最近思う。
シェアする気持ちが大切であると。
人から良いことを聞いたら、それを他の人にも伝えていく。
自分の所で止めるのではなく、そこから更に多くの人達にシェアしていく。
これが人の為に自分を使うって事の、第一歩だと思う。
ただ、誰にでも伝えれば良いって話ではない。
闇雲に人に伝える事は、逆にその人の為にはならない場合もある。
その人にとって、今必要かどうか判断すること。
これを忘れてはいけない。
大切なのはあくまでも、人の為になるかならないか。
それを踏まえた上で、良いと思うものはシェアをする。
これが大事だ。
要するに、ケチではいけないという事である。
今日、ちょっと驚きのニュースを見た。
長年検討され続けてきた、放射性廃棄物の廃棄場所。
その場所に、とある町が自ら手を挙げたのだ。
高知県安芸郡東洋町。
僕の出身県である高知県の田舎町だ。
放射性廃棄物とは、原子力発電所などから出る放射能を浴びたゴミのこと。
それらの廃棄方法というのが、地中深くに何層にも防壁された空間を作り、そこへ埋めてしまうというもの。
つまり僕の出身県である高知県の地中深くに、日本中から集められた数万個ともいう放射性廃棄物が、一気に埋められてしまうという事だ。
町長の独断で決められたこの提案に対し、当然のように地元住民は猛反対。
どういう意図でそのような決断をしたのかよくわからないが、僕にも住民の不安な気持ちはよくわかる。
そもそも放射性廃棄物の埋葬処理自体、日本では初めて試される事。
どこまで安全性に信頼があるのか、誰もが心配するところなのである。
大規模な地震がきた場合、地中に埋められた放射性廃棄物には、どれだけの影響があるのか。
まったく影響がないと、自信を持って言えるのか。
過去に前例がないだけに、やはりその信頼性は懸念される。
家族がいる高知県ないだけに、その問題も他人事ではないというのが正直なところだ。
環境問題でゴミ拾いに取り組む人がいる傍ら、とんでもないゴミ拾いをする人もいるんだなーと純粋に思った。
大丈夫か東洋町。
岐路に立った時。
いつも現れて、僕に様々な影響を与えてくれる人がいる。
もちろん良い影響をだ。
現れたと言っても、偶然ゆっくり話しをする機会があったってだけのこと。
しかしタイミングよく、いつもその人は僕の前に現れてくれる。
学生時代に実業団チームに行きたいと思ったのも、その人と話をしたのがキッカケ。
陸上を辞めて俳優を目指す事を決めた時も、とりあえずこんな事したら?ってアイデア出してくれたのもその人。
結果的に全て、僕にプラスの影響を与えてくれている。
僕の周りに何人かいる、恩人のうちの1人だ。
今日、大学の後輩から進路相談の連絡がきた。
僕はそいつに、明日箱根で温泉でも入りながら、ゆっくりお話しようともちかけた。
今日の明日で、しかも箱根。
さすがに断られると思った。
しかしそいつは二つ返事でOK。
僕はそいつのフットワークの軽さにやや驚いた。
しばらくして別の人から電話がきた。
例の恩人である。
偶然にも、僕に進路相談してきた後輩に久しぶりに電話してみたら、明日僕と温泉に行く事を聞いたらしく、それでわざわざ連絡をくれたのだ。
本来はとても多忙な方。
だけどその日は偶然予定が空いていたらしく、軽い気持ちでお願いしたら一緒に温泉に行ってくれる事になった。
その人のフットワークの軽さにも、僕は驚いた。
普段なかなか逢う事のない3人が、急な誘いに乗ってブラッと箱根の温泉へ行く事になったのだ。
いつも連んでいる訳でもなく、久しぶりに連絡取り合っただけの3人。
しかも前日の夜の電話で、急きょ動けるタイミングの良さ。
何かわからないけど、僕は不思議な縁を感じた。
後輩の進路相談のタイミングに、僕の恩人は偶然にもまた現れたのだ。
僕の時だけにとどまらず、後輩の時までも。
