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「Number」 No.219 1989年5月20日 文藝春秋社

タイガーマスク、スーパータイガー、そして……

佐山聰  栄光からの逃走

タイガーマスク。昭和50年代後半、アニメの世界から飛び出してきたこのレスラーは、スピーディーかつ華麗なファイトでジュニアヘビー級に新境地を切り開き、栄光の時代を築いた。しかし、拍手と歓声に包まれながらマスクの中で佐山聰は、常に醒めた自分を感じていた−−−


 「もっと速く!  蹴りを内側にしぼれ!  キンタマを内側にしぼるように蹴るんだ!」
  ストップウォッチを片手に、佐山が声を張り上げる。そのたびに練習生たちの表情に緊張感が走り、彼らのしなるような蹴りが、キックミットに重い音を立てる。練習生の数は8人。これだけの人数でジムの空間はもういっぱいである。スペースはかなり狭い。ここは、雑居ビルの屋上である。15畳あるかないかの床に青いマットを敷き詰め、白いテントで天井と四方を覆い、仮設のジム空間を作りだしているのだ。
  階下の4階にも練習スペースがあるのだが、狭すぎて5人同時に練習するのも難しい。上級クラスの練習生が3人、それぞれバーベルを上げたりシャドウを繰り返したりと、黙々と自主トレに励んでいる。彼らを、壁にかけられた額縁の中からカール・ゴッチが見下ろしている。
  2年前に訪れた時には、スーパータイガージムは同じ三軒茶屋の別のビルの、はるかに広々としたフロアを借りていた。エアロビクス・スタジオと兼用だというそのスペースは、床が全面フローリング張りで、明るくアカ抜けたつくりをしていた。
  なぜ、こんな老朽化した雑居ビルの狭い空間に引っ越してきたのか、最初は訝しく思ったが、練習ぶりをながめるうちに、その理由が次第にのみこめてきた。
  練習の密度、質量がまったく違うのである。以前は、どうかするとミーハー的な憧れで入門してきたお坊ちゃまが多く、薄っぺらな空気が漂っていた。蹴りの練習中に自分一人で滑って転び、「痛いよォ……」とうずくまって立ち上がろうとしない少年を、「キミ、大丈夫?」といちいちケアしなければならない佐山の姿を見て、ひどく気の毒に思ったものだった。ジムの経営の安定と底辺の拡大を考えれば、そういうお坊ちゃまも無下には切り捨てられない。とはいえ、練習のレベルをその水準にあわせているかぎり、選手の技量の向上はおぼつかない。佐山のはがゆい思いが、手にとるようにわかった。
  シューティングがこの5月からついにプロ化されると聞いて、僕は佐山がとうとう腹をくくったな、と思った。そしてたしかに、その覚悟のほどは、この狭くて汚いジムに表れていた。
  前のフロアの家賃は月約100万円。対してここの家賃は30万円強だという。これならば会員数が少なくてもジムを経営していける。お坊ちゃんたちの御機嫌をとる必要もない。
  アマスポーツとしての普及を犠牲にしても、少数精鋭で競技水準を引き上げることを佐山は選択したのだ。
  会員は現在約120人。そのうちの十数名が、シューターと呼ばれる称号を手にしている。武道でいえば黒帯、免許皆伝にあたるこの称号は、プロの資格を彼らが有していることも意味している。
  ビギナーの練習が終わり、屈強なシューターたちの練習が始まった。激しい関節技のスパーリングが延々と続く。鈍色の殺気がたちまちジム中に充満し、危険な気配が匂いたつ。これだ、と思った。以前のスーパータイガージムに欠けていたものは、この危険な匂いだ。
  明るく、健康的で、安全という、近代スポーツの基本理念からはどうしようもなくはみ出してしまうものが、格闘技にはある。いくら競技ルールや安全のための防具が発達し洗練されても、格闘技が闘争本能に根ざしているかぎり、暴力の匂いを消し去ることはできない。それが格闘技の、スポーツとしての限界であり、また抗し難い魅力でもある。
 「もっとお互いにガンガン攻めろよ。よーし、いいぞォ」
  熱気あふれるスパーリングを目を細めて見つめる佐山の表情はとても嬉しそうだった。多分佐山は今、とても幸福なのだ。たとえジムの見かけは、いかに貧しくとも……。

