2009年 10月
佐藤優の危機感? [2009-10-26 00:00 by kollwitz2000]
米国こそが「対米自立」を望んでいる [2009-10-20 00:00 by kollwitz2000]
鑑賞:萱野稔人の「立ち位置」調整 [2009-10-12 00:00 by kollwitz2000]
「楽しくない」思想から「楽しい」思想へ [2009-10-11 00:00 by kollwitz2000]
第2回口頭弁論期日報告 [2009-10-10 00:00 by kollwitz2000]

佐藤優の危機感?
1.

『金曜日』の最新号(2009年10月23日号)に、月1回連載「佐藤優の歴史人物対談」の第10回目が掲載されていた。この連載は、佐藤が、「歴史人物」に架空のインタビューを行なう、という形式で書かれているものである。

そして、今号の「歴史人物」は、和田洋一(1903年―1993年。ドイツ文学者)だった。これは、この連載のこれまでの登場人物からすれば、かなり異例である。これまでの登場人物を並べてみよう。

第1回:マルクス

第2回:エンゲルス

第3回:マルクス

第4回:ムッソリーニ

第5回:ラッサール

第6回:ルクセンブルク

第7回:ベルンシュタイン

第8回:マサリク

第9回:ニーバー

そして第10回が和田洋一である。ネームバリューの点でも、唯一の日本人という点でも、唐突感は免れないだろう。普通の読者ならば、なぜ和田なのか、と思うはずである。

一応、今回のこの「対談」には、編集部によるものかもしれないが、「奈落への地すべりを押し返すのは民衆の力」と題して以下のリード文が付されている。

「政権交代で、劇的と言ってよいほどの政策転換が起きている。だが、世界を覆う同時不況の行方は楽観を許さず、私たちは帝国主義やファシズムの危険性から目を背けてはならない。戦前の知識人たちは日本型ファシズムの時代をどのように過ごしたのか。久野収らと『世界文化』を拠点にした和田洋一に登場していただこう。」

まず、佐藤は最近、共著でその名も『日本流ファシズムのススメ』(田原総一朗・宮台真司との共著。ぴあ、2009年10月10日刊)なる本を刊行しており、『WiLL』11月号でも、「民主党全体主義政権が始まった」と題した一文を書いて、「政権交代」を言祝いでいるのだから、このリード文が、いつもながらの佐藤と『金曜日』編集部の合作による、『金曜日』読者を馬鹿にしきったアリバイづくりに他ならないことを指摘しておこう(なお、「佐藤優(現象)とソフト・ファシズム」も参照のこと)。

だが、より重要なことは、このリード文では、なぜ和田なのかがさっぱり分からないことである。「帝国主義やファシズム」は重要な問題だが、なぜ他ならぬ2009年10月において、「帝国主義とファシズムの危険性」を取り上げなければならないか、また、その際に取り上げる人物が、なぜ和田でなければならないかは、本文中でも全く言及されていない。要するに、なぜ佐藤が今回和田を取り上げたかは、リード文からも本文からも読み取ることはできないのである。


2.

では、なぜ和田なのか。もちろん私も佐藤自身ではないのだから理由を断言できるわけがないが、私は、佐藤が和田を今回持ち出したのは、佐藤及びリベラル・左派メディアの危機感の表れと見るべきなのではないか、と考えている。

というのも、佐藤が、自伝以外の場所で和田を持ち出す際には、一つの傾向性があるように思われるからである。前から興味深く思っていたのだが、佐藤は、リベラル・左派系(新左翼系は除く)の出版社から本を出す際、必ず冒頭で和田を持ち出しているのである。

『獄中記』(岩波書店、2006年12月)でも『世界認識のための情報術』(金曜日、2008年7月)でも今回の「対談」でも、佐藤が和田から引き継いでいると言いたげな和田の主張は、「人民戦線」の提唱と、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)における国内の人権侵害への批判である。このうち、現在の情勢で「人民戦線」を語ることの愚と問題性については既に「<佐藤優現象>批判」で指摘した。

佐藤は、和田による北朝鮮国内の人権侵害への批判を強調することによって、自らの、少なくとも小泉・安倍政権時の対北朝鮮強硬論の主張は、和田による批判と問題意識を受け継いでいるものだ、とリベラル・左派系の読者に印象づけたいのだと思われる(注)。また、『獄中記』と『世界認識のための情報術』では、佐藤が和田から聞いた話として、「先生の行動が誰を利するかをよく考えてください」と、「朝鮮総連の幹部」が和田の下を訪れたことも記しているから、佐藤による、朝鮮総連への政治的弾圧の擁護もある程度正当化できる、と考えているのかもしれない。

