「日韓共催W杯のつくる社会情報環境」
同志社大学教授・渡辺武達
メディアのつくる「情報環境」と社会的真実
小泉純一郎首相の三月二一日から二三日までの韓国への公式訪問に関して時事通信社が前日の夕刻に全国の契約先に配信したニュースの見出しは「サッカーW杯成功、経済連携を確認=小泉首相、二一日に訪韓」であった。そのリードには「小泉首相は金大中韓国大統領との首脳会談で、日韓共催のサッカー・ワールドカップ(W杯)成功に向けた協力を確認するのをはじめ、将来的な日韓自由貿易協定(FTA)締結を目指し研究会設置を提案するなど、〈未来志向〉の日韓関係を前面に打ち出す方針だ」とある(インターネット資料)。
日本の地方紙の大半が共同通信とこの時事通信の提供記事に依存しており、それらがどのような記事立てをするかが日本の世論形成に少なからぬ影響をもっている。その一つが日韓首脳会談の第一議題をW杯共催の協力だという。また実際にも両首脳は二二日の正式会談で相手国開催試合への訪問について言及し、会談後には五月三一日に開会式と開幕戦が行われるソウルのスタジアムをそろって訪れ直系一メートルもの特大ボールに署名した。このシーンは各局テレビニュースでもトップ扱いであったし、新聞もそれをカラー写真付で一面にもってきて会談の中味(会談要旨)は二面の従として扱った。その見出しも「日韓共催成功 ボールに願い」(朝日、大阪本社版)「W杯成功願う 日韓首脳、友好アピール」(読売、大阪本社版)となり、W杯のために日韓首脳会談がおこなわれたかのようであった。
サッカーファンにとってW杯はオリンピックよりもだいじなイベントだし、五輪種目のなかでサッカーの世界選手権(W杯)だけがオリンピックよりも権威をもっている。が、だれがなんといおうと、サッカーは「たかがスポーツ、されどスポーツ」といった程度のものであり、国民の関心を、たとえば有事関連三法案といった政治的問題から逸らす役目は担えても、それが日本と韓国二国家にとっての最大の問題であろうはずがない。だからそれが日韓首脳会談で話し合うべき第一議題だと印象づける報道、問題の位置づけ方がジャーナリズムとしておかしいのだ。スポーツの社会的機能という観点からしても、首脳会談におけるW杯議論のなかに、スポーツ振興による国民の健康増進や社会的不正の是正(フェアプレー)などという話題が出るはずがなく、プロ選手のゲームとしてだけのW杯サッカーがテレビや新聞の貴重な時間や紙面の重要部分を分捕るのは、オーディエンス(視聴者・読者)にまともな社会的判断の基礎資料を提供するという、メディアの公共的使命の軽視そのものであろう。
実際、当の韓国でも咋(二〇〇一)年九月の世論調査で、W杯に興味がないと答えたものが七〇%もあり衝撃を与えたが、これは九八年以来の経済不況でスポーツどころではないという社会的気分のあらわれだろう。それは「アメリカの今日が日本の明日」といわれる関係が日本と韓国との関係にもあるということの証だろうし、今のようなサッカー報道がそうした深刻な経済状況とアメリカの世界戦略による落とし穴を日韓の両国民意識から一時的に忘れさせる機能を果たしているということだろう。
W杯の政治・経済的利用
八〇年七月に第七代IOC会長に就任したスペイン出身のサマランチは、いろいろな矛盾をはらみながらも厳格にアマチュアリズムを守ろうとしてきたそれまでの五輪の姿勢から、プロの参加を認め、競技数も増やすことによって、五輪をスポーツマフィアたちの錬金術としての「メディア・イベント」にしてしまった。これに呼応したサッカー界もまたその権益をむさぼるヨーロッパ勢が、参加国政府には国威発揚の機会を与え(政治化)、自分たちには金のなる樹としての利用(商業化)をより露骨にし出した。スポーツとしてのサッカーからの逸脱だが、米中・日中の国交樹立の契機となったピンポン外交の場として有名になった一九七一年三月の名古屋における第三一回世界卓球選手権以来、日本卓球協会の役員をしている私にはこうしたスポーツの〈非スポーツ化〉とマフィアたちの暗躍には許しがたいものがある。