  2年ぶりに佐山と会うこの機会に、どうしても確かめたいことが2つあった。
  ひとつは、プロとして先鋭化していくシューティングの未来を見定めること。
  そしてもうひとつは、僕自身の中のプロレスラー、佐山に対するこだわりへの決着である。それは佐山の「プロレス批判」に対するわだかまりの精算でもある。
  佐山聰がタイガーマスクだった頃、日本中のプロレスファンは幸福だった。プロレスとは何か、その解釈や定義にあれこれと煩わされることもなく、ただただリングの上で(時にはトップロープやコーナーポストの上で)縦横無尽に躍動する彼のパフォーマンスに歓声をあげ、幸せな夢に酔っていればそれでよかった。
  ごつごつした大男の集団の中にまぎれこんだすばしっこい少年のように、彼は鈍重な他のレスラーを尻目に、自在に跳ね、飛び、回転した。プロレスは観る者それぞれの思い入れによってなりたつ世界であるが、タイガーマスクは常に、我々の貧困な想像力の数歩先を疾走していた。まるで、我々が驚くのを無邪気に楽しんでいるかのように……。早熟の天才だけに許された、軽やかな戯れ−−。
  しかし、悲しいかな、天才は夭折を宿命とするものである。新日本プロレス内部で起きたクーデター騒動に巻き込まれた結果であったとはいえ、佐山の、タイガーマスクとしての「生涯」はあまりにも短かった。'81年4月にデビューしてから、翌'82年8月に電撃的に引退するまで、それはわずかに1年と4カ月にすぎなかった。
  加えて、虎の仮面を脱いだあとの彼の発言が、我々のショックを増大させた。
 「実は、プロレスをするのが苦痛で仕方なかった。僕にとってプロレスはアルバイトです。僕は本物の格闘技をやりたかった−−」

プロレスはエンターテイメント

  少年時代から憧れ続けていたプロレスの世界に足を踏み入れて早々に、佐山は苦い失望を味わったのだと言う。
 「ずっと僕は、プロレスは真剣勝負、本物の格闘技だと信じて疑わなかった。ところが、そうじゃなくてエンターテイメントなのだと、入門後しばらくたってから知らされたんです」
  が、同時に佐山は新しい希望も発見した。カール・ゴッチから受け継がれ、新日本プロレスの道場の中で命脈を保っていた関節技の存在である。たちまち彼は、その複雑精緻な技術の虜になった。
 「よし、この関節技を身につけてから、自分の中で打撃、投げ、極めの三拍子そろった理想の総合格闘技をつくろうと、心に決めたんです。それが18か19の頃。僕にあと足りないのは打撃でしたから、キックボクシングのジムにも通いだしたんです。
  ちょうど異種格闘技戦がブームの頃で、僕は猪木さんのところに話をもっていったんですよ。そうしたら猪木さんもわかってくれて、『よし、いずれそういう本物の格闘技をつくろう。その時はおまえを第1号の選手にしてやる』って言ってくれたんです。雲の上の人の言葉ですからね、僕は有頂天になってプロレスをやりながら、格闘技の研究を続けていたんです。海外遠征に出ても、いつか本物の格闘技をやれるだろうと信じていた。メキシコではサンドバッグを2本つぶしましたよ。
  ところが『帰ってこい』と言われて帰国したら、タイガーマスクをやれでしょう。しかし、あれだけ当たっちゃいますとね、なかなかやめられなくなっちゃった。
  子供の頃僕は、王や長島のようなスターになりたいと思ってたわけです。それが、たしかにスターになったけれど、ちょっと違ったものになっちゃった。タイガーマスクをやりながら、僕は子供たちをだましているという罪の意識があったんです」
  2年間の沈黙を経たのち、佐山はスーパータイガーとして、旧UWFのリングに立つ。'84年8月のことである。
  タイガーマスクの頃とはうって変わり、リアリズムを前面に打ち出したファイトは、タイガーマスク時代よりはるかにマイナーであったにせよ、熱狂的なファンを生んだ。
  離れては蹴り、組んでは投げ、倒してからは関節を極めにいく、旧UWFのいわゆるシューティング・プロレスは、佐山によって理論的な骨格を与えられた。藤原や前田との試合では、タイガーマスク時代の軽やかな疾走感こそなかったものの、そのかわりに重厚な強さを我々に見せつけた。
  だが、わずか1年ほどで、佐山は再びリングを下りる。
 「UWFもプロレスの域を出なかった。これからは、シューティングの指導者に専念したい」
  銀色のスーパータイガーの仮面を脱ぐと、彼はそういってプロレスへの訣別を明らかにし、ファンをまたも嘆かせた。そして修斗(シュート)協会を設立する。

