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二月十一日
 すみだトリフォニーホールで、ブリュッヘンと新日本フィルのロンドン・セット演奏会第一回を聴く。
 いかにも交響曲らしくなる百番以降と違って、合奏協奏曲的な箇所が残っているのが、ナマで聴くとよくわかって興味深い。
 あとで十二曲のメヌエットのどれかを演奏されても、正確に番号を当てられるのはきっと安田和信さんぐらいだろう、なんて無責任な話を、休憩中に片山杜秀さん、満津岡信育さんと交わす。
 このあとも二十八日まで、四回すべて聴く予定。

二月十四日
 オペラシティコンサートホールで、ラファウ・ブレハッチのピアノ・リサイタルを聴く。
 グラモフォンから出たウィーン古典派のソナタ集の、軽やかなリズム感がとてもよかったので期待して聴きにいったのだが、主張の見えにくい単調な演奏。このホールはピアノが単色に聞こえる印象があるので、それもあるのだろう。
 九日に聴いたベルリン放送交響楽団の演奏会でも、ベートーヴェンの協奏曲第四番での解釈は上滑りしている印象だった。そのときはヤノフスキとのスタイルの齟齬かとおもったのだが。
 まだ若い。響きそのものは好きなタイプなので、後日に期待。

二月十九日
 『東京の消えた地名辞典』(東京堂出版)なる本を書店で見つけて、谷町の地名を調べようと読んでみた。
 そこで偶然、市ヶ谷監獄、なるものがあったことを知る。
 旧幕以来の小伝馬町の牢屋敷に代るものとして明治初年につくられ、周囲の市街化で新設の巣鴨刑務所に移る大正初年まで、つかわれていたという。
 市ヶ谷、というと郊外育ちの人間は反射的にJRの市ヶ谷駅周辺を考えてしまうのだが、現在の地名は市ヶ谷台町、つまり都営新宿線曙橋駅、住吉町交差点の西北にあったという。かつての市ヶ谷谷町の、西側の山の上だ。うちのすぐ近くなので、興味がわいてネットで検索。地図などいろいろと紹介されていた。
 いま、住吉町交差点と抜弁天を結ぶ放射六号という、片側二車線のだだっ広い直線道路ができており、その北半分が余丁町、南半分が市ヶ谷台町である。その台町の部分が、ほぼそのまま市ヶ谷監獄の用地だったらしい。
 驚くと同時に、少し納得。
 抜弁天に猫の病院があるので、診察などの用事で放射六号はよく歩く。一面の住宅地だが、古い町にしては雰囲気のない、家が建てこんで用地に余裕のない様子を、以前から不思議に感じていたからだ。それが監獄の跡地だったとは。
 さらにあるサイトを見ていて、放射六号近くの、富久町児童遊園こそがかつての刑場跡だと知って、関心が黒雲のようにふくらむ。
 絞首刑場のほか、明治十二年までは江戸時代式の斬首場もあった。幸徳秋水たちが絞首刑になり、毒婦高橋お伝が首斬り浅右衛門によって斬首になった場所。
 この事実を知ったのが午後三時。すぐに向えば日没までに充分に歩き回れるので、仕事を放りだして家を出る。

 放射六号沿いに余丁町児童遊園があるのは、以前から気づいていた。
 それなりに広く、子供がよく遊んでいる。しかしその裏に、地続きで別に「富久町」児童遊園があるとは、知らなかった。刑場跡は、その富久町児童遊園の方だという。その名称にもかかわらず、住所が富久町ではなく余丁町四であることも、何やら因縁がらみ。
 靖国通りから上り、監獄西側の境とおぼしき住宅街の道をたどり、到着。
 たしかに不思議なつくりだ。地続きの児童遊園なのに、その一画だけ用地が張り出して、段差があって下がっている。しかし名称は低い柵に小さく書かれているだけだから、二つが別の公園であることに気がつく人は少ないのではないか。
 そうして、その隅にたしかにあった。

東京監獄市ヶ谷刑務所 刑死者慰霊碑

 監獄跡地がすべて宅地化されても、さすがにこの一画はどうにもならず、空き地のままだったのか。
 それが児童遊園になった。刑場跡が児童遊園。無邪気に遊ぶ子供たち。まあ、土地を浄化するにはこれがいいのかも。

