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気仙坂

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古都で教えられた先人のすごさ
☆★☆★2009年10月27日付

 大船渡商工会議所の庶業部会(菊池喜清部会長)が十四年前から続けている視察研修に今年も参加できて色々と見聞を広めることができた。以前は全国の港湾先進地視察が主だったが、エコ時代に入ってからは環境関連にシフトし、今回も滋賀県の県立長浜ドームで開かれた「びわ湖ビジネスメッセ二〇〇九」の見学がメーン。三百近い出展、五百に及ぶ小間数とあってその規模と内容に期待した。滋賀県の産学官が一体となって開催する国内最大級の総合見本市をのぞけるというのは、当方にとってまさに天与の機会といって過言ではない。
 花巻空港がイメージチェンジをしていたのにはまずびっくり。旧ターミナルの反対側に近代的なビルが建てられ、駐車場も拡張されていた。それはいいが、JALの赤字路線整理の対象となっている名古屋便が廃止となったら、県民の翼が片方の羽をもがれる結果にならねばいいがとそれが心配になった。時代の変化というのは時に罪作りもする。
 さて、あらゆる球技ができそうな巨大な空間をもった長浜ドームは、いまや時代の先端ともいうべき環境ビジネスの現況を物語るような賑わいで、限られた時間ですべての小間を回るのは不可能。そこで関心のある展示を探して歩く。プラントや現機の展示はさすが少なかったが、これから大きく膨らむであろう市場を狙って大手企業だけでなく小規模なベンチャービジネス、大学、研究機関などが盛んに新機軸を展示、PRしていた。
 商売が目的ではなく、世の動きを確かめるのが主体の当方は、もっぱら環境保全、資源再活用の小間をのぞいたが、最も興味のあったのはキャスター付きの炭焼き窯で、竹炭や建築廃材などの再生炭を試験研究用に作るために一基あったらいいなと値段の交渉までしたが、取りあえずカタログだけをいただいて我慢することにした。なんでも衝動買いして失敗している過去の反省に立ってのことである。
 そのあと蔵の街づくりを展開している奥州市江刺区がモデルとした「黒壁スクエア」を見学できたのも収穫で、わざわざ訪れる機会もない場所だけに、見本市会場の近くにありコースに含まれたのはラッキーだった。地域おこしのエネルギーをここまで凝縮できた地域住民の努力がしのばれる街並みを歩きながら、先祖の文化遺産があるのとないのとでは展開の仕方も大きな差があることを知らされる。表面を真似るだけは慎まなければなるまい。
 視察研修の副次目的だったが実質白眉となったのは奈良だったろう。来年平城遷都千三百年を迎えるこの古都で何というタイミングか、かの正倉院展が訪れたその日を初日として開催されたのだった。会場となる奈良国立博物館には長蛇の列が出来上がり開館しても列がまったく進まない。それだけこの歴史的遺産に対する国民の関心がいかに高いかを物語っている。
 六十六件のうち十四件が新規出陳とあって余計人気を集めたのか来場者はガラスケースの前にへばりついて身動きもしない。特に光明皇后の直筆である「楽毅論」の前がそうで、千二百五十年前に書かれた書が目の前にあるという感動は名状しがたいものがあった。歴史上でしか知らない人物が身近にいるという思いは痛烈で、大袈裟に言えば金縛りにあった。
 相前後して書かれた写経や願文の筆蹟も見事の一語に尽き、しばし見とれた。われわれ現代人は進化していると錯覚しているが、それは遺産の積み上げに乗っかっているだけで、むしろ退歩しているのではないかと思い知らされたのである。
 高松塚古墳、石舞台古墳などを回ってさらにその感を強くし、興福寺の五重塔の前に立って先人のすごさを思い知らされもした。普段は観光で一巡するだけの奈良の本当の姿を知らされた気がしたのは、今回の旅の最大の収穫だった。そしてそれとは別に特筆大書したいのは、気仙の食材というものがいかに素晴らしいものかということだった。これも旅の余慶というものだろう。(英)

