創価有利な裁判進行をしたに違いないからと、訴追請求までしたのは他でもない瀬戸弘幸さん達だったはずです。

『証拠もなく、カルト宗教団体からお金をもらっていると決めつけてクビにしろと具体的処分まで求める』という暴挙に出た上に、虚偽告訴の類にならないかと私が聞いたら『表現の自由だ』と突っぱねたのも、瀬戸弘幸さんです。

「犯歴報道被害者の会」という立派なお名前の会の主催者である瀬戸弘幸さんの倫理観はその程度のものですから、他の方が西村修平さんの活動資金が不透明だから『統一教会からお金をもらっているんじゃないの?』と口先で言ったくらいで目くじら立てて『堪忍袋の緒が切れた』と言う資格などないでしょう。

西村修平さんも瀬戸弘幸さんも、政治活動資金が不透明すぎるからあらぬ誤解をいつまでも持たれるのではないですか? 怪しげなカルト宗教からお金をもらわなくても健全に活動できる事を示すためにも、収支報告をきちんとなさっては如何でしょうか。

自分たちは証拠もなく他人様がカルト宗教からワイロをもらっていると言っても『言論の自由だ』と言えば許されると主張したんですから、コシミズさんに『統一協会から金をもらってる証拠を出せ』としか言えないなら世間にバカにされます。

自分たちの資金の収支状況を進んで全公開して、『アヤシイ宗教などから金をもらわなくても困ってないぞ!』とカッコイイ啖呵を切る位でないとお話になりませんよ。

何しろ、瀬戸弘幸さんは「犯罪報道被害者の会」の主催者ですから、世間一般の人々よりは高い倫理観を持ち合わせていることが期待されます。世間に対して恥ずかしくない振る舞いをなさるよう期待しております。

脱線し過ぎましたね。ボチボチと福島県立図書館で拾ってきた情報を交えたお話に入って行きたいと思います。

まず、福島行きのきっかけになった「徐才喜冤罪事件」の元記事。図書館に到着してすぐに閲覧させて戴きました。

「政経東北」という月刊誌の昭和53年6~9月号に掲載されたもので、すぐ見つけることができました。瀬戸弘幸さんは28歳の頃と自己申告していたのですが、25歳の頃の執筆ですね。

瀬戸弘幸さんは、ヤクザ者との刃傷沙汰を起こして9ヶ月間拘留されている間に、徐才喜さんが(殺人罪について)無罪を勝ち取って出所した事、那須さんの冤罪事件などのニュースを聞いて心強く思ったとブログに書いています。

この記事に取り組んだのが昭和53年の正月頃からのようですから、逮捕拘留されたのは、昭和52年の3月以前という推測が成り立ちます。ここまでは良いですね。

この徐才喜さんという方が疑われた原因であるという、福島市太田町婦人殺害事件というのが発生したのが昭和51年10月20日です。瀬戸弘幸さんが刃傷沙汰を起こした時期とかなり近いですね。恐らく半年の開きはありません。

図書館で複写を取らせて戴くことが出来ましたので、「徐才喜冤罪事件」の記事を公開します。

徐才喜冤罪事件-1回目
徐才喜冤罪事件-2回目
徐才喜冤罪事件-最終回

迫真のルポですね。流石はジャーナリストデビュー作。よく調べて書いています。 ・・・と申し上げたいところですが、実はそうではありません。

この記事にざっと目を通し終えた私は、すかさず記事の裏を取り始めました。まず、「福島市太田町婦人殺人事件」の概要を知るために、地元紙の記事を読むことにしました。

福島県の有名な新聞は、「福島民報」と「福島民友」があります。昭和52年の新聞を図書館にリクエストすると、『福島民報はマイクロフィルムしかありませんが、福島民友なら紙のままで保管してありますよ。』との事。

時間がないので、「福島民友」を先に見せてもらいました。事件発生の翌日には大きく1面を飾り、遠藤文子さんについても詳しく書かれていました。それから10日間くらい、連続して記事が続いています。アタリが取れたので、「福島民報」のマイクロフィルムもざざっと目を通しました。

結論を言いますと、瀬戸弘幸さんが遠藤文子さんについて自分がルポしてきたみたいに書いていることは、ほとんど地方紙に書いてあった内容の引き写しです。新聞の引用だと書かなかっただけで、目新しいことなど何も書いていません。

新聞では遠藤文子さんを良い人だと書いているのを、勝手に悪人にしようと小細工している以外の部分は、ほぼ丸写しと言って差し支えありません。

次に、徐才喜さんが詐欺で逮捕された時に新聞社がこぞって書きたてたと主張している点が気になったので、逮捕されたとされる時期、起訴されたとされる時期など重点的に、しらみつぶしに新聞記事を読みました。1日も飛ばさずに紙面を読みましたが、それらしい人物の逮捕を報じる記事はありませんでした。

「徐才喜冤罪事件」のライターは、遠藤文子さんについて自分が調べてきたように書いた部分が新聞の引き写しであることを書かない。遠藤文子さんに金貸しの疑惑がある等のネガティブな記述だけ信憑性を上げようと必死に新聞紙名と日付を書く。徐才喜さんが逮捕された際、新聞がこぞって書きたてたと言いながら、どの新聞がいつどのように書いたかという点は全く引用しない。

こういう事をしていれば、ジャーナリストとしての信用はいつまでたっても醸成されないでしょうね。こういう姿勢で好き放題書くライターが放置されるなら、犯罪報道被害もバンバン出るでしょう。出版社は、持ち込まれた記事の裏くらいは取るべきだと思います。

私は限られた時間内で記事を読んでいますが、複数紙を読んでも全く詐欺で逮捕されて遠藤文子さん殺しを疑われた人が見当たらないという事は、徐才喜さんの存在自体がフカシであるという疑念はきわめて濃厚です。

通名報道云々と言い出す人も居られるでしょうが、「徐才喜冤罪事件」で日本人名とされている姓も見ましたし、姓名や人種にも拘らず、太田町界隈で詐欺容疑で逮捕された人ということで記事を一生懸命読んでもそれらしいものが見つけられませんでした。

更に、昭和52~54年版の福島市住宅地図を閲覧させてもらうことにしました。連載2回目にある地図と見比べてみると、確かに電気病院(※紛らわしい名前ですが、家電系リサイクルショップだと思います)は存在しますし、遠藤文子さんの家も新聞記事の住所をそのまま地図上で探すとこの位置です。しかし、玉川食堂は確認できません。地図上でこの辺りは空白です。

徐才喜さんを詐欺で訴えた人を仮名にしているのも巧妙ですね。民事なら、原告と被告の実名が分かっていれば、事件番号等がすぐに判明しますが仮名では確認が取れません。

いくら丹念に探しても徐才喜さんが実在したと思える情報に全く辿かない。渾身のルポの裏を取っているはずなのに不思議なことです。

これでは、私はフカシ記事を読むためだけに福島までノコノコ出てきたことになってしまいそうです。

それ以上に、実在しそうもない在日韓国人の徐才喜さんが冤罪で警察に吊し上げられていると瀬戸弘幸さんが匿名ルポまで書いた意図が実に不可解です。

新聞記事を始め色々な資料と「徐才喜冤罪事件」を見比べていた私は、やっぱりこんなもんだったか・・・ と予想通りな展開になった事については、それほど落胆しませんでした。

福島に来る前は、ある程度調べて『かなり濃厚な線でガセッっぽかったです』という結論を報告できる程度の目処がついたところで次の調べ物に移る予定でした。

ところが、そう捨てたものでもありませんでした。事前に予習をしておいたのが良かったのでしょう。「徐才喜冤罪事件」の裏を取っている最中に、新聞記事の中から瀬戸弘幸さんの過去の素性洗いの方で調べるつもりだった全く別件と本件が直接リンクしている記事に気づいたのでした。

瀬戸弘幸さんは、『冤罪がどのようにして生み出されるのか』をテーマにしたがっていましたが、私はこの事件を通じて『でっち上げ記事がどのようにして生み出されるのか』という勉強をさせて戴いたように思います。

次回に続く。



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2009年9月29日火曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その11)

瀬戸弘幸さんが、「犯歴報道被害者の会」という団体を立ち上げたようです。まだ活動内容がよく見えませんが出来るだけ立派な会にして戴きたいものです。

社会活動家として、公人に近い影響力の行使をしようとするなら、瀬戸弘幸さんを「みなし公人」扱いして批判しても何ら問題ないという事になります。特に「犯罪報道」によって生じる被害について、世に問う活動をなさるようです。

そういう事ならば、その分野における倫理観を正しく持っておられるかという点について、世間一般の人たちよりも厳しい基準で評価されるのは当然の事です。そうした批評に耐えられないなら最初からそうした看板を掲げたりすることは間違ってもないでしょう。

瀬戸弘幸さんは、ご自身がなさってきた事に絶対の自信があるから、「犯罪報道被害者の会」を立ち上げて、その看板を背負ったのですよね?

私がこれから批判しようとしていた事柄の根底には、正に瀬戸弘幸さんの報道姿勢に対する疑問があります。

それに気づいたのかどかは分かりかねますが、このような会まで立ち上げて、この分野で堂々と看板を掲げて「みなし公人」として扱えと宣言なさるとは、実にご立派な姿勢だと感服しました。

もちろん、瀬戸弘幸さんのご希望に沿って公人並みに厳格な目線で評価した上で批評させて戴きます。素晴らしい看板を掲げていらっしゃるんですから。

では本題に移ります。前回の続き。

昭和48年末の石油ショックで、資金繰りが苦しくなった東亜相互企業が、白河高原開発の一環でゴルフ場の一部を分譲住宅地に計画変更した事と、その計画変更の受理については生殺与奪の権利を福島県の「生活環境部」が握るような事態になって行ったことまでお話しました。

昭和49年末、更に追い討ちをかけるように国土利用計画法が制定されます。

今までの「福島県自然環境保全条例」が届出制だったのに対し、「国土利用計画法」は許可制で、更に足枷の度合いが強まります。ただし、内容は県条例に近いため、県条例のうちに「届出」を通しておけば、「許可」も同一手続きで通りやすくなるということから、駆け込み申請が殺到しました。

ちなみに、この「国土利用計画法」は、福島1区選出の衆議院議員、天野光晴氏の肝入りで作られた法律です。この方の名前は、これからもちょくちょく出てきます。

そろそろ生臭い話になってきます。

「東亜相互企業」営業の黒沢利勝氏は、「生活環境部」部長の赤井重雄氏と、木村守江県知事が4選目の懸かった選挙に出馬に関する話をしている時に、こんな事を言われたそうです。

『木村知事も今度は資金がなくて困っている。県議一人に三十万ずつ出しても一千万ずつかかる。』

黒沢氏は、赤井氏が現金を要求していると思い、日頃から面倒をみてもらっていると感じていたことからお礼をしようと考えました。木村氏と赤井氏が白河高原の開発に理解を示してくれていれば、これほど心強いことはありません。

上司とかけあって1千万円用意した赤井氏(※誤記のため訂正します)黒田氏ですが、上司の判断ミスで県庁に直接届けに行って一度は受け取りを拒否されてしまいます。こんな大金を人目があるところに持ち込んでは当然です。

上司を退場させて場を改めて設定し、木村氏と赤井氏に500万円ずつ分けて渡すことにしました。

赤井氏の分は、実際には300万円がラジウム卵という土産物の中に忍び込ます形で受け渡されましたが、これは、赤井氏がステレオ、株券、ゴルフ会員権、飲食費などに使ううちにあぶく銭として消えました。

木村守江氏の支持母体は「豊かなふるさとづくり県民会議」といいいます。

この副会長を務めていたのが、「福島県農協五連会長」の斎藤初四郎氏です。福島県の農協は、単協と呼ばれる158の組合が目的別に5つの連合組織を作る「五連制」を敷いていて、そのトップがこの人です。

木村守江氏は元々は医師で、旧軍では軍医、そして五連会長の斉藤初四郎氏は軍曹で、同じ戦場に居ました。そして、斉藤氏は木村氏の目の前で重症を負い、適切な救命処置と看護のおかげで命をとりとめ、以後命の恩人として、木村氏のためなら命を賭けられると公言するほどの間柄になります。