 「日本独特の、プロレス文化というのがあるでしょう。プロレスが真剣勝負のスポーツなのか、ショーなのか、それを曖昧にしたまま成り立っているような文化。僕は、あれはおかしいと思うんです。欧米では通用しませんよ。向こうでは、プロレスははっきりショーだと割り切ってるんです。
  日本ではテレビがプロレスを中継する時、運動部が扱うでしょ?  おかしいじゃないですか。ショーをスポーツというのは、だましてることじゃないですか。
  僕にはこういう日本文化の曖昧さというものが許せないんです」
  彼の言葉に僕はひたすら困惑する。「だます」とは言っても、愚かなプロレスファンである我々は、そうと知っていてなお喜んで「だまされていた」のではないか。さらに言えば、人前でなにかを表現して見せるという行為は、程度の差こそあれ、必ず何がしかの虚構を含んでいるものなのではないか。
 「それは、芸能ならばそうでしょう。でも、スポーツに曖昧さは許されませんよ」
  たしかにそれはもっともではある、と前置きした上で、僕は胸にずっとつかえていたわだかまりを言葉にした。

−−佐山さんの格闘技に対する理想や、情熱に対して異議をさしはさむ者はいないでしょう。ただ、プロレスラーとして、あまりに多くの人の心をつかんでしまった人間が、ガラッと、実は違うんだ、あれは本物ではなかったんだと言い切ってしまうことに対してとまどいがあるんです。ならば、あなたのファイトに夢中になっていた我々のあの時間は、いったい何だったのか。
  加えて、タイガーマスクやスーパータイガーを失ってしまった悔しさというものもある。我々は、あなたのファイトをもっと観たいという思いを今も抱き続けているんです。
 「そういうふうに思ってくれるのは、本当に嬉しいんですけどね。ただ、僕としては、本物のスポーツに憧れて欲しいなと思うんです。誰もが少年時代、王や長島も全部虚像だとしたら、やっている王や長島自身、どんな気持ちがしたでしょうね……」
  プロレスに対する、彼のこのかたくなさはどこからくるのだろうか、と僕は考えた。
  もし彼が元プロレスラーでなかったとしたら、アマレスかサンボでもやっていて、そのキャリアにもとづいてシューティングを編み出したのだとしたら、今のように「シューティングは真剣勝負、プロレスとは違う」と、ことさらに言いつのることはなかったに違いない。言わずもがなの大前提なのだから。
  元タイガーマスクの佐山聰であるからこそ、プロレスとの差異を強調しなくてはならない。払拭しようとしても、払拭できない元プロレスラーという過去を、佐山は背負っている。
  佐山を評して、旧UWFのある関係者がこう言ったことがある。
 「新しいプロレスはこうあるべきだと、佐山さんはルールから何から何まで、全部自分ひとりでつくりあげてしまったんですよ。あの人の実力は認めますけど、いきなりそんなこといわれても、面食らってしまう。
  それにあの頃は、いつ会社がつぶれるかという時だった。つぶれたらトップのレスラーはともかく、営業スタッフなんかは路頭に迷わなきゃならない。それで背に腹はかえられず、試合数を増やそうということになった。
  ところが佐山さんは頑として同調しない。『それじゃ従来のプロレスと同じだ。試合の質が落ちてしまう』と言ってきかない。そんなこと言ってられる時じゃなかったんです。明日にも飯が食えなくなってしまうって時だったんです……」
  だが、佐山はこう言って首をかしげる。
 「僕は純粋なスポーツを実現したかっただけなんです。だけど興行という足かせがあってうまくいかない。どうしてみんな、わかってくれないのかなって、思ってましたよ」