「悲しくてやりきれない」
☆★☆★2009年10月25日付

 芸能人ら著名人の訃報に接することがあるが、特別な感情を抱くのは希である。しかしこの一週間、ミュージシャンで音楽プロデューサーの加藤和彦さんと、認知症と闘ってきた女優・南田洋子さんの相次ぐ旅立ちの報には、少なからぬ衝撃を受けた。
 南田さんは、映画「太陽の季節」で共演したことで結ばれた長門裕之さんとのおしどり夫婦≠ニして知られるが、〇五年ごろから認知症の症状が出始めたという。長門さんの献身的な介護で懸命に生きる姿と夫婦像は、長門さんの著書やテレビドキュメンタリーで感動を与えた。くも膜下出血が直接の原因とはいうものの、認知症が身近なものとなっているいま、他人事と思えない感慨を覚える。
 ただ、映画やドラマ、芸能誌はあまり見ないので南田さんの女優としての活躍ぶりや人となりは知る由もない。それは加藤さんも大差はないのだが、今夏、彼のナマのステージに接したばかりだったので、身内が逝ってしまったような気分に襲われた。
 加藤さんはフォーク・クルセダーズ(フォークル)の一員としてフォークソングで一時代を風靡。日本のポピュラー音楽界や団塊世代に多大な影響を与え、いまも現役ミュージシャンとして活躍していたのだが、自ら命を絶ったと聞いて、いっそう気持ちが滅入ってしまった。
 今夏のステージはWOWOW主催による松任谷由実コンサートへのゲスト出演。乗りのいいロックンロールを歌い、陽気にギターを弾く姿が脳裏に焼き付いている。九月には南こうせつさんらによる「サマーピクニック・フォーエバー」にも出演し、フォーク仲間たちと『イムジン河』『あの素晴らしい愛をもう一度』を歌った。
 前者はWOWOWで、後者はNHK・BS2でも放映されたので、見た方も多いはず。いずれも録画したが、BS2は亡くなった直後の再放送だったので「哀悼の意を表します」のテロップが流れ、悲しみが一層増した。
 加藤さんで印象に残っているのは、〇二年のフォークル「新結成記念解散音楽會」という一回限りのコンサート。NHKホールは抽選で当たったファンで満席。筆者も応募したが落選。幸いBShiで放映されたので録画しており、訃報の晩に久しぶりに視聴した。
 「スーパー歌舞伎」の音楽が縁で親しい歌舞伎俳優・市川猿之助さんが座長≠ニなり、加藤さん、精神科医になった北山修さん、坂崎幸之助さん(THE・ALFEE)の三人で編成した新フォークル<<塔oーが、紋付き、羽織、裃姿で口上を述べるという意表を突く開演。約二時間のステージは、フォーク全盛の一九六〇〜七〇年代を知る団塊世代は涙なくして見られないものだが、加藤さんがこの世にいないと思うと、別の熱いものも込み上げてきた。
 加藤さんで思い出すことがもう一つ。それは「サマーピクニック・フォーエバー」でも歌った『イムジン河』。南北朝鮮国境を流れる川。この夏、北側が通告なしにダムからの放水を行ったため、南側に犠牲者が出たことでイメージが悪いが、曲は南北統一や平和への願い、故郷への思いが歌われている。
 曲は北朝鮮の朴世永氏が作詞し、高宗漢氏が作曲した五七年の歌曲。六〇年代初め、京都の在日朝鮮中高等学校のコーラスを耳にした松山猛さんが日本語詞をつけ、フォークルが六八年にフォーク調に編曲してレコーディング。
 しかし、政治的な理由で発売直前にお蔵入り。深夜放送で数回流れただけという幻の曲になってしまった。ただ、楽譜だけは流布されたので、若者たちはギター片手に歌い継いできた。紆余曲折を経て規制が解かれ、「新結成記念解散音楽會」が開かれた年、フォークル盤はCDで復活した。
 それには、発売中止後に加藤さんが『イムジン河』のテープを逆回転させてイメージを膨らませた名曲『悲しくてやりきれない』をカップリング。加藤さんの思わぬ人生の閉じ方に接し、文字通り「悲しくてやりきれない」心境でいる。彼の姿は十一月六日放映の「松任谷由実コンサート」(WOWOW)で見られる。(野)

