◇ラッキードッグ1 ラグトリフ誕生日ショートストーリー
「another six」
 監修:Tennenouji

「――失礼します〜。……ん、あれ? ジャンカルロさん」
「おお、オツカレちゃん。あー、今日はベルナルドに用事だっけ?」
「はい。例のお屋敷の掃除が終わりましたので、報告と請求に〜。また出直すとします」
「あーいやイヤ。ベルナルドから話は聞いている。書類も俺が預かるよ」
「それはそれは。助かります、少々お待ちを……」
「まあまあ。立ち話もなんだ、座ってくれよ。コーヒー持ってこさせる」
「いえ、お気遣い無く……あー、他の幹部の皆さんも出払ってますか。では、お言葉に
 甘えまして失礼を――」

 私は、その広い空間――デイバンのコーサ・ノストラ、CR:5の本部で、二代目の
ボスとなった青年の前でお辞儀をし、彼の客となった。
 その執務室には、二代目のボス、デル・モンテ氏――ジャンカルロさんだけが、いた。
 彼は品の良い普段着のコンプレートを着ていると思った。その色合いと漂ってくる香気
には覚えがあった。彼は、護衛の兵隊に持ってこさせたコーヒーのセットを受け取ると、
私の座っているソファの前にそれを置いた。
 私が礼を言うと、彼は手をひらひらさせながら、ネクタイを弛めて息を吐く。そして
彼がソファに座ったので、私はコーヒーに砂糖を入れる。

「いやあ、いい匂いですねえ。さすが本部はいいものを仕入れてますね」
「んー、ベルナルドの趣味だけどな。あー、あんた、甘いもの好きだっけ?」

 ジャンカルロさんは、ソファを立って――向こうにある、自分の執務机のほうに向かう
音が、高級な革靴がソファを踏み、そして戻ってくるのが聞こえ、私の眼鏡に映っていた。

「えーっと、ラグ……。ん、なんだっけ。ごめん、うろ覚えだった――」
「あ、僕の名前ですか?」
「ん、ラグトリフってのと、ラブ&ピース・クリーニング社ってのはは名刺もらったんで
 覚えてたんだけど……。ミスタ・バーホーベンだったか?」
「はい。英語でしたらそちらでけっこうです」
「あー、すまん。フェルフーフェンだったネ。思い出した」

 彼はばつが悪そうに笑うと、テーブルに何かの紙の包みを置いた。その包みからは、
香ばしい焼き菓子の甘い香りがしていた。

「こちらは?」
「――ハッピバースデイ、ミスタ・フェルフーフェン。掃除屋ラグさん。
 ベルナルドから、そっちのオメデトウも預かってたんだ」
「ああ、そうでした――」

 そうか、今日は10月31日だったか。明日から万聖節だというのはわかっていたし、
街の飾りがハロウィンのそれだというのは見ていたが、自分の誕生日だったというのは
忘れていた。
 ――しかし、なぜ?

「ありがとうございます、わざわざ僕なんかのために。……そういえば、ベルナルドは?」
「ああ。幹部連中はカヴァッリ爺様と揃って、先におめかしして教会に行ってる。俺も、
 あとからアレッサンドロ親父と一緒に向かうことになってるんだけどさ。
 ……いやあ、書類仕事貯めてるのがばれちゃって。さっきまで半泣きでやってたんだ」
「それはそれは」
「まあ、そっちは終わったんで、これからすぐ行かなきゃならねーんだけど。
 でさ、ベルナルドの野郎、ついさっきアンタへの言付けを俺に頼んだときにさ――
 今日がアンタの誕生日だって言って。そういうのはもっと早く言えってばよ」
「えっと、なにか?」
「なーにか。って。あんたにはいろいろ世話になってるジャン。誕生日のオメデトと
 なんかプレゼントって思ってさー。でもあんたの趣味とか好みとか、いまいちわかん
 なくてさ。で、しかたねーから、ソッコでこれだけ用意した」

 その言葉と一緒に、焼き菓子の甘い香りが再び私の鼻腔に忍び込んできた。
 全く、嗅いだことのない匂いの菓子だった。ココアとチョコ、そしてコンデスミルクの
匂いが少し焦げて、ほろ苦い香ばしさを演出していた。
 デイバンの、こんな菓子を売っている店を私は知らなかった。
 ニューヨークあたりからの土産品だろうか? それにしては仕事が素人のそれだ。