佐山聰とカモメのジョナサン

  ここで僕はひとつのアナロジーを思いつく。リチャード・バックの往年のベストセラー『かもめのジョナサン』の主人公、ジョナサン・リヴィングストンである。
  生きるために餌をとり、ただその反復に汲々として日々を費やす<群れのカモメ>たちの中にあって、ジョナサンは、異端のカモメである。彼にとって重要なのは、食べることよりも、飛ぶ行為それ自体なのだ。彼は何よりも、飛ぶことそのものが好きなのだ。彼は<生活>を密かに軽蔑し、腹をすかせたまま飛行と速度と技術の限界に挑み、その壁を突破してゆく。
  彼は自分の行動が、いずれは<群れ>に福音をもたらすはずだとナイーブに信じていたのだが、しかし<群れ>はこの異端児を許さず、追放処分にする。孤独の身となったジョナサンは、しかしそれでもはるかなる高みを目指して跳び続ける。
 <生活を守るための群れの掟>と、<理想の探究>との対立。プロレス界も、レスラー、関係者、ファンが一体となって<カモメの群れ>を形成している。佐山はその<群れ>にとってまさしく<異端のカモメ>であったのだ。
  僕はしかし、プロレスを愛しつつも、佐山の青くさい理想を支持したいと思う。
  協調性の欠落を指摘することはたやすい。しかし、ともすれば群れつどって、もたれあい、新しい創造は何ひとつなしえない、そんな集団をつくりがちなこの国にあって、佐山は例外的な、傑出した才能のひとつなのだ。
  創造は常に、孤独によってのみもたらされる。スポーツの中の、さらには格闘技というささやかなジャンルであっても、その事情は変わらない。
 「プロレスはプロレスでいい。ただし、スポーツではなく、エンターテイメントだとはっきり言ってくれれば。僕はシューティングとプロレスがごっちゃにされて、同じように見られることが嫌なんです。僕のやりたいことは、くどいようだけど、純粋なスポーツとしての格闘技なんです。わかってくれるでしょ?  僕はタイガーマスクの頃からずっと本当はそれをやりたかったんだってことを、信じてくれるでしょ……」
  真剣な表情の問いかけに、「信じますよ」と応えると、佐山はホッと嬉しそうに微笑んだ。そしてまた、心から楽しげにシューティングについて語りだした。
 「プロは顔面マスクなしで、素顔で打ち合います。選手のレベルが上がってますからね、迫力がありますよ。5月18日、後楽園ホールでの試合が、プロとしての初めての興行になるんですが、これを皮切りに2カ月に1回のペースで試合を行って、1年後をメドに各階級のチャンピオンを決めたいな、と思っているんです」
  佐山の目が、生き生きと輝きだす。彼はやはり「永遠の少年」なのだ。
  短いが、しかしプロレスラーとしての佐山のキャリアは、まばゆいほどの栄光に包まれている。彼は日本のプロレス史上、おそらく最も愛されたレスラーに違いない。
  シューティングの指導に専念すると断言した時から、佐山はその栄光から逃げ続けなければならない宿命を背負ってしまった。どこまでいっても、佐山の名前の上には、「あのタイガーマスクの」という修飾がつきまとうことだろう。逃げて、逃げて、逃げまくって、スポーツ指導者として大成することができるだろうか。
  そうあってほしいと思う。しかしその反面、僕は心の片隅で、彼がもう一度体を絞り込み、ファイナルファイトを見せてくれたら、というもどかしい願いを捨てきれずにいる。
 「もう二度と現役には戻りません。せいぜいエキジビジョン・マッチぐらいですね」
  と佐山は言う。だが、我々はまだ一度も佐山聰の本気のシューティング・ファイトを見たことがないのだ。佐山の言う「真剣勝負」が、「格闘プロレス」とどう違うのか、見とどけたいと願うのは僕だけではあるまい。
  タイガーマスクも捨てた、スーパータイガーも捨てた、ならば一度はシューター・佐山聰を見てみたい。
  それは、恋々たる未練というものなのだろうか。

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