市谷監獄と東京監獄・市谷刑務所沿革及び史防見聞記
一 東京拘置所「風雪五十年」
この本を手にし読み終わった時、昭和二十八年八月に当時の小菅で拝命し、巣鴨移転時は小菅刑務所の残留組として引続き小菅勤務となったが、再び昭和四十年から三年半の巣鴨での勤務を思い出し感慨深いものがあった。その中で「座談会・第一期」最初の部分に市谷刑務所から移転の模様が書かれてあったので、自分が拝命し勤務した施設の最も近いルーツが市谷刑務所なんだと分かると同時に、市谷の何処なんだろうか?と強い関心を持った。ただ、その市谷に立つ機会を今まで作れなかった。
たまたま元矯正研修所長・水上好久氏から「市谷監獄の跡地を行刑史跡見聞記に取り上げてはどうか?、案内します」との誘いがあった。その前からも元法務図書館長・村田房雄氏に照会したり、矯正研修所図書館で調査していたので、早速、十月二七日午後、地下鉄都営新宿線・曙橋駅にて水上氏と落ち合って市谷台町・富久町一帯を案内してもらい、併せて矯正図書館まで同行して関連資料を細かく説明してもらった。それらの資料と村田氏からの資料を中心とし、感想を加えて紹介したい。
二 市谷監獄
矯正図書館に、和紙(警視魔市谷監獄署用紙)に墨で書かれた和綴じの冊子「市谷監獄沿革誌稿」が保管されていた。まず歴代の庶務係が椎書で一字一字丁寧に書いている姿が想像されて、頭の下がる思いがした。同時に、明治の時代に既に西暦によって年代を表示したことに進歩的な意欲を感じ強く心を打たれた。
「監獄ノ名称
東京ノ監獄ハ慶長八年創メテ江戸常盤橋外二設置[略]
明治八年五月廿八日市谷谷町新盤倉二未決囚ヲ収容スル三方リ之ヲ市谷谷町囚獄役所ト稼ス其後明治九年二月廿九日囚獄役所ヲ市谷囚獄署二改メ明治十年八月一日囚獄署ヲ廃シ警視癩二監獄本署ヲ殻ケ重二市谷監獄支署ヲ設置ス同年十二月廿六日己決囚ヲ収容スルニ至テ監獄第二支署ト改称ス(常時ハ内務省ノ統轄タリ)明治十四年一月十四日再ヒ警視廰ヲ置カレタルトキ監獄本署ヲ廃シ支署ヲ市谷監獄署ト改メ明治十七年八月一日復タ監獄本署ヲ設ケ市谷監獄署ヲ市谷監獄分署二改称ス明治十九年七月廿日監獄本署ヲ警視廰監獄ト改称ノトキ更二監獄市谷分署ト称ス明治廿年七月十八日警視廰監獄市谷分署二改メ明治廿四年四月二日監獄ヲ監獄本署トシ分署ヲ警視廰監獄署市谷支署ト改称ス明治廿六年四月六日警視廰監獄市谷支署二改メ明治三十年六月廿二日書視臆二第四部ヲ置カレテ支署ヲ市谷監獄署ト称ス明治三十六年四月一日監獄統轄権ハ司法省二移リ市谷監獄ト改称ス
明治四十三年参月三十一日東京府豊多摩郡野方村二移轄名稻如故
監獄名稱ノ系統
1 常盤橋外獄舎慶長八年 西暦一千六百三年
2 小傳馬町囚獄延賓五年 西暦一千六百七十七年
3 囚獄司明治二年
4東京府囚獄掛明治四年
5市谷谷町囚獄役所明治八年 西暦一千八百七十四年
6市谷囚獄署明治九年
7市谷監獄支署明治十年八月
8監獄第二支署 明治十年十二月
9市谷監獄署明治十四年
10 市谷監獄分署明治十七年
11 監獄市谷分署明治十九年
12警視廰監獄市谷分署 明治廿年
13警視廰監獄署市谷支署 明治廿四年
14警視廰監獄市谷支署 明治廿六年
15警視廰市谷監獄署 明治三十年 西暦一千八百九十七年
16市谷監獄明治三十六年
沿革地圖」
と細かく記録されている、加賀乙彦氏が「監獄は文明の象徴」として「維新以来の日本が近代国家の威信をかけて整備したのが軍隊と監承だった」(平成一二年九月三十日・朝日新聞)と言われる如く、明治国家が近代化される中での官制改正が、目まぐるしく行われていた様子が読み取れて興味深い。それだけに単なる名称だけではなく、社会の動きの中で大きく動いていた社会的な地位を自覚し、注意深く確認していく必要を痛感した。添えられていた地図には、避病室として隔離された囲いの一隅に「死刑場」の表示があった。
そして、横瀬夜雨「太政官時代」(昭和四年)によれば、
「斬首の光景
