2009年11月 1日 (日)

労基法上の「労働者性」と労組法上の「労働者性」

まさか、本ブログの読者のなかにネット界のゴキブリ「ふま」ごときの愚言に惑わされる方が居られるとは思いませんが、念のために、ごく簡単に労働法における「労働者性」についての現状を説明します。労働法を勉強した方にとっては今更の話なので、スルーしていただいてかまいません。

「労働者性」とは、要するにある働いている人にある労働法規を適用すべきかどうかという判断基準です。

その労働法規が労働基準法その他の労働保護法規である場合については、現在の法適用状況はほぼ明確です。

旧労働省に設置された労働基準法研究会がまとめた報告書が行政の判断基準として用いられ、裁判所もほぼこれをそのまま認めています。

ですから、先日紹介した障害者の小規模作業所が工場のライン請負に進出して、当該工場の雇用労働者と並んで同じ作業をしている状況は、労働基準法の適用という観点からするとどうひっくり返っても「労働者性」があるといわざるを得ないはずで、訴えがあれば監督署はそのように指導監督するはずですし、裁判所もその判断を認めるはずです。

最低賃金法上に障害者の特例措置の規定はあっても、労働基準法上に障害者であることを理由にした労基法の適用除外規定というのは存在しない以上、それ以外の判断はあり得ないはずです。(政治的判断で、あえてその処分をしないということはありえますが)

それに対して、現在裁判所で大きな問題になっているのは労組法上の「労働者性」です。

ここで、まず、労基法と労組法における「労働者」の定義規定を見ておきましょう。両者は規定ぶりが違うのです。

労働基準法:

(定義)
第九条  この法律で「労働者」とは、職業の種類を問わず、事業又は事務所(以下「事業」という。)に使用される者で、賃金を支払われる者をいう。

労働組合法:

(労働者)
第三条  この法律で「労働者」とは、職業の種類を問わず、賃金、給料その他これに準ずる収入によつて生活する者をいう。

労働基準法を直接施行する行政機関は労働基準監督署であり、そこの判断基準(上記労働基準法研究会報告)がそのまま裁判所の認めるところとなっているので、そちらについてはあまり問題はないのですが(といっても具体例ではいろいろと問題がありますが)、

労働組合法を直接施行する行政機関は労働委員会であり、そこが「うちの法律でいう『労働者』ってのは、労基法上の労働者よりも広くって、「職業の種類を問わず、賃金、給料その他これに準ずる収入によつて生活する者」なんだから、偽装自営業だけじゃなく、実質的にも自営業的な面を持つ人々も入るんだ」と考えて、広め広めに解釈して、救済命令を出した事件について、裁判所がひっくり返しているというのがいまの事態なのです。

裁判所の言い分は、労基法と労組法とで「労働者」の範囲が違うなんて馬鹿なことがあるか、労働者はどの法律でも一緒のはずだ、という立場なんですね。だから、労基法研究会報告が労基法の適用基準として作成した細かな基準を労組法上の適用基準としてそのままもって来て、それに当てはまらないじゃないか、というわけです。もともと、その人々が労働組合を作って団体交渉を要求することができるか、という観点ではなくて、労働基準監督官が「オイコラ」とやるべきかという観点で作られた基準なのですが、そのあたりには裁判官はあまり敏感ではありません。

労働委員会側にとっては、労基法における労基法研究会報告のような明確な判断基準を定式化したものがあるわけではないというのが弱みといえば弱みなのでしょう。

労働法の世界ではバイブルとされる菅野和夫先生の『労働法』第8版では、この問題について次のように記述されていますが(480ページ)、

>私自身は、労組法上の「労働者」か否かに関する・・・判断を「使用従属関係」の有無という枠組みで行うことには疑問がある。労組法の定義規定(3条)の立法過程を調べると、同規定は、「給料生活者」である限りは広く労組法上の労働者性を認めようとする趣旨で、「賃金、給料その他これに準ずる収入によって生活する者」のみを基準とするように起草されたことが判明するのであって、同規定のこの明示の基準(要件)のほかに「使用従属関係」の存在という要件を加えることは立法過程にそぐわない。この立法趣旨からは、労組法上の「労働者」性はあくまで「賃金、給料その他これに準ずる収入によって生活する者」という基準に則して判断されるべきである。その場合「賃金、給料」は、労働契約上労働者が労務の対価として受けるものであることは明らかであり、この基準は、結局、労働契約下における労務供給者およびこの者と同程度に団体交渉の保護を及ぼす必要性と適切性が認められる同種労務供給契約下にある者(これが「その他これに準ずる収入によって生活する者」にあたる)を意味する、と解すべきである。

残念ながら、現時点では地裁でも高裁でも、この文章を熟読玩味した裁判官に出会えていないという現状のようです。

一方、労基法上はどうひっくりかえっても労働基準監督官が出張ってくるべき人々ではないプロ野球選手について、東京都労委が労働組合として認めたことについては、例のストライキ問題の時に事実上裁判所でも認められてみたいな形になっているのも、厳密に考えるとよく分からないところではあります。

以上、労働法の授業をまじめに聞いていた人にとっては今更の話でしたが、少しはお役に立てた人がいれば幸いです。

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2009年10月31日 (土)

ハローワークのワンストップはいいけれど・・・

例のお金をかけない緊急雇用対策の目玉のハローワークのワンストップサービスの続報です。

http://mainichi.jp/life/job/news/20091031ddm012040181000c.html

>失業者などへの年末対策を進めている政府の「貧困・困窮者支援チーム」(事務局長・湯浅誠内閣府参与)は30日、ハローワークの一つの窓口で職探しとともに住宅確保や生活保護申請、小口融資の申し込みなどに対応するワンストップ・サービスを、11月30日に東京や大阪、愛知など大都市圏を中心に実施することを決めた。長妻昭厚生労働相と原口一博総務相は記者会見し「地方自治体の協力が欠かせない」と自治体の協力を呼び掛けた。

 ワンストップ・サービスは、ハローワーク職員だけでは対応できず、福祉行政担当の自治体職員の派遣や民間団体の協力が必要となる。原口総務相は、職員派遣や住宅確保などに必要となる自治体の経費には特別交付税を充てることを表明。両大臣は、08年末の派遣村で実質的にワンストップ・サービスが実施されたことを例に挙げ「雇用情勢が依然厳しい中、どこへ行けば命をつなぐことができるのかがはっきりと分かることは非常に重要だ」と話した。

 同チームは30日付で各自治体に協力要請を出した。11月30日の実施結果を踏まえ、年末年始の実施体制や継続的に運営するかどうかなどを検討する。【東海林智】

雇用創出の方にはちゃんとたっぷりお金をかけるんでしょうね、というのはとりあえずおいといて、ハローワークでワンストップサービスという湯浅誠風味の政策自体は、私は評価しています。

自治体にも総務省から交付金が流れるということなので、そちらは何とか動くことになるのでしょう。

私がずっと気になっているのは、まことに形而下的なレベルが低いといわれれば低い話なんですが、ワンストップサービスでやってくる自治体の福祉や住宅担当の人たちのはいる場所があるんだろうか、というまあなんちゅうか庶務課的な心配なんですが。

上の記事からすると、1ヶ月後に試行するのは東京、大阪、愛知などの大都市圏ということですが、そういうところのハローワークにいってご覧になるとわかりますが、ただでさえ狭苦しい庁舎の中に求職者が山のように列をなしていて、昔はあった空き部屋のたぐいも潰して相談室にしたりして、なかなか新たな相談コーナーの入る余地がないのが実態ではないかと思うのです。

ワンストップといっても、要するにハローワークの窓口に自治体から来たそれぞれの担当職員が居て対応するということですから、間違いなく庁舎内の職員数が大きく増えるわけで、いまの庁舎事情で大丈夫なのだろうかと、正直心配して居るんですが。

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消防職員に団結権付与

これは、その筋の玄人には大変大きなニュースなんですが、新聞ではベタ記事でした。

しかも、ネット上に記事を載せているのは産経だけ。朝日も読売も関心があんまりないようです。

http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/091029/stt0910291908008-n1.htm

>原口一博総務相が労働三権(団結権、団体交渉権、スト権)が認められていない消防職員に対し、団結権を付与する方針を固めたことが29日、分かった。原口氏が28日、自治労の徳永秀昭委員長ら労組幹部と行った会談で明らかにした。

 会談では、自治労側が「消防職員の団結権問題を解決してほしい」と要請。これに対し、原口氏は「団結権のあり方は国民の理解の下、前へ進めていく」と述べ、付与の方向で検討を指示したことを明かした。

 総務省では今後、省内に検討会を設置して、消防職員の団結権のあり方を検討する。消防職員は、警察官や刑務所職員と同様に労働基本権が制限されているが、民主党は衆院選のマニフェスト(政権公約)で公務員の労働基本権の回復を掲げている。

労働基本権問題はいろいろな問題が交錯して難しいのですが、実は消防職員問題は理屈自体は全然難しくありません。

ILO条約では、団結権を禁止できるのは軍隊と警察だけだと明記されていて、それ以外の公務員については、団結権以外は制限できるけれども、団結権、つまり自分たちの労働組合を結成する(だけの)権利は制限できないということになっています。

交渉もできないのに組合作ってどうするんだという話はまさにいまの非現業公務員がそうなわけですが、交渉はできないけれどもお願いはできるということで、実質的にはお願いという名の交渉に近いものになっていたりすることもあって、そこが現在の公務員制度改革の一つの論点のもとなわけですが、それはともかく、

ILO条約では軍隊と警察だけに禁止できるはずの団結権を、日本の公務員法では、消防職員についても禁止しているのは何なんだ、というところから、過去数十年にわたって、ILOから繰り返し指摘され続けたという故事来歴があるのです。

日本政府がずっと言い続けている言い訳は、日本の消防組織は警察と同じだから、警察と同じように団結権を禁止して居るんだというものですが、いうまでもなく、消防庁は旧自治省、現総務省の外局であって、警察庁の外局ではありませんし、警察の指揮命令下にあるわけでもありません。

実のところ、消防職員に団結権を認めてこなかった最大の理由は、消防団との関係で、消防団の大親分の故笹川良一氏が、俺たち消防団がボランティアで一生懸命やっているのに、給料もらっている消防職員が労働組合作るとは何事だ!と怒ったから、という説を聞いたことがありますが、真偽のほどは定かではありません。

まあ、そういうわけで、国際的には到底通用しないようなへりくつで、消防職員の団結権を禁止したままいまに至ったわけですが、なぜか一般の公務員労働法制にはかなり抜本的な提案(労働協約締結権の付与)をした公務員制度改革でも、それより遥かにわかりやすく明快なはずの消防職員の団結権問題についてはふにゃふにゃとわけのわからないことしかいわなかったことは、本ブログでも紹介したとおりです。

その問題に、あっさりと結論の方向を示してしまったのですから、こういう面における政治主導は確かに歓迎すべきかも知れません。

(参照条文)

地方公務員法

第52条 

  警察職員及び消防職員は、職員の勤務条件の維持改善を図ることを目的とし、かつ、地方公共団体の当局と交渉する団体を結成し、又はこれに加入してはならない。

ILO結社の自由と団結権条約

Article 9

1. The extent to which the guarantees provided for in this Convention shall apply to the armed forces and the police shall be determined by national laws or regulations.

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パターナリズムについて

先月(9月30日)のエントリで紹介した、『大原社会問題研究所雑誌』9/10月号の特集「パターナリズムの国際比較」が、PDFファイルとしてアップされました。

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/611-612/index.html

この時間差がねえ。

前回も書いたように、「一見パターナリズムとは正反対の国のように見えるスウェーデンにおいて、パターナリズムこそが市民的公共性の形成に重要な役割を果たしたこと」を歴史分析から示しているクリステル・エリクソン&ジョン・ボリビィの「スウェーデンにおけるパターナリズムと市民的公共性」が、やはり読まれるべきでしょう。

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/611-612/611-01.pdf

前回は訳者解題を書き写すので精一杯でしたが、今回はコピペできるので、この論文の最後の「総括」というところを丸写しにします。それだけの値打ちのある文章だと思うので、じっくり読んでくださいね。

>スウェーデンの市民的公共性の形成は,1830年代に始まった。19世紀末葉まで,この公共性においては,男性かつ上層の中間層の家父長が中心的な役割を果たした。家父長とそれに従う者との関係は,殆どの場合,対面的な関係であり,従属者がその関係を受け入れ,きちんと仕事をする限りその安泰を当てにできる,父親に対するような社会的・経済的信頼性に基づいていた。19世紀末,市民的公共性は変化し始めた。今や上層中間層の女性も,象徴的な消費者やフィランスロピーの担い手,ネットワーク的関係を強固にする存在としてますます中心的な役割を演じるようになった。

労働運動の台頭は,市民的公共性の変化を促した。権威主義的な家父長は,勃興する労働運動の公共性からの挑戦を容認しなかった。同時に,大企業の勃興は,工業企業家個人が従業員と対面的な関係を取り結ぶことを困難にした。資本主義的な市場関係が,部分的には家父長的な関係に代替することとなる。状況はまた,世紀転換期の民主化の進展や1918年から21年の民主主義の勃興[スウェーデンでは1909年に下院にあたる第二院について男子普通選挙権が導入された。第一次世界大戦末期よりの社会不安の中で,1919年にはすべての選挙での男女平等普通選挙権・被選挙権が議決された。最終的に21年には選挙権規定をめぐり憲法も改正され,女性も参加した初の総選挙が行われた。──訳者注]によっても変わった。このような経済的,社会的そして政治的な過程が,市民的公共性と労働者公共性の間の新たな交渉を強制し,先見の明のある中間層の家父長が従業員との間にパターナルな契約を書き改めることにつながった。子を従属させ,善良であるが罰を与える父親は,労働者を教育し,企業及び企業がある地域との連帯や協働の下に階級対立を克服しようとする,新しい中間層の家父長によって取って代わられた。労働と資本の関係は,製鉄所間の一つの競争条件となった。権威主義的な家父長は労働運動を認めることを拒否した。それにより,一連の破壊的な対立を引き起こした。〔このような〕教育する家父長のやり方は,首尾よくいけば,こうした類の対立を回避した。対立の代わりに,彼らは,階級を超えた交渉と協力の概念を作り出した。これが「ブルク精神」と呼ばれているのだが,ブルジョワジーのヘゲモニー的地位という脈絡において理解されるべきである。