偶然にしては出来過ぎてるなと思った。
きっとその人は、人を導く力を持っている人なんだと思う。
それを世の為人の為に使う事を、任されてる人なんだと思う。
だから周りの友達が本当の岐路に立たされた時、道しるべ役としてタイミング良く現れてくれるのだ。
それが例え、ご無沙汰な関係になっていたとしても。
本人の意志とは関係なく、それぞれが導かれていくように、再び出逢えるようになっているのだ。
僕はその人に人生の行く先を示してもらったおかげで、今ここにいる。
不思議な感じだが、きっとそーゆー縁の力ってあるんだと思う。
そう考えるとその恩人にも、縁を作ってくれた神様にも、感謝の気持ちでいっぱいだ。
出逢わせてくれて、ありがとうである。
男は誰でも、強いものに憧れる。
強い自分を夢見ている。
時には、自分は強いと去勢を張って見せたりもする。
だが本当に強い人は、自らの強さをアピールしない。
無駄に強調したりしない。
必要な時に必要なだけ、その力を発揮する。
そこら辺は犬と一緒。
弱い犬ほどよく吠える。
無駄吠えは、心の弱さの表れなのである。
逆に本当に強い人は、自分の弱さを知っている。
自分が弱い人間である事を、他の誰よりも知っている。
ウルトラマンだって3分しか戦えない弱点を知っているからこそ、あそこまで強い。
3分で倒さなければ、街が怪獣に破壊されてしまう訳だ。
だったら3分で倒す強さを身に付けないと、怪獣とは戦えない。
だから強いのだ。
どんな強敵だって、たったの3分で倒してしまうウルトラマンの強さは、まさに男の憧れである。
己の弱さを知り、それを補う強さを身に付ける。
弱さをたくさん身に備えた僕が思う、強い男になる秘訣である。
僕の生活から無くなったら困るもの。
真っ先にあがるのがパソコンだ。
多分家が火事になったら、一番最初に手に取ると思う。
冷静に考えたら、他にもっと優先的に持って逃げなきゃいけない物があるはずだ。
保険証、印鑑、パスポート、通帳やカード類など。
いわゆる貴重品である。
しかし僕の場合、冷静に考えて出てくる物がそれで、真っ先に出てきたのがパソコンなのだ。
理由は単純。
普段の生活で一番使用頻度が高く、持ち運びに優れる高価な物だからである。
僕の生活基準の中でパソコンの使用頻度と言えば、毎日使う歯ブラシと同等かそれ以上。
暇さえあればパソコンの前に座っている。
テレビと天秤にかけても、パソコンと答えそうである。
しかし冷静に考えたら、実は無くて今すぐ困る物でもないのだ。
仕事のデータが入っている訳でもないし、インターネットだって携帯のPCサイトビュアーで事足りる。
ただ使用頻度が高いから、必要だと思い込んでいるだけなのだ。
そうなると本当に必要な物って何なのか、ちょっと考え込んでしまう。
火事だったら確実に逃げ遅れである。
僕にとって本当に必要な物。
失ったら取り戻せない大切なもの。
よーく考えたら出てきた。
思い出の品である。
僕のこれまで歩んできた軌跡。
それを証明する物たちだ。
写真や記念品、思い出の品の数々…
それらが一番必要な物なのかもしれない。
無くなった事を考えたら、今の自分のテンションを保てるか不安である。
大切なものって、ぬるい生活送ってたら本当にわかりづらい所にある。
そんな事を冷静に考えてしまうのだ。
僕はリズムを大事にする。
陸上競技の現役時代。
走りながら、腕振りでうまくリズムを刻んでいた。
体をなるべくリラックスさせる為である。
リズムをとると余計な力みが抜け、体に疲れが溜まりにくくなる。
意図的にではなく、変な違和感を感じるのが嫌で、心地よい感覚ってのを体が自然に覚えたのだ。
自分が楽でいられるリズム感である。
ちなみに僕は、文章を書いていく際も、リズム感を大切にしている。
流れで読んでいて、変な違和感を感じると物凄く気持ちが悪くなる。