より具体的に見ておくと、『獄中記』(全502頁)では、「序章」の2頁目から、和田に関する説明と和田と佐藤との交流が9頁にわたって記されている。

また、『世界認識のための情報術』(全250頁)に至っては、「『週刊金曜日』への私の想い――序論として」の1頁目から、同じく和田に関する説明と和田と佐藤との交流が9頁にわたって述べられており、しかも、この「序論」の章全体(全31頁)が、佐藤が語るところの和田の姿勢と発言を補強する形で構成されている。そして、『世界認識のための情報術』は、以前にも指摘したように、恐らく、佐藤を『金曜日』が起用することへの批判への対応として出された性格が強いと思われる本である。

佐藤およびリベラル・左派メディアは、読者に対して、本の冒頭で、佐藤の立場は和田の思想を受け継いだものだと印象付けることで、「右翼」「国家主義者」である佐藤が、リベラル・左派系の出版社から本を出すことへの読者の違和感を弱めようとしている、と見てよいだろう。だからこそ、『獄中記』に比べてより弁明的性格が強い『世界認識のための情報術』において、本の中で和田の占める比重はより大きくなっているのである。

ということは、今回の「佐藤優の歴史人物対談」における和田の登場も、佐藤及び『金曜日』編集部が、読者に対して、何らかの弁明の必要性を感じたから、と考えるのが妥当であろう。では、この連載の第9回目が掲載された2009年9月25日号(9月25日売)から、この10月23日の間に、佐藤及び『金曜日』編集部が弁明の必要性を感じるような事件が起こった、と見るべきであろう。

そして、その事件とは、「<佐藤優現象>に対抗する共同声明」が10月1日に発表されたことではないか、と私は思う。 佐藤がこの和田との架空対談をいつ頃から書き始めたのかは知らないが、佐藤及び『金曜日』編集部が、共同声明への着々と増え続ける署名とメッセージ、反響に危機感を抱き、佐藤が『金曜日』に登場することを改めて正当化する必要性に迫られて現れたのが、今回の和田との架空対談ではないかと思う。

佐藤及び佐藤と結託するリベラル・左派系のメディアが、この共同声明に言及したり反論したりすることは、恐らくないだろう。そんなことをして、この共同声明の存在が読者に直接知られるようになっては困るからである。そして、以前にも説明したように、リベラル・左派系の編集者たちが佐藤の起用を反省し、起用を一切止めるという可能性は極めて低いと見ておいた方がよいだろう。だが、今回の、和田の唐突な登場のように、この共同声明への(一時的な)対応策として、佐藤がリベラル・左派メディアに登場することへの新しい正当化、より狡猾な方策を打ち出してくる可能性は大いにありうる。そうした方策に惑わされないことが重要である。


(注)そもそも、和田は、「私はまた「朝鮮は一つ」という立場に立っている。「朝鮮は一つ」というのは「朝鮮は過去においては一つであったが、現在は二つに分断させられている。しかし朝鮮半島に住んでいる圧倒的多数の民衆は、もう一度一つになりたいと願っており、在日朝鮮人・韓国人も同様なので、私自身も隣国に住んでいる人間の一人として、朝鮮が近い将来に一つになることを望んでいる、そういう立場である。朝鮮の南北統一は、冷静に判断すれば、絶望状態ということになるが、万が一実現すれば、アジアの平和を守ることに大きく貢献するであろうとも考えている」(和田洋一・林誠宏『「甘やかされた」朝鮮――全日成主義と日本』三一書房、1982年、44~45頁)と発言しているのであって、「<佐藤優現象>批判」の「注(6)」で指摘したように、「僕(注・佐藤)は、朝鮮半島が統一されて大韓国ができるシナリオより、北が生き残るほうが日本には良いと思う。統一されて強大になった韓国が日本に友好的になることはあり得ないからね」(〈緊急編集部対談VOl.1 佐藤優×河合洋一郎〉雑誌『KING』(講談社)ホームページより)などと語る佐藤とは基本的な立場が異なる。

# by kollwitz2000 | 2009-10-26 00:00 | 佐藤優・<佐藤優現象>
米国こそが「対米自立」を望んでいる
記事が出て10日以上経つが、護憲派団体はどこも声明も出さないし、ウェブ上でもほとんど問題にされていないようである。

「「法制局長官も官僚」国会答弁禁止へ…小沢氏」(読売新聞10月8日)
「憲法解釈 内閣法制局長官の答弁禁止 小沢氏が意向」(朝日新聞10月8日)

自公政権がこんなこと言い出したら大騒ぎしていただろうに。私は、衆議院選直後に、今後、左からの政権批判はほぼ消滅するんじゃないか、と書いたが、その通りになっているようである。

