『日本霊界風土記 伊勢』 深見東州 たちばな出版
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年末は、空いた時間を読書に当てるのがなかなか困難である。2時間で読める本。そして中身の濃い本である。
【人間と神様の関係】
人間と神様の関係は、キリスト教が言うような造物主と被造物の関係ではありません。惟神(かんながら)の道の神様はお父様、お母様というニュアンスですので、甘えるところはうんと甘えていいのです。もちろん、礼節はわきまえなければなりませんが、お父様、お母様に申し上げるような気持ちでお祈りしたほうが、むしろ喜ばれます。
伊勢の天照大御神様は皇室の奥の院であります。だからといって、必要以上に距離感を持ってはダメです。 (p.40)
【天照大御神(あまてらすおおみかみ)】
天照大御神というのは、太陽神界のすべての働きを総称したご神名ですが、その中のご神魂は、天照大霊女貴之神様(あまてらすおおひるめむちのかみさま)と申し上げます。天照大霊女貴之神様は緋の色と言うのでしょうか、真っ赤なお着物を着ていらっしゃいます。その天照大霊女貴之神様がご神魂でありまして、そのほか国治立之神(くにはるたちのかみ)、天之常立之神(あめのとこたちのかみ)という男神さまもいらっしゃいますが、総称して天照大御神と言います。(p.55)
【太陽神界が降りている伊勢神宮】
伊勢には太陽神界からパイプが降りています。太陽の働きを総称して天照大御神と申しますが、天照大霊女貴というところから目に見えないパイプが降りています。そこには伊勢神宮とそっくりなお社があります。(p.57)
誰でも御垣内に入れるというわけではない。式年遷宮の時に、少なからぬお玉串を奉納した人・団体に限られている。著者のグループは、そんな数少ない団体の一つのようである。御垣内に降りている太陽神界からのパイプは、言うなれば、天の通い路のようなものと言えるでしょう。伊勢神宮へ行くと、普通の人はあちこち見てまわりますが、御垣内に入らないと、あまり意味がありません。もちろん、伊勢神宮に参拝するだけでも神様は受け入れてくださいます。しかし、一番の神域の中に足を踏み入れないと、神気の中には入れません。(p.59)
【御魂の恩頼(みたまのふゆ)】
そうやって神気に触れることを 「接霊」 と言いますが、私たちにとってこの接霊は非常に大切なものであります。なぜなら、霊に接することによって 「御魂の恩頼」 をいただくことができるからです。
御魂の恩頼が足りないと、寂しさ、わびしさ、せつなさ、はかなさ・・・そういった精神状態になってしまう。これらは、歌謡曲や演歌の世界である。御魂の恩頼が足りていると、そういった世界に惹かれなくなる。恩頼(ふゆ)とは何かと言いますと、これは神道用語でありまして、神様からいただく徳分、魂のエネルギーです。接霊することによって、魂とか霊体の栄養分をいただくわけです。 その意味で、御垣内は神様のビタミンが凝縮しているような場所と言うことができるでしょう。 (p.60) 神道を知るようになり、伊勢神界の御垣内に何度か詣でていると、太陽に向かう心の趨勢が生ずるのだろう。私も仏教しか知識のなかった頃は、太陽の明るさより、月影の陰影に惹かれる傾向が強かった。 日本人は、惟神(かんながら)の道を歩まねばならない。
【古事記 − 岩戸開きのたとえ】
岩戸開きの段で天照大御神様は天の岩戸の中に入られました。そうするとどうなったかと言いますと、ご存知のように高天原は真っ暗になりました。真っ暗になって悪神・悪霊・邪気・邪霊が横行し、高天原はやってゆけなくなったのです。・・・中略・・・。
ということは、悪神・悪霊・邪気・邪霊が横行したり、因縁霊障や邪気・邪霊に悩まされたりするのも、天照大御神様の働きがないからで、自分自身の中に天照大御神様の功徳、すなわち恩頼を豊かに持っていると、こういう状態にはなりません。 (p.69)
【天照大御神の五徳】
円満にしていく徳、真ん中を押さえていくという徳、広くしていくという徳、伸びてゆくという徳、そして統率するという意味の皇徳。ですから、皇室の中心が天照大御神様になっているわけです。
伊勢には1月、5月、9月に詣でるとよい、という話の中の5月の理由としてこのように記述されている。9月は、陽の極である9に絡み、1月は、一に止まる(正)月など、数霊・言霊などの基本的ではあるが奥の深い説明がされている。この五徳を持っているから、天照大御神の首飾りから五柱の男神様が生まれてきたのです。 (p.93)
【ちっぽけな宗教理念なんて】
ちっぽけな宗教理念、宗教観念にしばられて、ここ一番やらなければならないときに徹底できない人は結局、それだけの御魂。惟神(かんながら)の道から見たら大したことありません。誤解を恐れずに言えば、悪のひとつです。
罪を犯すことを忌避するばかりで勇猛心のない仏教などの宗教観念はちっぽけ。百の 「国津罪」を犯してしまったならば、それを上回る百一以上の善事をなし、禊ぎ払ってゆくのが 「惟神(かんながら)の道」。この世の中で悪いことをした、迷惑をかけた罪を 「国津罪」 と言いますが、「天津罪」 というのもあるのです。天津罪というのは、その人の待っている本来の才能、力、運気を十二分に発揮できなかったという罪。これが天津罪で、これも罪なのです。 (p.110) 経営者は、「惟神(かんながら)の道」 を心得ていなければ、とてもではないけれどこの時代を生き抜いてゆけないだろう。日常生活者とて、立ち止まって悩んでばかりでは埒があかない。だからこそ、伊勢神宮に詣でて、魂のエネルギーをチャージしてもらう。 <了> |
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皆さん結構ブログやってんですね。話題も豊富でみんないろいろのことが気になってる...
2008/12/28(日) 午前 7:02 [ 伊勢神宮 ]
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はじめまして。偶然、チャンさんのブログ見ました。また遊びに来てみます。
2009/1/16(金) 午後 1:17 [ yoy*e*ay*yo6*96ev*777 ]