内容うんぬんよりも、むしろそこを大事にする。
スッキリする流れが出来るまで何度も読み返す。
多分、僕なりの気持ち良いリズム感があるのだろう。
出来上がった時はかなりスッキリする。
心地よいリラックスが生まれる。
過去のブログを読み返してみてもそう。
僕なりのリズム感がとれていて、まとめてみると気持ちがいい。
ちょっとしたマスターベーションである。
最近なくし物が非常に多い。
サングラス、パーカー、ピアス…
お気に入りの物を、立て続けになくしてしまった。
別に勝手になくなった訳ではない。
100%僕の不注意だ。
どっかに忘れてきたり、酔っ払って落としてきたり。
我ながらお恥ずかしい話だ。
しかし不注意とは言え、こうも立て続きに物をなくすのは、僕でも珍しい出来事。
何か意味でもあるのだろうか。
そう考えてしまうのが僕のクセだ。
ちょっと考えると、答えは簡単に出てきた。
身代わりになってくれたのだ。
あのサングラスもパーカーもピアスも。
僕がなくしてはいけない、大切なものの代わりになくなってくれたのである。
なくしてはいけない大切なものとは、まあ人それぞれだ。
僕にとっては、仲間や仕事がそれにあたると思う。
まあ完全なる思い込みではあるが、そう考えるとなんか嬉しい気持ちになる。
守ってもらったような、そんな気持ちになるからだ。
なくしといて何だが、心からありがとうである。
夢を描いて生きる人生。
僕はこれほどの生き甲斐を感じる人生なんて、他にはないと思っている。
やりたい事、なりたい自分…
今から真剣に頑張れば、もしかすると10〜20年先には辿り着いているかもしれない。
生きている以上、可能性は無限大。
そんな輝かしい未来を想像すると、心が弾んでワクワクするのだ。
そしてそんなワクワクを実感した瞬間、僕はとても幸せを感じる。
人生って本当に素晴らしいと思える。
だから僕はおこがましくも、この仕事を通してたくさんの人に、夢を描くことの素晴らしさを伝えていきたいと思うのだ。
世の中が夢や希望に満ち溢れたらと思うと、僕の心はワクワクする。
僕のやりたい事の一つでもある。
自分の夢や目標。
そいつを一つの点に例える。
次に今現在の自分。
こいつも点に例える。
今の自分と、将来なりたい自分。
点と点で見れば、簡単に線で結ぶ事ができる。
線が引ければ、あとはそれに沿ってゴール地点を目指すだけ。
簡単な事である。
こうして考えれば、夢や目標を叶えるのは案外難しい事ではない。
自分の立っている点から、立ちたい点に進めばいいだけなのだから。
でもやはり夢や目標を叶えるのは、簡単な事ではない。
何が難しいのか。
それは点を書く作業にあると思う。
ゴール地点となる夢や目標は、誰にでもある。
これは簡単に書ける点だと思う。
だがスタート地点となる今現在の自分。
これは簡単に書けない。
今現在の自分は、はたしてどこに立っているのか。
自分って何なんだろうか。
自分自身を本当のところで理解していないと、書けないのが今現在の自分なのである。
自分とは何か。
何の為に生きているのか。
あらゆる事を理解し、あらゆる自分と向き合う事ができれば、スタート地点は見えてくると思う。
自分を知るって事は、本当に大事である。
デビューしてから2年ちょい。
応援してくれるファンの皆さんや、たくさんの関係者の方々のおかげで、この2年で様々なお仕事を経験する事ができた。
舞台をたくさん経験させて頂いた1年目。
ドラマの現場で様々な勉強をさせて頂いた2年目。
全部、その時の僕にとって必要であったお仕事ばかり。
本当に有り難い事である。
3年目に入る今年。
現在撮影中のドラマが終わったら、ミュージカルに出演する。
僕のデビュー作品、ミュージカルテニスの王子様だ。
僕の原点である。