この二月のソルトレークシティ冬季五輪はアメリカのブッシュ大統領が、独占放送権を獲得したNBCと組んで〈愛国の味つけ編集〉をした番組供給で、米中枢同時多発〈テロ〉(ヨーロッパではテロといわず中立的な表現〈攻撃〉を使う)で傷つけられた〈威信の回復〉のために利用し尽くした。自主性のない大半の日本のテレビと新聞はアメリカとおなじ論調で日本選手を応援し、国としてのメダル獲得の少ないことを嘆いた。だがピンポン外交当時の卓球はオリンピック種目ではなかったし、表彰式でも国威発揚の象徴的場面である国旗・国歌などはなく、卓球は国家の利益とその非人間性に左右されないと当時のロイ・エバンス会長は筆者にも語っていた。今その卓球でさえ変質してしまったのは、国際卓球連盟総会のたびの旧ソ連陣営を中心とした国々からの表彰式における国旗・国歌使用の議案提出について、五輪に参加したくてたまらないスポーツ関係者のある意味では自然な世俗性とサマランチの商業路線とが合致したためである。ついでにいっておけば、私はこうした社会主義国による〈反インターナショナリズム〉の実見により、かなり早くからソ連型社会の政策的欺瞞を知っていたことになる。またソ連だけではなく、東ドイツなどでも選手たちに薬を飲ませ(ドーピング)、何が何でもメダルを獲らせる国家スポーツだけが奨励されていること、さらにはチャンピオンクラスの選手の身体はガタダタで〈不健康〉そのものであることも知っていたし、それらのことを批判的に書いてきている。
「国民の各層を対象とする体育・スポーツの祭典」として、敗戦翌年(四六)の一一月にはじまった国民体育大会(国体)はスポーツの振興、普及、発達とスポーツ精神の高揚を目的としている。東京五輪を前にして制定されたスポーツ振興法(一九六一年)もスポーツによる心身の健全な育成とそれ以外の利用の禁止うたい、日本体育協会スポーツ憲章(一九八六年制定)もその第一条で「スポーツは、人々が楽しみ、よりよく生きるために、自ら行う自由な身体活動で・・・スポーツをする人は、美しいスポーツマンシップが生まれることを求め、健康な身体をはぐくむことを目的とする」という。これらはスポーツの本来的あり方についての一般論と受け止めていいものだ。が、このスポーツ憲章にはそれまでのアマチュア選手規程を五輪規程に準じたものとする変更があり、サマランチに追随した。その結果、日本でも今ではプロとアマの区分がほとんどなくなり、サッカーの中田英寿を筆頭に女子マラソンの高橋尚子、「最低でも金、最高でも金」との名言をはいた柔道の田村亮子、スピードスケートの清水宏保のような広告塔がスポンサー企業と密接に関係し全世界で〈活動〉している。
原理的には、スポーツが?プレーするひと(選手)?見るひと(観客)?組織するひと(主催者)に別れたときから、政治的経済的利用の対象となり、観客数が多くなればなるほどメディアが介在し、より魅力的な投機対象となる。すぐわかることだが、世界で二十億人といわれるサッカーファンにしてもグラウンドで汗をながすまでのかかわりあいをしているひとはすくなく、ほとんどがテレビや新聞で楽しむというレベルだ。そうした視聴者の多いことこそ、権力者や広告関係者にとってはたまらないのだ。読売新聞は冬季五輪への読者ニーズに応えるためにと称して今年の新聞休刊日に特別朝刊を発行(二月十二日)、朝日なども追随したのもスポーツ振興のためではさらさらなく、経済利権とシェア争いの結果であり、そのために新聞少年の休みを犠牲に、そしてスポーツを冒涜したのであった。
