| 2001.10.15 |
| 北九州から瀬戸内海、関西地方にかけては神功皇后伝説が数多く残っている。 [古事記」や「日本書記」に記述があり、戦前には歴史上の事実として教科書にまで載せられていたが、戦後は「おとぎ話」として片付けられてしまっている。 それでも、伝説をひとつひとつ訪ね歩いてみると、真偽の程は云々しないまま、その土地で、生き生きと語り伝えられて守り育てられている様に出会うことが多い。私は大いに興味をそそられ、一時期夢中になって伝説を追ったものだ。 瀬戸内沿岸に残る「神功皇后伝説」の中から己斐から草津方面にかけての伝説をいくつか紹介したい。 |
| プロ野球 広島カープ。 名前のルーツは神功皇后伝説から |
己斐の地名伝説
神功皇后に鯉を献上する県主 (己斐旭山神社の絵馬) |
その昔、神功皇后が西征の途上、まだ名もない己斐の入り江にお着きになり、松山(今の旭山神社)に登って休息されたとき、県主が大きな鯉を献上した。皇后は大変喜ばれ「おお、鯉々々」と云われ、それからこの村を「鯉の里」と云うようになったと伝えられる。 鯉が己斐の字句に変わったのは、大化の改新(645)ごろ、諸国の地名を二字に統一したときに当て字を使ったものだと云われている。なお、船が到着した場所には「御船着」という地名が現在も残っている。 この「鯉の町」から、広島城も鯉城と呼ばれ、広島の代名詞のように用いられてきた。広島カープ球団創設の時も、当然の如くカープ(鯉)のニックネームが採用された。なお、当初はCARPSとSがつけていたが、CARP(鯉)は単複同一でSが付かないことが分かり、あわててSが無くされたことも思い出される。 |
| 軍津(いくさづ)に船を揃えて戦闘訓練 |
草津、古江の伝説
| 古来、この草津、古江の地は深い入り江で天然の良港であった。現在、新宮神社のある小山が、もっと海に突き出ていて「神功の鼻」と呼ばれ、その西に古江湾と草津浦が樽ケ鼻をはさんで入り江となっていた。草津の港は古くは「軍津浦輪(いくさつうらわ)」と呼ばれ、神功皇后が朝鮮出兵の往き帰りに、この港に舟を集結させたとの伝説が残っている。 |
| 下図は昔の海岸線の想定図であるが、「神功の鼻」は新宮神社のある小山を指し、[漕出」は今の古田小学校の裏手あたり、「樽ケ鼻」は古江と草津の境のあたり、「日向山」は草津八幡神社を祀る[行者山」とされている。 |
| 新宮神社 神功の鼻の小山に鎮座する。 神功皇后が朝鮮出兵の帰途、この岬の突端にあった岩洞にしばらく仲哀天皇の遺骸を安置し、ここに小祠を建てたのが当社の創祀と伝えられる。 |
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| 草津八幡神社 JRの線路を越えて北に100m。行者山の中腹に草津八幡は鎮座している。古くは海浜の近くにあったと伝えられるが、再建の度に高所に移された。この行者山は力箭山とも呼ばれているが、神功皇后の軍勢が、この山で弓の猛訓練が行われたことから、その名が起こったと云われる。 一方、港には軍船を集結して、明石で待ち受ける、香坂王、忍熊王の軍勢への征討作戦を練り、「お舟揃いの儀」で気勢をあげたと |
| この他、草津の港には、神武天皇の東征の船団や、源範頼の平家追討、足利義満筑紫征伐、豊臣秀吉の朝鮮出兵、毛利元就の厳島合戦等多くの船団が集結したと伝えられる。 |