何事もそうだが、原点を忘れず、原点を振り返るのは大切なこと。
今回のそれ。
きっと今の僕に何か必要だから、原点を振り返る機会を与えてくれたんじゃないか。
僕はそんな風に思っている。
有り難い話しである。
だから僕は、初心に返ったつもりでミュージカルを頑張ろうと思う。
演じる事を存分に楽しもうと思う。
今朝、久しぶりにジョギングをしてみた。
目的は体力作りでもなければ、ダイエットでもない。
ゴミ拾いだ。
ビニール袋片手にジョギング。
走りながら、とりあえず落ちている空き缶を拾ってみようと思った。
袋はあっと言う間に一杯になった。
ホント、あっと言う間にだ。
気にしてみると、そこら辺ゴミだらけ。
家の近所にも関わらず、恥ずかしながら今まで気付かなかった。
本当にゴミだらけだ。
タバコの吸い殻、空き缶、空き瓶、ペットボトル、コンビニのビニール袋…
ありとあらゆるゴミが、道の端に捨ててある。
拾いながら、僕はゴミを捨てる人の事を考えてみた。
地球温暖化なんて所詮、他人事。
そんな風に思う日本人の姿を想像してしまった。
心ない姿である。
海外で、島が一つ水没しかけているニュースを見た。
他の国の二酸化炭素のせいで我々の街がなくなってしまう。
街に住む人の声だ。
悔しいが、言われて当然だと思う。
家の近所を見ていたら、言い返す言葉もない。
これが現状なんだなと改めて感じた。
僕等はこの問題を、想像している以上に大きく受け止める必要があると思った。
知らない所で被害を受けてる人達が大勢いる事を、僕らは知らなければいけないと思ったのだ。
またゴミ拾いをやろう。
そんな風に僕は思った。
最近、都市伝説にハマっている。
都市伝説とは現代に発祥した、根拠のない噂のこと。
有名な話しで言えば、少し前に流行ったトイレの花子さんやミミズバーガーなんかがそれだ。
これらは、ほんのごく一部。
世の中には本当に面白く、興味深い都市伝説が他にもたくさん存在する。
僕が都市伝説にハマった理由。
それは話しの不明確さにある。
都市伝説とはほとんどの場合、友達の友達から聞いた噂として自分のところに流れてくる。
近いところから聞く話しってのは、不思議と真実味を帯びる。
その為、信憑性も高くなり半分くらい信じてしまう。
だが半分はやはりデマじゃないかと、勘ぐってしまう。
その真実かどうかわからないところが、謎めいていて非常に面白い。
もし本当だったら…
そんな事を考えるとワクワクするのだ。
子供の頃の冒険心に、火がつく感じである。
たぶん嘘だと思うけど、真実であってほしい。
そんな期待感に心弾ませている訳だ。
血気盛んな子供時代に、男なら誰もが夢に描いた大冒険。
だが今さら世界中を巡る冒険なんて、僕には到底出来やしない。
そんな僕にはピッタリなのが都市伝説。
現実の中でも味わえる、男のロマンなのである。
一生懸命になったり、バカな事したり。
マジメに生きたり、やんちゃ者だったり。
良い部分も悪い部分も含め、人間はいろんな自分を持っていていいと思う。
いろんな生き方があっていいと思う。
ただ人としての筋だけは通すようにしたい。
生きていく上で大切なところは、しっかりと理解しておかなければいけない。
それが人間のワガママが許される、最低限の条件な訳だから。
人が人である為のルールな訳だから。
筋は大事である。
携帯電話の発信・着信履歴。
そしてメールの送信・受信履歴。
ここを眺めていて、最近ふと気付いた事がある。
電話やメールのやり取りが、特定の友達に偏っているのだ。
50件の発信・着信履歴が残るのに対し、人の数は15人くらい。
連絡のやり取りが、同じ人ばかりに偏ってるのがよくわかる。
言ってしまえばサボり。
楽な友達付き合いばかり選択してきた証拠である。
人生には頑張る人付き合いってのも必要だ。
楽な人だったり難しい人だったり。