華があり、たいした工夫をしなくとも視聴率がとれるオリンピックの場合、開催地も決まらないうちから放送権についての話し合いがなされる。たとえば、二〇〇八年の夏季五輪は北京開催が決まる前から日本での放映権料が一億八千万ドル(二〇〇億円以上)であることが決められていた(ちなみにアメリカは八億九千四〇〇万ドル、冬季五輪は夏季の三分の一ほどの代金)。これら五輪の放映権の獲得競争が料金の釣りあがりを招いていることから、日本では最近、NHKと民放が話し合って、JC(ジャパン・コンソーシアム)をつくり、IOCと適切な交渉をするようになってきている。これは悪いことではないがもちろんスポーツイベントの内包する問題の本質的な解決ではない。
W杯報道の問題点
BBC(英国放送協会、文化・メディア・スポーツ省管轄)はクリケットを放送することはイギリス人の文化的アイデンティティ(自己の帰属意識)の形成にとって必要であり、その放送は〈公共放送〉にとって不可欠だという。同様な理由付けで、NHKは大相撲を放映しているのだろうが、サッカーの場合はどうなるのか。サッカーを知らなくとも日韓の国民が政治的にはもちろん、生活上も文化的にも困ることはないだろうし、現在のファンの多さも、メディアがスターづくりをして人気を高めるという手法によってできたものだ。しかし現実にファン(ただし見るだけの)が多いのは事実であり、スポーツ紙だけではなくそれを一般メディアが取り上げることじたいに私は異義を唱えない。ただ、その取り上げ方に問題があるのだ。
第一は、W杯報道だけにかぎられたことではない、そしてスポーツについてだけではないが、最近の報道全体がテレビを先頭に、内容・表現ともに煽情的かつ情緒的になり、スポーツとは関係のないヒューマン・ストーリーをつむぐようになったこと(ナラティブ・ジャーナリズム)。朝日新聞が連載したトルシェ監督と中田英寿の確執〈物語〉がその典型だし、テレビ朝日のニュース・ステーションにしてもサッカーの専門レポーター川平慈英が用意されている。ところが、彼はジャーナリストの訓練などまるで受けていない俳優出身で、ワーワーと大声のパフォーマンスだけだから、あれを何回きいてもスポーツとしてのサッカーなどうまくならないし、体力の増強にもフェア精神の涵養にもならない。
新聞の表現でも「地味男・戸田歓喜の初ゴール」(朝日、サッカーの対ウクライナ戦報道)などとあるし、手術後のバスケットボールのジョーダン選手については「〈神様〉コートに戻る」(毎日)などといわれ、大相撲でも「敵は己 琴光喜」(朝日)とあり、雑誌でも「栃東の母志賀千夏さんが語る 昔はただの泣き虫だったのに」(『婦人公論』四月号)となる。
第二は、おそろしいほどの国威発揚の手段となっていることだ。先述したソルトレークシティ冬季五輪開会式翌日の二月九日、そこで発見され国威発揚ツールとして使われた星条旗の写真を一面中央に掲載した新聞を手にしながら、私はニューヨークのワールドトレードセンター跡に立っていた。そしてその晩、ブロードウェイでミュージカル「シカゴ」を見た。大衆的人気を得るミュージカルは日本の宝塚とおなじで、どれも単純な男女の愛を詠う。この出し物でも一九二〇年代のシカゴを舞台にして、倦怠期に入ったカップルの妻・ロキシーがセクシーな黒人と姦通をした後でもめてその男を銃殺する。が、裁判になると男が襲いかかったからピストルを撃った、だから射殺は正当防衛だという論理を展開し、最後には無罪を勝ちとる。そしてカーテンコールの舞台上でヒロインの「浮気女」が「アメリカはかくもいい国だ。団結するアメリカに神のご加護を!」といってのけたのでびっくりした。
第三は、こうした報道の仕方は事実の積み重ねが社会的真実を形成し、それをオーディエンスに提供するというメディアの使命に反するものとなっていること。より具体的にいえば、もともとW杯は一つの国で行われるものであり、アジア地域はじめての今度の大会についても日本のサッカー関係者は八六年のメキシコ大会以降、日本招致のための活動をしてきた。
