奥宮健之が大逆事件に巻き込まれ、処刑されたのは『東京監獄』です。新宿の曙橋から緩やかな坂を登りきり、少し歩いた左手のところに《余丁町児童遊園》という小さな公園があります。その公園に繋がって奥に《富久町児童遊園》という変形の公園があります。その辺一帯が処刑された場所と言われています。 処刑された1911年当時はまだ『東京監獄』という名称で、後に市ヶ谷刑務所と言われるようになったそうです。 参照(http://d.hatena.ne.jp/futei/20080125/1208756328) 大きなイチョウの木の横に、ブロックで囲まれた碑が建てられています。 1964年に森長英三郎さんが日弁連有志に刑死者の慰霊塔建立を呼びかて建てられたそうです。ここで死刑を執行せられた者は290名に達するとのことです。 権力にまつろう事をしなかった為に殺された人たち。その魂は、まだこの付近に漂っているはずです。碑は、思ったとおり明るく輝いてはいない・・・ 奥宮健之は、大逆事件そのものに関わったわけではない。大逆事件では、宮下太吉が 爆裂弾を作成、保管、試験を行った。今で言う花火程度のしろものだったが…… 奥宮健之は幸徳秋水に依頼を受けて、元自由党員の西内正基(自由党時代に爆裂弾の製造を担当して、調合中の薬品が破裂したため、右目が失明している。(佐木隆三著 「小説大逆事件」P257より)より「鶏冠石四、塩素酸カリ六」の比率であることを聞きだしており、これを幸徳秋水に話をした。この内容は新村忠雄を通じて、宮下太吉に伝えられたようである。宮下太吉は この配合でもって 爆裂弾作成に成功したらしい。単にそれだけの話である。今では、百科事典に記載されている程度の情報でしかない。 碑の正面に二つに分かれる滑り台があった。ブルーとピンク色に塗り分けられて、あたかも「死」と「生」の選択肢を強制されるがごとくに感じられた。 |
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