 曙橋…。谷町に続き、今度は監獄。
 さらに永井荷風は、大正初年に『日和下駄』を書いたころ、大久保余丁町七十九番地にある父の邸宅に同居していたらしい。これは現在の余丁町十三のあたりで、市ヶ谷監獄の斜め向いだ。
 この地域は、どうもとても面白い。
 以前、ここの歴史的経緯など何も知らないだろう人がブログに「山手線の中なのに、仕事で曙橋に来ると、なぜか地の果てに来たみたいに感じる」と書いていたのを読んだことがある。
 たしかに妙に殺風景で、戦後になってひらけた郊外の、大きな国道沿いの風景みたいな印象があるのだ。私みたいな郊外育ちにとっては、だからこそ、ある種の親近感――近親憎悪的感情も含めて――が湧くのだけれども。
 このあたりの靖国通りも台町も、その姿になってからの歴史が古くないことを思えば、この印象は、あながち外れではなかったわけだ。

 ところでふたたび、市ヶ谷監獄。この用地は旧幕時代、ほぼそのまま備中松山藩板倉家の下屋敷だったらしい。
 板倉周防守って、あれ? とひっかかって調べると、やはり京都所司代板倉勝重の家系で、幕末には、老中をつとめた板倉勝静(かつきよ)が当主。
 かれは百姓出身の山田方谷(河井継之助に大きな影響を与えた人)を抜擢して藩政を委ね、自身は幕政に没頭した。
 養子で、実は白河公松平定信の孫であり、家康と吉宗の血を引く人なのだ。その血筋を意識してか、戊辰戦争でも最後まで官軍に抵抗して函館の五稜郭まで行き、維新後は上野東照宮の宮司として徳川家への忠誠を全うした、気骨の人だ。
 一方、薩長にとっては憎き奸賊。勝静の抵抗が原因で松山藩は減封された。
 廃藩置県の後、ここを監獄に選んだのは、そういう人物の屋敷跡だということと、無関係ではあるまい。
 本来は山上の、広い台地で日当たりのいい好地なのである。立地条件の等しい近隣の仲之町や余丁町の景色を思えば、ここを監獄にするのはもったいない。たとえば一九〇二(明治三十五)年、余丁町に広壮な屋敷を構えた永井荷風の父久一郎は、日本郵船横浜支店長という名士だった。
 なのに監獄。それは、父祖に殉じた孝心への報いだったのか。
 とすれば、この土地は、恥じるどころかむしろ誇るべき歴史を持っているのではないか、そんな気もしてくる。

二月二十日
 市ヶ谷監獄の話の続き。
 昨日ネットで色々と読んでいて、どうも腑に落ちない点がいくつかあった。
 微妙に話が矛盾するのである。用地のこと、刑場跡には、その名も絞首観音なる観音像があったらしいこと、等々。
 で、もう一度よく調べてみたら、なんとこの地域には監獄が二つ、別々に隣りあって存在していたのである。
 市ヶ谷監獄と東京監獄。後者がのちに市ヶ谷刑務所と改称したためもあり、しばしば混同されているらしいのだ。

 以前から『昭和東京散歩』(人文社)という本をもっていたので、古い東京に関心が向いてからは開く回数が増えていた。一九四一(昭和十六)年の地図と現在の地図をならべて見比べられる、便利なものである。
 それの牛込區市谷富久町に、面妖な建物があった。昭和十六年には市ヶ谷監獄は取り壊されていて、普通の住宅街になっているのだが、それとは別に西隣の富久町、都立小石川工業高校あたりに、どうも刑務所らしき建物があるのである。
 なぜ刑務所と思うかというと、「大」の字のように、細長い四棟の建物が放射状に建てられている。これがかつて犬山の明治村で見た、金沢監獄によく似ているのだ。金沢監獄の方は「不」の字のように五棟になっているけれども、いずれにせよその交点、扇の要の部分に看守所を置くことで、看守が五棟の牢屋をいっぺんに見渡せるようになっているのだ。
 なぜそんなものが市ヶ谷監獄以外にあるのか、と思っていたのだが、これが東京監獄、市ヶ谷刑務所の跡だったのである。だが市ヶ谷刑務所は昭和十二年に移転しているから、四年後のこの地図ではすでに無人となり、建物だけが取り壊しを待っていたのだろう。地図に何の説明もないのは、おそらくはそのためだ。

 二監獄の履歴を較べてみる。
 市ヶ谷監獄 明治八(一八七五)年設置。明治四十三(一九一〇)年、豊多摩監獄(のちの中野刑務所、現平和の森公園)に移転、廃止。
 東京監獄 明治三十六(一九〇三)年に鍛冶橋から移転して設置。大正十二(一九二三)年、監獄官制改正により市ヶ谷刑務所と改称。昭和十二(一九三七)年、池袋の東京拘置所(巣鴨プリズン)完成により移転、廃止。

