今企画注目の一人、本領発揮の一作、と言ってしまおう。
好き嫌いに別れる、万人向けでない、などという在り来たりのレビューなど鼻で嗤ってずだだたたんずだだだだだーん4人のハラ・エリスに切り刻まれ弄ばれるのがオチ。
そのためか、何度か読み返す時間を得るためなのかレビューがこの時点まで付いていない。はて、困った。誰か切れ味鋭いレビュアーに任せて退散すればいいのだが、妙に話したい欲求に駆られるのも事実。そこに山があるから。そこに作品があるから。宿業とはよく言ったものだ・・・ジョークだが。
ピカソやダリの「気分が乗っている」時の作品は人の理解に妙な理屈を取り込んでしまう。それは果たして画家が意図したものかどうか。時として意図はするだろうが、単に鑑賞者を煙に巻いているだけではないか?静かに作品を堪能するには、そんな恐れ多いことを考えた方が余程精神衛生上よろしい。
空は緑色だ。時計は曲がっているものだ。女の鼻は左側90度曲がって付いているものだ。
そう考えてしまえば作品鑑賞に妙な雑音を招かないで済む。
人は無意識に意味を考える。裏を見ようとする。もちろん意味はあり、裏もあるだろう。しかし、そればかり見てしまえば、作品本来が持つ輝きを見失う恐れもある。
フェルメールの絵に技巧を見出し、構図や光線の具合に気を取られれば、その絵が本来持っている庶民の生活の生生しさや、寓意に隠された作者の目を見失う。それ以上にその作品が輝く理由、何故人はその作品に惹かれるのか、を逸してしまう。その両方を見て初めて作品は理解出来るのであろうが、研究者でない限り、そこまでする必要もないだろう。
美しいと感じ、奇妙と感じ、哀惜を感じ、旅愁を感じる。その簡素で素直な感覚が作品の本質であることが多い。
このchap.ワールドもその手の読者の直感・感性を験す。分からなくてもいい。無理な理解は雑念を生む。すれば本質を見失う。何度も繰り返しになるが、字面で感じた「ほー」「へー」「うぇ」そのままでいい。
エロイ、キモイ、クサイ、イタイ・・・なんでもいい、感じたそのものが鍵だ。ストーリーを追うのはそれからで構わない。
因みに私は終始笑い通しだった。ダイブのハチャメチャな世界。不思議と感じないマガマガさ。イギリス文学が時に秘める笑えない笑い。笑いの質は実に黒いのかもしれない。しかしそれは小坂氏に感じたユーモア、栖坂氏に感じた喜劇性、それとは3極目の笑いだ。
いや、今回、主催には申し訳ないが「空想科学」を飛び越えて、実に面白い展開になっているのではないだろうか?
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