時の移り変わりの早さ
☆★☆★2009年10月24日付

 ある所にはあるのはお金で、いる所にはいるのが人。先週、本社創立五十周年記念フォーラムが大船渡市リアスホールで開かれた。その時、パネラーの一人で、外国に行くと決まって「森繁久弥さんですか」と声を掛けられるという元東京大学大学院教授の梅内拓生氏は、世界的課題の一つに人口爆発を指摘していた。
 フォーラムの翌日、池袋で地元中学出身者による同級会があるというので久しぶりに上京。梅内氏の指摘は貧困や食糧難につながるような人口爆発だが、単純に「人の多さ」を実感してきた。
 週末の繁華街は、どこも前が見えないほどの人通り。有名店となると、ラーメンやかりんとうにさえ行列ができていた。案内役の同級生がハンサムなのは余り関係なかったが、背が高いのには助かった。人込みでも目に付くガイドだけに、都会で持つべきは背の高い友≠ニも実感した。
 今回の上京では池袋と東京駅を移動しただけだが、池袋駅前の一角は中国経営の店で占められるようになっているとか。東京駅脇に出現した高層ビルのレストランでお茶を飲んだが、そこも中国資本による店だった。日本がそうだったように、人口増だけでなく経済力のある国は異国でもどんどん活動範囲を伸ばすもののようだ。
 さて、同級会は地元から参加した数人の仲間との珍道中に始まり、実に楽しかった。久方ぶりに会う同級生の中には、お互い「誰だっけ」と思う人もあったが、それも束の間。乾杯のグラスが上がると、たちどころに昔の面影が戻ってくるから不思議。思い出話に花を咲かせると同時に、首都圏でしっかりと生活基盤を築いている同級生たちの奮闘ぶりにも、改めて感心させられるものがあった。
 ほぼ団塊世代に当たる年代だけに、中学を卒業するとすぐ就職する生徒も多かったわけだが、その中の一人が当時の先生の言葉を感概深げに話していた。それは、「建設業に進むのなら英語の勉強はいらない」という内容だった。
 英語不要と教えられた彼の仕事は、もちろん建設業。実際に型枠大工も経験してきたわけだが、現在の仕事の大半は現場仕事ではなく、建築工事資材のあっせん。それも、海外資材の紹介が柱だという。
 仕事の一端をパンフレットで拝見したが、高層ビルであれ橋であれ、国内で行われている工法とは一線を画していた。型枠もその一例で、すべて既製品を組み立てるだけ。搬入も早ければ、撤去も早い。そのうえ、何度でも使用可能な設計となっている。
 昨年来の世界同時不況で陰りを見せたが、オイルマネーに物を言わせて巨大な構造物を次々と建設してきたドバイの超高層ビルも、同級生があっせんしているその工法を採用していたという。
 建設資材のリースとはいえ、規模が大きすぎるため、国内ではスーパーゼネコンとかそれに準ずる大手でないと利用できないような代物だが、「建設業は英語不要」と言われた同級生の仕事が、文字通り世界を股に掛けるビジネスとなっているところに、時代の変化の早さがある。
 資材生産の本社が地球の裏側。工法も日進月歩だけに、同級生の仕事は毎日が横文字の並ぶ最新情報のゲット。同級生そのものは、未だに英語は話せず、若手社員に情報チェックを委ねているということだが、仕事に必要な最低限の単語はしっかり頭に入っている。
 巡る季節は早くも晩秋に差し掛かるころとなり、政界は民主党の天下となった。大船渡とは北隣の釜石商議所では「政権交代で、高齢(85歳)の自分では対応し切れなくなった」と会頭が辞意表明に至っている。さて、これからどんな変化が、どのような早さでやってくるか。先行き不透明な時代だけにこそ、来し方行く末の足元をしっかりと見つめなおしたい。(谷)

B級ご当地グルメ
☆★☆★2009年10月23日付

 「B─1グランプリ」をご存知だろうか。お笑いではない。「B級ご当地グルメ」の祭典、という冠がついている。食で地域おこしをしようとする全国各地の団体・グループが自慢のB級ご当地グルメを持ち寄り、来場者の投票で人気を競い合うという大会だ。
 テレビでも大きく紹介され、グランプリを獲得しようものなら、その料理を一口食べようと、出店地に大勢の観光客が押し寄せ、地域の知名度アップにも貢献している。ちなみに、第四回の今年は秋田県横手市で開催され、地元の「横手焼きそば」がグランプリに輝いた。その翌日から横手市は焼きそばを食べに来た観光客でにぎわいを見せたとか。
 主催者はB級ご当地グルメでまちおこし団体連絡協議会。通称、「愛B(アイビー)リーグ」だ。第一回グランプリに出展した団体を中心に、平成十八年に設立された。グランプリ参加はリーグ加盟が条件で、現在は正会員三十三団体(十九道県)、準会員八団体(七県)。東北では残念ながら我が岩手と山形の名前がない。
 何をもってA級ではなく、「B級グルメ」と言うのか。愛Bリーグによると、「安くて旨くて地元の人に愛されている地域の名物料理」とのこと。地域の歴史や風土と深く根づいた郷土料理とは一線を画すものらしい。「我が気仙には……」と考えてみるが、これといって思い浮かばない。
 それはさておき、私が食べたいと願いながら、これまでどこに行っても飲食店のメニューで出合ったことのない料理がある。
 「カレー焼きそば」である。
 焼きそばにカレーをかける。ただ、それだけ。これが実に、うまい!ところがその話をすると、なぜか大抵の人は顔をしかめる。
 学生時代、私の定番料理といえばカレーだった。一度作ると何日ももつ。しかし、毎回ご飯にかけるだけでは飽きがくる。時にはフライパンにカレーとご飯を混ぜてドライカレー=Hを作り、時には食パンを焼き、つけて食べた。
 他に食べ方はないかと考え、思いついたのがインスタント焼きそばにカレーをかける「カレー焼きそば」。私以外にも作ったことのある人はいるかもしれない。
 当時はインスタント焼きそばといっても、今のようにお湯を注げば数分でできるという優れ物ではない。フライパンに注いだ水が熱くなった頃合いに麺を入れてほぐし、かき回して柔らかくした後、粉末ソースをかけて混ぜ合わせ、完成させる。その焼きそばを皿に移し、温めたカレーをかけて食べた。これが本当にうまかった!
 気仙に戻って東海新報社に就職したが、その味忘れがたく、知人のお母さんが営む食堂に行ってはよくお願いし、特別に作ってもらった。二十数年も前の話だ。
 日本人にはカレーと焼きそばの好きな人が多いはず。ならば、その二つを組み合わせた「カレー焼きそば」があってもいいと思うのだが……。
 できるならば、焼きそばに地元産豚肉を揚げた熱々の豚カツを載せ、その上にカレーをたっぷりとかけて食べてみたい。私にとってもまだ一度も食べたことがない幻の「豚カツカレー焼きそば」だ。
 卵(温泉卵含む)やウインナー、ハンバーグを載せたっていい。多彩なトッピングの中からお好みで選んでもらう。ああ、考えただけでよだれが出てくる。
 こんなうまいものがどうしてメニューにないのか、今でも不思議でならない。現代風インスタント焼きそばにインスタントのカレーをかけて食べたこともあるが、私的には、いける!一度、お試しあれ。
 この際、気仙のB級グルメとして「カレー焼きそば」を創作し、全国に打って出るのも一興では、と一人夢みている。ただし、すでにメニューとしてあったり、私と味覚が異る場合は、私の独りよがりと平にお許し願いたい。(下)

