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☆★☆★2009年10月27日付 |
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二十二日付けの小欄でインフルエンザのことを書いたら事実誤認があった。まずもってお詫び申し上げ、訂正したい。ご指摘を受けて大いに赤面した次第▼拙稿の致命的過失は、抗ウイルス剤と予防接種のワクチンを混同していたところにある。その通りで弁解の言葉もない。両者の違いは、罹患しないようにするのが予防注射、罹患したら重症化しないように防ぐのが抗ウイルス剤(タミフル、リレンザなど)。タミフルは内服用、リレンザは吸入用で、共に絶対数が不足する危惧なしとはしないがまずは大丈夫。むしろ深刻なのは予防注射の不足の方だという▼以上を指摘していただいたのは大船渡市内で開業する内科医の方で、啓蒙心から感謝申し上げたい。その外にもいろいろとご教示をいただいたが、引用ミスのおそれありでこれ以上は差し控えたい。いつも半可ゆえの錯誤によって苦言を頂戴しているが、またも生き恥をさらす結果となった。口も筆も共に災いの元である▼元々の浅学に加えて勉強不足で、その任にあらざる者が小欄を担当すること自体が不謹慎のそしりを免れないことを重々承知の上で書き続けているのは、人出不足のためである。一日も早くバトンタッチし安寧安心の日々を送りたいと念じているが、人的余裕が生まれるまで少々ご猶予願いたい▼大手紙のコラムに毎朝目を通していると鏤骨の文章に出会い、消え入りたくなるのはいかんともしがたい。それは本来の素養に加えて予備知識をしっかりと整理し、推敲を何度も重ねて世に送り出すからである。「出席原稿」がボロを出すのは当然の帰結というものだろう。 |
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☆★☆★2009年10月25日付 |
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新緑と紅葉を好むことで日本人ほどこだわりを見せる民族もそう多くはあるまい。十月も半ばに入ると紅葉への関心が一挙に高まるのがその証拠だ。どこそこで始まった。あそこはまだだ―といったように▼「紅葉狩り」といった雅な言葉が残っているのもそうで、これは目で狩るのだから腹の足しにはならないが、わざわざ出かけるのだから煮しめやおにぎりを持参、運転手がいれば「もっきり」片手にとその点はおさおさ怠りない。花より団子というが、やはり花あっての団子だろう▼温暖な当地はまだ色づき始めた程度だが県内の高地や高原ではすでに見どころを迎え、休日ともなるとマイカーが列を作る。それほどまで人の心を引きつけるものは一体何なのだろうか。それはやがて訪れる白一色の世界に閉ざされる前に、あの美しい情景を目に焼き付けておきたいという本能だろう。冬眠前の準備みたいなものか▼今もくっきりと思い出に残っている紅葉は玉川温泉のそれだ。赤や黄が中途半端ではなく、まさに真っ赤、真っ黄色で息を飲むような美しさというのはこれだと思った。温泉の出湯の風情と紅葉は見事にマッチし、心の中で小欄の原風景になった。いやこれは日本人に等しく与えられた特権ではないか▼中国から来た研修生に日本の印象を訪ねたらやはり新緑と紅葉の美しさを挙げた。空気と水のきれいなことも同様だったという。こんな素晴らしい国にいることをしあわせに思い、今夜も感謝の盃を傾けよう。 |
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☆★☆★2009年10月24日付 |
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時代を読むというのは商売に不可欠の要素であることを、最近の世相から改めて教えられる。ユニクロの快進撃の一方で大手デパートやスーパーの苦戦などかつての理論はもはや通用しなくなったからである▼世界同時不況の影響と理解するのが早道かも知れないが、それだけではあるまい。閉塞感の中で明らかに価値観が変化し、生活防衛本能が強くなった結果だと思われるのである。つまり間に合わせられるものはそれで済ませるという一種の「達観」に日本民族が達したというのは大袈裟か▼そんな変化を思わせるのが内陸部のさる小さなスーパーのにぎわいだ。