私が言うより、前防衛大臣補佐官の森本敏先生に解説してもらおう。


集団的自衛権を政治的にどう実現していくかは、依然として、安全保障・防衛政策の重要部分ですが、これを解決する方法は三つしかないのです。

 一つは、いわゆる“解釈改憲”で、従来の解釈が間違っていましたとして解釈を変えることです。これは総理が国会で答弁するだけではなく、内閣法制局としての統一見解が必要でしょう。ですから法制局としてはどう対応すればよいか判断を迫られます。このように憲法の条文は変えないが、従来の解釈を変えるという“解釈改憲”といった方法です。

 しかし、この方法はあまり感心しません。政権が替わるたびに解釈を変えますと、野党が政権をとると、また引っ繰り返されるという事態を生みかねません。憲法は変わらないのに、解釈の変更によって政策がコロコロ変わるのは、むしろ諸外国の信頼を失うことになります。ですから、これは議院内閣制の王道としては本来とってはならない方法だと思います。

 そこで第二の方法として考えられるのは、具体的な法律の成立をもって実現可能にするという形です。これは、日本の領域外に自衛隊を出す場合の一般的な基準に間する法律、すなわち“一般法・恒久法”です。正式名称で言えば、“国際平和協力基本法”という法律を2009年の通常国会で通して、それによってこれまでできなかったことを法律上可能にするという方法です。こちらのほうが議院内閣制の下では合法的な感じがします。

 しかし、この場合に問題なのは「その法律自体が憲法違反ではないか」として、違憲立法審査権を行使される場合であり、それに対する対応を検討しておく必要があります。

 第三の道は、憲法改正しか残されていません。しかし、これには時間がかかります。

 従って、現実の問題としては、一と二を併用した形が良いのではないかと思います。すなわち、従来の解釈と違う説明を政府が行うことによって、具体的な法律の形でこれを実現し、さらに憲法改正時に正しいあり方を憲法条文の中に書き込むという手順にして実現するという方法しかないと思います。」(森本敏『日本防衛再考論』海竜社、2008年5月、191~193頁。強調は引用者、以下同じ)


民主党はそのうち海外派兵の「一般法・恒久法」を出してくるだろうから、内閣法制局の答弁禁止というのは、その前段階ということだろう。「憲法改正」に至る方向性自体は、自民党も民主党も何の違いもない。当面は「憲法9条」が残されても(残ったままの方がたちが悪いとも言えるが)、海外派兵して戦死者が出ることが常態化すれば、国民は自然と改憲を選ぶだろう。

それにしても、リベラル・左派の間では、自民党と民主党の安全保障政策は違う、と思っている(思い込みたがっている)人が多いようである。

豊下楢彦「日米安保における「対等性」とは何か」(『世界』2009年11月号)で、「麻生前首相の肝いりで設置された」という、諮問機関「安全保障と防衛力に関する懇談会」が、麻生前首相に今年8月4日に提出した報告書の主張について、以下のように述べている。

「(注・この報告書が)憲法解釈から防衛の基本原則に至るまで変更せねばならない(注・とする)理由はどこにあるのであろうか。それは言うまでもなく、核・ミサイル開発を続け、「抑止が働くかどうか」が懸念される北朝鮮という「直接的な脅威」の存在である。同時に、米国の影響力が低下し「世界に対する関与が減る」恐れが出てきたことである。従って、「米国に守ってもらう」のではなく「共に守る」という領域に日本も踏み込む必要がある、ということなのである。現実には、在日米軍は日本防衛ではなく世界戦略を任務としているのであるが、それは別としても、従来の枠組みを突破することが自己目的となっているからであろうか、およそ現実に合わない「方針」が提起されている。」


豊下はこのように述べた上で、鳩山政権の掲げる米国との「対等性」なる言葉に期待する。豊下は、報告書の主張と鳩山政権の掲げる安全保障政策は、断絶しており、だからこそ鳩山政権に期待しているようだ。だが、断絶ではなく、連続しているのである。「「米国に守ってもらう」のではなく「共に守る」という領域に日本も踏み込む」こと、これが、鳩山や小沢が言う「対米自立」であり、米国との「対等性」ということだ。

もう一度森本に登場してもらおう。常識的な話だと思うのだが・・・。


「米国では、2007年2月、R・アーミテージ前国務副長官やマイケル・グリーン、カート・キャンベル、ジョセフ・ナイが、「日米同盟――2020年を見据え、アジアを正しく方向付ける」というレポートを発表しました。この中では、「ソフトパフーではなくスマートパワー」という概念を打ち出して、軍事力を思い切って効率的な規模に縮小し、国際公共財を使って地域を安定させると指摘しています。(中略)