いろいろな刺激の中で、人は磨かれていくものだから。
けして楽な関係だけではダメなのだ。
サボっているかどうかは、携帯電話の履歴をチェック。
今の交友関係が、わかりやすい形で見えるだろう。
とりあえずは履歴50件に対し30人。
頑張って動こうと思う。
2月14日バレンタインデー。
国民的行事のこの日、年間消費量の4分の1のチョコレートが消費される。
チョコレートに限ったプレゼントの習慣は日本だけらしく、欧米では普通にバラや宝石などのプレゼントもするようだ。
女性から男性にチョコレートを送るバレンタインデーに対し、男性から女性にお返しという形でアメやマシュマロを送る習慣がある。
3月14日ホワイトデーだ。
こちらも日本が発祥らしく、近年では台湾や韓国でもホワイトデーの習慣は一般的となっている。
ここまでは一般常識で、ここからが新しい知識。
4月14日。
何の日かご存知だろうか。
恋人同士でオレンジをプレゼントし合う日。
オレンジデーである。
欧米でオレンジは多産のシンボルとされ、新婚のカップルに贈るものとされている。
そこに目を付けた愛媛県の企業や団体が、オレンジを贈り合う事で互いの愛を確かめ合う日として、日本記念日協会にオレンジデーとして登録したのが始まりだ。
馴染みはまだあまりないが、とても素敵な記念日だと思う。
こういった良い記念日は、是非とも認知度が上がって習慣化されてほしいものである。
しかしながらお隣の韓国には、同じ4月14日にとんでもない記念日がある。
バレンタインデーやホワイトデーにプレゼントを貰えず、そのまま恋人が出来なかった者同士が黒い服を着て集まり、チャヂャン麺という黒いあんのかかった麺料理や、ブラックコーヒーを飲食する日だ。
その名もブラックデー。
日本のオレンジデーとは対照的に、まるで傷口に塩を塗り込むような感じの記念日である。
韓国人は自らに対し、やや厳しいと感じるのは僕だけだろうか。
まあ国民性の違いなのだろう。
ただ僕は日本人で良かったと思う。
韓国人だったとしたら、きっとチャヂャン麺が嫌いになっていただろうから。
僕は日本人がちょっと好きになれた気がする。
人生がちょっと上手くいってないなーと感じた時。
よーく自分を振り返ってみる。
自分の為にばかり、自分を使っていないだろうか。
心の矢印が内側に向いていないだろうか。
よーく振り返ってみる。
わからなければ、それでもいい。
とりあえず矢印を外へ向けてみる。
人の為に自分を使ってみる。
世のため人のためになる事を、自分なりに考えて実行してみるのだ。
きっと心地良い気分に満たされる。
やる気のエネルギーも充電されるだろう。
上手くいってないなーと感じる人生も、そこからもう一度仕切り直し。
きっと上手くいってるなーの人生になるはずだ。
僕の私服はドクロのモチーフが多い。
Tシャツもニット帽も指輪も。
ドクロマークだらけである。
一見、印象があまり良くないこのマーク。
実は世界平和を唱えるメッセージが込められている。
「人間、皮を削いで骨だけになれば皆同じ」
人間には、人種や国籍といった争いの種になる問題が山ほどある。
しかし本をただせば、人間なんて皆同じではないか。
そんな意味が込められているのだ。
正直、僕も最近まで知らなかった。
ただファッション性だけを重視して、ドクロマークを着用していたのだ。
確かに僕自身、ファッション性を除けばドクロに対しての印象は、あまり良いものではない。
それが本音だ。
しかしきちんとした意味を知った今、ネガティブな印象は消えて、スッキリした気持ちになっている。
前よりちょっと前向きに、服を着れている自分もいる。
意味合いがあるだけでこれだけ心が満たされるなんて、僕自身の単純さに驚かされてしまう。
しかしそんな自分で良かったと思う。
やはり意味を知っているのと知らないのとでは、大違いだと思うから。