 市ヶ谷監獄は明治八年から四十三年、東京監獄は同三十六年から昭和十二年まで。つまり明治後半には、二つが並んで存在したのだ。併存期には、前者が既決囚、後者が未決囚を収容したらしい。
 そして、どちらにも処刑場があった。斬首が行われたのは前者のみで、高橋お伝はこちら。幸徳秋水の処刑は一九一一年だから、後者の東京監獄において、ということで別々の場所になる。ネットで拾った数字だから未確認だが、前者の刑死者千三百、後者三百ともいう。
 昨日行った富久町児童遊園は、後者の東京監獄の刑場跡だった。用地の北東角(つまりは鬼門だ)になる。余丁町にあるのに「富久町」なのは、東京監獄の跡地だから、ということか。
 では前者、市ヶ谷監獄の刑場跡はどこだったかというと、現在の市ヶ谷台町十三番地、放射六号が軽くクランク状に曲がるあたり、やはり用地の北東側だ。
 移転後、慰霊のために大正二年にここにおかれたのが、絞首観音という不気味な綽名の、三、四尺の観音像だった。

 ということで、今日はそちらの刑場跡を観察に行く。
 刑場があったころは、鬱蒼として高い林に囲まれていたらしいが、いまは普通の住宅地。絞首観音は戦時中に供出されたため、青峰観音という手の平サイズの像が代りに置かれ、小さな祠がある。
 左はその名も観音ビル、右はそば屋。このそば屋は一度、山の神と来たことがあった。そのときは土地の由来など、まるで知らなかったが。
 ここについては、荷風の『日和下駄』に一文がある。「閑地」の章、鮫ヶ橋の火避地、現在のみなみもとまち公園について触れた直後に出てくる。
「わが住む家の門外にも此の両三年市ヶ谷監獄署後の閑地がひろがっていたが、今年の春頃から死刑台の跡に観音像ができあたりは日々町になって行く、遠からず芸者家が許可されるとかいう噂さえある」
 明治大正期は東京の市街拡大によって三業地、二業地も増加していた。ここに「芸者家」ができれば、戸山ヶ原の軍人さんたちが上得意になったにちがいないが、それは実現しなかったようで、住宅用に分譲されたが、きちんとした計画もなく、入り組んだ狭い道や路地で結ばれた。空襲で焼けたが、戦後も同様に再建されたらしい。

 それにしても監獄の跡地が、刑場跡まで含めて普通の人家になっている例は、他に少ないのではないか。
 たとえば伝馬町の牢屋敷跡は、その後住む者もなく閑地状態が続き、結局は十思公園と小学校、そして刑場跡は大安楽寺という寺になった。鈴ヶ森と小塚原の刑場跡は、それぞれ寺院の境内になっている。鍛冶橋の警視庁にあった監獄は、いまはJR東京駅の線路用地である。市ヶ谷監獄が移転した先の豊多摩監獄は前述のように中野刑務所となり、いまは平和の森公園。池袋の東京拘置所はいうまでもなく、サンシャインシティだ。巣鴨プリズンの刑場というのはおそらく、いまの東池袋中央公園だろう(これも用地の北側)。渋谷区宇多川町にあった衛戍監獄(陸軍刑務所。二・二六事件の首謀者などがここで処刑されている)の跡地は、渋谷区役所、公会堂、税務署、小学校になっている。
 このように大概が公園か寺、公用地になっているのに、市ヶ谷は違う。
 まあ、東京監獄の方は一部が宅地とはいえ、中央部は小石川工業高校(市ヶ谷に移転したのに旧名の小石川を名乗り続けたことは、この場所の因縁と関係があるのだろうか?)で、刑場跡そのものは児童遊園になっている。ところが市ヶ谷監獄は、一面の住宅地だ。
 大正から昭和にかけ、東京の山の手地域の市街化、大衆化が急激に進んだ時代だったことが、背景にあるのかも知れない。斜面の墓地もどんどん取り払って、宅地にしてしまった時代である。
 青峰観音にお参りして合掌。隣のそば屋も、今度は食べにこよう。

二月二十五日
 昨日、ミュージックバードの番組「ニューディスク・ナビ」のために新譜を試聴していて、オリヴァー・シュニーダーというピアニストの「モーツァルト・コントラスト」なるRCAの二枚組の素晴らしさに驚いた。
 しばらく前に外盤で出ていたが、そのときはチェックしなかった。来日するわけでもないのに国内盤化する理由が何なのかは知らないが、たしかにこれは、そうしなければならない価値がある。
 調べると、他レーベルからショパンの小品集も出ている。いまなら『クラシックジャーナル』の新譜欄にちょうど紹介できる。というわけでCD店に行くと、幸いにも店頭在庫あり。勇んで購入、小躍りしながら帰る。


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