微熱


「熱っぽいんじゃないか?」

浅く乱れる自分の呼吸が苦しくて、眼が醒めた。
ぼんやりと白い視界には彼がいる。出張のせいで、一月ぶりに見る。グレーのラフなパーカーを着て、私の方に手を伸ばしている。

……あ、気持ちいい……

ひんやりとした感触が額に当たるのを感じて、わたしはうっとりと眼を閉じた。

「やっぱり熱い」

彼の声が低くなるのがわかった。怒ってるみたい。だけど、そうじゃないのを知っている。
心配してくれてるだけなんだ。
つめたい大気にさらされていた肩がふんわりと温かくなって、ああ毛布をかけてくれたんだって、わかった。
そしてそのまま、さらに温かく、抱きしめてくれたのも。

……彼の匂いがする。

なんか、泣きそう。
会えると、やっぱり、さみしかったんだって、よくわかる。

「くるしい? 緋乃、息が浅い」
「……ん……界、いつ、帰ってきたの……」
「3時くらいかな。きのうの夜の。ってか今朝だけど。薬飲む?」
「うん……」
「待ってろ」

そして、ひょいと離れようとした彼に、わたしは反射的に手を伸ばした。手ごたえがあって、彼がとどまったのがわかった。
もう一度眼をゆるく開く。
わたしが掴んだのは彼の右腕だった。界は、ため息を吐きながら、わたしの方に向き直った。

「……ひのちゃん。お薬を飲まないと良くなりませんよ」

子供をあやすような口調で、私の上にかがみこんでくる。
その体の半分が布団の中に入っているのを見れば、彼が昨日の夜中に帰ってきたのは本当のようだ。けれど、全く覚えていない。それがちょっと悔しかった。

「おかえりって言ってない」
「え?」
「界に。一番に、言ってあげたいのに。お帰りなさいって」

熱に浮かされてわたしは脈絡のない言葉をぽろぽろと口走った。
界が、眉をひそめる。
その、首に手を伸ばして、わたしは彼の顔を引きよせた。

ああ、会いたかった。ずっと会いたかった、触れたかった、この温もり。鋭い眼、高い鼻、厚い胸に肩。

「界……おかえり。帰って来てくれて、ありがと」
「寝ぼけてて、しかも熱に浮かされてるね、お前」

鼻先で彼は苦笑したけれど、それでも私に甘くキスをしてくれた。

「まあいいか──可愛いから」
「風邪……うつっちゃうよ」
「いーよ、もらってやる。」

そしてもう一度キス。やさしくて、温かい。
私も答えて、今度は自分から彼のくちびるを求めた。
微熱のせいか、恋のせいか。
それとも、いま目の前で細められた彼の瞳が、甘すぎるからか。

わからないけれど、何度も、なんども、キスし合った。
久しぶりだねって、お帰りって、言いあうみたいに。

会いたかったって──言葉じゃない言葉で、伝えるみたいに。

「ついでにこのまま、薬も飲ませようかな。口移しで」
「……ヤだ。」

ようやく唇が離れたとき、彼がいたずらっぽく言った言葉に、わたしは拗ねた。
界はくすくすと笑って、冗談だよと私の頭を撫でてくれた。シーツに乱れて広がった髪を整えて、キスを落とす。私は今や熱だけのせいじゃなく息を弾ませて、彼を見上げていた。

「でも真面目に、ちゃんと飲まないとだめだぞ。薬」

界は時々、わたし以上に私の体の事をわかっている。
結婚したとはいえ、まだ一緒にいるようになってから数年なのに。
なんだかそのことが悔しくて、わたしはますます唇をとがらせてみせる。