第077回国会 農林水産委員会 第16号などを見ていただいても良いのですが、『この五連の会長の斎藤初四郎は知事木村守江と地獄へ一緒に行ってもいいと言っている男なのです。どんな選挙をやったか、選挙違反で逮捕されている。この事実をどう見るか。』
といった厳しい追及もなされています。

木村守江氏も斎藤初四郎氏も、「木村王国の崩壊」を読めば必ずしも単なる悪人として書かれてはいないので機会があれば読んでみて欲しいのですが、兎に角、木村守江氏の最後の花道として『4選目の知事選を大勝させてやりたい』という想いが斎藤氏を突き動かします。

「福島県農政刷新連盟」という政治結社があります。農民たちの政治参画意識を集結して政治を変えようという団体で、委員長は五連会長。つまり、斎藤氏です。「盟友」と呼ばれる組織員は20万人。家族などを含めると30万票とも40万票とも言われる、非常に大きな集票能力を持っています。

この知事選は、木村氏の勝利が楽観視されていたのですが、斎藤氏は有終の美として大差で勝たせてやりたいと考えていたので、投票の棄権を少しでも減らすために農協という大票田のひきしめをしようと考えました。

農協幹部職員や県内の158の農協役員その他実弾(=ワイロ)をばら撒いて、役員から選挙は棄権せず投票しに行くように働きかけをさせようと考えました。そうなると、必要な額は1千万円。この裏金の用立ては、自民党福島県連幹事長の大野正一氏に依頼されました。幹事長のところには様々な政治献金等が集まってくるからです。

大野氏は、2つの工務店から500万円ずつ裏金を回してくれました。

1つは、元々農協との取引がある工務店でしたが、もう1つは木村氏との接点はあるものの農協との接点はほとんどありません。実は、これが「東亜相互企業」の黒田利勝氏が木村氏にワイロとして贈った500万円が偽装されたものでした。

こうした事実は、末端から頂点に向かって次々と明るみになって行くんですが、皆が一様に木村守江知事を守ろうと懸命になります。農協五連トップの斎藤初四郎などは、農協全体が組織ぐるみで選挙違反、票の買収といったことをやっていた事、この選挙だけでなかったことなども認めていました。

それを認めてでも、木村守江知事個人の刑事責任は免れさせようとした・・・ すごいことですね。農協トップが農協崩壊につながりかねない選択をしてまで守ろうとするんですから。

また、自民党福島県連幹事長の大野正一氏も矛盾を突かれて追及が福島県内の与野党県議全員にまで及ぶくらいのところまで追い込まれるギリギリのところまで、木村守江氏を守り抜こうとしていました。

あらゆるところに、トップである県知事の刑事責任追及を阻む否認の壁があり、それを突破するための地検の戦いがありました。

かなり端折りましたが、何が起こっていたかの把握だけならこの辺までで十分だと思いますので、興味のある方は本を探して読んでみて下さい。

「木村王国の崩壊」は、有罪になった人たちの事も必ずしも一方的に悪人としてなじるような書き方はしていません。機会があれば図書館などで探して下さい。

もう1冊紹介したい本があると、前回お話していました。

福島市太田町婦人殺人事件の被害者、遠藤文子さんの件で「ふくしま教育データベース」を見ていて、木村守江県知事の他にもう1人気になる人を見つけていました。

教育年報1966年(S41)-134/194pageの中を見ると、「福島県PTA連絡協議会長」という肩書きで瀬戸孝一さんという方がいらっしゃいます。

たまたま苗字が一緒なだけかもしれませんが、福島県PTAで一番エライ人だったみたいです。このお名前でGoogle検索してみると・・・

JA新ふくしま 試行錯誤のリンゴ物語


福島で初めてリンゴを栽培したのは、瀬上町の阿部又兵衛氏で、同氏は明治21年、阿武隈川の向かい側に「倭錦」(やまとにしき)というリンゴを初めて栽培したとされています。実施的に福島県のリンゴの栽培の歴史が幕を開けるのは、同じ瀬上町の阿部勉治氏が、明治40年、山形県から苗木を購入し植栽しました。4年後には5人の賛同者とともに瀬上果樹組合を発足させ大正年間までは自己流の栽培技術で試行錯誤を繰り返していたようです。
終戦後の昭和22年、既にリンゴ栽培の中心になっていた阿部健次郎(瀬上町)を会長、瀬戸孝一氏を事務局長とする瀬上リンゴ技術研究会が発足し、以後はこの組織を中心に広く県内各地にリンゴ栽培が普及しました。
 当時、本県のリンゴは倭錦で始まり、その後は祝(いわい)と旭(あさひ)が栽培の主流でありました。戦後はこれにスターキングが加わり、昭和30年~40年までは、この3品種の全盛期が続きます。現在は「ふじ」が主流となっていますが、その理由はなんといってもおいしく、貯蔵性にたいへん優れていたからです。ふじは、まさにリンゴの代表格であり市内の約70%が「ふじ」で占められています。


リンゴ栽培の草分け的存在の方ですね。更に検索してみると、この方が書いた自伝がネット古書店で見つかりました。著者の紹介を見ると大正8年生まれとの事。(※私が本を購入したので、もうネット上では情報を読めません)

瀬戸弘幸さんのブログを読み返すと、瀬戸弘幸さんのご尊父も丁度同じ年齢のようでした。

更に検索してみると、福島県議会議員に何度も当選なさっている方だということが分かったのですが興味深いことが・・・

県議会ふくしまWeb 県議会議員の紹介 議会、副議長紹介というページを見ていくと、昭和52年3月5日に福島県議会副議長を「辞職」なさっています。

私が瀬戸弘幸さんが刃傷沙汰を起こしたと予想している時期がこの辺りだったので、この情報を見つけた時は、瀬戸孝一さんが、瀬戸弘幸さんのご尊父なのではないか? と思い込んでしまうほど色んな条件がピタっと当てはまっていました。

誤解が先行するとまずいので、順序が前後してしまいますが先に少しお話しておきます。この予想はハズレでした。

瀬戸孝一さんの自伝をネット古書店で発注して手元に届いたのは福島県立図書館から帰って数日経ってからです。また、図書館で拾ったいくつかの情報からも、この事前予想は間違いだったと気づくことになりました。

瀬戸孝一さんは、福島市長・瀬戸孝則氏のご尊父でした。そして、瀬戸孝一さんには同い年の「いとこ」が居ます。恐らく、この人が瀬戸弘幸さんの父親という事になると思います。

そうでなかったとしても、福島市の瀬上(せのうえ)地区あたりからリンゴ栽培は始まっていて、その辺りに居た瀬戸一族の中で育ったという点はほぼ間違いありませんから、瀬戸弘幸さんの家柄はほとんど特定されている事になります。

なお、家柄まで掘り下げるのは下世話に見えるかもしれませんが、次回から指摘していく事項を見れば恐らくはそうも言っていられなくなるでしょう。むしろ、瀬戸弘幸さんがやらかしたことを説明するためには伏せておけないので最小限触れることについてはご容赦戴きたいと思います。

瀬戸弘幸さんは、福島県議の瀬戸孝一氏と親戚だという程度の認識はしておいて下さい。また、瀬戸孝一氏とご子息の瀬戸孝則氏は、先述の、「国土利用計画法」の天野光晴氏の派閥、いわゆる天野派と言われています。

興味のある方はWikipediaなどを見て下さい。

次回に続きます。



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2009年9月27日日曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その10)

前回に引き続き、書籍を中心に当時の福島県政全般の汚職について少し触れてみたいと思います。

『ドキュメント自治体汚職 福島・木村王国の崩壊』という本は、朝日新聞社から出ており、当時の紙面で長期に渡って連載されていたものをまとめなおしたものです。

福島県の天栄村で起こった水道管工事に村長選挙が絡んだ贈収賄事件が発端となり、福島県内のあちらこちらで、芋づる式に汚職が明るみになって行き、思いもかけないところに飛び火しながら逮捕者を出して行きます。

遂には福島県知事選挙で票のとりまとめに使うための裏金1千万円が猛牛(ファンソ)こと町井久之氏の東亜相互企業から引っ張り出されて、大票田の農協に流されていることが明らかになり・・・ といった内容です。

ドキュメンタリーの流れとしては、末端で起こった小さな事件から順々に大きな贈収賄事件の立件を追う形になって行きます。出来れば図書館などで探して皆さんにも読んでいただきたい良書ですが、簡潔に紹介するために、一番大きな部分のみ紹介します。

なお、この本だけでは、町井久之氏サイドの事情について若干情報量が不足気味なので、まずは『猛牛(ファンソ)と呼ばれた男 「東声会」町井久之の戦後史』という本で少し補っておきます。

昭和36~37年頃、河野一郎氏が農林大臣の時に、福島県西白河郡西郷(にしごう)村の白河高原の国有地を一部払い下げに出しました。農林省から坪百円程度でした。児玉誉士夫氏と河野一郎氏は懇意で、二人で土地を見に行っています。

町井久之氏は下見から帰った児玉誉士夫氏の薦めでこの土地を購入。何人かの方がひとり何万坪かを購入したようです。

この一帯は旧陸軍の軍馬補充部や演習場として、終戦まで使われていました。戦後は、旧満州から引き揚げてきた開拓団の一部七十七戸が再入植して、酪農を主体とする開拓地とされていました。

しかし、那須火山帯の裾野に位置する痩せた土地で、しかも福島県下で最も寒冷な土地のため、耕作に適さず・・・
開拓農民たちは借財を膨らますばかりでした。

昭和39年の暮れに、この開拓農民たちが困窮して町井久之氏の東亜相互企業に泣きつきます。町井社長は開拓農民たちの土地を担保に快くお金を貸します。返済も農民たちが困らないよう無理のないよう配慮する旨指示をしています。

この一帯は掘れば温泉が出ることも東北新幹線のルートになることも分かっていたようです。また、開拓農民たちの酪農は、それ自体が健全な黒字体質になっていませんからいくら温情をかけてお金を貸しても、いずれ返せなくなることは薄々分かっていただろうと思います。

案の定、開拓農民たちは借りていたお金が返せなくなり、土地の買取を町井久之氏に持ちかけるようになります。

こうして、東亜相互企業は、白河高原の二百五十万坪もの広大な土地を買収して、近代農場を中心に、乗馬、ゴルフ場、テニス、射撃などのスポーツ施設と、ホテルや温泉を組み合わせた壮大なリゾート構想を打ち立てました。

この土地買収に必要な資金が160臆円、更に施設の総工費が150臆円、しめて310臆円が必要でした。

ここで町井久之氏の出自が問題になります。在日韓国人である町井氏に日本の銀行は融資したがらず、かといって流石にこんな大金を融資抜きでは用意できません。会社の資本金は5臆円そこそこです・・・

町井久之氏は、韓国のコネクションに頼ります。大統領警護室長、「ピストル・パク」こと朴鐘圭(パクチョンギュ)氏と懇意だったので、そこから朴正煕(パクチョンヒ)大統領に話を通しました。

前述のとおり、戦前には西郷村には軍馬補充部白河支部があり、演習場がありました。そして、朴正煕大統領は、旧日本陸軍の士官学校を卒業し、白河での演習に参加したことがありました。

朴大統領にとってはなじみの深い土地だったことが幸いし、後押ししてもらえることになりました。(後に、朴大統領が隠居後に暮らす土地として町井久之氏に大規模買収と開発をさせたのではないかという批判がされたようです。これが事実なら、まさに「売国」という事になります。)

昭和43年、朴大統領は、韓国外換銀行が東亜相互企業に融資することを許可。この融資によって白河高原の土地は順調に買収されて行きました。

『対馬の土地がコリアンマネーで買われている』と大騒ぎしていた方々、これを見てどう思いますか?