 軍事力については、その必要性を認めつつも、それにより治安を維持し、戦後復興を行い、政治的・宗数的安定を図ることに専念するよう変質させることをねらいとするものです。治安維持のためには、ある程度の軍事力は必要ですが、圧倒的な軍事力があっても地域の安定を維持できないという意識が定着しつつあるということが、こうした概念発展の背後にあります。

 この概念が新しい米国政権に採用された場合、米軍は今よりも規模が縮小され、米国がゆっくりと世界各地から手を引いていくことも予想されます。これは、米国が同盟国と一緒になって、多国間の安全保障協力や安全保障的枠組みの中で地域の安定を維持するという概念と手法が採用されるようになり、そうなると同盟の意味がこれまでとは変わってくるということです。」(前掲書、61~62頁)


「米国は2008年の大統領選挙でいかなる政権が誕生しても、軍事戦略の大筋は変わらないと思います。

 もし民主党政権になっても、この米軍再編というトランス・フォーメーションのプロセスを進める必要があるという点では、国防総省の幅広いコンセンサスがあるからです。

 おそらく、いずれの政権になっても米国は国防費を削減し、米軍規模を減らし、海外から米軍を撤退し、米軍再編を進め、国際協調主義を進め、同盟国に貢献を追ってくるという一般的傾向を示すことになると思います。こうした全体の傾向の中で、民主党政権のほうがむしろ同盟国に具体的な貢献を一層、迫ってくる可能性が高いといえます。

 伝統的に共和党は、対外的に積極介入する傾向にあります。それにより力強い国際的リーダーシップをとろうとするわけです。それで自ら財政を負担して苦しむことになります。これに対し、民主党は、クリントン、カーター政権のように、やや内向きに閉じこもり、協調主義的になる傾向があります。その代わり同盟国に対しては負担増を求めるわけです。ですから、同盟国にとっては民主党政権のほうが手強い相手になるといえます。

 このような傾向があまり強い民主党政権になった場合、日米関係が冷える可能性もあります。具体的に同盟国に役割を果たさせて、それに乗じて自国の国内経済を重視するというのが民主党のやり方だからです。(中略)
 
 大統領選挙の結果、民主党政権になった場合、イラクにある程度の戦略拠点を維持するとは思いますが、米国は海外における軍事介入から、かなり手を引き、つまり自国内に閉じ込もることになります。アフガン・イラク戦争で疲弊した地上兵力の立て直しをするためでもあります。これはアジアの問題にも積極的に関与しないということであり、その分だけ米国は同盟国による一層の貢献を強く求めてくるということになります。」(前掲書、71~73頁)


共産党政権ならば話は変わってくるかもしれないが(多分変わらないと思うが)、(日本の)民主党主導政権が掲げる「対米自立」「米国との対等な関係」は、上述の、アメリカの負担を日本が肩代わりすることにしか帰結しないのであって、鳩山政権が掲げている「東アジア共同体」というのは、ここで言うところの「多国間の安全保障協力や安全保障的枠組み」だ。別に私はアメリカ陰謀論を採っているわけではなくて、上述の国際情勢認識は、日本の海外派兵を肯定する自民党や民主党の政治家には、ごく一般的なものである。

本来ならば強硬に反対していたであろう護憲派の市民運動や左派が、「対米自立」「米国との対等な関係」さえ掲げていれば、勝手に自滅してくれるどころか積極的な応援団すら買って出てくれるわけであるから、日本の民主党や米国の民主党からすれば笑いが止まらないだろう。

なお、森本は同書で、日米同盟、米韓同盟はあっても日韓同盟がないことを問題視し、日米韓の安全保障協力関係の構築、防衛協力ガイドラインの設定、朝鮮半島統一の前に韓国を日本に引き寄せることを提唱している。来年に本格化するであろう日韓の「和解」キャンペーンも、こうした文脈の中にあると考えるべきだろう。

# by kollwitz2000 | 2009-10-20 00:00 | 日本社会
鑑賞:萱野稔人の「立ち位置」調整
前回に続いて、『思想地図』創刊号(2008年4月刊)での発言を取り上げる。「鼎談 日本論とナショナリズム」(参加者は東浩紀・萱野稔人・北田暁大。鼎談の日付は2008年2月13日)での、萱野の発言である(279~280頁)。


萱野 (中略)まあ、個人的には、「愛国心」教育を義務教育のなかに導入したり、国民道徳を復活させようとするようなナショナリズムの再生はまったくナンセンスだと思いますが、たとえば、昨年(2007年)11月に改正入管法の施行にともなって導入されたJ―VISIT(入国時に外国人の顔写真や指紋といった生体情報を採取するシステム)なんかを見ると、ナショナリズムに訴えたい気持ちにかられますね。あれ、「テロの未然防止」という口実のもと、たんにアメリカの公共事業の下請けをしているだけですから。