「まさか、これを僕のために?」
「ああ。さっき、こっそり厨房に行ってサクッと作ってきた。口に合うかどーかはわから
 ねえけど、ココアのとチョコのクッキー焼いたんだ」
「……あなたが――」
「あー。クッキー出したからさ、イタズラはかんべんな。……つーか、あんたのイタズラ
 はなんというかシャレにならん気がするから」
「まさか、滅相もない」
「ああ、あとそれ。オーブン焼いてる時間がなかったからさ、トースターで作ったんだわ。
 だからちっと生焼けだったらごめんな〜」
「そんな」
「てか、ホントはでっけえケーキでも取り寄せればよかったんだけどな。教会の礼拝で
 全員出払っちまうからさ、こんなもんだけどかんべんな」
「そんな……。ありがとうございます、感動です――」
「……他人に言うなよ。二代目がクッキー焼いてたなんて知られたら笑われるじゃすまな
 いからな」
「ジャンカルロさん、料理が出来るんですね」
「ああ、昔プー太郎してたときは自炊してたからサ。まあ、今でもたまにやるけど」
「それはそれは。……では、さっそく失礼を――」
「ああ、バリバリ食っちゃってくれ」

 私は、包みを開いて……その1ドル銀貨くらいの焼き菓子を摘み、それを口に運ぶ。
 そうか、嗅ぎ慣れないこの匂いは、手作りのせいか――
 指先に伝わる、焼けたバターの油と砂糖の感触。
 それを口に入れ、噛んで、唾液でゆるませ、口に張り付くそれを噛んで、嚥下する。
 …………たぶん、いまのはココアの味だった。と思う。
 私は二つ目を摘み、噛んで、嚥下し――砂糖とミルクで味をつけたコーヒーで、飲む。

「いやあ、とても美味しいです。素晴らしい。……最高の、誕生日ですよ」
「褒めても何も出ないぜ? ……あー、そうそう、いけね、これを預かってたんだった」

 ジャンカルロさんは、スーツの懐に手を入れた音をさせた。
 それに続いて、何かの書類を入れた封筒が私の前に滑ってきた。

「出るモンがあったわ。これ、ベルナルドからの誕生日プレゼントさ――」
「そちらは?」
「えーと。……ファガーソン製靴裁縫工場、の――残飯処理の権利書。だってさ」
「ああ。そちらでしたか。手に入ったんですね、うれしいな」
「ベルナルドが言ってたけど、あんた、前からこれ欲しがってたんだっけ?」
「はい。最高の誕生日です、ほんと」
「……参考までに聞くんだけど。これ、工場の食堂から出る残飯の……ことだろ?
 こんなの、その。どーすんだ?」
「はい。うちで飼っております豚さんの食事に使えますので」

 あー、とうなずきながら――ジャンカルロさんは、何か思い出したように少し体温を
下げた。私の養豚場のことを思い出したのだろう。

「……そっか。うちも毎日、豚さんに食わせるほど、その……シゴトは頼めないしな」
「はい。もっとも、人間の残飯だけでも栄養が偏ってしまいますし、人間の食事は塩分が
 過多なので、そちらも毎日は食べさせられませんけどね」
「なるほどなー。でも、工場って言うか残飯はほかでも出るんじゃねーのん? なんで、
 その裁縫工場のがそんなに欲しかったんだ?」
「はい。あの工場は女工さんばかりですので。残飯に煙草の吸い殻が混じらないんですよ」
「あ〜〜、なるなる」
「上質な残飯ですからね。煮込みにすれば僕たちが食べたって平気ですよ」
「……そ、そうなのかな。俺は遠慮しとく」

 ジャンカルロさんは、何かごまかすようにして、何も入れていないコーヒーで喉を洗う。
 私も、コーヒーをおかわりして、そこに味がつくまで、ミルクと砂糖を入れる。

「……でもなー、自分でやっといてアレだけど、大の男が誕生日にクッキーはねえよな。
 すまん、埋め合わせは今度するわ」
「いえ、そんな」
「……組からシゴトも頼んでるけどさ。あんたには何度か命、助けられてるからな、俺」
「いえ、それもお給金を頂いているお仕事ですから。それに……」
「ん?」
「僕は、十分です。本当にありがとうございます。それに、過ぎたものを頂いてしまって
 それを無駄にしてしまったら、残念ですし……」
「え?」
「いえ、なんでもありません」

 私は――――――
 おそらく、気分が高揚し、感動をしていたのだと思う。
 ジャンカルロさんは、いいひとだ。とても、いいひとだ。
 こんなひとが、マフィアのボスというのだから――そして、この悪の組織は、自分の知
る限り、かつて無いほど繁栄しているのだから………………この世界は、愉快だとおもう。
 愉快だからだろうか?
 私は、何の脈絡もなく、もう十数年も前の誕生日のことを思い出していた。


 私の分隊の伍長は、この出撃の前に、宝物のように大事にしていたブランデーを――
彼の母親が送ってきてくれたものだという、紅茶に一滴ずつ入れて使っていたブランデー
を全部、飲んでしまっていた。
 それは、彼にとって正しく幸運な行為だっただろうか?
「――……3800……3810、11、12…………」
 その伍長は今、私のいる塹壕の「へり」に引っかかって埋もれている。
 伍長は「ああ、ブランデーを残さず全部飲んでおいてよかった」と思いながら死んで
いっただろうか?
 それとも、なにか考えるヒマもなく砲弾で引き裂かれ泥に埋められただろうか?