町井久之氏はこういう経緯で福島県の西郷村一帯を大規模買収して巨大資本を突っ込んで開発を進めて行きました。

こういう前提がまずあって、そこに、『ドキュメント自治体汚職 福島・木村王国の崩壊』で克明に描写されている賄賂漬けの選挙、県政、公共事業などの問題につながって行きます。

昭和47年、白河高原の開発に足枷をはめる事態が起こります。まず、県は開発規制を目的に6月に「生活環境部」を設置。更に10月には福島県自然環境保全条例が制定しました。

田中角栄の列島改造論は空前の土地ブームを引き起こし、地価の高騰や乱開発に対して野党や世論から批判が相次いでいました。そうした声に応えるために作られたものです。

この条例により5ヘクタール以上の開発は60日以上前に県への届出が義務づけられ、知事が開発行為に対して助言、勧告、の権限を持つことになりました。

昭和48年、更にこの権限が強化されます。県当局(つまり、「生活環境部」)との「事前協議」が制度化されました。これを経ないと開発の届出が出来ないため、事実上はかなりの強制力を持っていました。

こうして、「開発」したい業者を生かすも殺すも「生活環境部」との「事前協議」のさじ加減ひとつという状態が作り出されました。自然を守るための条例が、いともたやすく利権を生み出せる構造を生み出しました。

昭和48年の暮れ、石油ショックが起こります。東亜相互企業もこの煽りで資金繰りが少し苦しくなり、ゴルフ場開発計画を一部変更して分譲地造成に変更しました。

この申請を少しでも早く済ませて着工したかったようです。ところが生かすも殺すも「生活環境部」次第・・・ とにかく円滑に申請を通して戴きたいという陳情を東亜相互企業は慌しくするようになります。

これで、町井久之氏側が福島県知事に付け届けをしたくなった背景事情は、大体理解できると思います。

次回は、県知事やその支援者側の事情などに触れます。それに加えて、もう1冊紹介したい本があるので、そのお話も少しだけ入れるかも知れません。

その辺りが大体片付いたら、福島県立図書館で拾ってきた情報についてお話します。

当時の福島県で何が起こっていたのか、大まかな知識を持っておかないと、目の前に宝の山があっても気づかずに通り過ぎてしまうことになります。少し退屈に感じる人も居るでしょうが、気長におつきあい下さい。



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2009年9月25日金曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その9)

瀬戸弘幸さんは無事に退院されたようで何よりです。

入院されたという報告を受ける直前に少々取り扱いがデリケートな情報を入手していたのですが、退院されるまでは触れないでおこうと考えて、資料整理等の時間に充てさせて戴きました。

時間を空けた理由は主に2つです。

入院中は、十分な反論もできないだろうという事で、退院をお待ちしたというのが第一点。また、私が追求する問題の範囲が瀬戸弘幸さん個人の問題では収まらなくなる見通しになって来ていたので慎重に取り扱おうと考えたというのが第二点。

瀬戸弘幸さんの過去を調べていく中で、どうしても実名を出さざるを得ない一部の人たちの名誉なども考えると、調べずにフカシ記事を適当に書いて、間違っても訂正しない、謝らない、そのまま投げっぱなしにするといった、報道倫理のカケラもない態度は避けるために、ある程度、手元に集めた情報について更に調べて整理する時間が必要でした。

それでも完全に裏が取れていない部分はあります。そういう部分は正直にそのように書きます。相手の実名を出して批判をする以上は、その程度の配慮は当然するべきだと思うのですが、瀬戸弘幸さんには、そうした倫理観が欠如しているように見えます。

また、今後調べていく中で、私の推論に誤りがあることが分かれば速やかに訂正します。疑惑を並べるだけ並べて間違っても(故意にミスリードする記事の方が多いみたいですけどね)謝罪しない無責任な詐称ジャーナリストと一緒にならないためにも。

では、本題に移って行きたいと思います。

『徐才喜冤罪事件』の全文を読むにはどうしたら良いだろうかと、前回エントリーを書き終えてから何となく考えていました。「政経東北」という雑誌はマイナーで、国会図書館に行ってもそれほど古いものまで遡って探すことは出来ませんでした。

これはさすがに手詰まりだろうかと思いつつも、色々探してみました。東北地方の経済雑誌なんだから、向こうの図書館には置いてあるんじゃないだろうかという発想で、瀬戸弘幸さんのお膝元で探してみると・・・

福島県立図書館の蔵書には、かなり古いバックナンバーから全部揃っています。ついでに、この図書館の蔵書から瀬戸弘幸さんの著書を探してみました。割と良く見かける著書に紛れて、初めて見かけるものがありました。

[郷土資料の雑誌詳細表示]
月刊ルポルタージュ 昭和54年8月15日[号] 特集記事:なぜ?小針批判キャンペーンなのか!!
二本松タイムス 昭和54年9月1日[号] 特集記事:淀む市政・驕る石川市長!

こんなものを出していたんですね。これも是非読んでみたいと思いました。

また、瀬戸弘幸さんが徐才喜冤罪事件と称している事件の引き金になった、福島市太田町婦人殺人事件についての当時の福島の新聞報道がどうなっていたかも、この図書館に保管されている新聞を見れば調べられそうです。

もう1つ、調べてみたいことがありました。瀬戸弘幸さんは、ヤクザ者との刃傷沙汰で9ヶ月獄中に居ました。その間に、徐才喜さんが(殺人容疑についての)無罪を勝ち取って出所した事を聞かされて出所後の正月頃から取材し、記事の売り込みをしてジャーナリストデビューしたと自身で述べています。

また、この傷害事件について市議会で追求されたために福島市役所を懲戒免職になったということだったので、当時の市議会会議録を見れば、傷害事件のあらましが分かる可能性があります。福島県立図書館には昭和52年3月分以降の議事録が保管されている事が分かりました。

これより古いものは、福島市立図書館に保管されているのですが、そこまで回るとさすがに時間がありません。

こうして下調べをして行くと、福島県立図書館だけでもかなりの情報が得られることが判ってきました。東村山の街宣や裁判傍聴などに欠かさず出かけているブロガーの方々の労苦などを考えると10回分の金銭や時間の出費を1~2回でまとめて注ぎ込んだと思えば、そんなに無茶な事をするわけでもありません。

2日間ばかり悩みはしましたが、福島行きを決断しました。

首都圏在住の私は、自分の生活を崩さずに日帰りで調べものに行くとなると5~6時間の滞在が限界です。出来るだけ効率よく調べものを片付ける必要があります。

どんな情報を掘り出すか、ある程度のアタリをつけるため、現地に行く前に拾える情報の手探りを開始しました。

遠藤文子さんについては、ネット上で情報があまり拾えないのですが皆無というわけでもないので、ここから有力情報が手繰り寄せられないかトライしてみました。

遠藤文子さんは、福島県内の小中学校の何校かの校長を務められて定年退職しました。退職金を有効に使おうと、海外視察の旅行に出かけて、日航機ドバイハイジャック事件(昭和48年7月20日発生)に巻き込まれて生還。

この貴重な体験を度々公演でお話なさっていたようです。

というわけで、Google先生で検索してみると、「ふくしま教育データベース」内で何度か遠藤文子さんのお名前が出て来ます。そこで、このデータベース内の情報を色々読み漁っていました。

すると、ハイジャック事件が少し前、福島県教育委員会の主催で、こんな公演があったことに気づきました。

昭和48年5月14日(月)~5月16日(水) あずま荘
福島県知事 木村守江 「海外を視察して」

対象者は、県立学校長全員となっていました。遠藤文子さんが前年度末あたりで定年退職して福島県教育委員会の関係者になっていたら、この公演を聴いていたのではないでしょうか。

また、木村守江知事は教育畑で熱心に活動していて政界に引っ張りあげられた人です。この公演抜きにしても、折に触れて教育問題、海外に目を向けた話をされていたはずなので、これに感化されて遠藤文子さんは定年後に海外を見に行こうと考えたのではないかな・・・ と私は感じました。

そこで、木村守江県知事に関心が移って少し調べ始めたんですが・・・ 昭和51年に贈収賄で逮捕され県知事を辞任しています。その後有罪。現職の県知事が立件され辞職というのは異例中の異例です。

そして、この贈収賄の相手というのが、セマウル運動に絡んで何度も私が取り上げてきた猛牛(ファンソ)こと、町井久之氏の東亜相互企業でした。

またしても、町井久之氏の影です・・・ 気になったのでWikipediaを見直すと確かに、この件について書いてあります。もっとしっかり読んでおけって事ですね。

早速、この贈収賄事件についてもっと掘り下げて調べることにしました。ネット上で詳しく調べてみたかったのですがあまり詳しく解説しているところがないようなので書籍を探してみたところ、「木村王国の崩壊」という本が見つかりました。

近所の図書館に置いてあったので早速借りてきて読みました。福島県に対する私の印象は、この本を読んでかなり変わりました。実際に出向く前にこの本を読んでおいて良かったと思います。

少し長くなりそうなので、続きは次のエントリーに回します。



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2009年9月8日火曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その8)

28歳の頃の瀬戸弘幸さんが一生懸命書いて高い評価を戴いたという「徐才喜冤罪事件」という短期集中連載記事。ブログ上にアップしていただいている画像では細かい文字はほとんど読み取れませんし、全文が見られるわけでもないのですが、色々と貴重な情報を読み取ることが出来ました。

徐才喜さんという人物がどんな人なのか知りたくなったので、google先生に質問してみたところ、瀬戸弘幸さんのブログ以外では、Whois検索の結果らしき残骸が引っかかり、中国ドメインで登録者というか団体というか・・・ その辺りが徐才喜さんになっているものがある。

どうも韓国ではなく、中国と縁がある人物名ではないかと思えて来たので、中国版のgoogle先生とお話してみると、「徐才喜烈士」について書いてあるサイトが沢山ある様子です。

これは一体どうしたことでしょうか? 偶然の一致なんでしょうか?

割と似たような説明が多かったので、そのうちの1つを拾って来て、エキサイトさんに訳してもらいました。

【原文】
互动百科的词条资料来自网友贡献,供您查阅参考。一些和您切身相关的具体问题(特别是健康、经济、法律相关问题),出于审慎起见,建议咨询专业人士以获得更有针对性的答案。

【excite 中→日 翻訳】
1933年革命に参加して、任紅の3人の軍団の戦士、北上して音信がなくて、時の年の24歳。

【ネットで関係ありそうな情報を補足】
1933年、瑞金の紅軍を包囲、毛沢東らは脱出し、以後、延安までの12000kmに及ぶ長征と呼ばれる大行軍を行った。毛沢東は延安を革命拠点とした。

これは随分とマニアックなところから名前が出てきたものですね。一般的な日本人なら絶対に気づかないでしょう。特にネットが発達していない時期なら中国人名と韓国人名の見分けなど絶対につかない。

もちろん、韓国人に徐才喜という名前の方が絶対居ないとは断言出来ませんが・・・

別の観点でもう少しお話をさせて戴きます。『福島市太田町婦人殺害事件』という大きな見出しが躍っていますね。実は、これが大きなヒントです。この事件を丹念に追いかけている人をネット上で見つけました。

2006年 4月 3日 名探偵マッシー ~一枚の写真から~ 『 魔  手 』(第五十八回) ・・・メヒカリ・・・ [AIBO]
2006年 4月 4日 名探偵マッシー ~一枚の写真から~ 『 魔  手 』(第五十九回) ・・・メヒカリ・・・ [AIBO]
2006年 4月 5日 名探偵マッシー ~一枚の写真から~ 『 魔  手 』(第六十回) ・・・メヒカリ・・・ [AIBO]
2006年 4月 6日 名探偵マッシー ~一枚の写真から~ 『 魔  手 』(第六十一回) ・・・メヒカリ・・・ [AIBO]

(第五十八回)の記事から引用


【事件の概要】
福島市の元校長、遠藤文子さん殺しが起きたのは昭和51年10月20日午前11時から午後4時までの間。元校長で同市社会教育委員の遠藤さんが自宅応接間で、工事用の特殊ハンマーで顔や頭、胸などをメッタ打ちされ、死んでいた。
 翌21日に親類の人が無残な遠藤さんの死体を発見、福島署へ届け出た。
 部屋は荒らされていたが、現金や高価装身具(指輪・ネックレス等)は無事。満六年が過ぎた現在も犯人の動機も絞りきれず、捜査員の間では物取り説、偽装工作によるえん恨説の二つに意見が分かれたままである。
 唯一の手がかりであるハンマーは福島市の工事業者が紛失したものと判明している。
 この特殊な金づちが、なぜ遠藤さん宅に残されていたのか、道路などに落ちていたものを遠藤さんが持ち返るということも考えられない。犯人があらかじめ持ち込んで凶器として犯行に使用して応接間に残し、あわてて逃走したという見方が強い。
 『 絶対に迷宮入りの事件ではない。確かに新しい事件で捜査が中断することはあっても、粘り強い捜査を続ければ必ず犯人に行き着く 』 と捜査本部の解散には反対意見もある。
 六年間の歳月は市民の記憶を薄め、新情報はほとんどない。
 『 これまでの捜査方法で見落としはないかどうか。念には念を入れる捜査を続けるだけだ 』 というが・・・・・。

 昭和57年(1982年)10月19日(火曜日) 福島民法新聞 社会面より参照


ざっと探した感じでは4回分のエントリーでしたが丁寧に情報を拾ってありました。好感の持てるブログです。

記事を全部読んでいただければ分かるんですが、誰も逮捕されていないようです。瀬戸弘幸さんが仰るには真っ先に徐才喜という中国の烈士と同姓同名の在日朝鮮人の方が疑われて即座に不当逮捕されたって事になっています。

瀬戸弘幸さんは『私はこの年(1978年)の正月頃から、福島市で起きたある強盗殺人事件で逮捕された在日朝鮮人の冤罪事件に取り組んでいました。』と説明なさっています。

つまり、昭和53年(1978年)の時点で容疑者や逮捕者が出ていれば、『昭和57年(1982年)10月19日(火曜日) 福島民法新聞』において、全く犯人像が特定されていないといった記事が出てくるはずもなく・・・

これは一体どういう事なんでしょうか?

