球磨と相良氏の歴史・近世5
肥後・相良藩の礎

内政の充実

 関ヶ原の戦い後生き残った相良氏。20代当主・[頼房(のちの長毎)]は、母親を江戸に送って幕府への忠誠を誓い、肥後・球磨の大名・相良藩となっていきます。

 頼房は幼少で当主になった事もあり、家臣の補佐が多かったのですが、成長ともに当主として活動が始まります。
 しかし時代は太平の時代。父:義陽までのような拡張政策はもはや無理。頼房は内政面にその力を注ぎます。

 まず人吉城の改修。人吉城は初代当主・長頼が、球磨川と胸川の合流点にある丘陵の一角に築いたのが始まりでした。(※1)
 人吉城の近世城郭への改修は、天正年間に18代当主・義陽(頼房の父)のころから始まっていました。しかし戦国末期の激動で工事は中断しがち。さらに義陽は討ち死で中断。
江戸時代初期の肥後(加藤氏改易後)
 継いだ幼い忠房もわずか数年で急死。その後、また幼い頼房の代となって、家臣の支えで落ち着いたものの、2度の朝鮮出兵・関ヶ原の戦いなどで満足に工事は進まなかった。

 工事は関ヶ原後再開されます。現在見られる人吉城跡の大半はこの時期に築かれたものなんです。(※2)
 頼房は人吉城改修と同時に城下町の整備・産業育成にも進めています。各地から商人・職人を人吉へ誘致・田畑の開墾。そしてさらなる発展には江戸・大阪・博多への流通経路を作る必要がありました。経済に海運(輸送)は欠かせない時代になっていたんですね。
 相良藩もかつて戦国時代には八代を拠点に、海外(琉球を含む)にまで交易をおこなっていましたが、島津氏の軍門に下って以降、八代は他領となり途絶えていました。
 そんなとき元和5年に地震が発生。八代城が破損し、加藤藩八代郡代・加藤政勝から相良藩に修理に使う木材購入の打診を受けます。
 相良藩は「当藩は現在、大阪方面に航行する舟場を持たず不自由している。材木を提供する代わりに、土地を借用し大阪への舟便に供したい」と条件をだしています。
 加藤藩は相良藩の事情を理解。材木と引き替えに八代・植柳に舟仮屋(※3)設置を許可してます。
幕末〜明治に撮影された八代・植柳の舟仮屋の一部
 こうやって当主・頼房はひたすら内政充実に力を注ぎ、元和元年(1616)大阪夏の陣後、名を長毎(ながつね)へ改名しています。

 長毎とは13代・長毎と同じ名前なんです。なんでわざわざ同じ名前にするのでしょうかね?
 相良氏はご先祖の名前を継ぐことが比較的多い一族でした。頼房という元の名も元は々父・義陽が名乗っていましたし・・・・でもなぜ13代の名を?
 先代・長毎は、戦国初期の相良氏発展の基盤を充実させた“中興の祖”というべき当主の一人。20代・頼房は、きっと戦国の動乱を乗り切った自負心が、その名前を受継ぐ気になった・・・・・というものでしょうか?
相良長毎(20代)
(※1)当時は中世山城で、自然の地形を利用した戦争の時だけ使う砦だった。城下町を伴い、大名が常
   時住む近世城郭は戦国末期から登場。
(※2)財力の小さい相良氏ゆえ、工事は長期間におよび終了するのは、21代当主・頼寛の代のころ寛永
  16年(1639)。約40年かかっている。
(※3)舟仮屋には、仮屋のほか、相良家の茶屋・円通庵があった。仮屋には番代が常任しており、舟子
     が70名ほど居住、相良藩窓口としての役目を果たす。




清兵衛の遠流と、お下の乱

 相良氏20代当主・長毎が動乱を乗り切り、人吉城改修と内政に専心できたのも、国家老・[相良清兵衛頼兄(犬童頼兄)]によるところが大きかったといえます。
 清兵衛は、父・頼安ともに幼い当主が続いた相良氏を支え、関ヶ原の戦いではお家を護り。行政面でも経済基盤を充実。権力集権で家臣を統率するなど、長毎の政策は清兵衛のバックアップなしでは成り立たなかったといえます。
 しかしその辣腕さは権力を独占し、次第に専横へとなっていきます。