ところが、サッカーでは自分のほうが上だと考える、そして何かといえば反日感情をむき出しにする韓国が対抗的に開催の手を挙げ、八八年のソウル五輪招致同様、韓国得意の〈金銭絡みの根回し〉をした。ヨーロッパ主導の国際サッカー連盟の幹部たちもアジアからの支持票の分裂をさけるため、そして日本の韓国ロビー政治家や財界人たちも自分の利益にかなうことから、共催という変則的決着がはかられた。ソウル五輪では国鉄やNTTの民営化や臨調で今日の日本の混乱をつくりだした元凶である旧陸軍士官学校出の瀬島龍三(元大本営参謀・伊藤忠商事会長)などが軍拡政治家の中曽根康弘などと組み、自国都市応援活動から外務省を離反させるという反日行動を仕組んで名古屋をけ落としたときとそっくりの構図であったわけだ。この瀬島はそのことを自著『幾山河』(あの教科書問題の扶桑社刊)で自慢げに記しているが、五輪獲得競争の敗北で恥をかいた愛知県知事仲谷義明は後に首をくくって自殺までしている(財界主導で起案された今回の愛知万博とおなじ構造のなかで商業五輪の誘致を推進した仲谷もたいした人物ではないし、一般日本人の根拠のない〈嫌韓感情〉にも問題がある)。
当然のことながら、W杯の共催でも瀬島は親しい政治家の中曽根康弘や彼とともに親分として仰いだ児玉誉志夫の子分で、今では読売新聞のドンとなっている渡辺恒雄(通称、ナベツネ)などとの連携で動いたわけだ。今回のW杯でも日本の単独開催から日韓共催への動きを最初に言論界から支援したのは読売新聞の社説であったことの背景にこうしたナベツネの政治利権行動があったことは読売内部の証言からも明白である。
スポーツの市民外交的利用
スポーツのプレーは個人的な身体運動が基本になっている。ジョッギングを例にとればそのことがよりはっきりする。もちろんこのジョッギングでもシューズやウエアの業者が儲けようと虎視眈々としているのは事実だが、東京の皇居や京都の二条城を周回するランナーは体力増強のために自分の意志で走っているのであり、そのために金をはらう観客もいないし、競争順位もない。しかしそれが競走、つまりマラソン大会になれば様相がちがってくる。権力者にとってもその観客(視聴者)がその間だけでも「むずかしい政治問題」を忘れてくれる。それだけでも彼らにはスポーツが〈使える〉素材となる。
半面、これほど人びとの熱狂するスポーツであれば、市民の宥和と世界の恒久平和構築の手段としても利用できることになる。そのように作用したのが先述した七一年の世界卓球選手権における中国チームの招請と米中接触の場の提供であった。七一年当時の日本政府は千七百万人の台湾を正式な相手として、一〇億の中国の存在を無視していた。そういう捉え方も日々メディアによって強化、固定化され、日本の多数世論となっていたが、中国チームが「友好第一、試合第二」を実践して、それが連日好意的に報道されると日本の世論は大変化し(メディアが世論をつくることの証明)、ニクソン訪中から米中の国交、それにつづく日中関係の樹立となった(米追随外交の具体例)。思考においても主体性に欠け、歴史の進歩も理解できない日本の外務省はこのときも徹底して日本卓球協会の邪魔をした。昨(二〇〇一)年秋、私が研究員としてハーバード大学に滞在していたとき、外務省幹部で元国連大使の小和田恒(皇太子妃の父)がやってきて講演、日本の外交論をとくとくと述べたから、私は日本卓球協会とピンポン外交の例をだして、日本の外務省の反市民利益の行動を聴衆の前できちんと批判しておいた。