市民的公共性の第三の転換は,労働運動の公共性が選挙勝利によって国家装置を動かす権力を獲得し,福祉国家を建設し始めた1930年代に起こった。当時,教育する家父長の政策は,上層中間層の保守主義的な部分を覆っていた。市民的公共性と労働運動の公共性は,合理化や経済成長の概念をめぐって協力し始め,それが,社会的・政治的福祉諸改革の前提となった。クリスティアン・フォン・シュードウは,1950年代に,さらに労使協力政策を発展させ,その他の家父長は,ブルジョワジーのヘゲモニーの観点に従って解釈した産業民主主義を提唱することにより,ブルクの労使協力の概念に再び息を吹き込んだのである。

日本におけるパターナリズムを考える上でも、大変参考になる枠組みだと思います。

同じ号に、榎一江さんの「近代日本の経営パターナリズム」も載っていて、これもいままでの研究史を手際よくまとめるとともに、国際比較の中でいろいろと考察されており、脳みそを刺激します。

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/611-612/611-03.pdf

これまた最後の「おわりに」をコピペ。

>日本の経営史研究では,温情主義と経営家族主義とを重ね合わせて,それを日本的経営の特質としてきた。日本的経営の源流を探るという観点は,近代日本の特殊性に注目し,それを固有の文化や伝統の問題に帰し,国際比較の視野を閉ざしてきたように思われる。しかしながら,温情主義が特殊日本的現象ではなく欧米にも見られることは指摘されており,第二次大戦前の日本で温情主義の名のもとに設けられた慈恵的・福利増進施設の内容は,例えばアメリカのウェルフェアの内容と特に異なるものものではないという(58)。「日本的なるもの」を追求してきた研究史は,家イデオロギーを前面に出す言説レベルの分析に傾倒しすぎたきらいがある。それらは,経営の実態に迫る実証的な歴史研究によって,再考を迫られている。

本稿は,「温情主義」という言葉が普及した大正期に,パターナリズムが再編される過程に焦点をあてた。もちろん,それ以前に同様の施策がなかったわけではない。製糸業,とりわけ郡是製糸の例がそうであったように,労働者に対して法的な義務以外に何らかの施策をとることは広汎に見られた現象であった。しかし,それらは,「主義」としてではなく,個別経営による試行錯誤の中で様々な形態をとって実施されていた。その形態は,産業,企業によっても,あるいは,地域によっても異なっていたのであり,それぞれに合理性を有していた。そうした多様なあり方が「主義」として再編されていく過程において重要な役割を演じたのは,紡績業を中心とする繊維産業の経営者たちであり,そのことが日本の経営パターナリズムを特徴づけることになったのである。

近代日本のパターナリズムは第一次大戦期を経て大企業を中心とする経営者の言説において強化されていった。もちろん,言説と実際の経営における施策の間にはなおかい離があったし,こうした理念が労働者にどう受け取られたかはまた別の問題である。しかしながら,労働問題が経営問題となった以上,パターナリズムのあり方は経営の内実に即して分析される必要がある。その意味での実証研究は,始まったばかりである。

(追記)

ちなみに、上記論文を読んだあとで、池田信夫氏の次の文章を読むと、大変愉快な気分になれます。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/88e388648e53401a39d8651525f79743濱口桂一郎氏の家父長主義

>hamachan、パターナリズムってわかる? これ、ほめてるんじゃないよ。日本語では「家父長主義」と訳し、君のように「かわいそうな貧乏人を助けてあげよう」という善意で規制を強化して、結果的には日本経済をだめにすることをいうんだよ。旧労働省は、農水省と並んで、昔から「いらない官庁」の筆頭にあげられてきた。雇用規制の強さと失業率に有意な相関があることは、経済学の常識だ。労使紛争の調停は、裁判所で十分だ。最善の労働政策は、旧労働省を解体することなんだよ。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-6bab.html(池田信夫氏の熱烈ファンによる3法則の実証 スウェーデンの解雇法制編)

>いいやアメリカのシステムじゃないんですよ。それは。例えばね、これは僕の言っているのに一番似ているのはスウェーデンなんですよ。スウェーデンてのは基本的に解雇自由なんです。ね、いつでも首切れるんです、正社員が。

ちなみに、それがほんとのことかどうかについては、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-9ff0.html(北欧諸国は解雇自由ではない)

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2009年10月30日 (金)

第7回有期労働契約研究会資料

先週金曜日(23日)に開かれた有期労働契約研究会の資料がアップされています。

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/10/s1023-5.html

まず実態調査に基づく有期労働者の類型論ですが、

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/10/dl/s1023-5b.pdf

この絵にあるように、一番多いのが右下の長方形の「軽易職務型」で事業所の54,4%、個人の39%、そのうち異動・転勤あり、昇進ありというのがそれぞれ1割強あります。

次ぎに多いのが「同等職務型・別職務同水準型」で、それぞれ28.3%+13.1%、36.4%+17%です。こちらは異動・転勤あり、昇進ありの割合はかなり高いです。

ごく少ないのが「高度技能活用型」で事業所の1.0%、個人の4.4%にすぎません。

論点ペーパーが大変注目に値します。

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2009/10/dl/s1023-5c.pdf

「有期労働契約の範囲、勤続年数等の上限」について、

>わが国の法制においては、有期労働契約の締結事由や勤続年数・更新回数の上限に係る規制はないが、今回のヒアリング・実態調査等も踏まえて、どのように考えるべきか。

とまず大きく問いを立て、

>諸外国の法制においては、EU有期労働契約指令のように有期労働契約または有期労働関係の反復継続した利用から生ずる濫用を防止するための措置を講じているものがあるが、わが国の雇用システムの特徴や労使のニーズに照らして、どのように評価すべきか。

>このような濫用防止措置として、有期労働契約の締結事由をフランスのように合理的なものに限定すべきという考え方があるが、わが国の雇用システムの特徴等に照らして、どのように評価すべきか。

>一方、別の措置として、諸外国の中には、英国や韓国のように、締結事由は限定しないが、勤続年数の上限を定めている法制があるほか、フランスでは締結理由と共に勤続年数の上限と更新回数の上限とを定めているが、このような勤続年数と更新回数の上限を定めることについて、わが国の雇用システムの特徴等に照らして、どのように評価すべきか。

といったかなり踏み込んだ論点を提示しています。

また1回の契約期間の上限についても議論を提起しています。

この問題、実は派遣事業規制ばかりがまるでいじめっ子のようにフレームアップされるいささか異常な日本の労働議論の中で、派遣労働に弊害があるとすればその原因の相当部分は有期労働と共通するわけですから、こちらでしっかりとした議論を積み重ねる必要があります。

昨日の朝日新聞のコラム「政策ウォッチ」で、林恒樹記者が「有期雇用 派遣規制と温度差 積極論議を」と書いていましたが、確かに、

>同じ非正社員でも、派遣労働の規制に向けては白熱した審議が続いており、落差が気になる。

>派遣だけを規制しても不安定な働き方はなくならない。

のであって、マスコミも政治家も、もう少しバランスのとれた労働政策観を確立してほしいものだと思います。

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相対的貧困率は出発点にすぎない

さる10月20日のエントリで紹介したOECD方式の相対的貧困率ですが、ここでは、相対的貧困率だけで何か政策を論じられるなんて思ってはいけないよ、という話を。

もう7年以上も前になりますが、すでに廃刊になった『総合社会保障』という雑誌に「ニュー・ヨーロッパへの新展開--変貌するヨーロッパの雇用・社会政策」という連載をしていたことがありますが、そのときに、EUでは貧困から社会的排除に問題意識が変わりつつあると言うことを紹介し、その一環で、「貧困と社会的排除の指標」の開発にむけていろいろと取り組みがされていることも紹介しました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/shahoshinpo6.html

このときに紹介したアトキンスン報告では、つぎのような包括的な指標によって、人々がどれだけ社会に統合されているかを測ろうとしていました。

(1)経済的貧困:世帯所得で算出

◎所得の中央値の50%ないし60%(貧困線)以下の所得の者の比率(低所得者比率)
○所得中央値の40%及び70%以下の所得の者の比率、及び特定時点における所得中央値の絶対額の60%以下の者の比率
○単身世帯と標準世帯(2親2子)における貧困線の実質価値(購買力)
○過去3年のうち少なくとも2年貧困線以下にあった低所得者の比率(持続的貧困比率)、及び、過去3年間ずっと貧困線以下にあった低所得者の比率(慢性的貧困比率)
○貧困線との貧困格差の平均値と中央値
◎所得五分位階級で最下層に対する最上層の所得の比率(S80/S20)
○所得十分位階級で最下層に対する最上層の所得の比率(S90/S10)及びジニ係数
●非貨幣的な価値剥奪の指標

(2)教育水準

◎18歳~24歳層のうち中学校教育だけでそれ以上の教育訓練を受けていない者の比率
○18歳~64歳層のうち中学校以下の教育しか受けていない者の比率
●親の教育水準や教育費用に焦点を当てて教育へのアクセスの格差の指標

(3)雇用労働

◎失業率及び長期失業率(1年以上)
◎失業世帯人口の比率
○就職意欲喪失者の比率及び18歳~59歳(64歳)層のうち非就業者の比率(フルタイム教育を受けている者を除く)
○貧困線以下にある失業世帯人口の比率
○昨年今年と労働者であって貧困線以下にある者の比率(ワーキング・プア)及び時間当たり賃金が中央値の3分の2以下である者の比率(低賃金労働者)

(4)保健医療

◎65歳に達しないで死亡した者の比率、又は、自分の健康状態を悪い又は大変悪いとする15歳以上の者の所得五分位階級の最下層及び最上層における比率
○経済的理由又は待機のため過去12ヶ月間に医療を受けられなかった者の比率

(5)住居

◎特定の住居アメニティがないか、特定の住居欠陥がある世帯の者の比率
○過密状態の住居に居住する者の比率
○過去12ヶ月中に家賃又はローンの支払いが遅滞している世帯の者の比率
●環境の悪い住居に住んでいる者の指標
●ホームレスや不安定住居の定義と指標(欧州委員会は緊急に取り組むこと)

(6)その他

○緊急時にまとまった金を用意できない世帯の者の比率
●労働市場で必要な技能を反映した読み書き能力と計数能力の指標
●公私の不可欠なサービスへのアクセスの指標
●インターネットへのアクセスを含む社会参加の指標

貧困というのはお金があるかないかというだけの話ではないということを、このように具体的な指標の形で示そうとする意欲が、日本の政策構想の中にあるかどうかが、実のところは問題なんだと思うわけです。

私がこの紹介論文を書いたのは7年以上前ですが、日本はようやく、そのときに『それだけじゃダメだ』というレベルに到達したわけですから、なかなか先は長いというべきかも知れません。

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『マスコミ市民』11月号所載の講演録

去る9月24日に、現代社会民主主義研究会でお話しした時の講演録が、『マスコミ市民』という雑誌の11月号に掲載されています。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/mascom0911.html

ちなみに、この集まりには、民主党の山花郁夫議員も来られ、とりわけ最後の部分について、若干のコメントを残していかれました。

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『労働経済情報』秋号の拙論

畑中労働経済研究所が発行している『労働経済情報』2009年秋号(25号)に、拙論「EUにおける非典型労働者への法政策」が掲載されています。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/euatypical.html

この論文自体は、EUの非典型労働法政策を概観したもので、それほど面白いものではありません。

むしろ、この雑誌に載っているほかの記事の一覧をご覧になると、そのラインナップの凄まじさに、思わず「うーん」と呻るのではないかと思います。

これが秋号の目次です。

雇用政策の目指すべき道・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・西村理

非正規雇用危機と『均等待遇』戦略・・・・・・・・・・・・・・・小林良暢

派遣法-罪深き若者の使い捨て・・・・・・・・・・・・・・・・・東海林智

EUにおける非典型労働者への法政策・・・・・・・・・・・・濱口桂一郎

戦後わが国労働法の特質(上)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・片岡昇

アジア経済圏における日本のパラダイムシフト・・・・・・板東慧

グリーン・ニューディールと緑の雇用を考える・・・・・・・・松下和夫

改正労働基準法と企業の対応・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・安西愈

ディーセント・ワークの実現へ向けて・・・・・・西村健一郎・山本陽大

新たな労働時間法制へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・田中清定

労働法における「労働者性」と「使用者性」が今、問われている・・・・水谷研次

労働審判事件の現場・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・夏見陽介

労働災害防止におけるリスクアセスメント・・・・・・・・・・・・金原清之

メンタルヘルス対策の留意点・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・谷口恒夫

メンタルヘルスケアの実情と目指す姿・・・・・・・・・・・・・・寺村紀子

大阪労働局の送検事例を見る・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本誌編集部

国際金融危機下-広東企業の労使関係・・・・・・・・・・・・孔祥鴻

この業界的には結構なビッグネームが名前を連ねています。

小林良暢さんのはいつもの小林さんの調子ですし、東海林さんのはやはり東海林さんらしい文章です。

ここで特に挙げておくべきは、水谷研次さんの論文でしょう。東京都労委の労働者委員として、労働委員会が労働者性を認めた事案を、裁判所が片っ端から「労働者じゃねえ」と切って捨てている現状に対する怒りに満ちています。