 相良清兵衛の所領は公称2千石。しかし一説には8千石とも一万石ともといわれていました。相良藩は2万2千石(※1)といわれているので、ほんとなら尋常じゃない。お殿様スカンピン! 
 そして岡本(現在のあさぎり町・岡原)に隠居所といいながらを城下町までつくり、人吉から商人・町人を呼んで賑わったそうです。(※2)

 寛永13年(1636)、20代長毎が死去。その子[頼寛](※3)が、21代相良氏当主となります。
 翌年、肥前で島原の乱がおきます。相良藩にも出陣の命令がでます。当時頼寛は江戸に滞在しており、名代として清兵衛に出陣の指揮をとらせる事にします。しかし渋って出陣を遅らせます。
 これが後に「相良藩が島原の乱に荷担するのでは・・・・!?」との嫌疑の噂も出た様で、その影響か、人吉城改修は天守閣造営されぬまま、終了したといわれています。

 そういった経過などを含め21代当主・頼寛は、寛永17年(1640)5月ついに清兵衛を幕府評定所へ訴え出ます。

 頼寛が訴え出た内容(要約)は・・・・

 1. 清兵衛は岡本に隠居所造営にあたって、人吉城下から大勢の商人・町人たちを召し寄せ住まわせ
   たため、城下を衰徴させた。
 2. 清兵衛は内蔵助頼安(清兵衛の息子)と談合して家中の知行を調べ、二百五十歩を一反とし、それ
   で生じた三千石あまりを横領した、
 3.当主不在の際、藩主に随行した家臣30人の知行を没収し、家臣で先代当主・長毎より貸し与え
   た金銀の返済不能者に厳罰をあたえながら、清兵衛の近親者には優遇した。
 4.長毎・頼寛へ忠勤を励んだ家臣を、偽りの嫌疑で知行没収や改易をおこなった。また巧みに恩を
   着せて味方に付けた。
 5.島原の乱の際、出陣を渋った。
 6.清兵衛親子は長毎の治世の頃、藩の出納をほしいままにした。
 7.清兵衛父子はその知行を証さず、推量で一万石とも二万石とも思われる収入がある。
 8.内蔵助が江戸で死去したさい、家来に殉死者が出たが、その子頼章(清兵衛の孫)が止め、「もし
   頼章に家老職を申しつけられないときは命を捨てて奉公せよ・・・・」と申し聞かせており、その心
   情悪心分明らかなること。
(※4)


 清兵衛の横領については、先代・長毎が遺言状に書き残していたようです。長毎も清兵衛の横領には悩んでいたようですね。
 当時の清兵衛の力は当主すら凌駕し、「お目見え得」ため勝手な制裁も出来ず、徳川幕府将軍の威光で、排除するしかなかったのでしょうか。

 幕府評定所は清兵衛を江戸へ呼び、8月27日、28日にわたって清兵衛を取り調べます。清兵衛も弁明しましたが、9月4日これまでの功労とお目見え得という栄誉な身分でもあるため、一命は助けられ、津軽藩へお預け(遠流)の判決が下されます。

 清兵衛は球磨に帰ることもできなまま犬童主人、犬童甚九郎、豊永孫七、馬場園頓斉、中間・小者(草履り)の各一人を伴い江戸を出発。10月9日に津軽・弘前に着き、明暦元年(1645)、弘前で88年の生涯を終えています。(※5)

 話は清兵衛が江戸へ向かったあとの7月7日。田代半兵衛義昌(※6)を中心とした犬童清兵衛の一族は、本の清兵衛・隠居所にたてこもります。
 謀反ですから、相良の鎮圧軍が岡本へ攻め寄せてきます。しかし多勢に無勢でかなわず、半兵衛たちは女たちを殺害し火を放ち討ち死。この騒動を[お下の乱]と呼んでいます。(※7)