瀬戸弘幸さんの記事全文の詳細が読めるように公開して戴ければ判断が覆る可能性もありますが、現時点で拾える情報からは… 瀬戸弘幸さんのジャーナリストデビュー作は、架空の在日朝鮮人が逮捕され、不当捜査されていると、警察を批判する怪文書の類であったのではないかと判断せざるを得ません。

もちろん、これらから裏を取る作業に着手して行きたいと考えています。名探偵マッシーさんが紹介している情報の正確さが新聞記事などからある程度読み取れれば、どちらの主張が正確か大よその判断はつくはずです。

ただし、古い新聞記事を図書館等に読みに行く時間をすぐには取れないので、確認は少し先送りになります。

お暇な方、『福島市太田町で昭和51年10月20日に発生した殺人事件』について、新聞記事漁りのお手伝いなどをして戴けると助かります。これだけ特徴的な事件だと地方紙ではなく全国紙にも載ったはずなので、事実関係の裏取りくらいは可能なはずです。

で、瀬戸弘幸さんがこんなアヤシイ記事を書いた動機なども色々想像してみましたが、今回は長くなってしまったので続きは次回に回します。

【お詫び】
今回も予告とは全く違う流れになってしまいました。毎度の事だと笑って流して戴けると幸いです。セマウム問題でまだ触れていない部分はタイミングを見て必ず紹介します。

【追記】
今回のエントリーを公開してから数時間後、google先生に「徐才喜」さんについて再度お尋ねしたところ、今までは表示されなかった中文版の情報が大量に表示されるようになっていました。

流石はgoogle先生、お仕事が早い。今後は、私の批評とは関係なく、瀬戸弘幸さんのブログを見た人が『徐才喜さんってどんな人かな?』と疑問を持つと、漏れなく中国の革命烈士の情報に辿り着く事になりました。

もちろん、在日朝鮮人に「徐才喜」というお名前の方が絶対に居ないと断言するものではありませんが、私と同じ疑問を持つ方が当然のように出て来るでしょう。

瀬戸弘幸さんは、ジャーナリストデビュー作である「徐才喜冤罪事件」の全文公開に踏み切らない限り、こうした疑念を払拭することは困難だろうと思います。



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2009年9月7日月曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その7)

PCが不調で用意していた原稿と資料が2回分ほど飛んでしまいましたので、資料を集めなおすところからやり直していました。

その間に、でぶちんさんがデタオタらしい観点の資料を探して下さったり、松沢呉一さんが新しいヒントを下さったり、色々思うところもありで、当初用意していた原稿の時点では気づいていなかった事を掘り下げて調べなおすのに時間を使わせて戴きました。

前回予告したとおり、大枠としては、韓国復興史全般に視野を広げて行こうという方針ではありますが、「セマウル問題」から軸足は外さない事にします。また、本シリーズ終了後に補講扱いでと考えていた「セマウム(新しい心)運動」について、これから少し紹介して行きます。

なかなか予告どおりに進行させられなくて申し訳ありません(今後は予告はやめた方がいいかも知れませんね)。

では、気を取り直して、セマウム運動の説明から始めます。

表向きの「セマウム(新しい心)運動」は、在日韓国青年会(民団の青年会)が主導して行ったボランティア活動で、『在日同胞60万人のセマウム(新しい心)をキムシ(植樹)しよう』という事で、平たく言うと韓国に里帰りして「セマウル(新しい村)」に植樹ボランティアをするものです。

『韓国農村部(セマウル)と在日同胞(セマウム)をつなごう』という事ですね。せっせと植樹ボランティアをします。この際、津々浦々のセマウルに対して在日同胞から募った「セマウル支援誠金」(募金)を配布します。

ここまでは、美談として語れる部分。では、裏側に切り込んで行きます。

まず、この「セマウム運動」は、植樹ボランティアにかこつけて(大半が不法入国者であったはずの)在日韓国人が大手を振って韓国に一時帰国するためのイベントでした。

民団のHPに非常に興味深い一文があります。

民団の歴史より一部抜粋


 また、祖国のセマウル運動に歩調をあわせて73年にセマウム運動を提唱し、祖国の山々に苗木を植えることを通して在日同胞60万人のセマウムシムキ運動に発展させ、祖国の150カ所の郷土集落とセマウル姉妹結縁に結びつけた。

 75年7月には朝鮮総連傘下の同胞に母国を訪問させる省墓団事業を開始し、これによって民団と総連の人口比率が逆転することになった。


不思議なことに、植樹ボランティアを端緒に、お墓参りなどの母国訪問事業を充実発展させた結果、民団と総連の人口比率が見事に逆転しているんですね。

不法入国して永住許可を得た在日韓国人たちが、セマウム運動という植樹ボランティアで里帰りして家族に会い、日本に堂々と連れてくる。そのうち省墓団事業なども認められ、その枠が拡大して行く・・・

もしかしたら、実際は家族でない者を入国させる事例もあるのかも知れませんね。私はその辺りの事情を詳しく把握しているわけではありませんが・・・

ちなみに、この「セマウム運動」で里帰りに使われたのは、下関-釜山を結ぶ「関釜フェリー」です。こんなものを参考に紹介してみます。

第080回国会 法務委員会 第7号 昭和五十二年四月一日(金曜日)より一部抜粋

本年の集団不法入国事犯のうち、特異なものとしては、関釜フェリーを利用(通関済みのコンテナー搬送用車両の車軸の上に潜伏)した事案が、昭和四十五年回フェリー就航以来初めて検挙されたほか、日韓双方の密航ブローカーが緊密な連絡をとり、密航者を洋上で日本船に積みかえた上、自動車を利用して搬入した大がかりな組織的事案が二件検挙されている。すなわち、十月十日福岡県博多港において、対馬から入航した定期フェリーに積込まれたトラックに潜伏中の密航者三十三人が、また十一月十一日大阪市内において、福岡県苅田港から大型保冷車で搬入された密航者四十人がそれぞれ検挙されている。
となっております。


韓国からの密入国は「関釜フェリー」だけで行われているわけではないのでしょうが、確実にこれも利用されていることは分かると思います。

この「関釜フェリー」の社長は、瀬戸弘幸さんの大恩師である児玉誉士夫氏の側近中の側近、町井久之氏です。本名は鄭建永(チョン・ゴニョン)、「銀座の虎」、「雄牛」という通り名で呼ばれた人です。

民団の中央本部顧問であり、東声会(東亜会の前身)という反共団体(実質的に暴力団)の組長という人物でもあります。

朴政権が「セマウル運動」を開始する少し前「関釜フェリー」の事業認可を受けて社長に就任、「セマウル運動」開始直後には、民団の中央本部顧問に就任。ほどなく、「セマウル運動」と連携する形の「セマウム運動」が始まります。非常に良く出来たお話ですね。

「下関-釜山」ルートがつながり、韓国内は朴政権がセマウル号が「釜山-ソウル」ルートを中心に各地を鉄道網がつないでいるので「セマウム運動」に参加する在日同胞の方々は、その交通網を使ってボランティアにいそしんだわけです。

瀬戸弘幸さんたち民族派右翼有志の方々が「セマウム運動」と同行していたかどうかまでは定かではありませんが、少なくとも交通手段はほとんど同じものを使っていたと思われます。

ネトウヨの皆さんが『日韓海底トンネル構想に賛同する日本の政治家は売国奴だ!!』と騒いでいるのを良く見かけますが、瀬戸弘幸さんは、児玉誉士夫氏と町井久之氏がつるんで「関釜フェリー」を開通させたと重々承知の上で児玉門下生になってると思います。何も疑問を感じないんでしょうか?

せっかくなので、もう少しいじってみましょうか。本シリーズ第1回目の赤報隊襲撃事件に絡んで、瀬戸弘幸さんが義勇軍創設に関わっていたと手柄横取り発言をしている件について触れた時に紹介した記事内にこうあります。

『昭和56年頃、私は東京・東銀座の合同環衛ビルという所を事務所兼住まいとして、日本憂国会という名称で右翼活動をしていました。』

東京都中央区で検索したところ、現在は「合同環衛ビル」は存在しないようです。近所を探すと、お隣の台東区は浅草に「環衛商事有限会社」というのがありました。産廃業者のようです。

ですが、「環衛」で検索してみると、これが意外にも大量にヒット。どうやら産廃業者には割とありがちな名前だという事が分かりました。ところで、瀬戸弘幸さんも「環境と施設」という謎の雑誌を出版されていましたね。

興味深かったので少しだけ検索してみました。在日関係や右翼関係で、何故か産廃業者をやっている方や、それとつながっている方々が結構居られるようですね。今後、松沢呉一さん辺りが掘り下げて下さるかも知れません。

少し横道に逸れました。私は私らしい路線でもう少し踏み込んで行きたいと思います。

瀬戸弘幸さんは25歳の時(昭和52年頃?)にヤクザを右翼に誘ったと因縁をつけられて斬り合いになり、相手に重傷を負わせて、傷害と暴行の容疑で逮捕。即、実刑。共産党の市議に市議会で追求されて、市役所は懲戒免職になったんでしたよね?