「――……3894、95……96、97、98……」
 私の身体は、動かなかった。
 私たちの中隊が突撃したとき、味方の英軍が行っていた準備支援砲撃のタイミングが
わずかに、ずれた。われわれが突撃する先にある、ドイツ軍の陣地と塹壕に向けられる
はずだった砲撃は、時計のズレか、あるいは摩耗した砲身のせいか、50メートルほど
ずれて、突撃していた私たちの中隊の上に、落ちた。
 その砲撃は5分続き、私のいた分隊は、小隊そして中隊ごと、吹き飛ばされた。
 その朝、140人いたその中隊は、味方の砲撃で粉砕された。
 だが――この戦線での攻撃は、続けられていた。
 たぶん、後方の司令部でも、誰ひとり、この誤射には気づいていなかったとおもう。
 その砲弾が無くても、おそらく私たちの中隊はドイツ軍の塹壕の前で、火点の機銃と、
ドイツの砲弾でおなじ結末を迎えていたはずだ。

「――……4011、12、13、14……」
 気がついたときは、私の身体は塹壕の中に転げ落ち、そこで泥に埋まっていた。
 身体が動かないのは、砲撃でやられたのと――あとは、砲弾に鋤き返され、泥に絡まっ
た有刺鉄線が身体に食い込んでいるせいだと思った。
 もう、痛みも――何も、感じなかった。
「――……4100、4101、02、03……」
 不思議と、飛び交う機銃の弾丸の音だけが、私の頭蓋の中を駆け巡っていた。
 それらは、ひどくゆっくり、正確に、一発ずつを私の脳は数えていた。
「――……12、13、14……」
 そのうち、何発目かが私を貫いて泥に埋まり、数えも私も、そこで終わるのだろう。
 もう、何も感じなくなっていた。
 まばたきも忘れた目は、塹壕の底で――カーテンで仕切られた舞台のようにも見える
塹壕の底で、ただ、乾いて、開いていた。
 空が鉛色をしているのは砲煙のせいだろうか。それとも10月のせいだろうか。
「――……4182、83、84……」
 塹壕の中には、砲弾に吹き飛ばされて、まだ生きている人間の姿がいくつもころがって
いた。この陣地帯の塹壕にいたドイツ兵か、それとも突撃した英軍兵か、泥にまみれた
その姿からは見分けがつかない。
 腹わたと血にまみれ、うめいて、遅れてやってくる死を待つ姿もある。
 私と同じように、ただ脆弱な呼吸だけをして、遅れてやってくる死を待つ姿もある。

 その日――
 もう何年も繰り返されている日々が、再び始まっていた。
 砲弾と機銃で好き返され、死の荒野と化した泥濘。そこに穿たれた、無数の塹壕。
 その上に引かれた目に見えない線は、真っ新な地図の上で引かれた勝利への願望。
 その、たった数メートルの距離を手に入れるために――
 数千発の砲弾、数万発の銃弾、何トンもの爆薬、そして何万もの兵士たちが投げ込まれ
て、泥に飲まれて消えた。
 すべては泥のシチューの中に飲み込まれて消えた。
 無数の砲弾は、炸薬の化学反応で屑鉄の嵐になって消えた。
 兵士たちの命は、塹壕の底に溜まった赤黒い水になって消えた。
 そして残された生命の残骸は、無惨な死体になって、有刺鉄線の根をまとい、じゃがい
ものように泥の中に埋まっていた。
 まだ生きている者は、死ぬことも生きることもできないまま、もがく力もなく、ただそ
こで絶望することも出来ない恐怖に晒されていた。
 つい数ヶ月前までは静かな街と家庭で過ごしていた穏和な男たちは、その記憶の残滓が
絶望すら奪い去って――ただ恐怖することしかできずにいた。

