歌が愛の歌であり、人生を歌うことはよくありますが、同時に歌が社会問題と密接に関わった時代がありました。「イムジン河」という曲も、また、そういう時代の子でした。
当時、京都のフォークグループであったザ・フォーク・クルセダーズ(通称「フォークル」)が1966 年頃から歌っていたこの曲は、フォークルの友人・松山猛が教えてくれたものでした。その名で「民謡の十字軍」を意味したザ・フォーク・クルセダーズは、世界中の民謡を歌おうという思いで、これを取り上げたわけで、当初はこれを朝鮮半島の悲劇を歌う民謡だと思いこんでいたのです。つまり、漠然とですが、多くの民謡やフォークソングのように、加藤和彦が採譜したメロディはもともと作者が不詳で、南北に分断された国のことを描写した歌詞はその頃新たにつけられたものだと思っていました。だから、歌詞の意味を少し変えることの自由、メロディも少しは違っていてもいい、という余裕のようなものがそこに実現していたように思うのです。
ところが、「帰って来たヨッパライ」のヒットの後、これがレコーディングされ、フォークルの第二弾として発売されることになって、この曲に作者がおられることが判明したのです。それも、発売の数日前で、すでに曲は深夜放送などで話題になっていました。オリジナルの曲は、南の地へ北の様子を伝えようとする内容でしたが、松山の自由と平和を求める歌詞は、南北の分断をめぐる思いを訴えるものへと変わっていたのです。それでレコード会社は、これが朝鮮民主主義人民共和国の歌であることや作詞作曲者名を明記すること、原詞に忠実に訳すことを求められました。レコード会社は国交のない国の名前を出すことに躊躇し、親会社のビジネスに影響することを恐れたため、 発売を中止にしたと聞いています。彼らは不自由だったと思います。
一方でフォークルは、入れ替わりに生まれた「悲しくてやりきれない」を発表し、それが救いとなって活動をしばらく続けましたが、この事件の半年後解散しました。しかし、「イムジン河」は、発売中止になったからこそ、強く人の心に残ったようです。ザ・フォーク・クルセダーズそのものもそうだと思います。長くやらないで一年足らずで止めてしまったことが、人びとのさらなる関心の高まりにつながったのでしょう。
その後、多くの人の発売に向けた働きかけにもかかわらず、発売中止の状態は長く続きました。が、2002 年春、34 年ぶりにようやく発売され、今では、録音されたものは自由に手に入るようになりました。また、誰のものでもなくなった「イムジン河」は、誰にでも、どこででも歌えるという自由を与えられたようです。その結果、現在、フォークルの「イムジン河」は「松山 猛 訳詞、朴 世永 作詞、加藤 和彦 編曲、高 宗漢 作曲」となっていますが、その他に、思いつくだけでも、1968 年ザ・フォーシュリーク版「リムジン江」、2001年NHK 紅白歌合戦のキム・ヨンジャ版「イムジン河」、そして2002 年フォークルが新たな歌詞をつけた「イムジン河 ~春~」などが、それぞれ装いも新たに、独自の歌い方で、そして新しい歌詞で歌われています。さらに今では、この日本語版のフランス語訳、英語訳、そして、新たなハングル語訳まで登場し、それぞれ歌われているのです。こんなことは、日本でしか、そしてこの曲でしか、ありえない展開でありましょう。
40 年前フォークルが関西から初めて東京に来て、これを日比谷野外音楽堂で歌った時、私は「もし関西と東京に国が分かれていたら、この曲は歌えなかった」と言ったのです。そして、2002 年に「イムジン河とは、誰の心の中にも、あるいは人と人の間にも、どこの国と国の間にも、流れています」と語りました。
この曲はあちこちに流れる「河」をこえ、これからも無限に広がり、長く流れてゆくでしょう。だからこそ今年の8 月は、友人たちの力を得て、色んな「イムジン河」を同じステージに集め一度にまとめて聞いてみたい、そしてそれらを一曲にまとめて流してみたいと思うのです。そしたら、この国でしか味わえない、この曲の本質である、あの熱い自由と愛を、また深く味わえるのでは、と今から期待しているのです。そして当日は、この「イムジン河」が加わったら、ちょっと長めのアンコールで登場するはずの、他のフォークルの作品や「あの素晴しい愛をもう一度」も、よりその意味が胸にしみるはずです。
きたやまおさむ