外を歩くのも、胸を張って歩きたいから。
知っとけて本当に良かったと思う。
最近懐メロにハマっている。
時期的には、小学生から高校生くらいまで。
年代にすると90年代。
とにかく思い出される懐メロを、片っ端から探し出しては聴いている。
不思議なもんだ。
昔の曲を聴くだけで、忘れてた当時の思い出が鮮明に蘇ってくる。
蘇ってくる思い出も曲によって様々だ。
学校の教室、実家の台所、遠征中のバスの中。
曲によって様々な場所やシチュエーションが、絵となってそのまま浮かんでくる。
まるでいくつかの銀行に、預金を振り分けて入れているような、そんな感覚だ。
言い替えれば、懐メロとは思い出バンク。
僕の思い出を保管する、とっても大切な銀行だ。
掘り返すって作業はなかなか楽しい。
僕なりに最近ハマっている、音楽の楽しみ方である。
新しい事を学ぶには、まず動く事が大事だと思う。
待っていて得るものは少ない。
自らが積極的に動く事で、様々な新しい知識を得られるのである。
動くとはつまり、外へ出ること。
外へ出てたくさんの人と出逢う事が、新しいものを学ぶ機会となる。
面倒臭い気分だったり、出掛け辛い環境にいたり。
人によって色々あると思う。
しかしどんな状況にいても、すぐに動けるフットワークの軽さ。
何よりもまずは、そこを大事にしたいところなのである。
例えば傘。
このハイテクなご時世に、雨を防ぐ方法がいまだに傘。
骨組みで支えている防水加工された布を手に持って差し、物理的に雨から身を守るこの手段。
少なくとも江戸時代辺りから、まったくと言って変わっていない。
400年以上も進歩なし。
変わったとすれば、素材がビニールや金属に変わったくらいだ。
ものすごい発展技術の遅れである。
駕籠(かご)が自動車へと進化したように。
傘だって今頃、雨だけを防ぐバリアーみたいな物になっていても、おかしくはない。
進化の割合でいけば、そうなっているのがむしろ当然だ。
だが400年以上も、大した変化を遂げていない。
これはもう、思いつく理由が一つしかない。
発明されたあの姿が、もう既に進化の最終形態だったという事だ。
だとしたら発明した人は、歴史に名を残すものすごい天才である。
だって、この数百年の間に生まれた偉人達にも、「雨を防ぐ=傘を差す」の常識を覆す事が出来なかった訳だから。
何百年も当時の形を維持する発明なんて、スゴイとしか言いようがない。
発明したのは一体、誰なんだろう。
そう言えばあまり聞いた事がない。
置き忘れ率No.1の傘だけに、発明者もやっぱり忘れられているのだろうか。
だとしたら、ちょっと悲しい事である。
近い将来、傘を新しい形で生み出す人が現れれば、是非きちんと歴史に名を刻んであげてほしい。
誰もが忘れないくらい印象的にだ。
多少、傘の置き忘れも減るかもしれない。
「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ」
箱根駅伝で有名な山梨学院大学陸上競技部、上田監督の言葉である。
現役時代、ケガで走れなくなる度に、この言葉を思い出して地道な筋トレに励んでいた。
陸上競技を辞めた今でもそれは同じ。
花を何と捉えるかは人それぞれだが、根を伸ばす作業ってのは皆同じ。
つまり努力を重ねる事である。
仕事でもスポーツでも何でもそう。
自分なりの根を伸ばす作業。
そいつを見つけて、コツコツ地道に取り組むこと。
それが何よりも大切だ。
春にはきっと、素晴らしい花を咲かせているだろう。
それも他にはない、自分だけの特別な花をだ。
僕はこの泥臭い感じのする、根を伸ばす作業が大好きである。
どんな花が咲くのか、ワクワクして仕方がないからだ。
今年は暖冬の為、例年よりも早い段階で花粉が飛んでいる。
流行りものには敏感で、僕の鼻は既にジュルジュル。