水谷さんのブログはこちらですので、参考までに。日々読んで糧になる内容です。

http://53317837.at.webry.info/

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東京大学ジェロントロジー講義キャンセルのお詫び

去る10月28日、東京大学学部横断型ジェロントロジー教育プログラムの一環として、わたくしが「年齢に基づく雇用システムと高齢者雇用」という講義を行う予定でありましたが、

http://www.gerontology.jp/edu/core2.html

その前日の10月27日早朝、38.8度の発熱があり、医者に行って検査したところ、新型インフルのウィルスは検出されないものの、その疑いが濃いということで、数日間の行動停止を命じられ、その結果、上記講義を急遽ドタキャンしてしまう結果となってしまいました。

わたくしの講義を楽しみにしておられた学生の皆様には心からお詫び申し上げるとともに、残念ながら今年はもう補講をする時間的余裕はないということなので、昨年の講義の映像をリンクしておきたいと思います。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-b643.html?no_prefetch=1(東大のオープンコースウェア)

http://ocw.u-tokyo.ac.jp/courselist/609.html?teachcat=2(ビデオ・講義ノート)

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『生産性新聞』「ワークアイ」寄稿エッセイ

日本生産性本部の機関紙『生産性新聞』の10月25日号の「ワークアイ」というエッセイ欄に、わたくしの「賃金と社会保障のベストミックスを」という小論が載っています。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/workeye1025.html

今週発売された『POSSE』第5号の論説のダイジェスト版みたいなものです。『POSSE』の方は一般に市販されている雑誌なので、次号が発行されるまでわたくしのHPには掲載しません。他にも興味深い論考が満載ですから、是非お買い求めくださるようお願い申し上げます。そのうちに、同誌第5号の内容についての論評記事を書きます。

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日本経団連タイムスの記事

『日本経団連タイムス』10月29日号に、わたくしが去る10月9日に日本経団連の社会保障委員会企画部会に呼ばれて行った講演の概要記事が載っています。

http://www.keidanren.or.jp/japanese/journal/times/2009/1029/06.html

>日本経団連の社会保障委員会企画部会(渡邉光一郎部会長)は9日、東京・大手町の経団連会館で会合を開き、労働政策研究・研修機構の濱口桂一郎統括研究員から、EUの雇用政策と生活保障制度の動向について説明を聞いた後、意見交換を行った。

■ 濱口研究員説明

1990年代以降、EUの社会保障政策は雇用政策と表裏一体で議論が展開している。政策展開の大きな方向性としては、従来の所得移転型・資源再分配型から、機会配分型・社会参加型のシステムへの転換が志向されている。つまり、これまでの福祉国家像では、弱者救済・労働者保護が中心にあったが、市民権的な観点のもと、仕事を通じた社会参加型の新たな福祉国家を目指す方向である。

EUの雇用戦略の最大の眼目は、就業率の向上にある。さらに、福祉を削減し労働市場に追い立てる政策手法は取らず、「仕事の質」を横断的目標とし、やりがいのある良い仕事を提示していくことを重視している。仕事の質の向上により失業や非就業への流出を減らし、流入を増やして就業率を引き上げるという、仕事の量と質の両立を目指すものである。

また、EUで同時期に打ち出した社会保護戦略においては、福祉による金銭給付のみでは貧困問題は解決せず、「社会的排除」の解消に向け、社会の二極化、分断化にこそ取り組むべきとの考え方が有力になった。その際の対応のカギは、質の高い雇用にあり、社会の主流(労働市場)から排除された人々を統合するべく、所得保障と職業訓練とをリンクする仕組みづくりが検討され、各国で対応が進んでいる。また、社会の二極化の解消には、雇用問題を超えて住宅、医療、文化、家族といった広い政策分野への対応が必要であるとも指摘されている。

EUでは、従来から若年失業者が雇用問題の中心にあり、手厚い所得保障があるものの、いったん福祉の世界に安住すると抜け出せない「福祉の罠」という問題がある。これに対し、日本では、90年代初めから若者が非正規労働者として就労するなかで矛盾が生じてきた。

EUは働かない人をいかに働かせるかが問題であり、日本は働いていても、その働き方およびセーフティーネットが不適切なことが問題である。検討の際には、EUと日本の社会背景や雇用環境の違いをよく踏まえる必要がある。今後、日本においては、将来のキャリア展望を見せつつ、非正規就労からスキル向上を前提として高技能・高賃金の世界へ移行させるための施策が必要であり、雇用および社会保障の一体的な施策展開が期待される。

■ 意見交換

引き続いて行われた意見交換では、「派遣という働き方をどのように評価するか」との質問に対し、「本来は、キャリア形成につなげる手段にもなり得るシステムであり、冷静な議論が必要。ただし、低い労働条件を生み出すもととなるなら、改善策を検討すべき」との回答があった。

如上の通りであります。

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連合北海道講演の記事

091022kousi6659 さる10月21日に、連合北海道主催で行われた講演会の記事が、自治労北海道のHPに掲載されています。

http://www.jichiro-hokkaido.gr.jp/2009/10/1021.html

>10月21日、札幌市・自治労会館で、連合北海道が主催して「2009ディーセント・ワーク講演会」が開かれ約60人が参加した。

はじめに、開会にあたり荒又重雄会長(社団法人北海道雇用経済研究機構)あいさつの後、講演「非正規労働と産業民主主義」と題して、濱口桂一郎さん(労働政策研究・研修機構統括研究員)が、これからの日本の労働社会のあり方などについて話した。

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2009年10月29日 (木)

池田信夫氏の熱烈ファンによるわたくしへの糾弾全記録

ここ数日、本ブログを騒がせてきた池田信夫氏の熱烈ファンとおぼしき「読者」氏によるわたくしへの糾弾ですが、その主たる書き込みがコメント欄になされたため、必ずしも「読者」氏の期待するような形で広く一般に公開されていないという印象を与えているようであり、また、コメントがなされた対象エントリが不適切なため、他のエントリのコメント欄に移動したことをもって「俺の昨日送信したコメントは予告もなく削除しましたね。」という風に誤解されたこともあり、「読者」氏の意向を全面的に受け入れて、ここに「読者」氏によるわたくしへの糾弾文書のすべてと、それに対するわたくしの反論文書を、何の手も加えずに、そのままの姿で、再度公開したいと思います。

わざわざいくつかのエントリのコメント欄を見に行かなくても、「読者」氏がわたくしを糾弾していた理由がどこまで的確であるか、わたくしの対応がどこまで不誠実なものであったかが、読まれる方々に一目瞭然となりましょう。

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「池田信夫氏の「書評」」へのコメント欄:

濱口桂一郎氏に質問です。なぜ濱口氏は10月初旬に出版された池田信夫氏の新刊『希望を捨てる勇気』の書評をブログにお書きにならないのですか?俺には不思議です。

濱口氏はたぶんこうおっしゃるでしょう。「池田氏が勝手に私の本を書評したからといって、私が彼の新刊を書評せねばならない義務はない」。

しかし本当にそうでしょうか?濱口氏は池田氏を挑発していた。

>投稿: hamachan | 2009年8月25日 (火) 23時14分
>それと、ほんとは「読んではいけない」で罵倒したい気持ちがこうして吹き出たとか(笑)。 さすがに、ひと様に「読んではいけない」という理由が、「修士号もないこっぱ役人上がりのくせに。 俺様は博士だぞ」だけでは恥ずかしいのでしょうが、 それ以外に罵倒する理由が見つからないのですかね。

そしてご自分が池田氏を挑発したことも暗に認めている。

>捏造を批判されて逆上したのか、急いで拙著の「書評」をアップしたようですね

ユニークで自分の5~6倍以上の集客力があるブロガーが自著を取り上げてくれたらそれだけでも感謝をするべきです。池田氏に対して感謝の一言もないのはどうしてですか?感謝どころか、池田氏の書評をさらして業界の知識が少ないことを小馬鹿にしていた。労働法がご専門の濱口氏と、経済学者である池田氏では、雇用・労働問題に関して、知識の絶対量に差があって当然です。濱口氏のやっている事は礼儀を欠き、池田氏への批判は間違っています。

>もう少し、「こいつのこういう政策論はこのように間違っている」といった正々堂々たる 正面攻撃があるかと思っていたのですが、拍子抜けというところです。
>まあ、この「読んではいけない」のどこにも、わたくしの具体的な政策論のどこがどのように けしからんのか、片言隻句の記述もない

実のところ俺は、この濱口氏の書評の批判が出た後でも、池田氏の新刊が出たら、濱口氏はその新刊をブログで書評するだろうと疑っていませんでした。しかし濱口氏が『希望を捨てる勇気』の書評を出す気配はありません。

些細なことだし、池田氏には「余計なおせっかいだ!」と逆に俺が怒られるかもしれませんが、俺は今回はじめて濱口氏がどういう人間かよく分かった気がします。

濱口氏は池田氏の本を批判して経済音痴であることが露呈するのが怖いのですか?それとも最初っからご自分は池田氏の本の書評など書く気がないのに、池田氏の書評はさらして彼を小馬鹿にし、アクセス数を稼いだだけですか?

もしそうならあなたがやっていることは卑怯だ!

ぜひ濱口桂一郎氏に『希望を捨てる勇気』の書評をしていただいて、「池田氏のこういう経済政策はこのように間違っている」と正々堂々たる 正面攻撃をしていただきたいと思います。

投稿: 読者 | 2009年10月23日 (金) 01時29分

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「読者」さんは何か勘違いをしておられるようですが、そもそも本エントリのタイトルにおいて、私が「池田信夫氏の『書評」』とカギ括弧付きにしてあるのは、上の記述に明らかなように、いかなる意味においてもそれが書評の名に値するような代物ではないと考えるからです。

「読者」さんは、

>濱口氏はたぶんこうおっしゃるでしょう。「池田氏が勝手に私の本を書評したからといって、私が彼の新刊を書評せねばならない義務はない」。

と言われるのですが、池田氏がわたくしの政策論について、それこそホワエグ論でも休息期間規制でも、請負と派遣の話でも偽装有期の規制でも、教育費や住宅費の問題でも、集団的労使関係の話でも、どれか一つでも取り上げて辛口でも何でも批評をされたのであれば、わたくしもまったく同一の知的倫理的水準水準において、池田氏の本を論評することができるでしょう。

しかしながら、もし出版元と現所属先と出身組織に対する単なる悪罵のみからなる文章を「書評」と呼ぶというのであれば、私はそのような下品な文章を書けと言われても断固拒否します。「読者」さんは、わたしがダイヤモンド社と上武大学とNHKへの悪罵を繰り広げ、ついでに「池田氏の言っていることは、私も前に書いていたぞ」とでも付け加えれば満足されるのかも知れませんが、私はそのようなご要望にお応えするつもりは毛頭ありません。近々ダイヤモンド誌編集部の方のインタビューを受ける予定ですし、NHKには「何回も出演させていただいているし、上武大学に対しても箱根駅伝おめでとうと素直な祝意を表する以外に何もないのです。

本ブログにも時々、単なる悪罵のみを目的としたコメントが寄せられることがありますが、具体的な内容がなく単なる悪罵のみのものは削除しています。悪罵の対象が池田信夫氏であるものも数十件書き込まれましたが、すべて削除されています。お心当たりの方は反省していただきたいと思います。池田信夫氏と対立している人間のブログだから、その悪罵を書けば公開してくれるだろうなどという低劣な心性の人間を認めるつもりはありません。

いずれにしろ、わたしは人の愚劣な「書評」がまともな意味における書評になっていないことを指摘することはしても、同じ倫理水準の「書評」と称する誹謗中傷文書をわざわざ作成するつもりはありません。「読者」氏が池田信夫氏の「書評」を前提にしてそれに対応するものをなぜ書かないのかといわれる以上、そんな下劣なものを書くつもりは毛頭ないというのが唯一の答えです。

もし、これはあくまで現実に反する仮想ですが、池田信夫氏の書評が拙著の具体的な政策提言に関わるような誠実なものであったとしたら、と問われれば、そのような誠実な書評者に対しては、自ずから誠実な対応をすることになるでしょう、と答えることになりましょう。残念ながら、これは現実に反する仮想ですから、なぜそうしないのかという問いはそもそも根拠を有さないことになりますが。

投稿: hamachan | 2009年10月23日 (金) 08時08分

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ご丁寧なご回答どうもありがとうございます。反論します。俺は必死で書いているので「単なる悪罵のみを目的としたコメント」などと濱口氏に一方的なレッテル貼りをされて削除されたくありません。絶対に削除しないでください。

>そもそも本エントリのタイトルにおいて、私が「池田信夫氏の『書評」』とカギ括弧付きにしてあるのは、上の記述に明らかなように、いかなる意味においてもそれが書評の名に値するような代物ではないと考えるからです。

俺の目には「書評」に見えます。「書評の名に値するような代物ではない」は濱口氏の一方的な私見です。お金をとって本を書いて売るプロは、気にくわない書評は「こんなものは書評(批評)ではない」といって書評子を貶める行為は絶対にやってはいけません。濱口さんが書いたのは新書であり、商品なのです。プロなら自由な批判を受けるのは当然であり、自分が理解できない書評スタイルもその中に含まれることも覚悟せねばなりません。

>池田氏がわたくしの政策論について、それこそホワエグ論でも休息期間規制でも、請負と派遣の話でも偽装有期の規制でも、教育費や住宅費の問題でも、集団的労使関係の話でも、どれか一つでも取り上げて辛口でも何でも批評をされたのであれば、

それならば逆に伺います。

濱口氏は公に多数回に渡り池田氏を批判してこられましたが、実のところ「経済学者としての池田信夫」を批判しているのですか?それとも「表現者としての池田信夫」を批判しているのですか?どちらですか?