熊本豚代診士高田露氏の獄中談に,『私は長谷場純孝氏と同じに、西南の乱に興して五ケ年の禁錮を食ひ、市ケ谷に囚へられ、室頭で三年過したが、斬首の刑があると何時も見せてくれた。で私は前後二十八名の男女の斬られるのを見た。刑場は市ケ谷監療の裏手の讐蒼たる杉林の中で方五十坪ばかり黒塀をめぐらした中が地獄の辻なのである。一方に絞罪臺が淋しく聳え立ち、其聳の下が當時の極刑たる打首場であった。日も射さぬ杉の森のしかも黒塀の中であるから凄惨の氣人に迫る位である。罪なき者も一度此處へ入ると悚然として背に汗する。』」
と、その死刑場の様子が詳しく書かれ、続いて「島田一郎・高橋お傅の往生際、首斬淺右衛門の男ぶり」などの獄中談が書かれている。少なくとも明治十二年当時の死刑場が想像される。
また、留岡幸助日記(第一巻)によれば、
「市谷監獄支署
長ハ前田伝、明治世七年一月十八日午後一時ノ調。
惣四千六百五十六人。
八王子、石川嶋、市ケ谷支署。
八王寺ハ刑事被告人アリ、市ケ谷ハ刑事被告人ナシ、軽罪ト幼年囚ト女囚トノミナリ。本署ニハ幼年囚ハ層ラヌコトトナリオレリ。
別房留置百七十七、女十七。
囚人千三百五、女百四十四。
懲治人男十八、女二。」
と記録され、工場は、
「かじ工、木工、桶工、わら工、さしもの、麻、綿、染工、醤油、機械工、楊子」
などがあり、また、
「幼年囚再犯四十九、初犯十八、幼年者ノ相貌皆よし」
「農場二出役スルモノ四、五十人。毎日農園ハまがきニテ墓タ不堅固。凡テ監獄ハ別荘園ノ如シ」(三六〇・三六一ページ)
などと細かく記録されていて、明治世七年当時の監獄の様子が想像される。ただ、明治世七年当時の名称は「警視廰監獄市谷支署」と思われるが、名称の変わるのが激しく「市谷監獄支署」と呼び慣らされていたのかも知れない。
曙橋駅から市谷台町に向かって歩き出すと、駅前から台町坂にかけて駅前整備のためと思うが、雑然とした広場になっている。それに続いて台町坂から台町を通り抜けて「抜弁天」への道路拡張工事が行われている。この工事も相当の年月を経ているようで建物は取り払われ、工作機械や仕切りのガードがある程度で大きな幅をもって見渡せるのは幸いであった。台町坂の上り口辺りに門があり、続いて庁舎や舎房を想像しながら歩いて行くと、八百屋(市谷台町一三番地)の脇に「青峰観音」と言われる観音様が祭られていた。元刑場の跡地にあった観音様らしいので、お参りしてからこの台町一帯が市谷監獄の跡地かと想像しながら、次の富久町児童遊園にある「東京監獄・市谷刑務所刑死者慰霊塔」に向かった。
三 東京監獄・市谷刑務所
矯正図書館には、「沿革誌」のようなものは無かったが、昭和六年・刑政第四十四巻第十号「全国刑務所の沿革(四)・市谷刑務所」に詳しい。
「市谷刑務所の最前身は警視廰に属し、元鍛治橋内壁倉事務取扱所と穐し、八重洲町に在って、明治三年十二月の創設に係る。[略]明治三十六年三月警視廰官制改正と共に監獄官制を定め、監獄事務は挙げて司法大臣の管理に属し、蓮に於て鍛治橋監獄署も亦独立して東京監獄と改稿せられ、専ら未決の徒を拘置し、八王子分監、父島出張所を之に附属せしめた[略]。
是より先、鍛治橋監獄署が未決の囚を拘禁すべき獄舎として尚完膚ならざると一つは、其廰台所在地が中央停車場の敷地に編入せらるるの故を以て、明治三十四年四月、時の第四部長藤澤正啓は一万八千四百八十七坪鹸の地を牛込厘富久町百十三番地に相し、命を承けて未決監獄建築の工を起すに至ったが、其の結構を欧米の長所に鑑み邦風に倣ひ、専ら囚徒を督励して明治三十七年三月三十一日全く竣工、[略]木造重層放扇状に組成し、三百三雰に厘劃したが、此の竣工に先ち、三十六年六月二十五日新盤開店、鍛治橋内より此慮に移韓し以て今日に及んでゐるのである。」 (一〇九〜一一一ページ)
東京監獄へと改稿された事情や市谷移転の経過が分かった。
また、大正五年・監獄新報第一巻第七号「東京監景典獄・野口謹造氏・東京監獄の現状」には、
「東京監獄の構造