 アクセンチュアですね。『権力の読みかた』で触れていました。

萱野 そう。アクセンチュアというアメリカのコンサルタント会社がきて、アメリカのシステムを導入していきました。結局、日本の入管システムの心臓部は、アメリカ政府と一体となった外資の手に握られることになったわけです。問題は、日ごろ「愛国心」が大事だとか唱えている政治家たちによってそれが実現されたということです。こうした国家主義的ナショナリズムとグローバリゼーションのねじれた共犯関係を批判するには、ナショナリズムを逆手にとるのが一番有効なのではないか。お前ら、口先では愛国心とか言っているけど、やってることは売国行為じゃないか、と。」


奇妙な論理である。外資系企業への発注を「売国行為」などと罵るような類の「ナショナリズム」であれば、そもそもJ―VISIT(日本版US-VISIT)に反対するのではなく、積極的に肯定すべきだろう。萱野の日頃の言説からしても、そうした類の「ナショナリズム」こそが「本音」だと思う。さすがにリベラル左派メディアでも、排外的入管政策そのもののJ-VISITは当時は肯定されていなかったから、萱野は建前として反対しているだけのことではないか。

この、萱野における、建前と本音の分裂という事態は、この後さらに悲惨な姿を呈する。萱野のこの発言に対して、東は以下のように疑問を呈している。


 詳細に検討する必要があります。外資系企業が目本のセキュリティを担当しているのが本当に問題なのか、問題だとしたらどのように問題なのか。実際には、じゃあ本当に国内資本にすれば国益にかなうのか、それがわかるのは専門家だけだと思うんです。そもそも、そんなことを言ったら、僕たちがみなマイクロソフトのOSを使いグーグルを使っているのはどうなんだ、という話になる。」


これに対して萱野は、以下のように答えている。


萱野 もちろん、もっと専門的に細かく見ていって、それが実は日本にとって損失よりも利益のほうが大きいということがわかれば、べつにJ-VISITを批判する必要は(プライバシーや管理の問題を除いて)ないです。ただその場合も、われわれにとっての利益になるかどうか、という価値基準のところは変わりませんよね。」


萱野はあっさりとJ-VISITに対する反対を撤回してしまう。「ナショナリズムを逆手にと」るんじゃなかったのかよ。まあ、本音が露呈したと言えるが、ここで注目すべきは、「(プライバシーや管理の問題を除いて)」なる、カッコ内の一節である。これは何なのか。

ここでの「プライバシー」、「管理」は、J-VISITの性格から考えて、外国人の「プライバシー」、外国人の「管理」であると考えられる。J-VISITを擁護するにせよ批判するにせよ、その焦点が、まさに外国人のプライバシー情報の収集、外国人管理にあることは誰も否定しないだろう。だからここでの萱野の発言は、わけのわからないものになってしまう。中心的論点たる「プライバシーや管理の問題を除いて」しまえば、J-VISITの評価など不可能なのだから。

多分、「(プライバシーや管理の問題を除いて)」なるカッコ内の一節は、鼎談後の加筆時に加えられたものではないか。鼎談時の生の発言では、後々叩かれるとまずいと萱野は考えて、「立ち位置」の調整のために後から付け加えたように思われる。仮にそうではなく、鼎談時にこのようなことが発言されていたとしても、このカッコ内の一節の補足の馬鹿馬鹿しさは変わらない。

萱野の登場する場のほとんどはリベラル・左派系のメディアや団体であるから、こうしたせこい「立ち位置」の調整を行いつつ、リベラル・左派の右傾化に即応して、徐々にレイシスト的ナショナリストとしての本音を露わにしていく、というのが萱野の戦略だと思われる。そこまで考えておらず、単に無意識的にやっているだけかもしれないが。萱野の「立ち位置」調整は、あまりにも小心かつ稚拙なので、萱野には佐藤優大先生に学ぶことを勧めたい。

言うまでもないが、問題の本質は萱野ではない。問われるべきは、萱野の下らない「立ち位置」調整を可能にしている、萱野を使うリベラル・左派である。

# by kollwitz2000 | 2009-10-12 00:00 | 日本社会
「楽しくない」思想から「楽しい」思想へ
ブックオフで105円で売っていたので、遅ればせながら『思想地図』創刊号(2008年4月刊)を買ってきたのだが、突っ込んでくれと言わんばかりの発言のオンパレードで笑ってしまった。刊行時に少し立ち読みして馬鹿馬鹿しさに放置していたが、こんなに面白かったとは。気が向いたときに、「一日一言」方式で取り上げることにしよう。