以前から話を聞いていたが、やはり興味を持った仲間が試しに出かけてみたら、異常と言うほどの混み合いにびっくりして帰ってきて「もう二度と行かない」と後悔していた。入り口は長蛇の列ができあがり、店内は身動きもできない状態でとても品を選ぶゆとりなどなかったという▼人気の秘密はむろん安さにあり、それが評判を呼んでこの賑わいになったようで、確かに時代のキーワードは「安さ」かもしれない。しかしそれだけに拘るのは近視眼に陥る。たとえば、安くても一箱なんぼで買って冷蔵庫の肥やしにしてしまう反省から「徳用品」が売れなくなった時代もあったように、価値観というものは移ろいやすい。お年寄り家庭などでは「少量」や「買い物しやすさ」というのも大事なキーワードなのだ▼要するに消費者の意識の変化に対応するには商売にも複眼が必要ということだろう。大手の苦戦はそれを物語る。 |
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☆★☆★2009年10月23日付 |
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前任者の掛けた看板の文字がどうも気にくわない。まずは一旦下ろして、さてどんな文字を書くか思案しているといった図が目に浮かぶ。反郵政民営化に意気込みを見せる亀井静香郵政・金融担当相の姿だ▼自民党時代郵政民営化に反対して野に下った同氏が、その怨念を晴らすかのようなこのところの一連の行動はまず、トップ下ろしから始まった。亀井氏との会談後日本郵政の西川善文社長は、閣議決定された郵政事業の見直し方針と現在の経営路線では「大きな隔たりがある」と辞任を表明したが、まあ降板させられたに等しい▼それにしても民営化とはなんだったのか。それを掲げた小泉さんの自民党が圧勝したのは、民意の支持があったからに他なるまい。しかし国民はその是非を吟味したのではなく、国鉄が民営化して成功したその前例をなぞったに過ぎないだろう▼民主党が見直しによってどのような郵政をめざすのかは未知数である。下ろした看板を削って書き直すのか、それとも新調するのか亀井氏は腕組みして考えているところだろうが、新社長に元大蔵事務次官の起用が内定されたところをみると、官業復帰が民主党の意図かとも思われる▼実のところ、民営化によって何がどう変わったかわからない。切手、葉書の販売はそのまま独占し、一方でサービスが格段よくなったとも思われない。要するにまだ試行期間なのである。しかしそれでも時計の針を逆に戻して得られるメリットというものが真に国民のためになるのかどうか、これは後世に委ねられるだろう。 |
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☆★☆★2009年10月22日付 |
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いずれ沈静化するだろうと対岸の火事視していたら、国内にも燎原の火のようにたちまち広がったのが新型インフルエンザ。本県でも学校閉鎖、学年閉鎖が五十施設近くにも及んでいる▼この数はさらに増えそうで、当気仙地方でも学級閉鎖、学年閉鎖、学校閉鎖という順序で拡大の様相を見せている。対岸どころか足許に迫ってきていた。しかし有効とされる抗ウイルス剤は絶対数が不足しており、まずは医療関係者から接種という方向性が打ち出されたが、罹患したら本人も家族も即接種を望むだろうからその確保はまさに焦眉の急だろう▼この春メキシコでの流行に端を発したこのインフルエンザは「豚インフルエンザ」という呼称で、その名の通り季節的な従来型のそれとは異なる特異性が警戒されていたが、実際患者の死亡数がうなぎ上りに増えて世界的流行病(パンデミック)と認定された▼従来型であろうと新型であろうとインフルエンザに変わりはない。特に抵抗力の弱い幼児やお年寄りにとってこれは時に死にいたる病気であり、だからこそ毎年予防接種が奨励されてきたのである。「タミフル」の投与によって階段から転げ落ちるといった例が相次いでタミフルそのものに対する不安が一時広まったことがあるが、まずは備えを万全にするにこしたことはない▼治療の重要さもさることながら、ここは予防第一だろう。小学生時代、あれがインフルエンザだろうと思う高熱の風邪症状に悩まされた以外に経験のない小欄はこれまで予防など考えたこともなかったが、「アルコール消毒」依存はやめて、うがい、手洗いを励行しようかなと考えるのも、この敵は油断がならないからだ。 |