飲酒の量が減ってきた
☆★☆★2009年10月22日付

 寄る年波で、最近、お酒を飲む量が減ってきた―という単純な話ではない。
 仙台国税局が今月上旬に発表した二十年度の酒類消費状況(本紙十月十四日付2面)を見て、酒類離れに歯止めがかからない状況を改めて思い知らされ、飲み助≠フ一人として一抹の寂しさを感じた次第。
 同局のまとめによれば、本県における酒類消費数量は、前年度比で約3・5%減の九万三千六百一`g。十四年度から七年連続で減少している。成人一人当たりの消費数量も八十・五gと、前年度に比べ一・七g(一升瓶分)も減った。
 酒の消費が減っている要因について、同局では「高齢化と若者の酒離れで、飲酒人口が減ってきていることに加え、健康志向の高まりや景気悪化などが影響したのでは」とみている。
 先日、大船渡市内の酒屋さんと立ち話をする機会があった。店のご主人は、酒類離れについてさまざまな要因を語っていたが、話はどうしても酒販業界を取り巻く厳しい状況に向いてしまう。
 ご主人曰く「消費が落ち込んでいることは確かだが、今やコンビニやドラッグストアなどでもアルコールを置いている時代。仙台の家電量販店でも酒類を扱っている。気仙の酒販組合員数もピーク時の六割ほどに減ってしまった」と恨み節≠ヘ尽きない。
 酒を売っている場所は増えているのに、消費が伸びない原因はいったいどこにあるのか。その答えは「全体的に飲酒人口が減っている」ことに尽きるが、そこには複合的要因があるようだ。
 まず、これまで長い間、飲酒人口の中核として酒の消費を牽引してきた壮年層が、加齢とともに飲む量が減ってきた。加えて、団塊世代の大量退職期到来による飲酒機会の減少も挙げられるだろう。
 景気の悪化で、社用族が接待費を使う額も大幅に減っている。もともと酔っぱらいの少ない富裕族に比べて、呑兵衛の多かった給与が上がっていない所得中間層以下にとって、真っ先に削られるのは娯楽や嗜好品だ。
 それに、相次いだ悲惨な飲酒運転事故に対する社会的糾弾と厳罰化の勢いも、飲酒抑制世論の高まりとなって酒の消費減に影響しているという指摘もある。
 少子高齢化の進行が酒類離れに拍車をかけていることは間違いないにしても、若い世代の酒嫌いが顕著になっている理由が、いまひとつ分からない。酒に対する意識の変化は、例えば若者の価値観の違い、消費行動、先輩や同僚、友人との人間関係など、世代間ギャップにあるのだろうか。
 かつては飲みニュケーション≠ニ称して職場の上司や仕事関係者が酒の飲み方や社会人としての心得を教えたものだが、最近は異世代間の飲酒機会は少ない。お酒はゆっくり、家庭でというマイホームパパも増えている。
 「酒は楽しむもの、緊張感やストレス緩和の薬=A人間関係を親密にする潤滑油=vといった酒飲みの常識≠ヘ、もはや通用しなくなってきたことだけは確かなようだ。
 わが社の若手社員(下戸)に言わせれば「若者の飲酒離れを語る人は、ひと昔前の飲み方、飲ませ方をしてきた人。泥酔して周りに迷惑をかけたり、他人への酒の無理強いは当たり前、それを『酒の上だから』と許してきた極めて悪しき風潮」と手厳しい。
 近年の飲酒抑制ムードの高まりは、幾つかの社会情勢の変化がもたらしていることは事実としても、これまで長い間、日本の経済や財政を支え、社会や国民生活に根を下ろしてきた酒文化と酒類産業の将来にとって、指摘される酒離れ現象は由々しき問題である。
 パソコンやインターネット、ケータイといったIT時代に育ったデジタル型の新人類に日本伝統の酒文化とその価値観をどう伝えていくか。
 「健全な心身育成のために酒の飲み方をどう啓蒙していくか、それが酒離れ現象に歯止めをかけるアナログ型人間の使命ではないか、若者よボトルを抱け!」と、酒の勢いで書いてみた。(孝)