まずは第1回目である。「共同討議「国家・暴力・ナショナリズム」」(参加者は東浩紀・萱野稔人・北田暁大・白井聡・中島岳志。討議の日付は2008年1月22日)の白井聡の発言より(強調は引用者)。


「僕が思想について勉強を始めたのは、90年代後半です。で、いろいろと知識の摂取を始めると、入ってくるものの多くが左旋回したポストモダニズム思想だということになる。そんななかで、僕は漠たる不満を感じるようになってくるんですね。僕は当時、遅れてきたニューアカ少年的なところがあって、いわゆるニューアカのスターと呼ばれた人びとが80年代に書いていたものなんかを読む。そうすると、ポストモダニズムという、よくわからないけど、すごいものがあるんだ、と刺激を受けるわけです。

 ところが、そうした80年代的なポストモダンの思想と90年代的な思想――社会構成主義がメインストリームにあるような思想――とでは明らかに温度差があって、ごく単純に言えば、80年代の思想には明朗さがあって、楽しそうなんですね。それはニューアカがバブル経済の産物だからだとか、軽佻浮薄だとか、いろいろと批判的に言われもしますが、そうは言ってもそこに高揚感のようなものがあるということは否定できない事実ではないでしょうか。

 それに対して、90年代の構成主義的なポストモダニズムというのは、基本的に人をダウナー系にするものなんですね。楽しくない。読めば読むほど世の中や人生から楽しいことが減っていく。たとえば、筋肉をつけて筋骨隆々になろう、そうするときっと女の子にもモテて楽しく生きられるんじゃないかと思うと、それはマチズモ (マッチョイズム)で、さらに排他的異性愛主義を前提にしている、なんて本に書いてあったりする。あるいは、もっと卑近な例では、サッカーのワールドカップとか野球のWBCで日本代表を応援すると、それはナショナリズムの現われだからけしからんということになる。おちおちスポーツも観られません。あまりにも乱暴な感想ですが、とにかく、どんどん楽しさがなくなっていく雰囲気を、90年代の思想は必然的に生んでしまうのではないだろうか。僕はそんなことをずっと感じていました。ですから、思想が人びとをエンパワーする可能性というものを肯定的に捉えるならば、やっぱり社会構成主義的な語り口には何か大きく欠けている部分があるんじゃないだろうか。僕のもってきた直感と照らし合わせると、そう思うんです。」(12~13頁)


フェミニズムについては私はあまり知らないが、90年代以降(という括りもどうかと思うが)のポストコロニアリズムの諸言説が、本橋哲也や成田龍一のような何の問題意識のなさそうなものが多かったとはいえ、少なくとも、侵略と植民地支配の過去に関する日本国民の政治的責任が問題にされている<空気>はあったとは言えよう。ところが、ここで白井は、フェミニズムやポストコロニアリズム全般を、単なる社会構成主義として扱おうとしている。

白井はこうしたポストコロニアリズムを「ダウナー系にするもの」「楽しくない」としているが、多分、白井は、日本国民としての政治的責任が問われていたことに実は気づいていて、だからこそ「楽しくな」かったのであり、そうは言えないから、ポストコロニアリズムを「社会構成主義」だとレッテル貼りして一括して否定しているのではないか。そもそも「社会構成主義」だけならば、今日では、右派や保守派ですら援用しているわけであるから、「ダウナー系に」などなるはずもないのである。

白井の上の発言は、驚くべき天真爛漫さで、現在のリベラル・左派における、(侵略と植民地支配の国民としての政治的責任を解除した上での)「ナショナリズム」復興論の背景にある<気分>を示唆している(これについては、「佐高ファンさんの疑問に答える1   朝鮮総連を支持するかしないかは関係ない」 でも少し述べた)。「ナショナリズム」復興論は、「ポストコロニアリズム」の一部が日本人マジョリティたる自分たちにとって、「楽しくない」ことに苛立っていた層(編集者に特に多い)から強い支持を受けており、それへのカウンターとして現れてきているのだと思われる。白井は、佐藤優とも『情況』で対談しており、対談ではほとんど佐藤先生に学ぶ学生のような姿を晒しているが、<佐藤優現象>も、このような「楽しくない」思想へのカウンターとして、編集者を中心に支持されているのではないか。

また、白井の発言が興味深いのは、その発話の相手が、暗黙のうちに日本人(男性)マジョリティだと想定されていることである。外国人をはじめから除外した上で、マジョリティの左派への弁明だけを行う、という手法だ。これは、「村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチについて」の末尾でも触れたように、最近のリベラル・左派の言説において顕著に見られる傾向である。再度引用しておこう。


