【萬物相】サムスン電子の40年

 1968年にサムスングループのイ・ビョンチョル会長は電子産業への参入を決心し、日本へと向かった。しかし、日本の電子業界からは相手にされなかった。イ会長は辛うじて三洋電機から技術移転と協力に関する約束を取り付け、面積40万坪に達する三洋の電子産業団地を視察した。イ会長は帰国するや、すぐさま用地確保に乗り出した。「とにかく40万坪以上の土地を探せ。三洋より1坪でも大きくなければ駄目だ」というその言葉には、借り物の技術で会社を設立しても、いつかは日本を追い越すという覇気があった。

 全国で用地を探し回った結果、同年10月に慶尚南道蔚州郡(現在の蔚山広域市蔚州郡)に75万坪、京畿道水原市に45万坪の用地を確保した。そして、69年1月に資本金3億3000万ウォン(現在のレートで約2500万円、以下同)、従業員数36人でサムスン電子工業が設立された。テレビを生産するサムスン三洋電機、ブラウン管を生産するサムスンNECも発足した。だが、政府はサムスン電子の設立に強く反発した。イ会長が朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領に会い、直接説得したが、既存業界の存立を脅かすとの理由から、生産分はすべて輸出するとの条件でようやく許可を受けた。

 白黒・カラーテレビを生産し、輸出企業として地歩を固めたころ、サムスンは再び冒険に乗り出した。77年に当時の李健熙(イ・ゴンヒ)副会長が私財を投じ、韓国半導体を買収、サムスン半導体通信を設立した。グループ内でも、「資本も技術も市場もなく、絶対に不可能だ」という「三つのノー」を突き付けられたが、父親のイ・ビョンチョル会長を説き伏せた。83年のイ・ビョンチョル会長の「東京宣言」で、半導体事業への本格的な投資計画を明らかにしたサムスンは、10年もたたない92年に日本企業を抑え、DRAM(記憶保持動作が必要な随時書き込み読み出しメモリー)業界で世界1位に躍り出た。

 サムスン電子とサムスン半導体が合併したのは88年。合併期日の11月1日がサムスン電子の創立記念日となり、あすがちょうど40周年に当たる。現在までに、サムスン電子の売上高は350倍、従業員数は4160倍の15万人に増えた。12品目が世界シェアトップに立ち、ブランド価値は21兆ウォン(約1兆6000億円)に達する。今年7-9月期の業績が過去最高を記録したことで、通期では売上高が130兆ウォン(約9兆9000億円)に達し、営業利益は初めて10兆ウォン(約7600億円)を突破する見通しだ。

 サムスン電子の成功は、強い反対にもかかわらずDRAM市場に果敢に投資したイ・ビョンチョル会長の先見の明、「妻子以外は全部取り替えろ」とまで言い放った李健熙会長の「新経営-品質経営」抜きには語れない。さらに、「エニーコール」ブランドの携帯電話端末発売から液晶テレビ「ボルドー」の誕生に至るまで、同社の人材が一体となり、絶え間なく突き進んだ技術品質革命の合作が、今日のサムスン電子だ。トップの座を守るのはさらに難しいことだ。サムスン電子の前途には、さらに激動の40年が控えている。

李濬(イ・ジュン)論説委員

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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