サンマ、ホーム&アウェー
☆★☆★2009年10月21日付

 この秋、大船渡内外でサンマの炭火焼きイベントを取材する機会が相次いだ。サンマの焼き色も鮮やかにして食欲をそそるように…とカメラを構えると、自然に焼き台との距離が近くなり、すっかり取材側もくん製状態になる。
 まずは九月二十日、大船渡市民体育館で行われた「三陸大船渡さんままつり」。市や市漁協、市観光物産協会などによる実行委が主催し、今年で三回目を迎えた。
 イベントは、地元産サンマのPRを目的に開催していることには違いない。しかし、サンマは宅配事業の充実によって全国どこにいても注文でき、しかも鮮度に最大限配慮した状態で届き、産地の魅力やさばき方などを分かりやすく説明した紙も同梱してある。
 一匹数十円で買えるサンマを「浜値価格」で売っても、なかなか魅力とはならない。スーパーでも気軽に買える食材の魅力を、地元でのイベントでどう伝えるか。ひと言でまとめようとすると難しいが、答えの一つにつながる光景が、今年も会場で見られた。
 生サンマつかみ取りコーナーでの一コマ。見た目以上に難しい様子で、冷たい氷水に手を入れて無理に詰めようとするほど、サンマは逃げるように滑り落ちていた。
 五匹を狙ったつもりが、実際袋に入ったのは二、三匹だったかもしれない。そんな思いを見越してか、担当者はさりげなく氷水に手を入れ、数匹を袋に加えていた。「ガッカリ」から「得した」へ、参加者の表情が一瞬で変わったのが印象的だった。
 システム化された宅配やネット販売の中で、人間同士のふれあいによる「得した感」に遭遇することは、まずない。水揚地に住む関係者だからこそ、こうしたアドリブも可能となる。対面ならではの交流は、産物や産地への理解と愛着を深めるキッカケになる。何気ない行動に、消費者の心をつかむ地元ならではの魅力が見えた。
 一週間後の二十七日、次は東京タワーで行われた「さんままつり」。首都圏消費者らへのPRを目的に市内関係者による実行委が発足し、赤い鉄塔の真下で約五千匹のサンマが振る舞われた。
 後日、知人や関係者から逆取材を受けた。「どうだった?」の言葉の背後には、客観的な判断を聞きたいのかな、と感じた。
 ひと言でいえば、成功だと思う。内容よりもまず、首都圏関係者と連携しながら、ゼロの状態から新しいものを築き上げた。予想以上に人の輪が広がり、サンマソングまで生まれた。マンネリ気味のサンマPRに新しい風を吹き込み、大きな混乱もなかったことは素直に評価していいと思う。
 今回の一つのカギは「大船渡が首都圏でのサンマPR合戦に参入した」という構図だった。すでに「目黒のさんま」に合わせて展開している気仙沼、宮古との対決ムード≠ェ注目度を高めた。
 ただ、にぎわいを前にしてつぶやいた、タワーを運営する日本電波塔職員の言葉が印象深かった。
 「大船渡は紅白歌合戦だと初出場の歌手で、宮古や気仙沼はトリを務める大御所。今回は新しさにマスコミが飛びついたが、来年はこうはいかないかもしれない」
 初出場から大御所へ。そのためには、大船渡といえばコレだというヒット曲が今後も必要になる。大船渡ならではの優位性や違いを今後どう築き上げていくか。地方都市と連携したイベントを数々経験している電波塔職員は、にぎわいの先を見据えていた。
 すでに来年の開催も固まっている。しかし、内容は同じではいけない。来場者にもっと大船渡サンマを知ってもらい、購買につなげるにはどうすればいいか、より深く考える必要がある。
 むしろ、今年の成功は忘れるべきかもしれない。何より、大船渡はどんな歌手を目指しているのか。炭火焼きの煙の先に、まずはその道筋を見出すことが、大御所への一歩のような気がする。(壮)