「村上が、受賞式出席について、日本の自分への受賞拒否への呼びかけへの対抗から(論理的にはそうなる)正当化していること、パレスチナ人からどう映るかという認識が存在しないことは、興味深い。これは、萱野稔人の最近の主張に似ている。萱野はこのところ、外国人労働者の流入への反対やネット右翼容認論を展開しているが、その際には、従来の左派との違いの強調や、左派への説得はされながらも、萱野の言説によって被害を被ることになる外国人労働者や在日朝鮮人の人権は、はじめから考慮の対象に入っていない。これは、佐藤優が排撃する在日朝鮮人その他の対象の人権を考えず、佐藤優を自分たちの味方として宣伝しようとするリベラル・左派とも同じ構図である。」


「高学歴」で「良心的」だと自認する人々(主として男性)が、自分たちの「良心」を満足させるレベルを超える批判は「楽しくない」し「ダウナー系」にさせるので、それはやめてこれからは「楽し」く行こうと、同質的な(擬似)空間の中でお互いに肯きあっている光景。結構なご身分である。

それと、白井は、80年代のように、ニューアカのような知識人が「スター」扱いされた時代に憧れていて、そうしたものが復興すること(そして自分も「スター」扱いされること)を待ち望んでいるのかもしれない。『思想地図』そのものがそうした試みとも言えるし、そうなれば、出版産業も万々歳だろう。もちろん、そんなものが解体して二度と復興しようもなくなっていることが、大変望ましい<歴史の進歩>であったことは言うまでもない。

あと、白井自身が「楽しくない」と言っているのに、「思想が人びとをエンパワーする可能性というものを肯定的に捉えるならば」と、結局は第三者的な立場に立とうとしているのも恥ずかしいな。他人のせいにしちゃだめだよ。白井は早稲田大学卒だが、かの早稲田大学の現総長も新入生に説いているように、「自立」と「自律」を「実現」しなければならないのではないか。

# by kollwitz2000 | 2009-10-11 00:00 | 日本社会
第2回口頭弁論期日報告
対『週刊新潮』・佐藤優氏裁判の第2回口頭弁論期日が終わった。東京地裁第708号法廷にて、10月7日14時から約30分間開かれた。被告側は、弁護士2名(岡田宰弁護士・杉本博哉弁護士)のみが出席していた。

今回は、被告側による、準備書面に基づいた陳述のほか、裁判官から、原告・被告双方の書面に関する注意がなされた。

次回口頭弁論期日は、11月11日14時より、同じく東京地裁第708号法廷で開かれる。

さて、今回の被告側の陳述では、驚くべき事実が明らかにされている。絶対にこれは自分からは認めないだろう、と思っていたのだが・・・。

当該『週刊新潮』記事では、「岩波関係者」の発言として、私の論文「<佐藤優現象>批判」において「社外秘のはずの組合報まで引用されているのですから、目も当てられません」とあり、その後に、佐藤氏の発言が来て、「「『IMPACTION』のみならず、岩波にも責任があります。社外秘の文書がこんなに簡単に漏れてしまう所とは安心して仕事が出来ない。今後の対応によっては、訴訟に出ることも辞しません」とある。

したがって普通にこの記事を読めば、『週刊新潮』の記者が、佐藤氏に「岩波書店労働組合壁新聞(ここでいう組合報)はなんと社外秘だったらしい」と伝え、それを聞いて佐藤氏が驚き、このようなコメントを出している、と読者は思うだろう。

ところが、今回陳述された被告側の準備書面には、以下のようにある(強調は引用者)。


「原告は、「また、論文によって、『社外秘の文書』が漏れたとの証拠(注・これは被告側の誤りで、実際には「漏れたとの認識」)を示しているが、前4項で述べたようにそのような事実はない」(訴状7頁最下行から8頁1、2行とするが、この部分は佐藤発言の分類?B(注・「そして、『IMPACTION』のみならず、岩波にも責任があります。社外秘の文書がこんなに簡単に漏れてしまう所とは安心して仕事が出来ない。今後の対応によっては、訴訟に出ることも辞しません。」)に相応する。

この部分は前述したとおり、岩波書店労働組合が、原告の論文を、「社員として知り得た情報を無断で社外に公表する文書に引用(した)」ことを問題にしている事実を、岩波書店の社員から「社外秘のはずの組合報まで引用され問題になっている」と耳にした佐藤が、その事実を前提とした所感を述べているものである。」