これまで濱口氏がお書きになった池田氏をあてこすった表現の中には「経済学者らしからぬ」とか「トンデモ経済学者」とか「経済学者もどき」etcとあるので、「経済学者としての池田信夫」を批判されてこられたのかな?と思いますが・・

しかし濱口氏が「経済学者としての池田信夫」を批判してきたのだと仮定すれば、「池田氏が経済学者として失格であるという証明」を濱口氏が出す必要があります。しかし濱口氏は、池田氏が経済学者としての能力の欠陥を証明したと呼ぶのに足るエントリをお書きになったことは一度もありません。

つまり事実として、濱口氏は経済学リテラシーは池田氏よりずっと低いわけですから、「経済学者としての池田信夫」を批判することは不可能です。だから濱口氏は「表現者としての池田信夫」を批判してきたことになります。池田氏は経済学者であり、プロの表現者です。日本におけるプロのブロガーの草分け的な存在ですから、専門である経済学を離れて、社会一般の多様な題材を取り上げて文筆活動されています。労働法・雇用関連の記載もその一部です。

濱口氏が「表現者としての池田信夫」を批判してきたのだとしたら、その批判が正当であると言い張るためには次の2点のいずれかは証明する必要があります。

(1)プロの表現者として池田氏よりも濱口氏のほうが才能・実績・実力がある。
(2)プロの表現者として見ても池田氏には批判に値する何かがある。

どうでしょうか?(1)に関してはもはや何も言うべきことはないと思います。(2)についてですが、池田氏が個人で書いているブログの中に、プロの労働法学者からみて「いいかげんだ」と思われるような記載があったと仮定しても、それは濱口氏が繰り返してきたような侮辱に値するものなのかどうか。「日本労働法学会では問題視されても、ブロゴスフィアでは問題視されない程度である」と俺は思いますし、学会がブロゴスフィアより上であるという価値観は俺にはありません。

>しかしながら、もし出版元と現所属先と出身組織に対する単なる悪罵のみからなる文章を「書評」と呼ぶというのであれば、私はそのような下品な文章を書けと言われても断固拒否します。

俺は濱口氏に「池田氏の本を書評してほしい」という読者リクエストは出しました。しかし「下品な文章を書け」とリクエストしたことは一度もありません。

俺はむしろ「恨みに対して恩を持って報いよ」(老子)ではないけれど、書評のみならず普段から法曹として誰よりも高い人格を濱口氏には示してほしい。「学問的誠実に満ちた一流の書評」を今からお書きになったらどうでしょうか?

そして『希望を捨てる勇気』にしても『なぜ世界は不況に陥ったのか』にしても、まともに内容を批評しようと思えば相当なレベルの経済学リテラシーが必須であり、そのような高度な経済学リテラシーを持ち合わせていない濱口氏には経済学者が読むに値する書評を出すのは不可能だと考えています。書評すら出せない濱口氏に池田氏のことを「インチキ経済学者」呼わばりする資格はありません。

>「読者」さんは、わたしがダイヤモンド社と上武大学とNHKへの悪罵を繰り広げ、ついでに「池田氏の言っていることは、私も前に書いていたぞ」とでも付け加えれば満足されるのかも知れませんが、

俺がいつ「相手のレベルに合わせた書評を書いてください」というお願いを出したのでしょうか?

>池田信夫氏と対立している人間のブログだから、その悪罵を書けば公開してくれるだろうなどという低劣な心性の人間を認めるつもりはありません。

濱口氏がコメント削除していたとは初耳です。正直に少し驚きました。俺が書いた池田氏の悪口は100%掲載なので、コメント管理されていたとは知りませんでした。

>いずれにしろ、わたしは人の愚劣な「書評」がまともな意味における書評になっていないことを指摘することはしても、同じ倫理水準の「書評」と称する誹謗中傷文書をわざわざ作成するつもりはありません。

それならは俺の考えに反論する形で構いませんので「まともな意味における書評」を定義していただけませんか?俺の目から見ると池田氏の書いていることは書評になっているのです。

投稿: 読者 | 2009年10月24日 (土) 13時14分

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>俺の目には「書評」に見えます。「書評の名に値するような代物ではない」は濱口氏の一方的な私見です。お金をとって本を書いて売るプロは、気にくわない書評は「こんなものは書評(批評)ではない」といって書評子を貶める行為は絶対にやってはいけません。

池田信夫氏の当該文章が「書評」の名に値するかどうかを、あなたと議論するつもりはありません。
ここに、その全文を引用しますから、それを読んだ自称「読者」さん以外のまっとうな読者のみなさんが、それをどう評価するか、です。

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厚生労働省の家父長主義を解説したパンフレット
濱口桂一郎『新しい労働社会』 岩波新書

岩波書店といえば、この反書評の常連だ。かつては日本の文化を担っていた出版社が、1970年あたりで時計が止まり、社民党御用達の泡沫出版社になってしまったのは、日本の文化のためにも惜しむべきことだ。本書も、規制によって労働者を「保護」する厚生労働省の家父長的な労働行政を厚労省の官僚に解説させたもので、本というより役所のパンフレットに近い。

著者は日本の雇用関係が「メンバーシップ」にもとづいているという大発見を最近したそうだが、そういう議論は経済学では昔からある。日本では少なくとも私が1997年に書いた本の第5章で、Hart-Mooreに代表される所有権(ownership)によるガバナンスに対して、Krepsなどの評判によるガバナンスを会員権(membership)という言葉で紹介し、第6章「メンバーシップの構造」でそのインセンティブ構造を論じている。

著者はこのメンバーシップ(長期的関係)がなぜ成立したかというメカニズムを説明していないが、これはゲーム理論でおなじみのフォーク定理で説明できる。彼が「日本の雇用の特殊性」として論じている問題は、気の毒だが、20年以上前に経済学の「日本型企業システム」についての研究で論じ尽くされたことなのだ。先行研究があるときは、それを引用するのが学問の世界のルールだ。新書はかまわないが、今後、著者が「メンバーシップ」について言及するときは、拙著を必ず参照していただきたい。

また著者は、このメンバーシップが「日本の労使関係の特質」だとして、それを前提に議論を進めているが、いま日本で起こっている問題の本質は、このようなメンバーシップを支えてきた成長によるレントの維持が困難になってきたという変化だ。それがなぜ生じたかは、日本で長期的関係が発達したメカニズムを分析しないと理解できないが、スミスもケインズも読んだことがない著者にそれが理解できないのはやむをえない。

他は欧州の労働市場などの紹介で、特に独創的な見解が書かれているわけでもないが、「ネオリベ」に対する敵意だけはよくわかる。結論は「ステークホルダーの合意が大事だ」ということだそうだが、これは「みんな仲よくしよう」といっているだけで、何も内容がない。企業の所有権をもたない労働組合が強いステークホルダーになって効率的な意思決定を阻害し、欧州企業の競争力を弱めている、というのが最近の経済学の実証研究の結論だ。

著者は厚労省から政策研究大学院大学に派遣されて「なんちゃって教授」をしばらくやっていたが、最近は「労働政策研究・研修機構」という独法に戻ったようだ。そこに勤務していた若林亜紀氏の『公務員の異常な世界』によれば、研究員が足りないと事務員を「昇格」させて埋め、彼女がまじめに研究して本省に都合の悪い結論を出したら、報告書を握りつぶす所だそうだ。無駄な組織には、無駄な人物が棲息しているわけだ。この独法は、行革で何度も廃止の対象にあげられながら労組の反対で生き延びてきたが、「聖域なき無駄の削減」をとなえる民主党政権はどうするのだろうか。

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この中でかろうじて「書評」の名に値するのは、「メンバーシップ」論に対する「俺も10年前に博士論文に書いていたんだぞ」というところだけであり、実はその点については、池田氏に限らず、労使関係論の世界では昔から言われていることですね、と上のエントリの本文で述べています。

ほかのどの論点でも過去の先行研究を挙げるなどということはしていない一般向けの新書版ですから、いささか難癖の嫌いはあるといえ、その点については池田氏の指摘を私は認めています。しかし、「書評」の名に値するのはそこまでです。

それ以上に、「岩波書店といえば、この反書評の常連だ。かつては日本の文化を担っていた出版社が、1970年あたりで時計が止まり、社民党御用達の泡沫出版社になってしまった」だの「規制によって労働者を「保護」する厚生労働省の家父長的な労働行政を厚労省の官僚に解説させたもので、本というより役所のパンフレットに近い」だの「著者は厚労省から政策研究大学院大学に派遣されて「なんちゃって教授」をしばらくやっていたが、最近は「労働政策研究・研修機構」という独法に戻ったようだ」だの「無駄な組織には、無駄な人物が棲息しているわけだ。この独法は、行革で何度も廃止の対象にあげられながら労組の反対で生き延びてきたが、「聖域なき無駄の削減」をとなえる民主党政権はどうするのだろうか」といった単なる悪罵の連続に対してまともに対応する必要はないというのが私の判断であり、
同次元の「書評」を書く気にはなれないというのが正直なところです。

それから、「読者」さんであるかどうかは知りませんが、私は単なる悪罵のみからなるコメントは削除しています。実例としては「池田信夫って馬鹿ですねwww」というようなのがあります。それに対して、池田信夫氏がなぜどのように間違っているかについて書かれたコメントはそのまま掲載しています。その原則に何の変わりもありません。

(追記)

それにしても、上記のような「書評」を擁護しながら、平然と

>「恨みに対して恩を持って報いよ」

などとうそぶくことのできる「読者」さんの倫理水準は、(もしそれが自らの水準を人に求めているのであれば)人間としてはあり得ないほど高潔であるのか、それとも(自分にはできないことを人に求めているのであれば)人間として信じがたいほどその反対であるのかいずれかであるように見えます。
そのいずれであるかは、必ずしもここで明らかにされることではありませんが、池田信夫氏に対しても同様のことを言う用意があるかどうかはその適切な示準となるであろうとは思われます。

なんにせよ、「読者」さんは、上記のような池田氏の「書評」を「俺の目から見ると池田氏の書いていることは書評になっている」といいながら、一方で私に対しては、「俺は濱口氏に「池田氏の本を書評してほしい」という読者リクエストは出しました。しかし「下品な文章を書け」とリクエストしたことは一度もありません」とか「俺がいつ「相手のレベルに合わせた書評を書いてください」というお願いを出したのでしょうか」などと、何の気後れもなく平然と言い放つことができる素晴らしい正義感をお持ちのようですから、何を申し上げても倫理観に訴えるなどということは絶望的かも知れませんが。

上のお答えにも書いたように、池田氏の「書評」なるものは、拙著の政策提言の何一つとして一言一句たりともコメントしていません。ホワエグ論でも休息期間規制でも、請負と派遣の話でも偽装有期の規制でも、教育費や住宅費の問題でも、集団的労使関係の話でも、何一つとして論じようとはしていません。それが歴然たる事実です。

つまり、書評に書評でお返しするという前提そのものが成り立っていないのです、「読者」さんの高邁なる「恨みに対して恩を持って報いよ」の境地に達するのでない限りは。

私は残念ながら修行が足りないので、そこまでの境地には達していないのですが、少なくとも上記「書評」を書いた池田信夫氏に比べれば、同レベルの誹謗中傷文書を書かないという点において、若干の倫理的優位性を主張させていただいてもよろしいのではないかと考えています。それ以上の優位性を主張するつもりは毛頭ありません。

投稿: hamachan | 2009年10月24日 (土) 17時12分

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「池田信夫氏の3法則」へのコメント欄:

(もともと「湯浅誠風味のお金のつかない緊急雇用対策」へのコメントとして「読者」氏によって投稿されたが、コメント対象としてあまりにも不適切であるため、より適切なエントリのコメント欄に移動したもの。削除したわけではない。)

最近、本ブログに出没している「読者」と名乗る人が、いささか難癖を付けるようなコメントを連発し、それが付けられたエントリに無関係であることから、一般読者に迷惑がかかるため、こちらに隔離することにしました。

以下にそのやりとりを再現して、公開性を維持した上で、当該エントリからは削除いたします。

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あれ?まさかそんなことは無いと思いますが、もしかして濱口先生、俺が送ったトラックバックを削除されましたか?
うろ覚えですが「コメントやトラックバックは削除しない」と公言しておられたようですので少し気になりまして、確認のためコメントさせていただきました。

投稿: 読者 | 2009年10月24日 (土) 11時34分

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原則通りです。
削除するコメントやトラバは、エントリの内容に全く関係のないものおよび方向はどちらであれ単なる悪罵のみを目的とするものです。(たとえば実例で言うと「池田信夫って馬鹿ですねw」といったもの。これが結構多い。)
そうでない限り、すべて公開しています。

投稿: hamachan | 2009年10月24日 (土) 16時55分

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ということは1時間かけて書いた俺のトラックバックを削除したわけですね。

それならばこのブログに載っているコメントやトラックバックは一つ残らずエントリに関連があって、悪罵を目的としたものではないのですね?

それならば一つでも俺が「エントリの内容に全く関係のないものおよび方向はどちらであれ単なる悪罵のみを目的とするもの」を見つけたら、濱口氏の私情による例外もありうるということですよね?

>原則通りです。削除するコメントやトラバは、エントリの内容に全く関係のないものおよび方向はどちらであれ単なる悪罵のみを目的とするものです。

すみませんが、その「原則」をアナウンスされたのは何時なのですか?俺は熱心にこのブログを読んでいる方だと思いますが、その原則の存在を知りませんでした。

お手数をおかけするようで大変恐縮ですが、その原則をアナウンスされたエントリを指摘していただけませんか?