九一年の世界卓球千葉大会における南北コリア統一チームの結成は官民を問わず強烈なプラス・インパクトとなったが、今度の日韓共催W杯でもそうした方向での利用は可能であるし、すでにそうした効果も出てきている。たとえば大阪ではこれを機に、在日コリアンが多く住む生野区の御幸通東商店街の玄関アーチが「百済門」と命名されることになった。今私の住んでいる滋賀県には「百済寺」(ヒャクサイジと読む)があるが、いうまでもなく百済からの渡来人に関係する寺で、境内には朝鮮式の石塔がある。一九八四年の昭和天皇による「親密な関係」発言につづき、平成天皇は昨年一二月二三日の誕生日に「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と述べ、その直前にはNHKが聖徳太子をドラマにして、彼が朝鮮文化の大きな影響を受けていたことを描かざるを得なかった(一一月一〇日、一部九〇分の二部構成で放映)。このような両地域関係が古来連綿とつづいていることがさまざまなかたちで目に見えるようにされれば、まちがいなく人びとの意識に影響を与える。今回のW杯では韓国側のホテル事情がよくなく、一般家庭が民宿を提供する準備もされている。人びとのそうした直接的交流が「日韓交流年」イベントとしての藤原紀香や金允珍(キム・ユンジン、九九年度ミス韓国で、映画『シュリ』に主演)といった人気女優起用キャンペーン以上に安定した相互理解を促進する。
また今度のW杯は実際には高円宮夫妻による戦後初の皇族の公式訪問と双方ともに政治的落ち目の小泉純一郎と金大中の相互訪問となったが、本来ならば天皇みずからの韓国訪問という市民政治的利用のよい機会となる可能性もあった。韓国側組織委員会鄭夢準会長が「日本の単独開催なら天皇が開会宣言をするだろう。(共催成功のためには)天皇が(ソウルでの)開会式に出席するのがよい」(ソウル発二月一八日の共同配信記事、京都新聞一九日付朝刊)とのべたのも、教科書問題などでぎくしゃくする日韓関係を根本的に正常化しようとしたものだと理解できる。
ベトナム戦争時、米国の要請に応じて最前線で戦った韓国軍が残忍で、殺したばかりのベトナム人たちの内臓を取り出し、米兵などにもすすめながら食べた行為は現地ではよく知られている。それ以前にも韓国の軍隊が朝鮮戦争当時、軍として正式に「従軍慰安婦」制度を設けていたことを二〇〇二年二月二三日、韓国人学者、金貴玉・慶南大学客員教授が立命館大学における「東アジアの平和と人権」国際シンポジウム日本大会で発表した。金によれば、これは日本軍のやり方をまねたもので、韓国陸軍本部編『後方戦史(人事編)』(一九五六年刊)に「固定式慰安所―特殊慰安隊」として記述されているという。戦争になればひとは狂い、通常隠している面が出てくるということ、そして権力がやる(あるいは権力が民衆に仕向けてやらせる)ことと、その結果としての非道徳的な社会事象の問題についてはいずれの専制権力も必然的にもつ多層的性質として見ていかないと正確な位置づけはむずかしい。
人間のそうした集団行動の弱点を克服し矯正することこそスポーツ教育に課せられた大きな役割の一つだが現在のような国威発揚的で情緒的なスポーツ報道とビジネス利用は逆方向への歩みを強化するものだろう。それでもW杯の共催にかかわり、確実に両地域民衆の親密度が増している。このほど読売新聞社は、韓国日報社とともに、日韓両国民を対象に共同世論調査を実施した。それによると、現在の日韓関係を「良い」と思うと答えた人は日本四七%、韓国三二%で、九六年の前回調査に比べそれぞれ一〇ポイント、一三ポイント増加した。相手国を「信頼できる」も、日本で五五%、韓国で二四%に上り、同一四ポイント、七ポイントずつアップしている。W杯共催をきっかけに両国関係が「今より良くなる」との回答も日本五一%、韓国四九%で、二人に一人がW杯を関係改善の好機と見ていることもわかった(三月二一日付読売新聞朝刊)。
社会的権力者たちが自己利益・利権増強のためにサッカーをメディアイベントに仕立てて利用するならば、スポーツのもつ魅力と勢いを民衆の利益のために利用する方式を工夫し、実行することこそ私たち市民の側の責任になるであろう。
☆なお本稿で述べたピンポン外交やスポーツの市民外交的利用とその意味についての詳細は、渡辺武達著『市民社会と情報変革』第三文明社、二〇〇一年刊、を参照されたい。(二〇〇二年四月一五日記)