ここでの「前述したとおり」というのは、「社外秘のはずの組合報まで引用されているのですから、目も当てられません」という「岩波関係者」の発言を用いた『週刊新潮』の記述部分について、被告側が、「岩波書店労働組合が、「社員として知り得た情報を無断で社外に公表する文書に引用する」ことを問題としている事実を、要約し」て記述したものにすぎない、と弁じている箇所である。そして、ここでは、岩波書店労働組合が問題にしているという事実を、『週刊新潮』の記者がいかにして知ったかは記されていない。

すなわち、岩波書店労働組合が問題にしているという事実を被告側がいかにして知ったかを記した箇所は、被告側の準備書面の中では、佐藤氏が岩波書店社員からそのことを耳にした、という箇所のみなのである。

私はかつて、「佐藤優・安田好弘弁護士・『インパクション』編集長による会合の内容について?A:コメント(2)」で、この件について、以下のように書いた。


「最初に情報を提供したのが佐藤だったならば、佐藤が荻原記者に、懇意にしている岩波書店社員を紹介した、と考えるのが自然な推測だと思われる。岩波書店社内には、佐藤と親しい編集者が複数名いる(例えば、佐藤優『獄中記』(岩波書店、2006年12月刊)終章を参照のこと)。

『週刊新潮』の記事では、「岩波関係者」による、私が「社外秘」の組合報まで持ち出した等の私を非難する内容の発言が掲載された後で、「社外秘の文書がこんなに簡単に漏れてしまう所とは安心して仕事が出来ない」云々という佐藤のコメントが載っているので、『週刊新潮』の記者が「岩波関係者」に取材して知った内容を佐藤に伝えたところ、佐藤が激怒した、と読まれる構成になっている。だが、最初に情報を提供したのが佐藤だったならば、順番が完全に逆になる。佐藤の行動がこの記事の出発点なのだ。むしろ、その事実を隠蔽するために、『週刊新潮』は、佐藤のコメントを最後に持ってきたように思われる。」


この「荻原記者」は、『週刊新潮』編集部法務担当者の佐貫氏によれば、実際に記事を書いた、佐藤氏と昵懇の記者(デスク)とは別人らしいのだが、いずれにせよ、今回の被告側の陳述によって、実は、『週刊新潮』に最初に情報を提供したのが佐藤氏であり、佐藤氏の行動がこの記事の出発点だったのではないかという疑いが、ますます濃厚になった、と言わざるを得まい。

なお、私は、佐藤氏に以前送った公開質問状で、佐藤氏に以下のように質問している。


「質問1-18.『週刊新潮』の上記記事に関して『実話ナックルズRARE』第1号(2008年10月売)は、佐藤様が、懇意の『週刊新潮』の記者(私にメールを送ってきた、荻原信也記者だと思われますが)に書かせた旨を、佐藤様を知るというマスコミ関係者の発言を引きながら報じています。また、『中央ジャーナル』203号(2008年11月25日発行)の「佐藤優が岩波書店社員を恫喝」なる記事でも、『週刊新潮』の上記記事について「佐藤が「なじみの『週刊新潮』記者を使い、コメントを装って「岩波にも責任がある」と恫喝」したと書かれています。

 また、『インパクション』の深田編集長からも、『週刊新潮』の同記事は、佐藤様が『週刊新潮』のご友人の記者に、「<佐藤優現象>批判」の著者である私が岩波書店社員であることなどを、ある岩波書店社員から佐藤様が聞かれた話として、お伝えされたことが発端であったらしいと伺っています。深田編集長は、このことを、佐藤様ご自身から聞いたとのことです。

 『週刊新潮』の同記事で、記者に初めに情報を提供したのが佐藤様であるという、上記の報道および証言は、事実でしょうか。


質問1-19.『週刊新潮』の上記記事は、私が「首都圏労働組合特設ブログ」で指摘しているように、私の名誉を毀損する虚偽の記述を含んでいます。『週刊新潮』の記者に初めに情報を提供したのが佐藤様であるという、前問で挙げた報道および証言が事実であるならば、佐藤様にそうした情報を伝えた岩波書店関係者とは、具体的に誰(もしくは誰々)でしょうか。当人に直接確認したいので、氏名をお答えください。」


佐藤氏は、これらの質問への回答を拒絶しているが、(少なくとも一部は) 岩波書店の社員から耳にした情報に基づいて発言したことを認めた佐藤氏は、これらの質問に対して、改めて回答すべきである。

もちろん、批判に対してまともに反論することのないまま、懇意にしている『週刊新潮』記者に情報提供して、相手への中傷記事を書いてもらったのだとすれば、それが、まぎれもない言論封殺行為であることは言うまでもない。

# by kollwitz2000 | 2009-10-10 00:00 | 訴訟
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