実刑でどれ位の刑期を過ごされたかは存じ上げませんが、とりあえず1年程度と見ておきましょうか。

市役所を懲戒免職になったということは退職金はゼロ。25歳ですから元々ほとんどもらえなかったでしょうが・・・ 前科持ちで懲戒免職になった人は、なかなか通常の会社は雇ってくれませんから、どのように生計を立てて居られたのか気になるところですが・・・

兎に角、真っ当な収入があまりなかったはずの瀬戸弘幸さん(山本弘幸という名前で在日同胞の人たちをたくさん助けてお金を稼いだかも知れませんが・・・)、何故か娑婆に出て3年かそこらで東銀座に事務所を出すという異例の出世です。

それが丁度、「セマウル運動」への参加を始めた頃と重なるわけです。何故ボランティアに参加すると羽振りが急によろしくなるのか・・・

東銀座や築地界隈は、稲川会のシマなので松沢呉一さんが児玉誉士夫の人脈つながりで瀬戸弘幸さんを見て行く時にも、ついつい稲川会のラインで見てしまい勝ちになるのは分からないでもない気はします。そちらのラインも間違ってはいないのかも知れません。

ですが、熱心に「セマウル運動」に参加している瀬戸弘幸さんを見ていると、すぐお隣の銀座で牽制を誇っていらっしゃった猛牛(ファンソ)こと、町井久之氏の存在感の方に目が行ってしまう私です。

「セマウム運動」の第一人者、言いだしっぺとして名を刻んでいる尹隆道(ユンユンドウ)という人がいます。この人は、民団青年部の創生期を引っ張った草分け的存在のようですが、もうひとつ別の顔がありました。

大島渚監督の映画「絞死刑」という映画で、少年R役で出演していました。Wikipediaの紹介文を転載しておきます。


主人公の在日朝鮮人死刑囚"R"は強姦致死等の罪で絞首刑に処せられた。しかし信じられないことに絞縄にぶら下がったRの脈はいつまで経っても停止せず、処刑は失敗する。縄を解かれたRは刑務官たちの努力の末に漸く意識を取り戻すが、処刑の衝撃で記憶を失い心神喪失となっていた。刑事訴訟法により、刑の言い渡しを受けた者が心神喪失状態にあるときには執行を停止しなければならない。刑務官たちは再執行のために彼に記憶と罪の意識を取り戻させようと躍起になるが、Rの無垢な問いかけは彼らの矛盾を鋭く抉ってゆく。忠実に再現したという死刑場を舞台に蜿蜒と続くやりとりは、死刑制度の原理的な問題から在日朝鮮人差別の問題、さらには貧困を背景とした犯罪心理にも及ぶ。
Rは1958年の小松川事件の犯人をモデルにしている。


小松川事件は在日少年に対する冤罪事件ではないかと当時色々言われたもののようです。興味がある人は検索してみて下さい。

尹隆道氏もまた、山本弘幸というペンネームで在日韓国人の冤罪を晴らそうとした瀬戸弘幸さんと同じ立場でもあったようです。尹隆道氏や彼に近い考えの民団関係の人が、山本弘幸名で書かれた「徐才喜冤罪事件」を目にしたら、さぞかし喜んで、民団内で話題にしたでしょうね。

そして、民団の中央本部顧問であり、「セマウル運動」や「セマウム運動」の根っこの部分を押さえてコントロールしていた町井久之氏の耳に入って、その人物が児玉誉士夫門下生だと分かったら、在日同胞と仲良くする事業を通じてフトコロを暖かくしてやろうって配慮してくれそうな気がするなぁ・・・

・・・と、この辺はワールドワイドウェブの勝手な想像です。具体的な証拠を突きつけて糾弾しているわけではありませんよ。

退職金ゼロの懲戒免職になった瀬戸弘幸さんが、3年やそこらでどうやって東銀座の事務所を借りられるほどリッチになったのか、支持者の方々に説明すればこんなバカ話はすぐに吹っ飛びます。ジョークで流せますよね?

さて、これ以降は冗談抜き。児玉門下生の瀬戸弘幸さんは、東銀座に事務所を構えていたんですから、すぐお隣の銀座で権勢を誇っていた児玉誉士夫の側近中の側近である町井久之氏の事は十分ご存知ですよね。

「セマウル運動」にせっせと参加なさっていたんですから、「関釜フェリー」の社長であることもご存知だったはずですし、民族派右翼が、日本側から「セマウル運動」に連帯しようとしたのと同じように、民団もまた「セマウム運動」という形で連帯しようとした事も知らなかったはずはないですね。

その結果として、「民団」が「総連」より力をつけたことも恐らく知っているはずです。それが日本国内における「反共」の闘いのために必要なことだと信じて助けてきたはずですし、積極的に関与しなかったと言い訳するにしても、少なくとも知っていながら見逃してきたはずです。密入国や、密入国者が堂々と家族を呼び寄せていることなどについて。

反共イデオロギーのために民団が力をつける事に力を貸してきた瀬戸弘幸さんたちが、そうした事実を隠して在日批判をしているのを見ると、つくづく汚いなぁと思います。批判するなら自分たちが何をしてきたのかまず正直に全部吐き出すべきです。

次回も「セマウム運動」についての指摘を続けます。



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2009年9月2日水曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その6)

せと弘幸Blog嫌韓派に転じた理由より引用


何故、私は嫌韓派に転じたのか!(前編)

日本オリンピック委員会は抗議せよ!

日本は韓国によって覆い隠されている!

 先般も書きましたが、私はお隣の韓国には何度も行ったことがあります。私が右の活動に参加した頃、韓国は旧ソ連や北朝鮮、中共からの共産主義の侵略を食い止める同盟国と捉えていました。

 今で言えばボランティア活動のようなものにも参加しました。セマウル運動と呼ばれた農村生活改善運動です。私にとって韓国とは反共の砦であり、日本人が死守しなければならない国でした。

 そのような考えを長い間持ち続けて来ました。それが少しづつ揺らぐようになったのは、金大中大統領の頃からでした。しかし、冷戦崩壊後においても、決して敵性国家との考えはなかった。

 私はノ・ムヒョン大統領は、日本で言えば左派勢力であり、韓国の中にも保守派、或いは右派と呼ばれる人達が親日派として存在しており、政権が変われば、また仲良くやれる国であると思っていました。

 しかし、どうも私の考えは甘かったようです。近代化を成遂げ経済的にも成功すると、その自信は日本に対する反抗心というか、対抗心剥き出しの反日ナショナリズムへと向かっていきました。

 それは明らかに日本を蔑視する誤った排外的なナショナリズムです。それは政治・経済の分野に留まらず、スポーツの分野にまで及んでいます。

 スポーツの祭典といわれるオリンピックなどにおいては、その異常なまでの日本を敵視する排外的なナショナリズム一色に覆われてしまう。スポーツの勝ち負けや、優劣で何事も解決しないのは、分かり切ってはいても、勝たなければと血道をあげる様は、もう常道を踏み外している。

 例えば、下記は韓国の正式な冬季オリンピックのHPです。

http://www.pyeongchang2014.org/eng/main.html

 見て驚かれたでしょう。日本が見当たらない。そうです、日本という国は韓国によって覆い隠されてしまっています。日本人はこのようなことはしないでしょう。いくらなんでも酷過ぎますね。

 これが今の韓国の姿なのです。日本と仲良くやろうなどという気持ちがまったく感じられない。何故なのか?その意味を問わなければならない。

 日本オリンピック委員会は正式に抗議すべきである。もし、このような侮辱を続けるなら、開催地の資格があるのかを、公式に国際社会に訴えなければならないであろう。


ここまで色々見て来ましたが、表向きは「セマウル運動」というボランティア活動のようなものに参加してきた瀬戸弘幸さんが、韓国の青年たちとの共闘を呼びかけたところ、ネトウヨ・嫌韓厨たちの猛反発を食らい、その後しばらくやり取りを続けた結果、彼らの熱意に押されて自らも嫌韓路線に切り替えた事になっています。

そして、これまで30年近く続けてきた親韓路線との決別をこのようなエントリーで説明しようとしたわけです。

韓国の冬季オリンピックHPに『日本が見当たらない』と激怒している瀬戸弘幸さんですが、東京都がオリンピックを招致しているHPなどを見て戴きましょうか・・・

Tokyo 2016 - 東京オリンピック・パラリンピック招致委員会 日本だから、できる。あたらしいオリンピック!

『なんと、韓国が覆い隠されている!! これは明らかに韓国を蔑視する拝外的なナショナリズムです。経済的に成功した日本は、その自信を反抗心というか、対抗心むき出しの嫌韓ナショナリズムへと向かわせました。』

アホらしい・・・ 瀬戸弘幸さんの脳内世界をそのまま持ち込むと、韓国で日の丸燃やしてる人たちが量産できそうです。

もちろん、こんなものが瀬戸弘幸さんが嫌韓になった本当の理由でないことは明らかです。

このエントリー内に本音は見え隠れしています。

『金大中は気に食わなかった。盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権でそれが決定打になった。』という点は恐らく本心です。ただし、理由が完璧にウソ。(※次回以降、この理由について検証して行きます。)

瀬戸弘幸さんは、全斗煥政権下のセマウル運動に参加していました。ところが、ソウルオリンピック直後に全斗煥ファミリーがセマウル運動の公金を横領していた事が発覚し、韓国の国民が大いに怒ります。

この事が原因で、全斗煥大統領は失脚し、16年ぶりに選挙が行われ、民主的に大統領が選出されます。盧泰愚(ノテウ)政権の始まりでした。

盧泰愚大統領は国民の怒りや不満を受けて、セマウル疑惑を究明。光州事件(民主化要求デモ鎮圧で民間人を多数虐殺)の追求などもあり、全斗煥元大統領は、一時は死刑を言い渡されます。その後、減刑と特赦をされてはいますが・・・

このように、韓国の国民から見た全斗煥大統領の評価は、公金を横領して私服を肥やしたり、民主化を要求した民間人を大量虐殺した軍事独裁者。評判は芳しくありません。

やがて、盧泰愚大統領も光州事件の責任追及などをされて(彼もまた軍人出身でした・・・)、民主化政権も文民政権の時代へと移って行き、金大中や盧武鉉の時代へ。

瀬戸弘幸さん自身の立場に立って考えてみても、『中共からの共産主義の侵略を食い止める同盟国と捉えて、真面目にボランティアしていた』のであれば、その裏で公金横領していた大統領だと知って腹が立たないわけがない。

瀬戸弘幸さんと立場が近い、勝共-統一原理の民族派右翼の「亜細亜民族同盟」(旧柳川組 ※在日系)が、在日フィクサーの許永中氏と組んで、この大規模公金横領のマネーロンダリングを手伝っていたとなれば、更に腹立たしい思いがしたはずですが、全くそうした気配がない。

瀬戸さん自身が、この横領に加担したのかどうかは知りませんが、彼らとグルだったのか、似たような不正や利権の吸い上げを「セマウル運動」でやっていたので言えた義理ではないのか、『反共のためなら、これほどの悪事すら許されると考えてしまう恐るべき1ビット脳』なのか、いずれかであるとしか考えられません。

いずれにしても、正常な日本人の思考ではありません。

「セマウル運動」で私服を肥やしたり、韓国で民主化要望する民衆を弾圧して大量虐殺したため、忌み嫌われる大統領が大好きで、正当な政権だった、仲良くやっていける政権だった考えている瀬戸弘幸さん。

韓国人たちは、好きで軍事独裁政権下で暮らしたかったわけではないはずです。反共のためにやむを得ず我慢していた側面はあるにせよ、喜んで受け入れていたわけではありません。

瀬戸弘幸さんは、韓国人が望んで手に入れた政権は悪い政権だと必死にケチをつけ、オリンピックHPまで持ち出しておかしな難癖をつけています。しかし、そこには瀬戸弘幸さんの本心はありません。

こういう政治的スタンスの人が、その数ヶ月前には「セマウル運動」の正体を隠して、ただのボランティアのように紹介しながら、韓国の青年たち(実は統一協会に思想洗脳された人々)と共闘しようと、ネトウヨ・嫌韓厨をオルグしようとしていた。

これで大体の事情が飲み込めて来たと思います。瀬戸弘幸さんは、韓国の事情をよく把握しています。分かっていながら間違った情報を発信してミスリードを繰り返します。

「セマウル運動」の話題は、このシリーズ中でまた触れると思いますが、まとまったボリュームで取り扱うのはここまでにします。

瀬戸弘幸さんが嫌韓になった本当の理由をうまく説明するためには「セマウル運動」だけではやや間口が狭いので、次回以降は、韓国の復興全般に主眼を移して行きます。

【追記】
2ちゃんねるのウォッチ板で貴重な情報が寄せられていましたので、元ソースの方を転載しておきます。

創価と統一教会は韓国でもカルト より一部抜粋

韓国には、統一協会の男性信者と結婚した日本人女性が数千人いるという。彼女たちの多くは農村で「新しい村運動」を主導しており、模範的女性との評判がある。日本語も教え、村掃除などのボランティアも行う。韓国人の若い女性が農村を去って行くなか、日本人の女性が、しかも韓国の農村に嫁いで働くというのは理解しがたいことだ。だが、これが宗教の力だと思う。とはいっても、正統な宗教ではないカルトの行う善行は不安であり危険だ。終末は異端の時代であるし、異端はいつも政治的、経済的な力で人々を誘惑する。韓国キリスト教総連合会では統一協会からの挑戦を憂慮し、3月3日から特別祈祷会を行う。


他にも統一教会系の書籍にセマウル運動、セマウム(新しい心)運動について触れられている事も紹介して下さっていましたが、こちらの本には気づいていました。いずれにしても貴重な情報ありがとうございました。

セマウム(新しい心)運動についても、1回分を割いて書きたいことがあったのですが話が膨らみすぎているので、本シリーズが完結してから補講的に別枠でやるかも知れません。