くしゃみも連発するような状況にいる。
しかしコイツを、僕はいまだ花粉症とは認めていない。
何故なら認めた瞬間に僕は今後、半永久的に花粉症という病を背負って、生きていかなければいけない事になる。
そしてきっと認めた時点で、僕は今よりももっと酷い鼻水、くしゃみ、目の痒みに襲われるであろう。
病は気から。
気持ち一つで軽くも重くもなったりする。
だから認めない。
僕のこれはただの季節感。
春の訪れを感じる、一つの感覚の表れでしかないのだ。
まあ、五月病みたいなもんである。
解りづらい例え方かもしれないが、けして負け惜しみではない。
物事を決める上での判断基準。
人や状況によっても様々だ。
例えば会社を選ぶとき。
判断基準は給料、職場の環境、企業理念や方向性。
目に見えるわかりやすい判断材料で、決める事が一般的と言える。
人を選ぶときもそう。
見た目の良さ、性格、スキル、経済力などなど。
挙げればきりがないくらい、状況や人によって判断の材料はたくさんある。
その中でも一つだけ。
決定的と言えるであろう判断基準がある。
勘だ。
僕は何よりもコイツを大切にする。
真っ先に働かせる。
働かせるというよりは、自然に働いてしまうと言うべきか。
頼りなさそうだが、最終的に信じられるのは己の勘のみ。
だったら僕は、それを最も大切にしたいと思うのだ。
なんだかんだで今までもこれからも。
勘だけを頼りに、道を決めていくつもりだ。
今週、妻が浮気します第4話の試写会イベントが行われた。
参加したのは一般から集められた人妻80人。
そこへトークバトルという形で、沢村一樹さん、ともさかりえさん、そして僕がゲストとして参加した。
ファンじゃない一般の女性80人。
しかも人妻。
形としては今までに経験のない、新しい雰囲気。
そこでの立ち位置の模索や、振りの返し方。
短時間で考えて、即実行に移していかなければいけない、スピーディーな環境。
暖かく見守られている普段の環境とは、明らかに違う空気だ。
自分を試すにはちょっと勇気のいる環境。
だがそれはドキドキを味わえる、ちょっと楽しい環境とも言える。
知名度の低い今しか味わえない、この特別なドキドキ感。
僕にはとても良い刺激だ。
僕を知るファンの皆さんが集まるイベント。
反対に、僕を知らない一般の方が集まるイベント。
同じイベントでも、人が変わるだけで立ち位置がまるで変わってくるから面白い。
ファンクラブイベントも含め、今後もいろんな形のものに挑戦したいと思う。
いろんなドキドキを味わってみたいと思う。
イベントは生のやり取りが出来る、唯一の場。
僕は大事にしていきたいのだ。
例えば、自分の良い所を10個あげろと言われたとする。
多分、ちょっと考える時間が必要。
次に、自分の悪い所を10個あげろと言われたとする。
多分、スラスラと出てくる。
試しにやってみるとわかると思うが、良い所が出づらいのに対し、悪い所はとても出て来やすい。
不思議である。
誰もが自分の事を悪く思われたくないはずなのに、自分自身が誰よりも自分を悪く思っていたりするのだ。
すごく矛盾していると思う。
「自分の事を低く言うのが作法」
みたいな日本人特有の性質が、身に付いてしまっているせいか。
自分の良さを、堂々と人に言えない自分が、少しずつ出来上がり始めている。
そして、自分の良さをハッキリ言える人が変みたいな空気も、出来上がり始めている。
自分の事をよく知っているのは、他でもない自分自身。
自分の良さを人に委ねる人生なんかより、自分で認めて堂々と歩む人生の方が僕は好きだ。
とりあえずは良い所100個。
スラスラ言えるような人生にしてやろうと思う。
最近かなりハマっている。
何時間も個室に閉じこもって、ひたすら漫画を読んでいる。
インターネットがあり、テレビがあり、ゲームがあり、DVDがあり。