當監は、一路一具の収容定員は男一千百六十人、女四十人、合計一千二百人である。而して、煉瓦塀は高さ地上十五尺のものが三百九十八間であって、又、軽便軌道延長五百二十八間、官舎は戸敷で十二戸ある。
在監者の状況
今日(大正五年十月十一日)の當監に於ける収容纏藪は八百六十九人[略]、被告人の男が五百三十九人、女が十七人、懲役、労役其の他の受刑者の男が二百四十七人、女が六十六人であって、死刑の確定したものが六人、未確定のものが六人である。
當監の事務
一體當監は、[略]刑期確定後は大略處刑十二年以上の男囚は小菅監獄に、丁年以上の男子の累犯者は巣鴨監獄に、男子の初犯者は豊多摩監獄に、十八歳未満男囚は川越又は小田原監獄に、又女囚は八王子監獄と夫々送致するのである。而して是等の事務を取扱ふべき、職員は、看守百十七名、看守長八名、専属馨師三名、教講師二名、主任七名、雇職員十九名である。」(一七・一八ぺージ)
と書かれてあり、大正の初め頃の様子が想像される。
さらに、昭和八年・刑務界第十八巻第一号「われらの刑務所(一)・市ケ谷刑務所・搏浪生」に、
「日々、新聞を披いた時、其虚に市ケ谷の名を見出さない日は先づ少いであろう。市ケ谷!その名はそれ程一般に親しみ(?)を持たれてゐる名前である。従って其の繁昌振りも、世間の不景気に反比例してみることは勿論だ。数年前までは、せいぜい千人足らずの収容者があるに過ぎなかった此の市ケ谷が近頃はどうだ、二千人に垂れんとするの繁昌振りである。勿論狭隆な現在の舎房だけで収容出来得やう筈がない。だから内三百人ばかりは、豊多摩に預けてあると言ふ始末、若し刑務所繁昌記でも書かれるとすれば、先づ筆頭を承るものは我が市ケ谷でなくてはなるまい。現在所員は二百名足らずゐる。これだけの所員で千六七百人の面倒を見て行くのだから其の苦磐は並大抵のことではない[略]、
だが我が市ケ谷の特異性はこんな處にあるのではない。それは収容者に高位高官の者及思想犯者の多い事だ。昭和三年此の方は貧に大事件の頻護であった。東京市會疑獄、實勲事件、鐵道事件、釜山取引所事件、三・一五、四・一六事件、それにガス疑獄や五・一五事件等々…。そして、これ等の事件に付随して随分の大物が這って来る[略]。これ等の連中の入所中は貧に気骨、蜷骨(?)が折れる物だ、喜ぶのは差入屋ばかり。差入屋のニコニコ類と看守の苦い顔とは、どうも傳統的に對蹠的存在であるらしい。
次に、東京控訴院管内に於て絞首臺を有する處は市ケ谷だけである。従って東京控訴院管内の死刑囚、其の既決と未決を問わず、此處に収容される譯だ。常に数十人が収容されて居る。そして彼等は次から次と、その墓上に載せられて行く。
夕陽が西に傾く頃、二三羽の鳥が、我が市ケ谷の上空を旋廻する事ありとせば、それは一人の死刑囚が彼の世へと旅立った事を知らせてゐるものである」
と書かれてあり、関係職員の苦労と、昭和の初め頃の市谷刑務所の全体像が浮かんでくる。そして、ここにも不況という大きな流れの中で動いている先輩達の苦労の姿が見えてくる。また、市谷刑務所の図面から見れば、堀内の東北隅に「死刑場」が表示され、「市谷監獄の死刑場」とは別個であることが分かった。
四 東京監獄・市谷刑務所
刑死者慰霊塔
この石碑のことは、矯正図書館にあるガリ判刷りの小冊子
「東京監獄・市ケ谷刑務所
刑場跡慰霊塔について
森長英三郎」
(一九六七年九月一五日刊行)
に詳しく書かれている。
「序
市ケ谷刑務所では、設置以後廃止迄に、二百九十余名の死刑がされておるということが史実に現われております。
死刑は、罪の償いとしては、最大のものでありますから、この極刑を以て罪を償った以上は遺族の人々も、それほど世に悼ることもあるまいと考えられるのですが、事実は之に反し、先祖累代の墓碑にその名を刻むことを厭い、忌日に法要を営むことすら揮るのが実状であると、聞いております。
僚友弁証士森長英三郎君は、深く思いを蛮に致されまして、刑死者のため死刑場跡に慰霊塔を建立し、それら有縁無縁の霊を慰むると共に、年々、地元町内会に合流して、彼岸の仏日には僧を迎えて回向を行うことを発止提曙せられました。