 相良清兵衛頼兄の遠流・一族の滅亡は、政治家・権力者にある“清濁併せ持ちながらも大局を成す・・・・”ゆえの宿命でしょうが、・・・・すべてはあまりに過ぎてしまい、封建社会の建前を超えてしまった事が、原因かもしれません。
 のち、清兵衛の悪評はいろいろあっても、極悪人扱いなものはあまりみかけません。これは清兵衛の功績を理解していたのかもしれませんね。
 後年、相良藩は公称2万2千石で。実高10万石以上といわれます。その礎、実は長毎だけでなく、清兵衛によるところが大きいかも知れません・・・・という見方は、ひいき過ぎでしょうか?
半兵衛どんの石
 半兵衛ら犬童一族121の遺体は、翌日いかだで球磨川を流し、人吉の矢黒(人吉城の西)の亀ヶ淵に葬られたが、旧暦の7月7日の夜になると、亀ヶ淵では馬のひずめの音や鎧や、武具の音がすると云われています。
 亀ヶ淵北の林の中に [半兵衛どんの石] と呼ばれる石碑がありました。昭和40年、人吉水害後の球磨川改修の際、球磨川沿いに置れていましたが、のちに人吉市教育委員会によって保存されています。
 


(※1)寛永11年(1634)、徳川幕府から領地の御朱印を賜り、石高2万2千石7と認定される。
(※2)高利貸しもやっていたとか?
(※3)相良頼寛:相良氏21代当主。慶長5年(1600)人吉生まれ。正室は相良清兵衛頼兄娘。
(※4)清兵衛野孫・頼章の言動を「推挙されぬ時は相良当主を討って!」と推測したのでしょう。ここまで
   いくとこじつけ?
(※5)清兵衛の暮らした津軽・弘前には相良町という町名が残っています。
(※6)清兵衛の養子、実父は元八代喬禅寺の地頭・蓑田甚兵衛であったが、その妻を清兵衛が側室とす
     るため蓑田甚兵衛を謀殺し、その子を養子としたという話が伝わっている。田代・大畑の地頭と
     なってから田代姓を名乗っていた。
(※7)清兵衛と示し合わせての反乱だったようである。評定を攪乱させるためか?破れかぶれか?は不
     明。孫の頼章は生き残って薩摩へ逃れ、相良内蔵烝頼久と名乗ったという。
(※8)当時幕府は、大名の不祥事をタテに改易・転封・減封をおこなっていた。内乱は格好の材料よな
     るはずなのに、相良藩は問題になった形跡はない。この辺は旨いというか・・・。




球磨川を掘にみたてた城塞・・・・人吉城
人吉城の位置
 人吉城は人吉の球磨川と胸川の合流点にある丘陵に築かれた平山城である。
 人吉城の始まりは定かではないが、文献などによれば平安末期の人吉は平氏・平頼盛の領地で人吉には城が築かれており、代官・矢瀬主馬祐が居城としていたという。

 鎌倉時代・建久9年(1198)。遠江御家人・相良長頼が幕府の命で人吉荘を領地として拝命し入国。人吉城にいた旧平氏被官で在地勢力・矢瀬主馬祐が人吉城を退去しないため、長頼は木上地頭・平河高義の助力を得て討ち滅ばし入城したといわれている。
 当時の人吉城は、自然の地形をそのま利用しただけの砦のようだったものと伝わっている。
人吉城・ 御下門跡の石垣
 相良長頼は矢瀬主馬祐を滅ぼしたあとの翌正治元年(1199)から人吉城改築に着手し、城の様式を一変させたとも言われている。この工事中、城の南西の隅から三日月の文様がある奇石が出土した。これが元になって人吉城を三日月城または繊月城(せんげつじょう)とも呼ぶようになった。 

 中世期の人吉城は、現在の城跡の背後(南側)の丘陵に築かれた連郭式山城であったといわれている。 城は東から下原城・中原城・上原城(本城)・西之城・出城で構成され、上原城は大規模な空堀が巡らされ、北・西面を球磨川・胸川によって守られていた。現在みられるような石垣はなかったといわれている。

 室町時代、上相良氏を滅ぼし球磨を統一した11代・長続以降の相良氏は、芦北、八代、大隅・薩摩方面へ拡大を図り本拠地を人吉から、球磨川河口部の八代へ移す。18代・相良義陽の頃には戦国大名として歴代最大の勢力に拡大。
 島津氏の勢力が肥薩国境に伸びてくる頃から人吉城は防備のため改修が始まる。しかし度重なる戦乱と義陽の討死。継いだ19代・忠房も幼いうちに急死するなどで改修は度々中断。