住もうと思えば、1ヶ月くらい住めそうな快適空間。
あの狭い空間には、男心をくすぐる何かがある。
何故だかわからないが、入った瞬間にワクワクする。
それはかつて経験した営業マン時代に、仕事の合間にサボリで入った漫画喫茶のワクワク感とは訳が違う。
もっと昔に感じたワクワク感だ。
ずーっと昔のガキの頃。
漫画やら食料を持ち込み、ダンボールや枯れ木だけで作り上げた、僕らだけの快適空間。
そう、秘密基地だ。
漫画喫茶の個室は、子供の頃に遊んだ秘密基地によく似ている。
広さもちょうど同じくらい。
そこには周りの世界を遮断した、僕らだけの秘密の世界がある。
大人が立ち寄れない、子供達だけの世界がある。
漫画喫茶の個室はまさにそれ。
大人になった子供が、自分だけの世界に浸れる秘密の世界だ。
壁に囲まれた狭い個室。
大人になった今では少々窮屈な場所である。
しかしあの窮屈さが、不思議と落ち着きをもたらしてくれる。
秘密基地に広さはいらない。
必要なのは子供心を満たす、遊び心とワクワク感。
そういう意味では、漫画喫茶の個室には大人の僕らを満たす要素がたっぷりある。
まさに大人の秘密基地だ。
服でも車でも何でもそう。
外へ出ると汚れがつく。
気を付けていても、必ず汚れる。
汚れは放っておくとシミになる。
だから時々、洗濯や洗車が必要となる。
心も同じ。
外でいろんな人と付き合い、いろんな出来事を経験するうちに、いつの間にか汚れてくる。
必ず汚れてくる。
汚れを防ぐのは難しい。
どんなにエライ人でも、汚れは必ず身につくと思う。
この汚れもやはり、放っておくとやっかいなシミとなる。
取るのが難しくなる。
だから人も洗濯が必要となる。
心の洗濯だ。
素直さ、謙虚さ、感謝の気持ち。
こうした事を大切だと思える、心のコンディション作り。
それを自分なりに見つけて、時々自らで調節してあげる事が必要となる。
これが心の洗濯だ。
いつも心は清く正しく美しく。
豊かに生きていく為にも、心のキレイさを保つ事を、人生では心掛けなければいけない。
面白い舞台を観た。
「TATSUYA〜最愛なる者のそばへ〜」で共演した、鈴木省吾さんがプロデュースする舞台。
『12人(twelve)〜「12人の怒れる男」より〜』である。
内容はアメリカの陪審制をテーマにしたもの。
陪審制とは、一般市民から選ばれた12人の成人男女が、法廷で陪審員として事実認定と被告の有罪無罪を決める制度。
つまり一般市民が裁判に参加して、有罪無罪を決める制度だ。
アメリカやイギリスで運用されているこの制度。
今現在、日本では導入されておらず、舞台はアメリカを設定としたものだった。
これには原作となる作品がある。
サブタイトルにもなっている「12人の怒れる男」だ。
アメリカ映画で密室劇の金字塔と評価された名作らしい。
この作品を原案にしている作品は、他にも三谷幸喜さんの「12人の優しい日本人」なんかがある。
いずれも、ほとんどの出来事がたった1つの部屋を中心に繰り広げれている。
脚本が面白ければ、場所など関係ないという例にもよく出されているらしい。
それくらい延々と台詞だけをやり取りする、動きや転換の少ない作品なのだ。
とにかく本が本当に面白かった。
もちろん演出も出演者も素晴らしかったが、本の魅力をここまでストレートに発揮している作品には、僕は今までお目にかかった事がない。
のめり込む感覚は、先日観た「それでもボクはやってない」に近い感じ。
けれど場面転換がない上に、飽きたら眠くなるというデメリットを背負う舞台で、ここまでのめり込ませるのはかなりスゴイこと。
観て良かったと、心から満足を感じる素晴らしい作品だった。
もしお時間ある方は、日曜日までやっているようなので、是非観てもらいたい。
僕はかなりオススメする作品だ。