この意義深い企てに対し、法曹同人多数の方々が賛同せられて物心両面の御協力があり、更に地元居住の人々からも多大の協力がありまして、森長氏の美挙は忽ちにして実り、立派に慰霊塔が建ち、地元町内会に賛助して、法要を営むこと、既に三年余に及びました。
地下に眠る二百九十余の霊も、さだめし森長氏並びにこの企に御賛助下さった多くの方々に対し、息証しておられるものと信ずる次第であります。
一九六七年九月
円山田作
東京匡獄・市ケ谷刑務所の刑場
東京監獄に刑場を設けて東京控訴院管内の死刑を執行するようになったのは、ややおくれて、明治三八年五月からのようである。それまでは、死刑囚は鍛治橋監獄署に収容し、執行は東京監獄の東北に隣接する市ケ谷台町の市ケ谷監獄の刑場で行われた。この刑場跡には、早くから観音がまつられ、市ケ谷台町一三番地の八百屋さん・野村喜八氏の裏にあるから八百屋観音と呼ばれている。もっとも大きな観音は戦災で失い、いまは尺余の観音像がまつられている。
東京監獄の刑場における明治年聞の死刑執行者については、田中一雄「死刑囚の記録」がある。[略]これによって明治三八年五月以降の死刑執行をみると、[略]明治四四年一月二四日には、大逆事件の
幸徳伝次郎(午前八時六分)
新美卯一郎(午前八時五五分)
奥宮健之(午前九時四二分)
成石平四郎(午前一〇時三四分)
内山愚童(午前一一時≡二分)
宮下太吉(昼二一時一六分)
森近運平(午後一時四五分)
大石誠之助(午後二時二三分)
新村忠雄(午後二時五〇分)
松尾卯一太(午後三時二八分)
古河力作(午後三時五八分)
の十一名が右の順で同日に、
翌二五日
菅野スガ(午前八時二八分)がここで執行せられている(カッコ内は刑死時刻)。
大正一一年一〇月二二日監獄
官制改正で、市ケ谷刑務所と呼ばれるようになった。震災で被害を受けたが大正一五年には復旧完成している。そして昭和一二年五月二五日、池袋駅近くの現東京拘置所が落成するとともに、市ケ谷刑務所はなくなった。
日弁連の慰霊碑建設計画[略]
拠金総額三六万円
慰霊塔除幕式
建碑は順調にすすみ、昭和三九年七月一五日午後一時に除幕式を行うことになった。除幕式の式次第はつぎのとおりである。
司会 日弁連事務総長・木村議
経過報告 同前事務総長・荻山虎雄
序幕 森長英三郎
読経 中山国広
挨拶 日弁連会長・大月神
同前会長・円山田作
法務省矯正局長・大沢一郎
新宿区長・岡田昇三
富久親興会会長・今野伝
刑死者友人代表・荒畑寒村
遺族代表・古河三衛松
碑は六尺四方のコンクリートの台座をつくり、その中央に高さ一一五センチ・横六五センチの仙台石(宮城県石巻近くの稲井産)を建てたものであって、その石に、円山田作氏の力強い筆で、
東京監獄市ケ谷刑務所
刑死者慰霊塔
昭和三十九年七月十五日建之
日本弁護士連合会
と書かれ、裏面に「円山田作書」と刻まれている。[略]大逆事件当時の看守部長高橋保氏や看守菅野史古エ門氏の列席は印象的であった。列席者[略]、
来賓東京矯正管区長・大井久
新宿区議会議長
新宿区議会議員
電報・除幕式の記事[略]」
この刑死者慰霊塔に手を合わせ、富久町児童遊園から住宅街を通り階段を下って靖国通りに出て新宿方面に歩き、小泉八雲旧居跡の碑(富久町七-三十・成女学園構内)を右に見て、安保坂の手前で右折し進むと都立小石川工業高校の正門が見えてくる。その正門から入り少し坂を上るとグランドがあり、体育館・校舎となっていた。ここが東京監獄・市谷刑務所跡地かと思い、このグランドに庁舎が建ち、舎房・刑場と続づいていたことになる。グランド左手には道路を隔てて法務省・最高裁判所宿舎があるが、かっての職員官舎があったと言われている。高校生のサッカー練習を見て宿舎脇の道路を上り、住宅街を通り抜け富久町児童遊園で刑死者慰霊塔を発見し、台町坂の道路に出た。帰りは市谷監獄の正面に当たる台町坂ではなく裏手となる安養寺坂を下って住吉町商店街を通り、曙橋からから帰路についた。今では、工業高校の他はビルと住宅街に変貌して全く当時を想像できないが、所々にその痕跡を見ることができ、また、勤務されていた方々の苦労を想像しながら感慨深い半日となった。