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☆★☆★2009年10月21日付 |
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四十六兆円余を見込んでいた今年度の税収は六兆円落ち込んで四十兆円を割る見通しだというから、鳩山政権は「重き荷を負うて遠き道を往く」一歩を踏み出したようなものだ▼不足を国債で補うというの、家計にたとえれば給料が減ったのに支出は減らさないというに等しい。「あなた酒、タバコを減らしてよ」と妻が言えば、夫は夫で「お前だって化粧品代を減らせよ。エステもやめろ」と互いに相手を責め、責めるだけではラチがあかず、ついにはマンションを売るハメにもなりかねない▼しかしマンションを売る決断まではできない夫婦は、この場を借金でしのごうと考えたようだ。しかし金融機関が貸してくれそうはない。で、親戚に頼み込み借用証を書くことにした。なにがしかの利息をつけて返済していこうというわけである。気っ風のいい親戚は「ああいいよ」と貸してくれそうだが、借金は借金。いずれ完済の時期が来る▼こうして﹁国債﹂という借用証を書いてこの場を済ませるというのは世間によくありがちな危機管理法だが、返せずに終わって不義理をするというのが平均的なパターンだ。給料が減った分アルバイトをしたり内職をしたりで補うのならまだしもそれもせず、支出を削る気もないのではこの先どうなる▼二〇一九年には借金が財産を上回る予測が出ている。にもかかわらず、このままズルズルと借金を重ねていいものか。わが子可愛さに物わかりのいい親を装うのはやめにしておいた方が身のためだろうと老爺$Sながら忠告したい。 |
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☆★☆★2009年10月20日付 |
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あわて者、うっかり者に多い「ケアレス(不注意)ミス」だが、IT時代は特に注意しなければならない。そのうっかりがとんでもない結果になる確率が高いからである▼先日やらかしたそのミスもあとから気付くとなんであんなことをと思うのだが、それが起こりうるのが機械相手だからだろう。会社にあるコピー機はプリンターとファクスが兼用できるいわば「ハイブリッド」型だが、これは重宝する半面、欠点もあることが分かった。その典型的な失敗例を披露させていただく▼ファクスを送るため相手の番号を入れた。無事送稿を完了して目的を果たした(と思っていた)。ところが「これ何ス?」と差し出されたのがその数二百枚以上はあろうかという分厚いコピーの束。文面を見て驚いた。さっき送稿した原稿そのものが同一にコピーされて排紙されていたのだった▼このコピー機はコピー機能が最優先で、常時その待機画面となっている。プリンターとしては機械が自動的に判断するが、ファクスの場合は手動で機能を切り換えなければならない。いつもはそうしているのだが、この日は何か考え事をしていたのだろう。コピー状態のところへファクス番号を入力したのだからたまらない。局番のふた桁と相手番号を機械が読み取った▼つまり二百数十枚コピーせよという指示が出されたのと同断なのだ。裏側は使えるのでメモ用紙とはなるが、この壮大なムダよ。いつぞやはメールの相手を間違えた。他聞を憚る内容でなくて良かったが、不倫メールなどだったらもう街は歩けまい。 |
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☆★☆★2009年10月18日付 |
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「だから言ったじゃないの」という歌があった。男の不始末を女がなじる場面だが、大口を叩いたばっかりに後でツケが回ってくることがありますよね。あれと同じだと言ったら民主党にはいささか酷?▼鳩山新政権の顔見せ興行となる新年度予算編成がそれだ。財務省が新年度の概算要求をまとめたところ、なんと今年度当初予算比7・3%増の九十五兆三百八十一億円にも膨らんだ。政権は変わっても各省庁の「予算分捕り合戦」という構図は不変で、「これは切れない」「これはダメ」となれば結果は明らか▼一口に7%増というが、金額にすれば三兆円超。