瀬戸弘幸さんは、現地で生の情報に触れています。もっと色々な事を知っているはずなんですが残念な限りです。

ねらーや、その他ネットで情報を拾って来られる方、統一協会(統一教会)の合同結婚式で身内の方が被害に合ったという方、あるいは元信者の方などで、当時のセマウルなど韓国農村部で何が起こっていたのか断片的にでも情報を持っている方がいらっしゃれば、コメント欄に書き込みでもして行って戴けると助かります。

または、2ちゃんねる内で適当に話題にして戴ければちゃんと拾い上げて行きますのでよろしくお願いします。

そうした情報が蓄積されて行けば、瀬戸弘幸さんの宿題遺棄が少しは解消されて行くと思われますし、情報の共有によって、現在困難な状況に陥っている方々の助けになると思います。

また、情報がなくても、ちょっとしたコメントを残して行くだけでも結構です。色んな人の気持ちがそこに交錯しているんだと、瀬戸弘幸さんにも見て戴く必要があると私は考えています。



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2009年9月1日火曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その5)

ちょっと脳内でフェムト波動復調回路が働いたので、Googleさんで色々と検索してみましたところ、面白いものを拾い当ててしまいましたので、前回予告とは違う方向に走ります。

『韓国・全斗煥大統領の実弟、全敬煥が3月18日に来阪、藤田永中や日本土地の木本社長ら6人と日航ホテルで密談している。そして全敬煥は帰国後、韓国当局に逮捕された。』

前回も検証していたこの文章の、『日本土地の木本社長』についても調べてみました。山口組系旧柳川組の金庫番を努めていた方だったというネタが拾えたので、柳川組や右翼について更に検索。

2ちゃんねる「何故多くの弟子が大山の元を離れたのか?part2」より一部抜粋


336 :柳川組  :2001/03/31(土) 19:57
 1967年から始まった大阪府警の柳川組集中
取り締まりを経て、69年組を解散。その後78年5月
、右翼政治結社、「亜細亜民族同盟」を結成している。
それまでの名前「次郎」を「魏志」に変えたのも、
このころからである。

337 :柳川組  :2001/03/31(土) 20:04
 以降、日韓親善友愛会名誉会長を務め、許と同じく、
韓国民主平和統一諮問会議の、委員、さらにはソウルオリンピック
支援活動など、一転して表の社会に身をさらしてきた。
柳川は、91年に68歳で病死するが、同民族同盟の会長
を引き継いだのは、元公安調査庁の調査官で、スパイ工作に従事
してきた経歴を持つ佐野一郎だった。(佐野は99年11月に
事故死)

338 :柳川組 :2001/03/31(土) 20:10
 旧柳川組系の「亜細亜政治連盟」と「極東民主同盟会議」
(以降極民同)は、ともに歴代の韓国政権中枢部と深いつながり
を持っていることで際立っていた。
 霊感商法で知られる、統一教会の政治組織「国際勝共連合」
などと一緒に大挙して訪韓し、韓国側に歓待され、
中でも「極民同」は軍事訓練まで受けている。

339 :柳川組 :2001/03/31(土) 20:15
「亜細亜民族同盟」は、現在の韓国大統領・金大中が、
KCIAによって東京のホテルから拉致され、殺害されかかった
いわゆる、「金大中事件拉致事件」の際、日韓を股にかけ、
さまざまな謀略工作を行ってきたことでも、
知られている。

340 :極東民主同盟会議 :2001/03/31(土) 20:32
91収入金額18億6千万円
代表 芳也武志
芳也は旧柳川組幹部


見事にヒットしました。

『統一教会の政治組織「国際勝共連合」などと一緒に大挙して訪韓し、韓国側に歓待され、中でも「極民同」は軍事訓練まで受けている。』

Wikipediaで勝共連合の項目を見ると(※面倒なので今回はリンクを貼りません)、軍事訓練は勝共が結成された当初が一番活発だったようです。その後は穏やかな訪韓で、韓国側の統一協会のお膝元である農村部、つまり「セマウル運動」を中心に行われたんじゃないでしょうか。

それにしても、「金大中事件」まで浮上して来てしまいました。ソースが2ちゃんねるwとは言え、話は大きくなる一方です。

瀬戸弘幸さんは、民族派有志一同で「セマウル運動」で熱心に参加されていたそうですね。どう見てもただのボランティアには見えませんし、ネトウヨや嫌韓厨が大嫌いな韓国のエッセンスの集大成がそこにあるようです。それを隠してのオルグはやはり不健全です。

ところで、仲良くご参加なさっていた有志の中には「亜細亜民族同盟」や「極東民主同盟会議」といった名前はなかったでしょうか?

また、その中に「金大中事件」(1973年)について武勇伝のように語る人などは、いらっしゃらなかったでしょうか?

週刊新潮の記事に対するレビューも、どうも瀬戸弘幸さんが通ってきた道を考えると評論として浅すぎる気がするのですが、わざと知っていることに触れないようにブログ記事を書いているんじゃないでしょうか?

たかが「セマウル運動」と瀬戸弘幸さんは軽く考えていたのかも知れません。その後も軽々しくボランティアに参加していたとブログ内で書いておられますし、街頭でもそのように発言なさっているようですね?

ところが丁寧に見ていくと、瀬戸弘幸さんの人生が透けて見えてくるし、知っているはずのことをあえて誤魔化していることがちゃんと分かって来ます。

少し予定が狂いましたが、次回でセマウル問題は一段落つけたいと思います。



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2009年8月31日月曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その4)

この宿題遺棄事件シリーズ冒頭で、瀬戸弘幸さんが赤報隊襲撃事件に絡んで「統一戦線義勇軍」との関係について回想?している記事を紹介しました。

また、瀬戸弘幸さんが「セマウル運動」に参加していたのは1980年代初頭からで、これは全斗煥政権の頃だというお話を何度か念押しして来たことに読者の方々は気づいておられると思います。

「セマウル運動」は統一協会が韓国農村部に反共宗教として浸透していった事以外にも、利権問題その他きな臭い部分が眠っているようです。

私が紹介した回だけでなく、『日本よ何処へ』の連載・『赤報隊』と『日本民族独立義勇軍』シリーズは、確か12回ほど続いたのですが、週刊新潮の実名告白手記に対して、再三懐疑的な論調の評論をしています。

そこで、週刊新潮の記事内容が読めるように紹介してくれている日々研鑽さんのブログ記事などを眺めて戴きたいと思います。


朝日新聞阪神支局“襲撃犯”が週刊新潮で実名告白

 1987年5月に、朝日新聞阪神支局に何者かが押し入り、散弾銃を乱射して記者1人が死亡した「警察庁指定116号事件」(時効)の実行犯を名乗る男が、29日に発売される週刊新潮に、実名で犯行を告白する手記を寄せていることが分かった。

 記事によると、男は都内の元右翼団体構成員で、誰もが知る“公的な組織に属する人物”から「朝日を狙ってくれ」と金で依頼され、東京本社、阪神支局、名古屋本社寮、静岡支局の順で 襲撃したと告白している。動機については、怨恨や思想的背景はなく記者1-2人を殺害するのが目的だったとしており、「赤報隊」を名乗る犯行声明は、別人に書かせたという。

 同事件は、87年5月3日午後8時すぎ、朝日新聞阪神支局で男が散弾銃を乱射し、居合わせた小尻知博記者(当時29)が死亡。もう1人が重傷を負った。2002年5月3日に公訴時効が成立している。
―――――

1987年5月、朝日新聞阪神支局を襲撃し、一人を殺した実行犯が、実名告白した記事を、日付変わって今日1月29日発売の『週刊新潮』2月5日号に掲載されているという。

先ほど私は、近所の潰れそうな本屋に行ってみたら、なぜか既に1月29日発売の『週刊新潮』2月5日号が置かれていたので、早速購入した。

ほんの一部だけ紹介しよう。

―――――
『週刊新潮』2月5日号
[第1回]【実名告白手記】島村征憲
私は朝日新聞「阪神支局」を襲撃した!

私が実行したのは、「東京本社」「阪神支局」「名古屋本社寮」襲撃と、「静岡支局爆破未遂」の4つ。それに続く中曽根元首相脅迫や、リクルート元会長宅銃撃事件というのは、私は関係ない。そして、「赤報隊」を名乗る声明文を書いたのも、私ではない。背景は追ってお話ししますが、私が頼んで、ある人に書いてもらったのです。それから、一番大事な点は、私はあくまで「実行犯」だということ。私は、ある人物から「朝日を狙ってくれ」と頼まれて実行しただけ。頼んできたのは、ある公的な組織に属する人物です。誰もが知っているその組織とは、何なのか。朝日を狙えと頼まれたのは、いつだったのか。なぜ、殺人という大それたことを引き受けたのか。その辺りのことは後で詳述しますが、正直に言うと、動機は金だった。そして、別に小尻記者や犬飼記者を狙ったわけではない。さらに言えば、阪神支局でなければない理由もなかった。ともかく、私は結果を出す必要があったのです。記者を1人か2人殺す、という結果を。
P29
―――――

ということで、実行犯の実名などは判ったのだが、肝心の首謀者である「誰もが知っている公的な組織」が何かは今回判らない。

しかし、これに関しては、外国の組織であることが以前より指摘されている。

次に抜粋するのは、1994年に書かれた木村久著『疑惑人らがつくった関西国際空港』という本だ。

―――――
朝日新聞襲撃事件
本の画像
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(一部抜粋)

こうした想像を巡らせると、ある1つの結論に達した。犯行グループは日本人ではなく外国人の可能性という結論だった。グループを外国人とした場合、さまざまな問題がクリアできた。

(中略)

このように日本の右翼が演じた過去の事件と比較してみると朝日新聞襲撃事件は、犯行グループが右翼を装いながら、右翼らしくない犯行の手口をのぞかせている。はやり、これは、日本人ではない犯行と考えられた。そして、この偽装がどこからきたものかを併せて考えてみた。結果はある組織に近いグループになった。

坂上のこの意見と同じ見解を示したのが東京在住の政治評論家だった。評論家は某政治家の話として、朝日新聞襲撃犯は”ある組織”という意見を述べた。もっともこの話は坂上が直接聞いたわけではなく、東京の出版社を通じてのものだった。しかし、評論家が同様の見解を示していたことで坂上は自信を持ち、記事を書いた。

それでも夕刊紙の連載には、余計な危険を避けるため、このある組織を、ある組織ともせず、また固有名詞を全く使わないで表現した。しかし、ある組織がこの記事を読んで怒った。逆鱗に触れたのだ。そして夕刊紙の役員室に殴り込む結果を招いたのだ。

戦闘服をまとったある組織の男らは、榎本社長と激論を交わした末、「坂上を2週間以内に組織の本部へ出頭させろ」と言い残して建物から去った。朝日新聞襲撃事件の発生後、1週間目の5月9日のことである。

そして約2週間目の同20日、坂上は東京都内の、ある組織の本部を予告なしに訪れた。ある組織は大きなビルの1室に本部があった。予告なしに訪れたのは、危害を恐れてのことだった。つまり、危害の準備ができない内に出頭したのである。

部屋の中には数人の男がいた。緊張した坂上には、その男らのどの顔も赤報隊に見えた。ある組織の追及は厳しかった。「何の根拠である組織のことを書いたのか」など、あらゆる怒声と罵詈雑言が浴びせられた。その場で危害が加えられるのを待つ以外に方法はなかった。救われたのは、その組織の中に幹部として1人の日本人が居たことである。

その日本人は「ただでは済まさないぞ」とたけり狂う男らを制して「二度とこんなことは書くな」という警告を発してその場を収めた。救われたのである。

当の日本人は、額に収められた外国大統領の写真の下で、
「私は大統領からの信任を得ている。この時計は大統領からいただいたものだ」と、得意そうに腕時計を見せた。しかし、左手の小指の先はなかった。

(中略)

――韓国・全斗煥大統領の実弟、全敬煥が3月18日に来阪、藤田永中や日本土地の木本社長ら6人と日航ホテルで密談している。そして全敬煥は帰国後、韓国当局に逮捕された。

『疑惑人らがつくった関西国際空港』木村久著(1994年)
―――――

これらの情報から、「誰もが知っている公的な組織」は韓国に関係する組織のようだ。

具体的に何かを推測するに、いくら何でも「韓国大使館」ということはないだろうから、そうなると、民潭(在日本大韓民国民団)か、統一教会(世界基督教統一神霊協会)あたりのことを言っているのだろうか。