五 おわりに
十一月十八日、法曹会館での石山陽元会計課長を囲んで行われた法務省警OB会の帰り、久し振りの晴天に誘われるように地下鉄・曙橋駅から再び市谷監獄や東京監獄・市谷刑務所跡地を巡ってきた。
まず、台町坂を上り「青峰観音」をお参りし、祠の右脇に碑名が彫り込んである石の裏側に刻みこまれた施主を確認した。
「新宿区町会連合会長
市谷台町町会長岡良作
市谷台町商工振興会長
古谷正義
施主野村長八」
とあったので、隣の八百屋さんに寄り、ご主人に聞いた(主人長八さんを長・宗男を宗)。
長「俺だよ。」
宗「野村喜八さんと聞いたが?」
長「じいさんだよ。死んだ。」
宗「この観音様は、八百屋さんの、裏にあったと聞いたが?」
長「そのうら1の方にあったしよ。(ビルの裏の方を指差す。)ビル建てるんで、ここへ持ってきた。その石も庭から出てきたんで彫ってもらった。雨に当たると青みがかって綺麗だよ。八百屋観音と言われているんだ。首切り観音とも。」
宗「何時、ここへ?」
長「平成九年。四月一日にお祭りやるんだ。この前に市が出て賑やかだよ。」
宗「首切り観音、今でも言われているの?」
長「今は言わないよ。死刑場があったなんて、若い人は知らないよ。」
宗「死刑場は二二番地にあったと聞いたが?」
長「ここは二二番地だよ。」
宗「富久町遊園に慰霊塔が建っている。そこも死刑場と聞いてきたが?」
長「知っているよ。別だよ。」
宗「祠の脇に、立派な仏様の頭が祭られているが、それが元の観音様なの?」
長「違うよ。あれは別だ。元の観音様は大きかったよ。台のところが丸くなっていて、高さはこれくらいかな(自分の頭辺を手で示す)。観音様は三倍か四倍くらいあったかな。子供のころのことだけど。」
宗「ご主人の生まれは、何年?」
長「六年」
宗「昭和の六年ですか、私も同じころの五年。観音様も戦災で焼けたとか?」
長「そう、四月十三日。十九年の。持っていかれた。」
宗「あのころ、お寺の鐘など持っていかれたけど、おんなじ?」
長「そう。」
宗「それじゃ銅だったの?」
長「そう。観音様のことなら、小石川工高の先生が調べにきて書いているよ。あると思うよ(と近くを調べてくれた。)。無いなー、探しておくよ。」
と、仕事の合間・合間に気さくに話してくれた。礼を言って、一番大きなリンゴを買い、観音様に供えてお参りし、慰霊塔に向かった。
余丁町児童遊園・富久町児童遊園は、土曜日のため子供達も大人も多く賑やかな声がしていた。慰霊塔に頭を下げ、住宅街を縫うようにして歩いていくと小石川工高グランドの裏手に出た。グランドを回り、法務省宿舎脇の道を下って正門から再び誰も居ない小石川工高のグランドに一人立ち、当時の過剰収容やら高位高官・思想犯の大物、あの死刑の執行と先輩達の厳しい日々を想像した。夕暮れも迫り風も強くなって我に返り帰路についた。
そして、今回の刑罰史跡を巡り、また資料を手にして感じたことは、市谷の近くに住みながら刑場跡があるとは知らなかった。これからも現場を巡って残されている少ない痕跡でも掘り起こし書き残す必要を痛感した。それ以上に毎日毎日の仕事の中で残されてきた記録が、保管されることによって貴重な刑罰資料になり、歴史の流れの中で敏感に反応し対処していった先輩達の姿を今に伝えてくれる貴重な証言になることも教えられた。改めて日頃の勤務の大切さを教えてくれる体験ともなった。
最後に、資料のうち「旧字・旧かな・カタカナ・市ケ谷」はそのまま引用した。読みずらいと思われるが、当時の雰囲気をそのまま尊重したいと考えている。また、感想や見聞の中での市谷監獄の名称は、「市谷監獄」に統一した。
(元・高松刑所長)