錦の御旗を掲げるだけでいいのか
☆★☆★2009年10月20日付

 「地球はそんなに柔じゃない」という思いが強くこみ上げてきた。ふと目覚めて庭に出たら満天の星がまさに綺羅輝いている夜空を眺めてのことである。
 坂本九の歌に「見上げてごらん夜の星を」という一節があるが、この作詞者は澄み切った田舎の夜空を知らないのではないかと思う。「夜」は蛇足だからだ。その意味で谷村新司の「昴」は「嗚呼、さんざめく名も無き星たちよ」といいところを突いている。文部省唱歌「冬の星座」も星空の描写が見事で、いま改めて歌詞を読むと文語体のなかなかの名文である。中学生時代はただなんとなく意味も判らず歌っていたのだったが。
 星座の配置などからきしで、北斗七星と金星、火星ぐらいしか見分けのつかない無粋者を改めて感動させるのだから天体の遊行というのは実に見事なショーという他はない。宇宙空間の素晴らしさの中で生命を与えられている地球が、温暖化などという一言で片づけられるような脆弱性を備えているとはとても思われないという感を強くしたのは、まさに漆黒の空にちりばめられた「地上に降りしく奇しき光」を痛いほど受けたからに違いない。
 地球の温暖化は温室効果ガスのせいだというのがもはや定説というより真理となっている。二酸化炭素が充満した空気の中で生活したいとは誰もが思わないが、果たして現在の地球環境がそこまで悪化しているのだろうかという素朴な疑問も当方は抱くのである。
 確かに智恵子抄ではないが「東京には空がない」状態が長く続き、高度成長期にはそれがさらに昂じて「光化学スモッグ」までが発生、公害問題が国家的課題となった。あの当時なら地球温暖化の原因として二酸化炭素犯人説を素直に認めただろう。現在の中国の大都市で同じような状況が生まれていると知り、確かにその対策は喫緊の課題と理解することはできる。だが、少なくとも当地の空を眺めている限り「それだけだろうか」と首をかしげたくなるのは能天気のせいだろうか。
 ひところ「ダイオキシン」が発生するというので「どんと祭」まで中止され、地方は焼却場の新改築を迫られた。事業所や個人の焼却炉まで使用が禁止され、そのツケはゴミの回収量を著しく増加させて自治体の負担を増やしたが、しかし「ダイオキシン諸悪説」を否定する何物も庶民は持たなかった。個人のゴミ焼きまで否定するという根拠は、科学的検証もろくにせぬまま「悪いものは悪い」という感情論で処理されてしまったのではないかと今でも腑に落ちぬ思いが強い。
 地球温暖化を防ぐための全世界的な取り組みにも同様の流れを感じてならない。「地球を守る」という大義名分の前にはなんら抗うこともできず、ひたすらそう信じて従うしかないという状況が出来上ってしまった。むろん二酸化炭素はできるだけ排出しない方がいいし、エネルギーの無駄遣いはやめた方がいいに決まっている。だが、努力目標が目標にとどまらず義務と強制にまで発展すれば息苦しい世の中になってしまうだろう。そういう雰囲気が徐々に醸成されていくことが当方には心配なのである。
 鳩山さんが25%削減という大目標を掲げたのはいいが、その理想が裏目に出ることも大いにあり得る。自助努力でできない場合は法律で網をかけることにもなりかねない。そうなると工場の海外移転など産業の空洞化を助長するかもしれない。そしてもう一つ厄介なのが排出権取引である。これは好機とすでに手ぐすね引いて待っている国もある。だからこそ、二酸化炭素と温暖化の関係を科学的に究明する努力がさらに必要な一方で、宇宙の超自然現象というものも考慮に入れるのが真の科学というものではなかろうか。夜空を眺めてそんなことを思った次第。素人の妄言を承知でのこと。(英)

Cシリーズとノムさん
☆★☆★2009年10月18日付

 「プロ野球のレギュラーシーズンが終わり、日本シリーズへの出場権を懸けてパ・リーグ、セ・リーグともクライマックスシリーズ(CS)が始まったが、わしゃ、どうしてもこの制度に納得がいかん。半年間、汗水垂らして百四十四試合もやって優勝したあげく、わずか数試合で二、三位チームに日本一決定シリーズに出られる権利を奪われるかもしれないなんて、おかしいと思わんかね」
 「始まったなご隠居節≠ェ。まぁ普通の感覚ならそうでしょうが、プロ野球全体を盛り上げようとみんなで決めた制度なんで、やむを得ないんじゃありませんかねぇ。たとえは適切かどうか分かりませんが、『悪法もまた法なり』と言うじゃないですか」
 「ほう、君は肯定派なんだな。一リーグ時代ならそういうことも考えられたかもしれんが、文化として成熟したいまは邪道だと思うがね。そもそもクライマックスシリーズのルーツはパ・リーグのプレーオフ制度。巨人戦を中心としたセ・リーグの隆盛を横目に、窮余の策として前後期という二期制を導入して昭和四十八年に始めた。各期ごとの優勝争いと年間一位を決める試合と、一シーズンで三度盛り上げようとした。日本シリーズへは各期の一位が五回戦い、三勝した方が出場できた」
 「そんなことを聞いたことがありますね。で、どうなったんで?」
 「確かに観客動員は一時的に増えはしたが、所詮は小手先の制度改革。プレーオフ時に調子がいい方、あるいはけが人のいないほうが有利になるとか、五十一、五十三年のように阪急が前後期とも一位だったので行わなかったなど、観客数も尻つぼみになったため十年やって止めてしまったんじゃ」
 「なーるほど。それだと、年間成績で他より劣るチームがリーグ優勝して日本シリーズに出ることもある妙なことに。その点ではいまの制度と似ているか…」
 「だから面白いことも随分あった。わしが一番印象に残っているのは最初の年。いま楽天を率いる野村さんが、南海の選手兼任監督だった時じゃ。南海は前期を制したが、後期は故障者が出たりして戦力ダウン。そこでノムさん考えた。後期は死んだふり≠決め込み、一位阪急とのプレーオフに照準を合わせた。大事な五試合だったが、二試合を捨てゲーム≠ニし三つ勝つ方策をとった。歯に衣着せぬ解説で知られるエモやんことエース江本を要所につぎ込む作戦。これがまんまとはまり、阪急に勝ってしまった」
 「巨人がV9を達成した年か。そういえば、野村さんがマスクを着けながら日本シリーズの采配を振るっていましたねぇ。プレーオフ突破に全力投球したので、巨人戦まで見通す余裕がなかったのかな。でも、考える野球≠フ萌芽を垣間見ることができますね」
 「ノムさん野球の基本が考える野球≠ノあることは言をまたない。その思想は、ヤクルト監督時代に古田捕手を軸としたID野球≠ニして開花し、日本一にも輝いた。次に監督になった阪神では、チームカラーと合わなかったり夫人の脱税容疑騒ぎなどもあって低迷したのは残念じゃった」
 「楽天では考える野球≠ェ口癖だと聞きますぜ。チーム編成は、移籍先を自由に選べるFA制度があったとしても、ドラフトが基本。戦力が均衡してくれば『考える力』の差が成績となって表れることを、長いプロ野球生活で熟知しておられる。野球以外でも通じることのようですね」
 「どうやら悟ったようじゃな。ノムさんはまた、物事を成すのに選手に高めの目標を設定するという。それができないと例のぼやき≠ニなってマスコミをにぎわすんじゃ。選手も、それがモチベーションを上げるための操縦術であることを理解し始めたようで、それが今年の好成績になったと思うんじゃが、どうだろうかのう?」(野)