俺が記憶しているのは、濱口氏が

「投稿はわたしの考えに真っ向から反対するものであってもすべて公開しています。わたしには理解できなくても、他の読者の皆さんの役に立つかもしれないですからね」

と他のコメント投稿者に対して、注意をしていた時だけです(うろ覚えですので一句一句は間違っているかもしれません)。

投稿: 読者 | 2009年10月24日 (土) 19時37分

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本当に日本語の読めない奴だなあ。

あなたのトラバはきていません。もしきていれば、上の基準に従い、公開しています。

時々、トラバを削除されたと苦情を言う人がいますが、一方的な思いこみであれこれ書くのはやめていただきたい。

ここまでは許容範囲ですが、これ以上、偏執的に書くのであれば、それなりの対応はします。

ついでながら、上の基準はまっとうなブログであれば当然のもので、「池田信夫は馬鹿www」というようなコメントを公開するかしないかをあらかじめ明らかにしておく必要はないはずです。

最近も山のように奇怪なコメントが付けられ続けていて、それを削除するのに忙しいのですが、どんなものが来ているのか、一つ例示のために時限的に公開しておきましょうか。
森本生馬なる名前で毎日のようにコメントをつけてくる人のものです。

投稿: hamachan | 2009年10月24日 (土) 20時10分

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

>本当に日本語の読めない奴だなあ。

これはひどい。

だって濱口氏は俺のトラックバックを読んでいないわけでしょう?

それで上の濱口氏のコメントなのだから、「濱口氏は読んで、エントリに関連がないと判断して、削除した」と俺が受け取ったとしても無理はないと思いますね。

日本語にあいまいな部分をもたせるのは濱口氏のスタイルでは。

投稿: 読者 | 2009年10月24日 (土) 20時15分

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

改めて通告しておきますが、このブログは題名の通り労働問題に関するブログであり、労働問題に関心を持つ人々のためのサロン的性格は持たせるつもりはありますが、労働問題には何の関心もないくせに、池田信夫氏に対する愛情表現の発露の場としてわたくしに対する見当はずれの非難を続ける人のコメントを無制限に許容するかしないかは、最終的には私の判断によります。

どこぞのブログと違うのは、そのいきさつをきちんと労働問題に関心を持つ一般読者の前に明らかにして、その評価にゆだねることです。

自分の行動が労働問題に関心を持つ本ブログの読者の目にどのように映っているかを、そろそろ反省される時期でしょう。

投稿: hamachan | 2009年10月24日 (土) 20時18分

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

次の自称「読者」氏のコメントによって、判断します。

このいきさつは、一般読者の目の前に明らかですから、闇から闇に葬られたなどと嘘偽りを喚かないようにしてください。

投稿: hamachan | 2009年10月24日 (土) 20時21分

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本エントリは、題名の通り、湯浅氏と緊急雇用対策に関するものです。
コメント公開の原則に従ってこれまで「読者」氏のコメントを公開してきましたが、せっかく本エントリを訪れられた方々に対してお目汚しのコメントが並ぶことになるので、大変遺憾です。

このようなことになる場合の対応の仕方については、現在検討中です。

投稿: hamachan | 2009年10月24日 (土) 20時24分

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

濱口氏は相手の意見に何かお気に召さないところがあると、内省するより先に、相手に対して激昂してしまうんですね。<お前の言うことなんか正しいわけがない!>と決めつけて、俺に返事しておられませんか?

普通の人は誰かから批判されると「もしかしたら自分にも(相手の言うような)悪い部分があるのかもしれない・・」と悩むものですが、濱口氏の場合、まず全部、相手の(つまり俺の)言っていることがおかしい、俺がやっていることが悪い、俺の言い方が悪い、お前が全部悪い、と「決めつけて」、自分の立場をあくまで保持した上で、相手の反論をシャットアウトしてしまう。どうしてですか?(濱口氏が間違っている可能性は本当にゼロなんですか?)。

確かに俺はこの数日、何通かメッセージ出しました。いいかげんな気持ちで出したものは無い、と断言できます。お書きになっている内容に一部、事実誤認があるようなので訂正させていただきます。

>労働問題には何の関心もないくせに、

事実誤認です。濱口氏がそう判断されたソースを提示してください。

>池田信夫氏に対する愛情表現の発露の場として

(あの・・支離滅裂になってきていませんか?)。俺がコメントを送っている動機は残念ながら池田氏に対する愛情ではなく、誰かに対する別の感情なのです。

>わたくしに対する見当はずれの非難を続ける人

「自著に対する自由な批判はプロなら甘受すべきだ」と諫言したら「見当外れの批難」ですか?

>どこぞのブログと違うのは、そのいきさつをきちんと労働問題に関心を持つ一般読者の前に明らかにして、その評価にゆだねることです。

この点に関しては同意で、「諫言だけなら直メールの方がいいのかな」と思うようになりました。どうですか?俺はどちらでも全く構いません。

>次の自称「読者」氏のコメントによって、判断します。このいきさつは、一般読者の目の前に明らかですから、闇から闇に葬られたなどと嘘偽りを喚かないようにしてください。

この部分は何度読んでも意味が分かりません。どういう意味ですか?

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先日はお忙しい中俺の質問にお返事くださりどうもありがとうございました。まだ分からない部分があるので、質問の追加になります。ご回答いただければ大変うれしいです。

【俺からの質問は次の三つです;】
(1)これから先も池田信夫に粘着して不当に侮辱し続けるおつもりですか?
(2)プロ経済学者足るのに労働法リテラシーは不可欠なのですか?
(3)いったい濱口氏は池田信夫の何をそんなに見下しているのですか?

(1) これから先も池田信夫に粘着して不当に侮辱し続けるおつもりですか?

俺は池田信夫は貴方のやっていることを本気で嫌がっていると思う。なぜなら貴方は、「労働法リテラシー」に即して「プロの作家で大学教授」としての池田信夫を侮辱するので、(経済学者であって労働法学者ではない)池田信夫にしてみればしっかり言い返せないで当然だからです。田中秀臣は違う。池田信夫に対して経済学リテラシーに即して批判している。だから池田信夫も経済学リテラシーに即して長々反論している。

「池田信夫blog2」に行って「濱口桂一郎」で検索しても2件しかヒットしない。濱口氏のブログに行って「池田信夫」で検索すると600件以上ヒットする。

濱口さんは「プロの作家としての池田信夫」「表現者としての池田信夫」以外を全くご存じないわけですよね?過去にトラブルがあったのは「表現者としての池田信夫」ですよね。それならば原則的に、濱口氏が批判することができるのは「プロの作家・表現者としての池田信夫」だけで、「一介の職業経済学者」ではないはずです。池田信夫は二足のわらじなんですよね。

それなのに数百回に渡る濱口氏の批判(不当な侮辱)は、その全てが「一介の職業経済学者」としての資質を批難する内容であり、相手がプロの作家であるという公然の事実は巧妙に隠されていて触れられていない。

「プロの作家であり大学教授」という人は日本にもたくさんいます。「歴史文学を書いて出版している数学科の教授」が、自分が書いた小説の中で、歴史認識に事実誤認があったとしても、彼の「数学科の教授としての学問的資質や誠実」を問題視することはできません。(いったい誰が何の権利があって?)

(2)プロ経済学者足るのに必要なのは「経済学リテラシー」であって、「労働法リテラシー」ではないと思いますが・・。

今の濱口氏にとって池田信夫はカモネギ化している。池田信夫を叩けば、ご自分のブログのアクセス数が増える。しかもいくら池田信夫を批判しても、「労働法リテラシー」からのみ攻撃していれば、絶対に池田信夫からは対等に反論出来ない。誰かのことを叩きたい放題叩くことができて、しかも自分はその責任を一切、とらなくていい、なんて、これを「カモネギ」と呼ばないで何をカモネギと呼ぶべきでしょうか?

濱口氏にとって何より大切なのはおのれの「無謬性」なんですよね。だから濱口さんはこれから先も池田信夫を侮辱し続けるだろうけど、濱口さんは(田中秀臣や小倉秀夫や山形浩生と違って)絶対に「経済学リテラシー」という観点からは池田信夫を攻撃しない。

俺はそういう濱口氏の「戦術」は卑怯きわまりないと思う。「表現者としての池田信夫」しか知らないのに、彼の「学問的誠実」を問題視するやり方とか、池田信夫は経済学者なのに、つねに労働法リテラシーからのみ彼を攻撃するとか。

経済学者に労働法リテラシーは不可欠であるとは言えない。少なくとも濱口氏が問題にしているような高度な労働法リテラシーをもっていない、から、誰かが経済学者として「トンデモ」であり「うそつき」であるなんてとても言えない。

プロの作家が英文を訳し間違えたら「捏造」とは何事ですか。ブログ記事を見て批判するのなら事実誤認の指摘のみにとどめるべきだ。「一介の職業学者」としての社会的信用を落とすような記載は一切するべきではない。「経済学者」としての池田信夫を批判したいのなら、田中秀臣のように『なぜ世界は不況に陥ったのか』の書評を書いて出すべきだ。ご自分の「無謬性」は完璧にキープしておきながら、「指摘」と称して、池田信夫を侮辱し続け、アクセス数を稼ぐ・・という行為はやはり対等で公平な学者間のやり取りとは呼べないと思う。

(2) いったい濱口氏は池田信夫の何をそんなに見下しているのですか?

これが一番(第三者には)理解不能です。だって濱口さんは「プロの作家としての池田信夫」以外をご存じないでしょう。プロの作家として風上におけないところがある!という文脈でしか池田信夫に怒りをぶつけることができないはずでは?

濱口さんは池田信夫をはけ口にしていますね。

そういう人間が濱口さんには必要なんです。殴るだけ殴っても、自分はその責任をとらなくって済むような相手が。濱口さんの中には本気で残忍な部分がありますね。でもご自分がやっていることに正当性を持たせるために、あくまで池田信夫の「学問的誠実」に問題があると見せかけて、彼をなじりつづける・・というやり方は、今後は止めたほうがいいと思いますよ。ブロゴスフィアは濱口さんの本当の姿に気づき始めている。俺は濱口さんは次へ行くべきだと思うね。

※プロの表現者に対して「学問的誠実」を問題視する批判の妥当性について問うているので、このコメントは濱口氏が池田信夫の学問的誠実をなじっているエントリに投稿します。エントリに無関係ではありませんのでそこのところはご注意ください。

投稿: hamachan | 2009年10月24日 (土) 20時32分

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スウェーデンの職場の個人情報保護法案

スウェーデン政府が職場の個人情報保護法案を提出したというニュースがEIROに載っています。

http://www.eurofound.europa.eu/eiro/2009/09/articles/se0909019i.htm(Proposed law to protect personal privacy at work)

>The Swedish government has made a new legislative proposal on the protection of personal privacy in working life, with the help of a special commission set up to evaluate the current legislation. The proposal sets out mainly five stricter regulations on surveillance or control measures used by employers. The trade unions have in general reacted positively to the proposal, but the employer organisations are very critical of the content of the proposal.

具体的な内容は、次の通りだと言うことです。

•three changes in the Personal Data Act 1998:204; the act is based on Council Directive 95/46/EC which aims to prevent the violation of personal integrity in the processing of personal data and on the free movement of such data;

•prohibiting employers from obtaining certain data extracts on employees from criminal records, the National Social Insurance Agency (Försäkringskassan), the Swedish Enforcement Authority (Kronofogdemyndigheten) or credit reporting bureaus;

•stricter regulation of employers’ ability to request employees to undergo a medical examination;

•prohibiting privacy-invading measures such as conducting surveillance or background checks that constitutes a manifest infringement on an employee’s personal privacy (such as IQ tests, wiretapping telephone calls, searching lockers, analogue camera surveillance in toilet areas), unless the measure was taken for an authorised purpose;

•a mandatory provision obliging the employer to negotiate in advance with the trade unions in the manners prescribed by the Co-Determination Act (Medbestämmandelagen, MBL 1976:580), when planning to introduce surveillance or control measures. The commission also proposes to ask the Data Inspection Board (Datainspektionen, a public authority which aims to protect the individual’s privacy in the information society) for an opinion regarding the employers’ handling of personal data.

