徳洲会グループが計画する臨床研究としての病気腎(修復腎)移植手術で中心的な役割を果たす宇和島徳洲会病院の万波誠医師(69)に考えを尋ねた。
―病気腎移植が再開されようとしている。
自分の役割は、摘出した腎臓を移植に使っていいと言うドナー(提供者)がいて、その移植を受けたいと考える患者がいて、さまざまな条件が合えば手術する。それだけのことだ。オーストラリアや米国では頻繁に行われているのに、研究といっても今更何をすればいいのか。臓器移植の世界では日本は遅れているとあらためて感じる。
―患者(レシピエント)の選定方法が不透明と指摘を受けた。
病気腎でもいいと希望する人が大勢いれば、公平性の担保も必要と思う。だが手術を始めた当時はそんな患者は1人か2人。自分の目の前で苦しんでいる患者をいかに助けるかしか頭になかった。
移植の候補者の体調、年齢、摘出する腎臓との相性、それぞれの事情などを考え移植する患者を決めた。
―インフォームドコンセント(説明と同意)は十分だったか。
患者に黙って摘出したり移植したりすることはこれまでも絶対ない。十分過ぎるほど説明してきた。ただ文書に残していなかったのは事実。それはきちんとするし、問題になってからは守ってきた。
―臨床研究対象の4センチ以下の小さながんは、全部摘出より部分切除が推奨され、小さながんの腎臓があまり出てこないとの学会の意見がある。
小さながんでも、世界中の医師が使う手引書には全摘が第1候補と書かれている。現在も多くの医師が全摘を選んでいると思う。厚生労働省や学会の聞き取り調査でも自分の方法(術式や小さながんの切除など)はきちんと説明している。
いろんな患者がいていろんな腎臓の状況がある中で、十把ひとからげで部分切除と決めつけられない。患者には部分切除もあることは説明している。でも、いくら話しても「そんながんのある腎臓はいらない」と言われたら、患者の気持ちを最優先に考えるのが当然ではないか。
―自身にとって病気腎移植とは。
ずっと透析していていつまでも退院できない患者を何とか社会復帰させようと、始めた。生体腎移植はドナーへの影響を考えれば、実に大変な医療だ。頼む方も頼まれる方も体だけでなく、心にも大きな負担がかかる。それに比べ、患者がいらないと言い、捨てるしかない腎臓で、患者の生活の質を取り戻せる。これがなぜだめなのか、今もよく分からない。