今年度補正予算の見直しによって三兆円近くを減らしたが、その分を増額が帳消しするというのでは「朝三暮四」と選ぶところがない。なにしろ公約実現には七兆円近い財源が必要。大口を叩いたばっかりに省庁がここを先途と増額要求するのも大義名分があればこそだ▼無駄遣いを減らしその分を有効活用するという看板を掲げても、わが身に火の粉が振りかかるとなると総論賛成各論反対と相成るのは世の常で、新閣僚もわが田にだけは水を引きたい。自縄自縛のたどり着く先は赤字国債の増発しかないというのも芸がなさすぎる▼日経によれば予算金額を示さない「事項要求」が目立つという。示せば切られるので「この事業は必要だ」とにらみを効かせるわけだが、かように霞が関の金遁の術は変幻自在。しかも官僚と閣僚とが一緒になっての引水だからこれは始末に負えない。 |
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☆★☆★2009年10月17日付 |
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社会という共同体を維持し支えていくためには、互いに守らなければならないものがある。それが道徳であり、倫理であり、決まりであるはず▼ことに公共に奉仕する立場にある職業には「職業倫理」という強い制約が伴う。それが一般とは異なる職業の職業たらしめているゆえんであろう。その意味で県警の「不正経理」とやらが二億円を超える巨額に達したということにやりきれない思いをする県民は多いはず▼動機や目的はともかく、本来不正というものを取り締まる側がその不正を行っていたというのは、職業倫理にもとることはなはだしく、これは絶対に襟をたださなければならない。でなければ警察に対する信頼というものが著しく損なわれることは論をまつまい。現場で真面目に働いている警察官に対しこれは内部の裏切り行為に等しい▼当事者たちには不正を働いているという意識がなく、いわば所属部署の福利資金ぐらいな感覚だったのだろう。多くを「捻出」したことが「手柄」とされるような永年の慣習が温床となったことは間違いない。これは県警ひとりの問題ではない。実際他県でも同様の「裏金」づくりが恒常化していた▼その裏金を私的に流用していたとなればこれは見事な犯罪であり、遠野署の事務職員が逮捕されたのは当然だ。まさに倫理感がマヒした結果だろう。子どもの頃、悪いことをすると「ダンポ(巡査)さんに捕まるぞ」と脅されたものだった。そうしたものが倫理というものを子どもたちに教えた。その「模範」が模範でなくなったらオシマイだろう。 |
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☆★☆★2009年10月16日付 |
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小紙の創刊五十周年を記念して「気仙応援団フォーラム」を企画し、いよいよ本日午後五時から大船渡市民文化会館「リアスホール」で開会の運びとなった▼パネリストの六氏はいずれも気仙出身者で、古里のために快諾され、多忙なスケジュールを割いていただいた。各氏とも「古里は遠くにありて思うもの」ではなく、常に「遠くにいても思うもの」と考えておられ、なんとか気仙をよくしたいという思いで共通している。この接点はかけがえのないものである▼本来なら五十周年は昨年だったのに、諸般の事情で式典も何もかなわず一年遅れの企画となったが、こういう機会が自然発生的に生まれたことはかえって良かったと考えている。目には見えない絆に結ばれた六氏と地元とのつながりはまさに「一期一会」に似て、ろくな準備期間もなくすいすいと開催が決まった▼「どんなシナリオか」と聞かれても台本はなく、これは各氏の個性に委ねて自由闊達に発言していただくことになっている。主催者の意図はとにかく気仙が将来ともに住みやすく、住んでよかったという土地になってほしいというその一点にある。だからこそ下手な筋書きなど用意する積もりはなかった▼さいわい入場整理券はあっという間になくなり、気仙人がいかに気仙の未来を考えているかを知ることができた。ショー的要素はまったくない。あるのはステージと客席が一緒になって考えるという空間の共有だけである。一人でも多くに喜んでいただければといまはそれだけを念じている。 |
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