不思議の郷ご当地検定
☆★☆★2009年10月17日付

 知れば知るほど、気仙は不思議の郷。現在は大船渡市と陸前高田市、住田町とで構成されるが、五十数年前までは「気仙郡」という一かたまりの地域だった。古代にさかのぼれば、正史による郡名初見から来年が千二百年。その範囲は、釜石市唐丹町から気仙沼・本吉地方にまで及ぶ広大さだった。
 当社に事務局を置くまちおこし団体のケセンきらめき大学が、まず初級にあたる「ケセンまるごとものしり検定・3級」を十一月に実施することにし、高田、住田、三陸、大船渡の四会場で事前講習会を開いた。
 講師には細谷英男氏(陸前高田市米崎町)、高木辰夫氏(住田町下有住)、山田原三氏(大船渡市大船渡町)、平山憲治氏(同)を依頼。気仙の歴史に各講師は「千二百年前より古い時代に組織化されていた」との見解で一致していた。
 建郡年代以外にも話題は多彩。ライフワークの研究披露だけに、偉大な先人紹介や聖徳太子時代の民間伝承、信仰碑の年代的推移、奈良・正倉院とも関係する玉山産出の水晶など、時間がいくらあっても足りなかった。そこで改めて感じたことはこの気仙には歴史も伝説も、まだまだ多くが秘められているということだった。
 変化の早い現代だけに、時代の最先端を追わなければならないことは確かにある。その一方で、歴史はその地固有の素材。活用によっては、独自の発信源を持つ。歴史や伝説を生かして観光誘客を図っている例は数多いだけに、ご当地検定で気仙の素材を再確認する意義は小さくないと思う。
 たとえば、中国や韓国にまで広まっている養殖ワカメは、大船渡市末崎町の故・小松藤蔵氏が経営として成り立つような企業化を成功させ、養殖ホタテは同市赤崎町の千葉繁氏が耳吊り&式の技術を確立した。
 現在はさらに技術革新が進んでいるが、柔らかく適度な歯ごたえのある三陸ワカメも、殻付きのまますぐ焼いて食べられる養殖ホタテも、この気仙発祥だ。それを知っていることで、来訪者に「ワカメやホタテはぜひ気仙産を」の一言につながるのではないか。
 今が旬のカキだって、広田や赤崎など気仙沿岸産が全国のトップブランド。先に、東京タワーで実施した大船渡のさんままつりが首都圏に話題を提供したが、同市の直送便実行委によるサンマは他生産地とはひと味違う。丸くて魚を傷つけず、鮮度長持ちのスラリー氷を使っているからだ。
 とにかく気仙は、平泉の黄金文化を支えた黄金の郷=B陸前高田市の玉山金山に代表される遺跡が各市町にあり、住田町では明治期と昭和五十年代にも巨大な砂金塊が発見されている。
 坂上田村麻呂伝説につながる鬼の国≠ナもあり、大船渡市三陸町吉浜にはスネカやタラジガネの民俗文化が残る。義経北行伝説に関係し、住田町には「弁慶の足跡」とされる岩場もある。
 今月四日、二戸市の「座敷わらしの現れる旅館」全焼という大変残念な出来事があったが、この気仙には大船渡市日頃市町に「座敷わらしの墓」がある。小さな自然石が道路脇の山中にそっと祀られてあるだけだが、地元郷土史家によると「グリーンツーリズムで来訪の都会の子も見たがった」というから、伝承も現代っ子にアピールする要素がある。
 同市日頃市町には中国の民俗信仰につながる馬歴(櫪)神、末崎町にはダイガク神社や、正直者がカッパから恐ろしい手紙を託された民話につながると思われる沼神を氏神に祀る家もあるとか。
 気仙には、紹介しきれないほどの素材がまだまだある。ご当地検定で、眠っている宝を再発見する感動を共有しながら、その不思議な魅力を観光客に紹介したり、子々孫々に伝えられたらと思う。基本的な雑学百問を用意した検定は、二十日まで受検者募集中。ふるってのご応募を期待。(谷)