統一教会を「公的な組織」というのも考え難いので、おそらくは、「民団」だろう。

ちなみに、現在は多くの日本人が「在日韓国人=極悪人」と認知しているが、この本が書かれた1994年当時はまだそれほど広く認知されていない時代だったかもしれない。


「どうして朝日新聞が韓国批判?」
「どうして韓国が朝日新聞にテロ?」
などと不思議に思う人も多いかもしれないが、事件当時の1987年はまだ冷戦真っ只中であり、北朝鮮を「地上の楽園」と讃えていた朝日新聞と韓国(民団)は対立することもしばしばあったようだ。

(参考)


われわれは日本人である。
日本にうまれ 日本にすみ 日本の自然風土を母とし日本の伝統を父としてきた。
われわれの先祖は みなそうであった。
われわれも われわれの後輩も そうでなければならない。
ところが 戦後四十一年間 この日本が否定されつづけてきた。
占領軍政いらい 日本人が日本の文化伝統を破壊するという悪しき風潮が、世の隅隅にまでいきわたっている。
およそ人一人殺せば死刑となる。
まして日本民族全体を滅亡させようとする者に いかなる大罰を与えるべきか。
極刑以外にない。
われわれは日本国内外にうごめく反日分子を処刑するために結成された実行部隊である。
一月二十四日の朝日新聞社への行動はその一歩である。
これまで反日思想を育成してきたマスコミには厳罰を加えなければならない。
特に 朝日は悪質である。
彼らを助ける者も同罪である。
以後われわれの最後の一人が死ぬまで この活動は続くであろう。
日本人のあるかぎり われわれは日本のどこにでもいる。
全国の同志は われわれの後に続き 内外の反日分子を一掃せよ。

二千六百四十七年 一月二十四日
日本民族独立義勇軍 別動
赤報隊 一同
http://www.mii.kurume-u.ac.jp/~tadasu/essay_303111.html


『韓国・全斗煥大統領の実弟、全敬煥が3月18日に来阪、藤田永中や日本土地の木本社長ら6人と日航ホテルで密談している。そして全敬煥は帰国後、韓国当局に逮捕された。』とあります。

全斗煥大統領の実弟、全敬煥氏は、全斗煥大統領が新設した「セマウル運動本部」の理事長に就任してました。彼を始めとして、全斗煥大統領の親族5名で計78億ウォンの横領が発覚。この記事にあるのは、その端緒になった逮捕です。

そして、この大規模横領事件のマネーロンダリングは藤田永中氏(許永中氏と言った方が通りが良いでしょう。イトマン事件でも有名な、在日大物フィクサー)が行っていたとされています。

金で頼まれて動く、外国の公式団体(統一協会or民団)に依頼されるような、民族派右翼を自称する人物で、「セマウル運動」などを通じて、許永中(在日フィクサー)や全斗煥大統領の実弟、全敬煥氏あたりとつながって居そうな人物・・・ さてはて、誰だろう(笑)

瀬戸弘幸さんが、「統一戦線義勇軍」の名づけ親は自分だと手柄横取りの名乗りを上げたロジックを使うと、何だかとっても・・・

冗談です。日本刀でヤクザ者(※私はヤクザ相手ではなく非勝共な民族派右翼さんだと思ってますが)と斬り合う血気盛んな頃の瀬戸弘幸さんだったとしても、丁度この頃警察にいろいろ聞かれたと御自身で書かれていたとしても、やはりそこまでする度胸をお持ちだったと私は考えてはいません。

ともかく、したり顔で週刊新潮の記事を検証なさっている以上、全斗煥大統領や、実弟の全敬煥氏の名前が書かれているのを見たときに胸にズキンと来るものはなかったのでしょうか?

瀬戸弘幸さんが全くの善意・善行として「セマウル運動」に熱心に参加していたという仮定で想像してみますね。

瀬戸弘幸さんが熱心に参加していた「セマウル運動」を裏側で不当に食い物にしていた大統領で、そのために失脚し、日本でも大々的に報道されました。熱心に参加していただけに、その経緯が胸に深く刻み込まれていたはずですね?

だったら、週刊新潮が指摘している事の背景に「セマウル資金横領疑惑」がそのまま直結していることに気づかず読み飛ばすわけがありませんね。自分の善意を食い物にした悪い大統領や、その弟を忘れるわけがない。

瀬戸弘幸さんは、「セマウル運動」自体が決してクリーンなものではなく、裏には不透明なお金が流れていたことも知っていたはずですし、瀬戸弘幸さんはタッチしていないのかも知れませんが、民族派右翼や民団あるいは在日などが絡んだマネーロンダリングなどの問題があることもご存知だったのではないでしょうか?

少なくとも、「セマウル資金横領疑惑」で全斗煥政権が失脚する大スキャンダルに発展したのを見守って来たはずですから、それ以降については、そうした事実があることを知ったはずですよね?

ネトウヨや嫌韓厨たちが最もヘイトするエッセンスが、瀬戸弘幸さんが愛した「セマウル運動」の裏側にはドロドロと流れている事も、その本質も、瀬戸弘幸さんは確実に知っていたはずです。

ところが、それら一切合財を隠して、『セマウル運動は反共のために韓国の農業を近代化する運動で、ボランティアみたいなものです。』としか紹介しない。クリーンなイメージだけを流して、韓国の反共戦士(=統一協会)とオルグしようぜと呼びかける。

実際のセマウルでは、様々な利権問題が渦巻いていて、民族派右翼の皆さんにとっては格好のビジネスチャンスが転がっていたはずです。

瀬戸弘幸さんは確実に汚い部分を知っていて、それを隠して勧誘行為を行っています。韓国の反日感情の源流、統一協会というカルトの問題、在日や右翼が結託して不正利益を得たりマネーロンダリングしている実態。

そういうもの一切合財を知らせずに仲間に誘うのが、瀬戸弘幸さんという人のやり方です。

どこか間違っていたら、反論して戴きたいところです。

瀬戸弘幸さんが誠実にこのテーマに向かい合うことで、これまで光が当たらなかったこの分野の解明が進むので、私の指摘に間違いがあったなら、それはそれで素直に受け入れますし。

セマウル問題は、次回で取りこぼした分の紹介と軽いまとめをします。



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2009年8月30日日曜日
瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その3)

前回は、瀬戸弘幸さん達を受け入れたセマウル(新しい村)の人々だけが特殊な思想の持ち主の集まりだったから、反日感情が薄く感じられたに過ぎないという事を少しお話しました。

瀬戸弘幸さんが嫌韓に鞍替えして以降に、そ知らぬ顔で勝共思想や統一協会の内情について講釈しているエントリーがあるので紹介します。

せと弘幸Blog「統一教会」と「国際勝共連合」より引用


 これは統一教会ウォッチャーの間でもあまり知られてはいませんが、故久保木氏は一人で統一教会に入信したわけではありません。かなりの人数(三桁以上)を引き連れて移籍しています。

 現在の日本の統一教会の幹部は、この時の人達によって占められています。韓国の教組の下に入ってまで、彼らがやろうとしたことは一つしか考えられません。

 それが『国際勝共連合』の結成へと結びつくのです。彼らが当初から考えていたのは、宗教の衣をまとった政治活動でした。当時、創価学会、生長の家などの新興宗教は政治活動に力を入れ始めていた。

 立正佼成会はその頃はあまり政治には熱心な方ではなかった。だからこそ、青年部長を務めたほどの彼(久保木)は、出遅れたことを焦り、新天地を求めたのである。

 彼が始めた国際勝共連合は事実上、彼の死去によって幕を閉じた。私はあの統一教会というカルト宗教が日本社会に与えた深刻なまでの害毒と、国際勝共連合の日本の政治に与えた影響力を分けて考えています。

 確かにそれは同一の母体ではあったが、詐欺事件まがいの商法や集団結婚式などという反社会性の裏側に、日本の赤色革命に抗した運動があったことも事実でした。

 その考えはとても日本の民族思想とはかけ離れたもので、受け入れ難いものだった。しかし、彼らの擬似愛国心を見抜けなかった日本の保守勢力の多くが、彼らに取り込まれたことは事実でした。

 久保木の早過ぎる死がなかったら、彼らはまた統一教会から離れ、独自の道を進んだかも知れない。なぜならば、国際勝共連合の理念は文鮮明の北朝鮮訪問によって終焉したからです。

 笹川良一氏が彼らを応援したのも分からなくもない。彼は児玉誉士夫と並んで右翼のフィクサーだった。児玉が任侠系団体を右翼に引き込み組織化する中で、笹川はそのような動きには批判的だった。

 笹川は国際勝共連合に集う若者の純真さに心を動かされた一人だった。その純真さは洗脳によって作られたものだったが、笹川もまたそれを見抜けなかったのである。

 国際勝共連合の成功とは、表向きには真面目な青年が私利私欲を捨て、共産主義の魔の手から日本を救おうと立ち上がっているように見えたことでした。

 現在その精神は唯一『世界日報』に引き継がれているようにも見える。しかし、彼らが文鮮明と明確に袂を断たない限り、誰も信用しないでしょう。

後段部分のみ引用しておきましたが、瀬戸弘幸さんが国際勝共連合の内部事情にかなり明るいのが見て取れますね。統一教会ウォッチャーの間でもあまり知られてないことを、さらっと言えるくらいには。

国際勝共連合の結成を協力にプッシュしたのは笹川良一氏と、それに協力したのが児玉誉士夫氏。

ちなみに、瀬戸弘幸さんが右翼デビューするきっかけになったのは、ワイロを大量にばら撒いた糸山英太郎氏の金権選挙の応援でしたよね。

糸山英太郎氏は、笹川良一氏の姪と結婚して縁戚関係にあります。そこで笹川良一氏と児玉誉士夫氏のツテが出来たので、児玉門下生というルートを辿ったものと思われます。

この辺りの人脈は、完璧に国際勝共産連合を作った人たちが後ろに居るんですが、読者の方々の判断に任せます。

wikipedia - 国際勝共産連合 の項あたりを読んで、足りない情報は補完しながら読んで下さい。全部説明すると長くなってしまいますので。

瀬戸弘幸さんは、『笹川は国際勝共連合に集う若者の純真さに心を動かされた一人だった。その純真さは洗脳によって作られたものだったが、笹川もまたそれを見抜けなかったのである。』と、冷めた批評をしていますが、瀬戸弘幸さんがセマウルで出会った韓国の農民たちは、正にこの洗脳によって作られたものだったはずです。

『笹川良一氏が見抜けなかった』と突き放すor手のひら返しすることで、自分だけキレイな場所に居ようとする逃げが、ここに炸裂しています。自分は内部事情に異常なまでに詳しいことを、ここで晒してしまっていながらです。

勝共に異常に詳しい瀬戸弘幸さんならば、「セマウル運動」の基礎的知識もなく、しかも現地に行きながら、そこに居た農民たちが一般的な韓国人の国民感情と違う特別な思想洗脳を受けていることに気づかなかったはずがないですよね。

国際勝共連合の問題点も、今回紹介したエントリーでは批判的に扱っています。ところが、そのほんの少し前には、そ知らぬ顔で「セマウル運動」の正体をぼかして韓国の青年(明らかにこの青年たちは勝共思想で洗脳された統一協会信者の農民たち)との共闘を呼びかけています。

ネトウヨ・嫌韓厨たちにやりこめられて、それが不可能だと悟り、嫌韓に切り替えると宣言したほんの数年前まで、瀬戸弘幸という人はそういう事を繰り返していたはずです。

こういうスタンスで民族派右翼をしてきたのが瀬戸弘幸という人ですから、『ヤクザを右翼にさそったと因縁つけられて日本刀での斬り合いになった』という御本人の説明だけでは、『勝共に否定的な民族派右翼さんを内緒で勝共にオルグしようとして刀傷沙汰』の可能性も否定できない。

もう少し違う観点のお話もしてみたいと思います。

1980年頃は、日本の農村との交流はほとんどなかったはずだと言いましたが、言い換えると、この頃から社会問題化した統一協会の合同結婚式問題で、当時の韓国農村部の状況を直接見て来た貴重な体験を持つのが、瀬戸弘幸さんだということです。

瀬戸弘幸さん自身が統一協会の信者だとは私も考えていませんが、当時、韓国農村部に浸透していた統一協会の実態をつぶさに見たはずですし、合同結婚式で日本から嫁いでいった女性に会った経験も、もしかしたらあるかも知れません。

仮になかったとしても、数年前までは韓国に頻繁に行き来しており、向こうに友人が居ると言っていた瀬戸弘幸さんは、そのツテを使ったり、1980年頃に訪韓していた民族派右翼の方々に聞き取り調査をするなどのジャーナリスト活動を熱心にすることで、合同結婚式後に消息を絶った日本人女性を探すという、瀬戸弘幸さんにしか出来ない尊い活動ができる可能性があります。

ご自分が、韓国で当時やって来たことにあまり触れたくないのでしょうが、せと弘幸Blog」:カルト・統一教会についてのような批評で満足していて良いのでしょうか?