使用者が犯罪記録、社会保険記録、債務記録などから労働者に関する情報を入手しようとすることの禁止、労働者に健康診断を強制することへの制限、労働者に対するIQテスト、盗聴電話、監視カメラなどの原則禁止、労働者の個人情報に関わるような措置を執ろうとする際に共同決定法に基づいて労働組合と交渉しなければならないことなど、が規定されているようです。

スウェーデンは、労働者代表システムに関しては、労働組合の一元主義ですので、労働組合との交渉の義務づけという形になるのですね。

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2009年10月28日 (水)

デンマーク型フレクシキュリティの落とし穴

HALTANさん経由で、

http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20091027/p1

ル・モンド・ディプロマティーク日本版の「デンマーク福祉国家の動揺」と題する興味深い記事を見つけました。

http://www.diplo.jp/articles09/0910.html

ちなみに、在欧当時は仏語版の同紙に目を通したりしていたものですが、最近は丸ドメの傾向が強く、ほとんど手に取らなくなってしまいましたなあ。それはともかく、

HALTANさんは最後の方の移民関係の記述に注目しておられ、これは本ブログでも何回か取り上げてきたネーションに立脚した福祉国家と移民問題の矛盾という大きなテーマですが、ここで取り上げたいのはそれとは別の話。デンマークが誇る「フレクシキュリティ」の柱の一つである寛大な失業給付についてです。

>国立雇用局によれば、24歳未満の若者の失業者数は8カ月で4倍に膨れ上がった。それも、約30ある組合系の失業保険金庫のどれかに加入していたおかげで、失業手当を受けている若者だけの数だ。

 デンマークではスウェーデンと同様、自発式のゲント制(3)という旧方式をいまだに採っており、失業保険への加入は任意とされている。そのため、2000年代の好況期には、完全雇用がほぼ実現されていたため、多くの若者は失業保険への加入など不要だと考えた。2009年第1四半期末の時点で、保険未加入の若年失業者は1万6000人に上る。保険加入者の3倍に相当する数だ。彼らは、フランスの最低所得保障と同じような、非常に貧弱な公的扶助に甘んじるしかない。

(3) 労働者運動の黎明期にベルギーのゲントで生まれたゲント制は、第1に任意の加入、第2に組合による保険金庫の運営、第3に複数の保険金庫の併存を基本原則とする。就労者か非就労者か、国民か移民か、といった区別なく、全市民に同一のサービスが提供される皆保険と対置される制度である。デンマークでは、失業保険だけに残っている。

ネオリベ系の論者がデンマークモデルを持ち上げるときに、必ずねぐって知らんぷりするのが、デンマークが労働関係のほとんどすべての規制を国会制定法ではなく中央労使団体間の労働協約で決めて実施しているウルトラ・コーポラティズム国家であるという点ですが、そして、本ブログでも何回か取り上げてきたように、そのことが個別企業レベルにおける解雇規制の緩やかさを担保しているわけですが、その「組合員であることがすべて!」という超労働組合万能国家であるがゆえに、自分から労働組合に入ろうとしない人間は、セーフティネットから自動的に排除されてしまうわけですね。

このあたりのパラドックスを真剣に考えるとなかなか難しくて、やっぱりデンマークみたいに労働組合に入らなくちゃ何も守られない社会じゃなくて、国家がちゃんとセーフティネットをかけてあげる社会でなくてはいけないと考える人もいるでしょうし、日本の非正規労働者みたいに入りたくても入れないのではなく、自分で勝手に入らなかった連中なんだから、どうなっても自分の責任じゃないか、という考え方もあるでしょう。

いずれにしても、地球上のどこかに完全無欠な理想郷が存在するなどということはありうるはずもないわけです。

もっとも、このもとの記事は、そもそもワークフェアやアクティベーションに対してかなり批判的な見解をもっているようですが、

>経済危機という状況下で、更に厳格化を進めようという趨勢は強い。公的扶助の受給者全員に課せられる「アクティベーション」は気楽なものではない。アナセン教授によれば、「平均的には、失業者はアクティベーション期間が来る前に、再就職先を見つけます」。この制度を最初に推進した社会民主党の発想は、労働者を失業状態に置かず、ただちにスキルアップを実施することにあったのだが、現実にはむしろ、有無を言わせず一刻も早く再就職させるための手段と化している。3カ月が無為に過ぎ、アクティベーションに突入するという展開だけは避けたいと、失業者に思わせる仕組みができあがっているのだ。つまり、新たな仕事、雇用主、ひいては勤務地を選ぶのは、以前より困難になっている。それが厭なら、失業手当を断たれることになる。明日のデンマーク型社会保障モデルでは、ワークフェアがウェルフェアに取って代わることになるのだろうか。

国家財政が無尽蔵でない以上、働けるのに働かない人に働いてもらうように努力するのは当然でしょう。

少なくとも、最近日本で奇妙に支持者が増えているように見えるベーシックインカム論などがまかり通る状況ではないと思います。

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労働法は契約ではなく実態で判断するのが原則

小さなNPO法人をやっている「lessorの日記」さんのところに、気になる記事があったので、

http://d.hatena.ne.jp/lessor/20091027/1256665695([障害者支援]これって何かおかしくない? )

>>■生産ライン請け負いで成果

 一方で、福祉ベンチャーパートナーズ代表取締役の大塚由紀子さんは「売り上げを伸ばしても工賃の上げ幅は小幅にとどまるが、工賃を一気に増やす方法がある」という。

 作業所では物作りを行い、できた品々を外で販売するケースが主流だが、そうではなく、作業所の外に出ることだという。高収益を出している企業はあり、生産ラインを丸ごと請け負えば時給を数百円アップできるという。

 三重県伊賀市の作業所「びいはいぶ」では、地元の美容室向けにヘアケア用品を作るメーカーの製造ラインの一部を請け負っている。作業はシール張りや検品などだ。

 施設長の奥西利江さんによると、交通費込みで時給500円。毎日6時間働き、月給は6万円に上る。収入が増えたことでグループホームに入り、自立できた利用者もいるという。

 奥西さんは「企業が負担する人件費も低くなり、障害者の給与も増え、双方にメリットがあった。こうしたやり方が全国に広がれば障害者の自立につながるはずだ」と話している。

>この場合、最低賃金とかって、どうなるのか。どなたか教えてほしい(自分がこのあたりの事情を正確に理解していない可能性は十分にある)。作業所との請負契約で個々人と雇用契約を結んでいるわけでないから、その作業所から「利用者」にどう払われるのかは別に関係なし、ってこと? そうすると、これからあちこちの企業があちこちの通所施設に「請負でぜひ」ってもちかけて、最低賃金以下でも働かせられるからラッキーって話になるの?(むろん既にほとんどの作業所で下請け等の仕事をして最低賃金なんて払えてないという例ばっかりなんだから同じことじゃないかっていう意見はあるだろうけれども、この場合は「生産ライン」って言っているのだから、最低賃金を守られた「健常者」と同じ工場内での就労だったりするんだろう?)

 労働の問題については素人に近い者の印象としては、安い人件費を求めて発展途上国に工場移転していくのと、全く同じ構図なんじゃないのだろうか。その様々な功罪を含めて。いや生産性の違いはあるから、同じではないか。なんだかイヤな感じ。あああ。

いや、最低賃金がどうこうという以前の問題として、工場の生産ラインを丸ごと請け負っていながら、「雇用」じゃない「請負」だなんて馬鹿げたいいわけができると思っている人々の存在が空恐ろしい。

これはマスコミもそうなんだけど、世間で言う「偽装請負」とは働いている人はれっきとした労働者であって、単に事業者間の契約が「派遣」か「請負」かというだけの話(それゆえ働いている人に労働法が適用されることは当然)なのですが、それとは全く別次元の、働いている人の契約自体を「雇用」じゃなく「請負」と偽装するのは、労働法の適用を丸ごと排除してしまうので大きな問題なのです。

こういう「偽装請負」が、マスコミの糾弾を受けることもなく横行しているとしたら、その方が百万倍大問題なんですがね。

とにかく、労働法は契約形式ではなく、就労の実態で判断するというのが大前提であり、「請負だもん!」といえば、労働法はひとりでにあっちに逃げてくれるというものではないということを、障害者福祉に携わる人々も含めて、世間の人々がもう少しよく認識していただきたいところです。

最低賃金について言えば、最低賃金法に障害者についての特例措置が規定されているので、対応の手段はあるのですよ。

(追記)

あまりにもふざけたはてぶがあったので、一言鉄槌を下しておきます。

apj_yamagata , この場合は、そもそも「事業者」と「働いている人」が別物なんであって。事業主として働いている場合と、話をごっちゃにするなよ 2009/10/28

だから、この工場の生産ラインで働いている障害者たちが、労働者として扱われているのかどうかが問題なんだろうが、この馬鹿者が。それとも、ラインに並んでいる障害者たちがみんな一人一人事業主かね?

人にいちゃもんつけるのを唯一の趣味にして生きることまで文句を言うつもりはないが、愚劣なだけのはてぶは、じぶんの愚かさを世間に公言しているだけだから、もう少し物事を考えてから書いた方がいいよ。

(再追記)

障害者雇用就労問題の悩ましさがこれっぽちでも判っている人なら絶対にやらかさないような愚かな台詞をえんえんとはてぶで繰り広げているようですが、

apj_yamagata 1:障害者のAさんは、「業務を請け負っている事業者Bさん」に雇われて働いています。事業主Bさんは「請負がなんちゃらかんちゃら」と何だか意味不明なことを言っていますwww。 (続く) 2009/10/28

本件で障害者たちは雇われていない(ということに法形式上なっている)から問題なんだということが判らないんだねえ。

障害者の小規模作業所というのは、雇用関係ではないという形で個々の障害者との労務供給関係を説明している。それは、小さな共同体内部の事実上の共同作業であるがゆえに、障害者の就労場所の拡大という政策的意図もあって認めてきているわけだが、同じ工場の中のこっちのラインが雇用労働者であって、あっちのラインが障害者であるがゆえに全く同じ作業を同じようにしていながら雇用関係ではない(ゆえに労働法が一切適用されない)という事態になることが認められるかという問題なのだよ。上の引用した文章を良く読み給え。問題をまったく理解しないまま自分の貧弱な認識だけであれこれコメントしたがる神経が一番いけない。

いちゃもんをつけたがるのは判るし、付けるのは好きにすればいいが、問題の本質を100%まったく理解していないくせに、わかったような捨て台詞を付け続けるのは、まっとうな読者諸氏にとっても不愉快極まるから、せめて池田信夫関連のエントリに立場の違いからなるほどと言ってくれる人もいるようなぶくまをつけるようにした方が身のためだよ。

といっても、言うことを聞く御仁ではないだろうがね、「ふま」さんよ。稲葉先生が遥か以前に一喝した気持ちが分からないでもないな。

(再々追記)

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shinichiroinaba ふまうぜえ 2009/10/28

はてなブックマーク - apj_yamagata のブックマーク b:id:apj_yamagata
shinichiroinaba ふまでしょこいつ 2009/10/28

御意。

このわたくしへの粘着ぶりは、池田信夫いのちの「由紀」氏と双璧ですな。

どうもそのむかし、稲葉先生が「ふま」に毅然とした態度を取られたときに、わたくしが曖昧な姿勢に終始したことが、今日のこの醜悪きわまる事態を招いているようであります。ぶった切るべき時には有無を言わさずぶった切るという姿勢が必要であることを今更ながらに学んでおりますよ。

(さらに追記)

ついにhamachan先生が言及してしまったか。頭が可哀相な子に。しかしまあ、私も最近目に余るからignoreリストに入れた子だからのう…。まあ有名なブログ主って大変だなあと

御意。

いや、ホント大変です。

(まっとうな追記)

引用元のlessorさんに本エントリについて追記され、またいつも本ブログで言及することの多い黒川滋さんに本エントリが取り上げられました。

http://d.hatena.ne.jp/lessor/20091027/1256665695

http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2009/10/1028-e679.html

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2009年10月27日 (火)

公開講演会「貧困にどう立ち向かうか-一橋エコノミストの提言-」

来る12月2日、一橋大学で標記のような講演会・パネルディスカッションが開催されます。

http://gcoe.ier.hit-u.ac.jp/information/schedule/conference/combating_poverty.html

>最低賃金の引き上げを含めた貧困対策をマニフェストに掲げた民主党が政権に就き、本格的な貧困対策の実施が重要な政策課題として浮上しています。しかしながら

  • 最低賃金の引き上げは有効な貧困対策なのか?
  • 既存の生活保護制度の拡充に問題はないのか?
  • 税制を通じた望ましい貧困対策にはどのようなものがあるのか?

といった数々の疑問があるのも事実です。

この講演会では、これらの問題を専門的に研究してきた一橋大学の経済学者5名が講演に加えディスカッションを行い、貧困対策にまつわる諸問題を解説するとともに、一般参加者の方々と望ましい貧困対策の方向性を考えます。一般の方も参加していただけます。入場無料です。事前申込みの必要もありませんのでご自由にご参加ください。

というわけで、プログラムは次の通りです。

14:00-14:05 開会挨拶 山内 進(一橋大学 理事・副学長)
14:05-14:15 問題提起 北村 行伸(一橋大学経済研究所 教授)
14:15-15:45 講演
14:15-14:35 「最低賃金と賃金格差」 神林 龍(一橋大学経済研究所 准教授)
14:35-15:05 「最低賃金の貧困対策としての有効性」 川口 大司(一橋大学経済学研究科 准教授)
15:05-15:25 「生活保護の現状と課題」 林 正義(一橋大学経済学研究科 准教授)
15:25-15:45 「給付つき税額控除の日本への導入」田近 栄治(一橋大学経済学研究科 教授)
15:45-16:05 休憩
16:05-16:35 ディスカッション
コーディネーター 北村 行伸
参加者 神林 龍・川口 大司・林 正義・田近 栄治
16:35-16:40 閉会挨拶 北村 行伸

今日の政策関心からすると、大変興味深い領域に切り込んでいるように思われます。

是非、多くのみなさんがご出席されるよう呼びかけるものです。

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池田信夫イナゴ氏のストーカー行為

最近、本ブログに「読者」という名前で執拗に池田信夫氏を擁護するコメントをしていた方が、遂にわたくし宛にメールで脅しのような文言を送ってくるに至りました。

本人が公開してもいいと言っているので、その通り公開します。

わたくしに対してこういう所業に出て一番迷惑をするのは、実は池田信夫氏自身ではないかと反省してみる必要があると思いますよ。

ここで描かれている「姿」は、さまざまな場面において、池田信夫氏にこそよく当てはまると言われてきたことですし、そもそも、労働問題について「一知半解」と言われて、中身に反論できないまま「天下り教授」とイナゴさん大勢と共に喚き散らし始めたのは、どちらであったかは、過去のログに見事に残っているとおりです。