続・平氏の末裔「渋谷嘉助」C
☆★☆★2009年10月16日付

 平家が篤く信仰した厳島神社(広島県)と同名の厳嶋神社が、大船渡湾に面した大船渡市赤崎町永浜の弁天山にあり、先日初めて訪れて参拝してきた。
 その厳嶋神社が鎮座する弁天山は、平氏の末裔である渋谷鉱業創業者の渋谷嘉助が明治期に石灰石の採掘を始めた場所であり、この連載の取材を兼ねて参拝したいと思っていた。
 驚くことに、山頂の社殿に通ずる参道に厳嶋神社の名が刻まれた石門と、さらには木の門、赤い鳥居と三つも建っている。この厳嶋神社もまた篤い信仰を集めている。石段を登った先に社殿があり、社殿裏側の広場から対岸の大船渡町の街並みを望むことができる。
 弁才天をまつるこの厳嶋神社はかつて猪川村の船原崎家が勧請したものという(大船渡市史)。境内にはさまざまな信仰碑や広場には昭和に入って建てられた尖塔型の平和塔もあって、多くの人々の祈りの地となっていた。
 参拝して道路沿いの石門まで下りてふと振り返ると、日輪が社殿のある弁天山の頂にあった。そこからまばゆいばかりの光輪が石門のちょうど真ん中のところに一直線に伸びていた。意図した設計なのか、神々しい光景を目にすることができた。
 産金地の気仙は、平安時代には平家の知行地で平家政権を樹立した平清盛の嫡男・重盛の荘園であったことから、時に応じて平氏に多額の金が送られたと前回書いたが、資料によると、例えば治承二年(一一七八)に気仙郡から平重盛のもとへ送られた砂金の量は十二貫百匁といわれる。重盛が厳島神社へ祈祷料として奉った砂金千両、銀百も奥州から差し出したもので奥州は平家にとって財源となっていたとされる。
 平家は宗と貿易を始めるが、この頃、後白河法王も沙金百両を宗におくっているという。平家に栄耀栄華をもたらしたもの。それはもしかしたら気仙の黄金だったのかもしれない。
 一方、渋谷嘉助は桓武平氏の平良文を先祖にもち、平良文の末裔たちは関東で勢力を振るった。その渋谷嘉助の一代記を著した「渋谷嘉助翁」と題する一冊の本が手元にある。
 著者の岡本作富郎(当時、東京市本郷在住)は、嘉助翁の晩年に親しくし、恩人でもあるという翁自身の口から聞いた活歴史を記述したもので、昭和六年に渋谷嘉助が没した翌年発行された。
 岡本作富郎は、渋谷鉱業の二代目渋谷今助社長時代に専務を務めた人物であるという。翁の八十余年にわたる一生は「寸刻の休みなき奮闘の連鎖であった。すべてがその膽力と手腕によって成された血みどろの実力史であった」と述べている。
 巻頭にある従六位渋谷嘉助翁の肖像写真の気骨のある面差しからも、そのことが分かる。貴重な写真の数々は興味深いものばかりで、渋谷嘉助翁頌徳記念碑の除幕式に本邸から人力車で向かう写真や、千葉県知事らが祝辞を述べる盛大な式典の様子、建碑除幕式に参列する大船渡と赤崎の代表の記念写真、千葉県中村の生家、嘉助翁の葬儀、渋谷嘉助が地元民の協睦を願って寄付した大船渡湾の珊琥島や渋谷嘉助を顕彰して珊琥島に建てられた協同園記念碑、大船渡湾の渋谷家石灰鉱砕石所、珊琥島から望む大船渡湾の遠望などの写真の数々が載っている。
 貴族院議員で陸軍中将の大島健一が序文を寄せており、その中で渋谷嘉助について、我が国における最も古き陸軍御用達の一人で、「資性は闊達敏慧」「単なる商魂を脱却して国家的至誠奉公の一念」とたたえている。公爵伊藤博邦が本の題字を書いており、博邦は初代内閣総理大臣の伊藤博文の養子であり、ほかに子爵金子堅太郎も題字を書いている。渋谷嘉助の功績と人脈のすごさがうかがえる。(ゆ)


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