 人吉城が近世城郭へ本格的に改修が始まったのは本拠を人吉に戻した20代・長毎の時代、天正17年(1589)頃。朝鮮出兵・関ヶ原の戦いなどで、何度か中断しながらも、江戸時代の寛永16年(1639)に天守未着工のまま工事は終了。


 近世の人吉城は、球磨川と胸川を天然の堀とし、重厚な石垣が幾重にも囲んで、城背後の丘陵(中世時の城跡)は南の防衛に活用。丘陵と城郭の間には空堀・水堀などで容易に攻め込めない構造になっている。

 近世城郭は高城(本丸)・御本城(二の丸・三の丸)・総曲輪から構成されている。天守閣は造営されず、護摩堂が建てられ、二の丸と三の丸には藩主屋敷がおかれ、総曲輪には藩士屋敷と倉・藩政施設が置かれた。
 城郭は、大手門・水ノ手門・原城門・岩下門などで外部とつながっており、城の周囲は約2,200m。相良藩2万2千石クラスの大名としては大規模な城であった。これは幕府の対島津戦略の影響もあったものかと推測される。


 相良藩時代人吉城は一度も戦場となったことはないが、文久2年(1862)2月7日の人吉大火(寅助火事)で城の大半が焼失。
 一部は再建されたが、明治維新・廃藩置県での城取り壊しと、西南戦争での戦火で失われ、移築されていた堀合門を除き、城跡内で現存する建物は全くない。


 城跡(高城・御本城付近)は、国指定史跡に指定され、近年、総曲輪の石垣に多聞櫓・角櫓・長塀などが復元され、往時の様子が再現されている。
水の手門前の洋式武者返し(上部の石垣が突き出ている)
胸川沿いの大手門と多聞櫓付近の写真 文久2年(1862年)の人吉大火以前に撮影
球磨川下流側から撮影された角櫓付近
主な城跡
大手門跡  城郭西側にあって胸川に面している。古写真に様に櫓形式の門があり、大手橋がかけられていた。現在は門跡内側には人吉市役所庁舎があり、市街路となっている。

 現在は北側に復元多聞櫓がある(写真左側)。

水ノ手
門 跡
 城北側、球磨川に面する水運のための門であったことから名付けられ、三間の板葺き建物であったといわれている。
 人吉城は船が利用できるように、所々に舟着場が設けられたが、水の手門にあったものは最も大きなものであった。

原城門跡  総曲輪の東南出口、中世城郭と近世城郭の間の谷にあった門。瑞祥寺が横にあり一帯には武家屋敷かつてあった。現在はその痕跡をほとんど残してない。

 写真奧へ谷間の狭路進むと、麓馬場・相良護国神社前へ出る。

堀合門跡
 武者返し石垣西側にあった門。明治維新後、家臣に払い下げ移築。西南戦争でも焼失を免れ、人吉城で唯一の現存建築物。(市重要文化財)

御下門跡  「下の御門」とも呼ばれ、本丸・二の丸・三の丸への登城口も守る門。堀合門の東にある。大手門と同様に櫓形式門で、両側の石垣に櫓があったという。

洋 式
武者返し
 幕末期に防備のため、相良藩は洋式武者返しを石垣にに設置している。
 日本城郭でこれを備えたのは人吉城が唯一の城である。



岩下門跡  総曲輪の南西にあり、胸川に向かって門あった。元禄4年、家老の宮原右衛兵門が造築したが、幕府への申請許可に問題があったらしく、宮原右衛兵門は隠居を命じられている。現在は石垣の一部を残しているのみ。


復元された建築物
写真左側が角櫓、右・多聞櫓(一部)、櫓間にある白い壁が長塀
角  櫓  胸川と球磨川の交流点、城の西北角を守る櫓。本瓦葺き入母屋造り、鍵形
の平屋構 造で、壁は上部が漆喰大壁、下部が墨塗の下見板張になっている。
外面に突き上げ窓がある。

多 聞 櫓  大手門側ある長櫓。角櫓と同じ構造で、14の突き上げ窓があり、戦いの
際はここから鉄砲・弓の射撃をおこなう。大手門を守る防衛拠点。

長  塀   瓦葺土塀。上部を漆喰壁、下部に腰瓦を張り付けた海鼠壁。2ヶ所に石落
としが設置されている。

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