少なくとも、私に批判されることを「弱いものいじめ」だと言われることほど、池田信夫氏の誇りを傷つけることはないのではないでしょうかね。

彼は訴訟も辞さないつもりのようですが、そうすると、池田信夫氏が最初にわたくしにかみついたいきさつからなにから全部裁判所で白黒つけると言うつもりでしょうか。なかなか壮大な計画ですね。池田氏が一番いやがるような気がしますが。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-5545.html(池田信夫氏の「書評」)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/3_a7ad.html(池田信夫氏の3法則)(「読者」氏のコメントは、最後のコメントにまとめてあります)

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俺の昨日送信したコメントは予告もなく削除しましたね。 ご自分の気に染まないことをしつこく言 って くる人間はやはり無言で追放ですか? このメールにも返事は来ないでしょうね・・それでもどうしても伝えたいメッセージがあるから伝え ま す。 俺が濱口さんに申し上げたいことは一点のみです。 「今後は池田信夫を叩くのは止めてください!!!」 貴方がやっていることは、「労働法リテラシーがない」という理由で 畑違いの経済学者を侮辱して いる だけではないですか? 俺がそう諫言したら、俺にそんなことを言われたことで、本気で腹を立てて、激昂し、削除し、 自 分の ブログから追い出す・・というのは 他人の話が聞けない人間なんですね。自由な批判を受け付けら れな いのは池田信夫と同じですね。あくまでご自分が正しい、ご自分のやっていることが正しい、相手が 自 分の気に染まないことを言ってくれば、相手を罵倒、あるいは相手の人格などに問題があることにし て 、ブログから、コミュニティーから「追い出す」。 濱口氏はこの先も、ずっと池田信夫を叩き続けるおつもりですか? 貴方がやっていることは、ほとんど無抵抗(仮に抵抗してきたとしても、濱口氏が負ける可能性は全 く ない)という相手に対するいじめでしょう。弱いもの、自分より劣ったものを、相手の気持ちを傷つ け 、攻撃を加え、池田信夫の立場を引きずり落とすのに濱口さんは優越感を覚えている。 俺は貴方がやっていることは絶対におかしい!と思う。その気持ちをこめて(諫言だからどうしても ネ ガティブなコメントになるでしょう)長文を書いたらあっさり削除、そして無言で追放ですか? 俺のことはともかく、もう弱い者いじめは止めてください!!!!(号泣) 俺は「池田が好きだから、かわいそうだから」濱口さんにこういう嘆願メールを出しているのではあ り ません。 個人的事情ですが、俺自身は障害者で子供時代から執拗で理不尽ないじめに苦しめられ続けてきた。 イ ジメというのは、加害者側はまるで加害者意識を持っていないことが多いです。俺のほうが酷い目に 遭 っているのに俺の落ち度にされて、高校中退に追い込まれました。その時の精神的ショックでそれか ら 20年以上経った今でも通院している。 弱い者いじめをどうして数百回も繰り返すんですか?濱口さんのような社会的地位のある人がそんな こ とをしなくてはいけない理由など無いではないですか。貴方が作った「三法則」のおかげで、池田信 夫 は実際に社会的なダメージを被っている。彼は内心本気で嫌がっている。 > あなたの最後の脅迫文にもとづき、場合によっては、わたしがこのやりとりを公開する > ことも あり ます。 ぜひ公開してください!!!俺は公開を目的に書いています。このメールもどこへ出しても構いませ ん 。何なら訴訟に出しますか?訴訟にされるおつもりならぜひメール1本ください。訴状に必要な個人 情報 は開示してお教えしますのでプロバイダーへ連絡する手間が省けるでしょう。俺が送った「脅迫状」 っ て何ですか?もしかして前のメールのことですか?俺がいつ濱口氏を「脅迫」したのですか?どうし て そのように解釈されてしまったのか本当に理解できません。 大古由紀

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朋あり遠方より来る、また楽しからずや

昨日のエントリに対して、芦田さんが、さっそく言及されています。

http://www.ashida.info/blog/2009/10/post_385.html(岩波新書『新しい労働社会』の著者・濱口桂一郞さんが、彼への私の言及にコメントをくれました ― こんなことってあるんですよね(朋あり遠方より来る、また楽しからずや)。)

>私が書いたキャリア教育についての論文の中で触れた濱口桂一郞さんの著書『新しい労働社会』(岩波社会)。この著作は書評誌でも話題を呼んでいる著作だが、その労働問題の専門家である濱口さんが自身のブログで、私の言及にコメントをしてくれている。私の孤独な作業にも、労働問題の専門家の読者がいたことに謝意を表して、こちらからも彼のブログを紹介したい

決して「孤独な作業」ではないと思いますよ。

本ブログでも時々紹介しているように、現在日本学術会議で、まさにこのあたりのことについて議論をしているところです。

http://www.scj.go.jp/ja/info/iinkai/daigaku/syoku.html(大学教育の分野別質保証の在り方検討委員会 大学と職業との接続検討分科会)

また、OECDの「若者と雇用」日本編の翻訳も年内には出る予定です。

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2009年10月26日 (月)

権丈善一先生再起動

いやなに、「勿凝学問」シリーズが続けざまに連投されたというだけのことですが。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare253.pdf(血祭りやだまし討ちにかかわるのは僕の仕事ではないんだよ それが僕と政治学者の違いかな)

>今後起こることは、政治センス(?)に充ち満ちた政治家たちのリーダーシップのもとで、万が一巧く展開するとなれば、冬の時代を生きる官僚をはじめとした人たちを血祭りに上げて国民の溜飲を下げてあげたり、血祭りをみて歓喜する国民をだまし討ちにすることくらいかな――巧くいけばそういうことになるだろう。でも、血祭りやだまし討ちに協力することは僕の仕事ではないというだけの話である。僕と違って、政治学者ってのは、そういう血祭りやだまし討ちを嬉々として議論しては盛り上がっているように見えるのは昔からのことだけど、いいんじゃないかな、政治学者、そしてメディアの中の政治部ってのは、そういうのも仕事みたいだから。僕の仕事は、政策技術学として使える学問をできる限り総動員して、あるべき社会保障、あるべき税・財政の制度設計、あるべき社会経済制度の設計を行うことであり、政策技術屋としての僕は彼らとは根本的に仕事の質が違う。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare254.pdf(貧困の減らし方)

>国民負担率をあげないことを至上命題としている現政権の厚生労働大臣は、貧困率を下げるなにか手品でもみせてくれるのかな。就任早々、わざわざ貧困率を算出するように「ご指示」を出されるのだから、きっと秘策があるんだろう。国民負担率を上げないで社会保障給付を増やすというのは、あるあると大衆に信じ込ませたムダの削減で浮く財源を用いる以外は禁じ手だから、そこんとこよろしく。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare255.pdf(2つの国民 日本人の少数派と多数派)

>2つの国民とは、日本の財政事情などをよく知っており、かつ日本の社会保障に絶えず強い抑制圧力がかかるのも、はなっから国民負担率が低く、しかもその上財政支出に占める国債費というものが脳腫瘍のように肥大化していく中で、他の脳細胞を圧迫しているのに似た力学が働いていることを知っている日本人と、それを知らない日本人のことである。

http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare256.pdf(経済成長と医療政策のあり方)

>どうも僕の積極的社会保障政策のマネをする人たちのマネが下手なので、日医の医療政策会議に、会長が諮問した「経済成長と医療政策のあり方」について、僕が10月16日に出した草稿をアップしておく。医療の雇用創出効果が高いなんてのは諸刃の剣だから、素人さんやにわかケインジアンさん達は、そうした刃物を振り回すと「小児が利刀を弄するが如き」危うさがあるのでやめたがいい。

いずれも、権丈節全開です。とくに、253の政治学者批判のところは思わずうなってしまいますね。

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『ダイヤモンド』誌の取材

本日、『ダイヤモンド』誌の取材を受けました。派遣規制をはじめとする新政権の労働政策の話が中心で、それはいずれ記事になると思いますが、1時間半ほど話をして最後に、記者の方が「そういえば・・・」とある人の名前を出して「どう思いますか?」ご意見を求められましたがな。

こっちがどう思うよりも、向こう様がどう思ってるか、なんですけどね。たぶん、個々の政策論では(いろいろと学習して)わたしの考えに近づいてきた面もないわけではないだけに、ますます各論ではなくわたしの人格を否定しなければならなくなるという事態になっているように思いますが。書評に各論が全く姿を見せないのは、そういう苦衷が現れているようにも見えます。まあ、どっちでもいいことですが。

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OECD『日本の大学改革』からいくつかの引用

9784750330839 昨日紹介したOECDの『日本大学改革』ですが、あまり引用しすぎると明石書店さんに対する営業妨害になるので、そうならない程度にいくつか興味深い記述を引用しておきたいと思います。

>しかし、過去40年にわたって、日本と、北米及びヨーロッパにおいて、教員あるいは学生として、大学の当事者としての経験のある人々が口をそろえるのは、日本の高等教育は、平均的に言って、教員も学生も教室内の教育と学習や教室外での学習指導を比較的軽視していると言うことである。

>多くの大学教員は、主として専門家集団に属する研究者としての業績をもとに自分自身を評価しており、学部で学生に勉強を教える人としての側面は軽視されている。さらに、大学と職業社会の間の人材の交流の度合いは、国際水準から見ると低く、そのため高等教育、特に大学教育は職業生活から切り離されてしまっている。このような、大学教員とは研究者であるという文化が、短期大学の講師も含むほぼすべての大学の教員に共有されているという傾向は、他の国の高等教育には見られないことである。

>学生の多くが、授業への出席率が低かったり課外活動にばかり熱心だったりと、教室での学習に対する意欲が低いことは、二つの意味で当然のことともいえる。まず企業が、大学で何を学んだかではなく入学試験の成績がどれだけだったかということを基準に学生を採用するからであり、そして授業の内容が職業生活に役立つような能力や理解力を伸ばすものではなく、教員が研究している内容に基づくものになっているからである。

なかなか辛辣ですな。

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芦田宏直さんのキャリア教育・職業教育論

芦田宏直さんの「芦田の毎日」というブログで、中教審「キャリア教育・職業教育特別部会」の「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について」についての論評記事が5回にわたって掲載されており、その中で拙著『新しい労働社会』のメンバーシップ論・ジョブ論が何回か引用されております。

ひとまとめにしたPDFファイルは

http://dl.getdropbox.com/u/1047853/ver04%E3%80%8C%E9%AB%98%E7%AD%89%E6%95%99%E8%82%B2%E3%80%8D%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%80%8C%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E3%80%8D%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A8%AE%E3%81%A8%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%81%8B.pdf(「高等教育」における「新しい」学校種とは何か ― 中教審「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について」を読む)

ブログに分載されたものは

http://www.ashida.info/blog/2009/09/post_378.html(「今後の学校におけるキャリア教育・職業教育の在り方について」(中教審「キャリア教育・職業教育特別部会」)には何が書かれているのか(何が書かれていないのか)? ― 【その1】 )

http://www.ashida.info/blog/2009/09/post_379.html( 【その2】)

http://www.ashida.info/blog/2009/10/post_380.html(【その3】)

http://www.ashida.info/blog/2009/10/post_382.html(【その4】)

http://www.ashida.info/blog/2009/10/post_383.html( 【その5】)

大変鋭く突っ込んだ分析をしておられます。私がつまみ食い的に引用するよりも、是非上のリンク先に飛んで、じっくり読んでいただきたいと思います。

特に、そうですね、拙著に対して極めてブリリアントな批評をいただいたcharisさんには、是非同じ哲学ベースでものを考えている知識人として、芦田さんの見解に対する率直なご意見を伺ってみたいものだと思います。

(いくつかの鮮烈な記述から)

48)従来の終身雇用型の「入口」接続(8)には二つの意味がある。

49)一つは、一括採用、一括解雇(定年制)、職務ローテーション制、年功賃金=年功序列制、企業内組合を前提とした「メンバーシップ型採用」に呼応した、従来の大学の教養主義的な人材育成という意味での「入口」接続。つまり素養(基礎)は学校で作ったからあとは企業で教育して下さいという意味での「入口」接続。これを私は大学型「入口」接続ととりあえず呼んでおく。※ここで言う「メンバーシップ」というタームを、私はとりあえず濱口桂一郞(『新しい労働社会』岩波新書)から借りている)

50)もう一つは「キャリア教育」と区別された意味での「職業教育」的な「入口」接続。これは従来もっぱら専門学校も含めた専修学校や短大が担ってきた。つまり極度に単純化した言い方をすれば、会社の「一般職」「専門職」(いずれも「総合職」に対立する意味での、つまりメンバーシップを担わない)接続としての「入口」接続。

51)この後者の「入口」接続は、「即戦力」人材と言われてきたものである。

とか、

78)20歳そこそこの若い学生で「即戦力」の専門学校生を喜んで受け入れる企業があるとすれば、それはその企業の人材水準(あるいは仕事水準)が低いだけのことで、褒められたことではない、と小方は言いたいのである。

79)極端に言えば、高校生をマクドナルドが「即戦力」として採用するのと似ている。そのような「マニュアル職」に毛の生えたような「即戦力」論が専門学校の「職業教育」だったのではないか?