一見、痛烈批判しているように見えますが、実際には全く踏み込んでいませんね。ご自分が見聞きしてきた本当の部分には全く触ろうとしません。

6500人の失踪者が居ることを紹介するのは良いことですが、だったら、その方々の安否を心配している人たちに、瀬戸弘幸さんが1980年代初頭の韓国農村部で見聞きしてきたことを情報として提供なさったらどうですか?

また、今でも農村部に友人が居ること、そのツテで情報収集ができるからと協力を申し出たらどうですか?

なぜ、北朝鮮の拉致が許せないとあれほど声高に言う瀬戸弘幸さんが、こんなにたくさん出来ることがあるのに何もせずに薄っぺらな批評だけでオシマイにするんでしょうか。

セマウル問題は、まだまだ、これだけではありません。次回に続きます。



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瀬戸弘幸さん人生最大の宿題遺棄事件にワールドワイドウェブが挑む (その2)

私が、せと弘幸Blog『日本よ何処へ』の全記事を読み返す中で最も違和感を覚え、かつ最も重要そうだとずっと思っていたものが、「セマウル運動」に関するものです。

せと弘幸Blog『日本よ何処へ左傾化する韓国に危機意識を持とう!より引用


 朝鮮半島は南北に分断され、「自由VS共産」というイデオロギーの厳しい戦いの中にあった。韓国は米国・日本と同盟関係にあり、日本も北朝鮮や・旧ソ連・中共との最前線に立つ韓国を支援してきた。

 これは国家だけの話ではなかった。私が右翼の活動を始めた頃は、民族派の団体有志は韓国の反共団体と協力関係にあり、相互訪問で親交を深めていた。今から25年ほど前の旧い話になるが韓国の農村ではセマウル運動が盛んに提唱され、我々もその応援で韓国の田舎にまで行ったものである。

 セマウル運動とは19世紀に二宮尊徳が行った農村改革運動と共通点が多く、故・朴大統領が尊徳の事績を参考にしたとは予てから指摘されていたが、日本側では「二宮尊徳の仕法とセマウル運動」には、両者の精神・手法には共通点があるとされ、日本においても韓国のセマウル運動と提携する農村があった。

 当時は非常に韓国の国民は親日的であったと思う。とても今日のこのような反日的な気運は私などには正直言って信じられない。冷戦の崩壊や韓国が経済的に成功を収め自信を深めたことが、かつての植民地の歴史に対する反発とナショナリズムの勃興と重なり、現在の状況が生み出されたと考えられる。

 だが、そのナショナリズムは韓国を誤まった方向に導きつつある。反米・反日はその裏返しとして北朝鮮への愛着となり、北朝鮮の共産主義体制の容認という取り返しのつかない思想的風潮が蔓延している。これに追い討ちをかけるような容共政策が次々に打ち出されてきた。

 そのような容共主義を徹底する上で、かつての日本の植民地時代における様々な問題が蒸し返され、それを絶対に許さないとした反日思想を拡大している。その延長線上にあるのが「靖国批判」であり、これは現政権が進める左傾化と連動している。

 現在、韓国社会において進行している左傾化は、武力を伴わないクーデターであり、もしこれが成功するなら韓国は北朝鮮に併合されてしまうだろう。これは信じられないが確率の高い予想である。銃声の音こそ聞こえないが、左翼共産主義革命は成功しつつある。

 我々日本人はこのことに余りにも無関心過ぎるのではないか。朝鮮半島の共産化は日本にとっては死活とも言える程に重要である。日本の古くからの歴史を見ても、古代で言えば白村江の戦い。蒙古襲来、日露戦争など、その多くが朝鮮半島と深く関わってきました。

 地政学的に見ても、日本がこの朝鮮半島の将来に無関心、或いは無関与であり続けることは、国益からみても大きな損失となるでしょう。ネット上では「韓国など北朝鮮に併合されてしまえば良い、ほっとけ!ほっとけ」という声もありますが、私は韓国における「反共・自由の青年戦士」達との共闘を呼びかけたい。               (瀬戸)


この記事に対する読者の猛反発で、やがて瀬戸弘幸さんはネトウヨや嫌韓厨らの熱意に折れるような形で、反共だけではなく、嫌韓も掲げると方針転換して行くことになるんですが、それほど美談ではなかったようです。

瀬戸弘幸さんは、恐らく故意に「セマウル運動」の情報を読者が正しく理解できないように紹介しています。実際、右翼のおじさんたちが野良仕事のボランティア作業をしに行くことのどこが共産勢力の阻止になるか理解できる読者は居ないと思います。

まず、『農業の近代化が何故、共産主義との戦いになるのか?』について、簡単に説明しておきます。

共産思想は、資本主義社会で搾取されている貧しい労働者階級の不満を苗床に成長します。

このシリーズの中盤以降で説明する予定ですが、『韓江(ハンガン)の奇跡』と呼ばれる韓国の復興事業は、1965年の日韓国交正常化の折に韓国に日本から渡された8億ドルが工業地帯や高速道路などのインフラ整備に重点的に投入され、農業は後回しにされました。

都市部と農村部の経済格差は激しくなり、共産主義者が農民たちの不満につけ込みやすい条件が揃ってしまっていたので、朴政権としては放置しておけなかった。

そこで、経済的に立ち遅れた農村部を近代化する。でも、それだけではなく半強制的に組織化、組合化することで農民同士を相互監視すること、更に共産主義に徹底的に対抗する思想を持った宗教を農村部に根付かせるという対抗策を取りました。

私のブログでも、江戸幕府が隠れキリシタン対策で仏教諸派の檀家制度を奨励し、事実上の戸籍制度とすることでキリスト教徒にならないようにした事などに少し触れたことがあります。

一時的にイスラム教が浸透した国家で、それを排除するためにあえて豚肉料理を奨励したというところもあります。異教徒を排除するために宗教を利用するというのは古今東西で見られる方法で、それを共産主義というイデオロギー対策に使ったということですね。

こうして、「セマウル運動」では農地開発や道路整備も行われましたし、伝統的なわらぶき屋根の家が近代的な家にどんどん建て替えられましたが、同時に、農民同士は共産主義に走らないようお互いを監視し合い、統一協会に入信するものも結構多く居ました。

で、統一協会と言えば霊感商法も有名ですが、悪名高いのが合同結婚式。

(何故か理由は紹介されないのですが)韓国農村部に信者が多い統一協会は、日本人女性を貧しい農村部の、嫁の来手がないところにどんどん嫁がせる。しばらくすると音信不通。行方不明。

New Presentation of Divine Principle, jap lang (※作業ミスでリンクが切れていたので修正しておきました)

統一協会の教義がプレゼンになっているもののようです。「セマウル運動」とのつながりを調べていて見つけたので、私は我慢してザックリ流し読みしましたが、気持ち悪かったので他の方々には全部読めとは言いません。ただ、394Pを見ると、セマウル運動は、しっかり統一協会の教義に組み込まれていることが分かります。

勝共理論ともバッチリ書いてあります。

これで、「セマウル運動」の概要は大体見えてきたと思います。瀬戸弘幸さんのエントリーを見ると、農業ボランティアに行ってきましたと書いてあるようにしか見えません。

そこには、かなり細かい誤魔化しのテクニックが使われているので、紹介していきます。

まず、エントリーが書かれた時期から25年ほど前の事らしいので1980年頃にセマウルに訪問していることになります。

2000年代に入って以降は、大分県の一村一品運動のように、セマウル運動と連帯する日本の農村と言えるようなものは出始めていますが、1980年頃は軍政が敷かれていましたね。

瀬戸弘幸さんたちが何度も足を運んだのは全斗煥政権の頃でしょうか? 軍政下の韓国では地方自治が長年凍結されていました。セマウル(新しい村)が自立的に他国の自治体と連動するのは無理ですね。

瀬戸弘幸さんは、むしろ「韓国の地方自治」でもお読みになって、勉強なさった方がよろしいでしょう。

瀬戸弘幸さん説によれば『盧武鉉のせいで左傾化した』ことになっていますが、このレポートによれば『盧武鉉のおかげで軍政から民主化が進み、特に地方自治の道筋がついた』と指摘されています。

『セマウル運動と日本の農村の連動は、朴政権以降、軍政下では見られない動きだったが、盧武鉉がその筋道をつけた。』と紹介しないと正確じゃないと思いますよ。

瀬戸弘幸さんは、『日韓の村同士でも交流があるくらいで、自分たちもそういうボランティアをしていたんだ』という印象を読者に与えたかったんでしょうが、軍政下の1980年前後にそれは絶対にあり得ない。

『当時は非常に韓国の国民は親日的であったと思う。とても今日のこのような反日的な気運は私などには正直言って信じられない。』と瀬戸弘幸さんは仰っています。

ですが、当時の軍事政権は、代替わりするたびに日本に謝罪と賠償を要求し続けてきたことを日本人は知っています。嫌韓厨は、反日教育の出発点が盧武鉉時代でないことも知っています。

瀬戸弘幸さんの盟友である桜井誠さん執筆の『嫌韓流反日妄言撃退マニュアル』を今回は参考にさせて戴きますね。

『一九四八年八月十三日の大韓民国建国以来、初代大統領李承晩から続く反日教育には、一応曲がりなりにも理由が存在した。もちろん極めて独りよがりの理由ではあったが、それなりに理解できる理由ではあった。つまり、韓国は建国当初から非常に貧しい国家であり、特に朝鮮戦争前後では世界最貧国の地位に甘んじていた。本来なら朝鮮半島は一つの国家として独立するはずだったmのを、李承晩らによる朝鮮半島南部地域だけの先行独立によって貧しさを強要されたとして国民の不満が鬱積しており、その不満のはけ口として徹底的に反日を打ち出し、自分たちの手によって引き起こされたはずの貧困の原因は「暴虐と非道、収奪の限りを尽くした」日帝によるものとして、政府への批判をかわそうとしてきた経緯がある』

如何でしょうか? 瀬戸弘幸さん。親日的と言われた朴政権ですら反日教育はせっせと行っていますし、全斗煥政権も反日教育をしていました。

軍政から民主化して、その後、北朝鮮と対話が進んでから確かに一気に反日教育の問題が表面化しましたが、下地づくりは瀬戸弘幸さんが熱烈に支持していた政権がせっせと作ったものですよ。

そして、『日本と韓国は反共の同士である!!』なんて日本からやってきた民族派右翼有志の方々を喜ばせそうなことを言う農民ばかり居たのなら、そのセマウルは、統一協会の勝共思想に完全に洗脳されていたと見て間違いありません。

瀬戸弘幸さんは、「セマウル運動」がどんなものか、正直に書きませんでした。また、セマウルで自分たちを歓迎してくれた人たちが、一般的な韓国人の国民感情とは別の思想を持った特殊な人々であることも、本当は承知しているはずなのに、そのように紹介しませんでしたね?

(その1)で一水会の鈴木邦男さんが、『われわれの仲間には何人か原理にオルグられたり、「合宿」に誘われて行ったことのある人間もいる。』という記事を書いているのを紹介しましたが、ネトウヨや嫌韓厨に対して、同じことをしていませんか?

自分たちの実態を教えずに誘う。一緒に闘おうと持ちかける。もちろんこれは大失敗に終わるわけですが・・・

だから、日本刀事件もちょっとアヤシイかな・・・? と私は思い始めているわけです。

まだ、「セマウル運動」については、さわりの部分しか語っていないので、次回に続きます。



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