「わかってるもん。でも、いつものことだし」
「いつものことだし、じゃないの。体弱いんだから人の倍は気を使わないと駄目だろ」
「はあい……」

枕に顔を埋めて生返事を返す。と、また頭をぽんぽんと叩いていく感触がした。大きくてあったかい、界のてのひら。

「よし。今日はのんびり過ごそ。時間はたっぷりあるから。」
「……ありがと」
「なにが?」

きょとん、とした顔で振り返る界。
私は笑みが込みあげるのを感じて、首を横に振りながらわらった。
なんでもないわ、と。

こう言う時、彼を好きになってよかったと思う。
やさしい人だ。自分まで優しくなれるような。
両手に花を、いつも、あふれるように捧げ持っている人。

そして同時に少し不安になりもする。
わたしも、彼に何かを与えられているのかな。
甘えすぎては、いないかな、と──。

「あ、そういえば、言い忘れてた」
「……なぁに?」

ベッドから降りて、カーテンを押し開いた彼は振り返った。
陽の光を肩に背負って顔が見えない。私は目を細める。
でも、笑っているのは、なぜかわかった。

「ただいま。」

教会の鐘の音が、窓の外から穏やかに響いてくる。
風がマロニエの葉をゆらしているのがわかる。
鳥がバルコニーに止まっている、私たちの小さな家の、ベランダに。

「あと、いつもありがとう。ちゃんと俺を出迎えてくれて」
「……なに言ってるの?」

思いもかけない言葉をかけられて、眼を見開いてしまうわたし。
そのそばに再びやってきて、界は言った。やっぱり笑っていた。
満面の笑顔で。

「なんでも。ただ、すげぇ会いたかったって言いたいだけ。」
「界」
「嬉しいね。家族ができるって。誰かがいつも家にいてくれるってことはさ。」

ああ、そうか──と理解した。
界はいつも、家の扉を一人で開けてきたひとだった。
ご両親も健在で、御兄弟も多いけれど、その全員が夢を追いかけて、家庭を出て行ってしまったから。

だからこの人は家を愛する。
ほんとは誰より寂しがり屋で、陽のあたる場所を求めている人。

「音楽家の次の夢は、家庭を持つこと、かな」
「界も寝ぼけてるのね」
「全然。これ以上ないくらい目覚めてるよ。なあ、緋乃、俺はやく子供ほしい」
「……もう。そういうこと、平気な顔で言わないで……」

熱が更に上がってしまいそうな錯覚にとらわれて、私は眼を反らす。恥ずかしい。
界も照れくさそうに見えたけれど、それ以上に嬉しそうだった。子供みたいに。
その表情を見て、わたしは、さっきまで感じていた不安が光にかすんでいくのを感じた。ああ。なんて幸せなこと。界はわたしと一緒にいることで、安らぎを得てくれている。幸福だと、思ってくれている。

それ以上何を望むことがあるかな。
ううん、それがあれば──

──なにもいらない。

「界」
「ん」
「大好きよ。」

ほほ笑むと、また甘いキスが降ってきた。
つづけて彼の重みも落ちてきて、わたしはそれを受け止める。

ねえ、今日は寝坊しようか。
ふたりで遅いブランチにしようよ。
市場で果物を買って、あなたの好きなフレンチトーストを作って。
カフェオレを淹れよう。
また、一緒の一日を、刻もう。

「あ、そうだ、土産買ってきたんだった。忘れてた」
「え? なになに、どんなもの?」
「んー……ひみつ。後でわたす」

一枚の毛布のなかで交わす言葉はやさしい歌のよう。
私は彼の胸に頬を擦り寄せながら、これ以上ないほどの安堵を噛みしめた。

「気になる」
「いいもの。後でね」
「なにかなあー……。」

優しく頭を撫でていく、彼の手の感触に眼を閉じた。
とろけそうに幸せ。
悪い夢など寄りつく隙すら与えない。

おかえりなさい。
あなたこそが私の──未来図。

「界……」
「なに」
「……大好き。」

やがてうとうとしながらも彼の胸を離さず、寝ぼけてそんなことを呟く私に、界は笑いながらこう答えたのだった。

「知ってるよ」

と。







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