80)さらに極端な単純化を恐れないとすれば別の言い方もできる。専門学校の技能業職種は、もともとは大学生が相手にもしない業職種。技能主義的な教育が「手足」教育だとすれば、「頭」となる大学生の「手足」に留まるものだったと言えるかもしれない。

81)この「頭」と「手足」との区別は、結局は「メンバーシップ型雇用」と「ジョブ型雇用」との区別にも繋がっている。

82)「ジョブ型雇用」は、日本的な企業内と企業外の中間地帯を形成しており、非正規雇用やアウトソーシング部門の拡大・縮小、企業内における「スペシャリスト」の位置づけ等に深く関わっている。

83)専門学校の「スペシャリスト」的な「実力」主義論が空回りするのは、「スペシャリスト」というものが企業の本来の「メンバー」ではないからだ。ついでに言っておけば、「ジョブ型」人材の究極のモデルは、「大学教授」である。だから「大学教授」は人の言うことを聞かない(苦笑)。東大の教員以外は大学に対する忠誠心もない(更に苦笑)。

84)専門学校の「就職率」「100%」を誰も本気で褒めないのは、メンバーシップ雇用の周辺における「就職率」だったからである。専門学校は「職業教育」一般を担ってきたのではなくて、ある特定の(階層化された)職業教育を担ってきたに過ぎない。

とか、

75)この「生涯」型接続の従来のモデルは、「職業教育」と対比されている以上、大学卒の社会接続である。

76)それを企業の採用側から言えば、「メンバーシップ」型採用ということになる。

77)「メンバーシップ」型採用は、スペシャリスト(パーツ型人材)を必要としない。テーマ主義的な「職能」よりは、パーソナリティ重視の採用になる。

78)一括採用、一括解雇(定年制)、職務ローテーション制、年功賃金=年功序列制、企業内組合などの「メンバーシップ」型徴表が描く日本企業型人材像のモデルは何か。

79)その人材モデルは教養主義に他ならない。

とか、

91)では、“勉強ができない”とは何を意味するのか? それは「基礎」教育とか、「教養」教育のような、具体的な目標のない教育(ある意味で「抽象的な」教育)に耐えられない無能力のことを言う。

92)そういった学習の極限のモデルは、日本では「受験勉強」。「受験勉強」が「大学生」の「大学生」としてのパーソナリティーを形成してきたが、このパーソナリティーが大学の教養主義教育(基礎教養教育-専門教養教育)の基盤だった。

93)またそれはどんな具体的な色にも染まらないという意味で、メンバーシップ型雇用の基盤にもなっていた。

94)リベラルアーツ型の教養主義が、日本的な雇用制度と親和的な関係を結んでいたのである。

とか、

104)日本の大学には天野の言う「ジェネラルエデュケーション」と対立する意味での「職業教育」(=「専門教育・職業教育」)などかつて一度も存在したことはない。

105)その意味で、「教養教育」の衰退は従来の大学教育全体の衰退でもあった。

106)それは進学率が上がれば上がるほど衰退の度合いが上がっていくような衰退だったのである。

107)そもそも戦後の「新制大学」において「学ぶ」ことと「働くこと(就職)」とが直接に結びついた教育など医学部か法学部のごく一部くらいしか存在していないだろう。

108)それ以外には、大学院進学だけが大学にとっての本来の「職業教育」であって、2009年の現在においても「就職(率)が大学の命」などと考えている大学教授など存在しない。3年生、4年生のゼミ教授さえ考えもしないことだろう。「一流」大学であればあるほどそうだ。

109)だから従来の1、2年課程と対比される専門課程の「専門教育」も「働くこと(就職)」と結びつかない限りは、「専門教養」でしかなかったわけだ。

とか、

134)しかし児美川と本田には共通の前提がある。偏差値分類(偏差値ヒエラルキー)を前提とした進路指導が通用しなくなっているという事態だ。

135)かつては、勉強嫌いな子には専門学校による「就職」教育(狭い意味での「ジョブ型」「職業教育」)が社会「接続」にふさわしいものとして階層化されていたが、大学全入時代の賭場口に立った90年代では、生徒たちの「個性」が優先する進学の窓口が広がり始めた。

136)この生徒たちの「個性重視」による進学指導(進学無指導)は、児美川が期待する意味での「キャリア教育」にそのまま繋がるものではなく、無原則な大学進学を生む素地になったのである。

137)91年以降(「就職」の専門学校は進学率20%前後で停滞しているが)、大学進学率(入学者数も含めて)がうなぎ登りに上昇していくのは、80年代後半に始まり90年代に実質化する「個性重視」主義が大学全入による偏差値ヒエラルキーの解体と符合したことが大きな理由の一つだ。

といった、切れ味鋭い分析が次々と繰り出される様は壮観です。

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2009年10月25日 (日)

『POSSE』第5号発売

Hyoshi05 ということで、ようやく『POSSE』第5号が発売されたようです。

http://www.npoposse.jp/magazine/new.html

前にもコピーしましたが、内容は以下の通りです。

■特集 どう変わる?ニッポンのセーフティネット

●本誌編集部 5分でわかる!セーフティネット論入門

濱口桂一郎(労働政策研究・研修機構統括研究員)
  日本型システムにおける労働とセーフティネット
  日本型セーフティネットからの転換を提言


白川一郎(追手門学院大学教授)
  企業にこびた「即戦力」教育より英米型の職業訓練を

  各国の職業訓練制度を紹介!正社員化ではなく、セーフティネットを

●本誌編集部
 
就職できない職業訓練
  ―訓練学校民営化の罠―

  訓練学校が派遣労働を勧める?
  日本の職業訓練制度の矛盾に迫る

川村遼平(NPO法人POSSE理事)
  失業者を助けられない雇用保険
  ―POSSEハローワーク前調査報告―

  企業の横暴で雇用保険が使えない!
  500人の声が明らかにした制度的欠陥

●本誌編集部
 
生活保護行政がつくるハウジングプア
  ~無料低額宿泊所という「あきらめ」の牢獄~

  貧困ビジネスと行政が連携する理由を
  POSSEボランティアスタッフが取材

山森亮(同志社大学准教授)
  ベーシックインカムが生活保護よりも現実的な理由

  ベーシックインカムの意義と歴史的背景とは
  そして日本での実現可能性は?

岩田正美(日本女子大学教授)
  日本型雇用が生んだ若者の「社会的排除」とは

  社会保険で格差は是正されない―
  若者のが「排除」される社会に必要な福祉政策とは

斎藤幸平(東京大学先端科学技術研究センター交流研究員)
  『コモンウェルス』におけるベーシックインカムの位置づけ
  アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート著「コモンウェルス」書評

  『帝国』『マルチチュード』のアントニオ・ネグリ/マイケル・ハートの新刊『コモンウェルス』がついに刊行! 3部作完結編が示した転換とは?

●本誌編集部
  セーフティネット論がわかるブックガイド10
  職業訓練、住宅問題から日本型雇用、ワークフェア、そしてベーシックインカムまで


■Jポップは格差社会と闘えるのか?

阿部真大(甲南大学講師)×坂倉昇平(本誌編集部)
  企業主義vsJポップの30年

  実はJポップは労働問題を歌っていた!
  尾崎豊からミスチル、GReeeeNまで一気に検証!

烏賀陽弘道(ジャーナリスト)
  音楽産業と消費文化がJポップを束縛する

  渋谷文化、バンドブーム、カラオケ……
  Jポップを生んだ産業構造と消費文化とは?
  そしてインターネットと格差社会の影響は?

毛利嘉孝(東京藝術大学准教授)
  パンクは新自由主義に敗北したのか

  パンクは市場や国家から「自由」になれるのか?
  福祉国家が弱体化し、新自由主義が拡大する中、
  オルタナティヴな音楽はどこへ向かうのか

●本誌編集部
  ゼロ年代の「労働歌」50選
  歌謡曲、アイドルから、ロック、HIPHOPまで……
  多彩なジャンルからピックアップした50曲
  そこで労働はどのように歌われていたのか?



渋谷望(千葉大学准教授)
  連載:労働と思想⑤快適な職場と不機嫌な家庭 ―感情労働論以降のホックシールド

  感情労働論で知られるA・ホックシールドが注目したワーク・ライフ・バランスの影とは

●本誌編集部
  検証 民主党マニフェスト ――労働政策の新しさと矛盾点――
  非正規雇用対策、派遣法、セーフティネット……
  どこが画一的で、どこが危ういのか?

新連載 ユニ×クリ
  五十嵐泰正(筑波大学講師)
  季節はずれのヒーローたち ドラマ『官僚たちの夏』


川村遼平
  連載 労働相談ダイアリー FILE.1究極の選択!?

錦織史朗(大学院生)
  書評 『若者と貧困』

まだわたくしの手元に来ていませんので、来たらいくつかの論文等にコメントしてみたいと思います。

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国立国会図書館『レファレンス』10月号の「労働者派遣法改正問題」

国立国会図書館は毎月『レファレンス』という雑誌を刊行し、現下の重要課題について冷静な議論の素材を提供しています。

その10月号に、岡村美保子さんの「労働者派遣法改正問題」が掲載されておりまして、この問題を考える上で大変有用です。

http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/refer/200910_705/070506.pdf

わたくしの論考もいくつも引用されているのですが、それに限らず、歴史的にも国際的にもよく目配りされたいい論文です。

と、岡村さんを褒めるのももちろんですが、実はこれを読んでいて、目を疑う記述に出くわしました。

派遣法制定過程についての記述のところですが(124ページ)、

>高梨教授は、ビルメンテナンスとファイリングという2つの「不熟練労働」を入れてしまったところからポジティブリストの論理破綻が始まったと述懐している(27) 。

高梨昌「派遣法立法時の原点からの乖離―現行法でも活用の余地はある」『都市問題』Vol.100. No.3, 2009.3,pp.25-26.

今更それはないんじゃないんでしょうか。

ファイリングという虚構の『業務』の名の下にそれまで圧倒的に多くの「事務処理請負業」がやってきた一般事務女性の派遣事業を認めるというのが、その時の暗黙の了解だったのではないですか。もしそうでなければ、当初の常用型限定ではなく登録型を認めるという方針の実質的意義が失われてしまったはずだと思いますが。

マンパワーやテンポラリーやその他たくさんの一般事務派遣業者を救うために常用型限定ではなく登録型を認めたのに、ファイリングという名目で一般事務を容認しなければ、結局彼らは救われなくなってしまうわけですから。

少なくとも、「専門技術的業務」の敷居の高さを、女性事務職については常識レベルよりもかなり下げないことには、そのころの派遣業者の多くが廃業に追い込まれていたのではないかと思います。そこまで「専門職」という概念に殉じるつもりがあったとは思えないのですが。

いま手元にその『都市問題』という雑誌がないので、どういう文脈で高梨先生が言われているのかよく分からないのですが、上の引用を正面から受け取るとすると、そもそもポジティブリスト方式は、事務派遣を対象にしようとしていた一番当初の時点から「論理破綻」していたといわざるを得ないように思われます。

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“リアル”な政策を作れ!

情報産業労働組合連合会(情報労連)の機関誌『情報労連REPORT』10月号に載っている私のインタビュー記事が、PDFファイルでアップされていますので、リンクしておきます。

http://www.joho.or.jp/report/report/2009/0910report/p07-15.pdf

中身は最近あちこちで書いたりしゃべったりしていることですが、対話形式で話が進んでいますので、読みやすいとは思います。でかい写真がどんと載っているのは、人によって好き嫌いがあるでしょうが。

同じファイルの後ろの方には、山田昌弘氏のインタビューや現場の声、中村圭介先生のインタビューなどもありますので、ぜひリンク先をご覧下さい。

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日本経団連の「安心で信頼できる社会保障制度の確立に向けて」の一番重要なところ

日本経団連が10月20日付で「安心で信頼できる社会保障制度の確立に向けて」という文書を公表しています。

http://www.keidanren.or.jp/japanese/policy/2009/083.html

冒頭の

>少子化対策、医療・介護、年金などの社会保障分野は、生活の日々の安心と安全を支える国民の最大の関心事項であり、経済社会の安定を果たす最も重要な社会基盤である。持続可能な社会保障制度の構築は、将来不安の解消、内需の安定化を通じ、持続的な経済成長に寄与するものと考えられる。一方、明確な成長戦略の下、経済活動のフロンティアを拡大し、成長のパイを増やしていくことは、社会保障制度の持続可能性の向上につながる。こうした好循環の確立こそ、国民が求める経済社会の姿である

という認識は、認識としては全く異論の余地のない正しいものですね。

以下、「社会保障制度改革に関わる基本スタンスとともに、医療・介護、年金、少子化対策を中心に経団連の考え方を明らかにし」たうえで、最後の「おわりに」のところで、ようやくこういう認識を示します。

>社会保障の目的は、第一に国民の生活保障にあり、安心社会の実現に向け、包含する分野は非常に幅広く多岐にわたっている。また、少子高齢化の進展のみならず、産業構造や労働市場が大きく変化するとともに、個々人の働き方・生き方や家族形態も様変わりをしていく。このように急速に経済・社会が変化していくなか、従来の社会保障制度の枠組みの狭間に落ちる生活困窮者や低所得者が、今般の景気後退による雇用情勢の悪化を受け、改めて問題として浮き彫りになっている。行政には、その実態を把握し、モニタリングを行いつつ、きめ細かに対策を講じることを望む。経団連としても、今後、中福祉・中負担国家の具体像に関する考察を深めるとともに、労働市場の構造変化を踏まえたセーフティネットの在り方など、幅広く検討を進めたうえで、改めて提言を行いたい。

それこそが、今日社会保障制度の在り方を考える上で最も重要な点の一つであるわけですが、そこは「幅広く検討を進めた上で、改めて提言」ということです。

実は、わたくしも、先日まさに日本経団連に呼ばれて、そのあたりの話をしてきたわけですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-3d64.html(日本経団連社会保障委員会企画部会で)

>本日のお話の概要が、「日本経団連タイムス」にも載るそうなので、その時にまたアップします。

今日社会保障制度の在り方を考える上で最も重要な点は、じつはここに書かれたような医療・介護や年金制度の問題もさることながら、これまで日本では社会保障の問題だとは全然思われていなかったような領域の問題、つまり子どもの養育や教育、住宅問題さらには仕事から多重債務問題まで含まれる社会的排除問題にあるというのが、もっとも強調すべきことであると思われます。

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