「――……4211、12、13……」
 自分はしあわせだ。もう何も感じず、痛みも恐怖も、自分の上を通り過ぎているから。
 いつか、あの銃弾のひとつが全てを終わらせる。
 それは、いつだろう。
「――……58、59、60……」
 銃声とは別の轟音が、振動になって私の身体を震わせていた。
 私の目に映ったそれは、泥の塹壕と濁った空の合間に現れた、新しい舞台装置だ。
「…………!!」
 誰かの悲鳴も聞こえる。私と同じように身動きできず、逃げることも出来ない目に、
それを映してしまった男たちの、悲鳴だ。
「…………!! …………!!」
 この塹壕を、両側から挟むようにして進む――エンジンの轟音と鋼鉄のきしみをバック
コーラスにして、機関銃の吠える音と錆色の銃火を放って進むそれは、巨大な箱型の影は、
英軍の戦車、菱形のタンクだった。
「……!!」
 二台の戦車は、塹壕を挟むようにして、鋼鉄の履帯で泥をかき混ぜながらゆっくり、進
む。そして、戦車の側面から張り出したスポンソンから、触手のような機銃の銃身が揺れ
て――塹壕の中を掃射しながら、進む。
 それは、岩の隙間をさぐる昆虫の触手と同じだ。
「…………!!」
 誰かが悲鳴を上げ、それが機関銃の音で途切れ――別の誰かが、また悲鳴を上げる。
 ここは、ドイツ軍が支配していた塹壕だ。
 中に、私たち英軍兵士がいても……戦車の乗員からは、それはわからない。
 ただ、機械的に、両側から死角がないように挟んで、1センチ刻みに銃弾で縫う。
「……あ、あああ!! いやだ、いやだ……!!」
 私のすぐ目の前で、英語で、誰かが悲鳴を上げていた。
「――……4284、85、86……」
 知らない男だった。私の分隊の兵士ではない。その男は、誰か、女の名前を呼び叫び、
そして悲鳴をまき散らしていた。その男も、泥と有刺鉄線に絡められ動けないのだ。
「……あ、あああ……!!」
 恋人だろうか、妻だろうか。その名を呼んでいた男は、見開いた眼窩に迫り来る戦車を
映し、そして……無機質に降ってくる、味方の銃弾の中でもがいていた。
「…………!!」
 その男は、まだ動く腕で弾帯をかなぐり捨て、サスペンダーも棄てて、泥に潜る。
 ――そうか。少しでも身を低くすれば銃弾を一時でも避けられる、と思っているのだ。
 男は、泥に伏せ、悲鳴を上げ……その周囲を、戦車からの轟音が包む。
「…………!!」
 その男は、泥の中でもがき……そして、軍服に手を突っ込み、泥に何かを棄てた。
「――…………」
 最初、それが何かわからなかった。
 それは、ケースに入った写真だった。どこかの青年と、どこかの女性が写った写真。
 ――ああ、そうか。投げ捨てたこの写真の厚さ数ミリだけでも、低く伏せたいのだ。
 その写真は、さっきまで名を呼んでいた女が写っているのだろうか。
「――……4301、02、03、04……」
 私がそこまで数えたとき、別の陣地から掃射された機関銃の弾が泥を跳ね上げ、その
男の首筋を貫いて、消えた。男は、塹壕の縁まで鮮血を吹き上げ、動かなくなった。
「――……14、15、16、17……」
 次は、私だろう。
 そう思ったときだった。周囲に、別の爆音と衝撃が響いて、私は塹壕ごと揺さぶられた。
「――……20……21、22、23……24、25……4326――」
 左側にいた戦車が、ガクッと揺れた。降ってきたドイツ軍の阻止砲撃の一発が、車体の
どこかに当たったのだろう。その戦車の中から、くぐもった戦車兵たちの怒声と悲鳴とが
聞こえ――機関銃の音が、止まっていた。
 それと同時に……砲弾には、ガス弾も混じっていたのだろう。灰色をした巨大なクラゲ
のような気体の塊が、ゆっくり、こちらに向かって広がっているのが見えた。
 そうか。
 ――戦車のほうではなく、おまえが、私の死か。
 その、止まった戦車の後ろに、陽炎が見えた。燃料のガソリンに引火したのだろう。
 ガタガタと鋼鉄の揺れる音、そして悲鳴。
 ――ああ、砲撃のショックでハッチが開かないのだな。
 閉じられた戦車の中から、獣のような罵声と悲鳴が響いて……その巨大な鋼鉄の箱は
どす黒い爆炎に包まれ――――――………………。


「なあ、おい。おいってば――」

 私は、ハッとして……目の前の、二代目ボスのほうに顔を向けた。

「ああ、すみません。なんか感動で、涙ぐんでしまいまして」
「大げさだなあ。なんか、急に考え込むからどーしたかと思ってさ」
「いえ――」

 私は、目を隠す色つき眼鏡を持ち上げ――

「この世界は素晴らしい。そう思いませんか、ジャンカルロさん」
「そ、そうかな。そうかもな。まあ、その日によって変わるけどナー。昨日とかさあ、
 まいったよ。NYから来た爺に一日つきあわされてさ、死ぬかと思った」
「でも。今日が素晴らしい日で、よかった。――ありがとうございます」
END