(平成12年6月5日)

小説「沈まぬ太陽」余話(V)



 山崎豊子氏の「沈まぬ太陽」がミリオンセラーとなり、大変な反響を呼んでいる。 各新聞、雑誌の書評は「政官民の癒着構造を暴いた力作」といったものが多く、絶賛の嵐である。 長年運輸業界、とりわけ航空業界を担当してきた記者がこの本を読んだ第一印象は「こうして史実が曲げられていくのか。誠に恐ろしい」ということであった。

この小説には筋書きを面白くするため、あまりにも事実とはかけ離れた“再構築”がなされており、ペンの暴力の典型と言っても過言ではない。 以下、どこの部分が事実を曲げているかを検証したい。

この小説の舞台になったのは日本航空であることは一般読者にも一目瞭然である。 また、主人公が小倉寛太郎氏であることは関係者が一様に特定する。 作者は巻末のあとがきで「事実を取材して小説的に再構築した人間ドラマであるが、ニュース、ドキュメント、公文書、内部資料などを駆使し、それが小説の重要な核心部分にもなっている。 作家四十年にして、はじめて手がけた技法ではあるが、その評価は第三者に委ねる」と書いており、新しいジャンルを自ら開拓したことを告白している。

限りなくノンフィクションに近いフィクションという技法を用いながら、史実を捻じ曲げていく手法は文学論的にも新たな問題を提起するものである。 その論争がなければわが国の文学は衰退していくであろう。 この種の作品では「何よりも史実を基本に」という姿勢が必要である。

特に今回の小説は御巣鷹山の事故が小説の基本構成をなしている。 御巣鷹山事故と言えば舞台は日本航空と国民のだれしもが思い、そこに登場する人物は当然実在の人物だとだれしもが確信し、勝手に空想をめぐらす。 そんな場面設定の中で、基本的な部分で事実とかけ離れた創作を行えばどういう結果をもたらすか。

主人公やそれを支える人物たちは実際以上に高く評価され、これに対立する人物たちは生涯挽回する余地のない汚名を着せられてしまう。 それを容認したら、「ストーリーが面白ければ、企業や関係者の名誉は毀損されてもいい」という風潮が醸成されかねない。 そうなれば、文学の危機である。

著者は「新しい技法の評価は第三者に委ねたい」と言い切っている。 となればこの手法に論争が湧き起こるべきではないか。 記者には「不毛地帯」「白い巨塔」「大地の子」などで名声を確立した著者の晩年を汚すことは間違いないとの確信がある。 この小説を読んで感動した人には気の毒ではあるが、著者が主人公、小倉氏や伊藤淳二氏を美化するためにいわれなき中傷を浴びせられ、犠牲になった登場人物と企業の名誉を回復する方がより重要だと記者は考える。

  「恩地元(小倉寛太郎)という主人公は一体どういう人物なのか」まず、主人公小倉氏とはどういう人物か。 本当に筋を通すために「企業という“猛獣”に不屈の戦いを挑んできた悲劇のヒーローなのか」を考えたい。

小説によると恩地(小倉)氏は28年に東都大学(東大)を卒業、直ちに国民航空(日本航空)へ入社したことになっている。 しかも、「学生時代学生運動をしてきたので入社後10年間は組合活動には参加せず、仕事に専念したい」と思い、予算室で熱心に仕事に邁進していたが、八馬なる組合の委員長に無断で組合委員長に立候補させられ、委員長を引き受けざるを得なかった」という事になっている。 小倉氏の記述には嘘、偽りが多いが、まず、学生時代から入社時、組合の委員長に就任するまでを検証したい。

小倉氏は昭和28年に東大を卒業したのは事実である。 しかし、日航の人事ファイルによると、32年10月1日付けで日航に入社している。 卒業後4年半彼の経歴は空白だ。実は彼は東大卒業と同時にAIUに入社し、同社の組合の青年婦人部長として、華々しく活躍した経歴をもつ。

この頃、三越でストに突入する大争議があった。 現在の夫人は三越の青年婦人部幹部の活動家で、二人はこの争議で結ばれた。 二人とも筋金入りの活動家であったわけだ。 ちなみに小倉氏が大学在学中は破壊活動防止法(破防法)が制定された頃であり、彼は共産党の細胞としてオルグ活動に専念していた。

当時、ポポロ事件という公安事件があり、彼はそれに連座していた。 ポポロ事件とは公安の刑事が大学構内に潜入し、情報を収集していたのを学生が見つけてつるし上げ、警察手帳を奪った事件である。

当時、損保業界も組合との争議に明け暮れていたが、会社側の強い姿勢に争議も沈静化し、小倉氏は見切りを付け、採用を公募していた日航に入社したわけである。 小倉氏と同時に入社した竜崎孝昌氏によると、二人は日航の入社試験会場で「お互い学生時代、損保会社時代の組合活動歴はマル秘にしておこう」と示し合わせた。

竜崎氏は一橋大学から東京海上火災に入社、同社組合の青年婦人部長を勤めており、小倉氏とは知己の間柄であった。 こういう経歴と事実関係から小倉氏がどういう目的で日航に入社したかは想像できる。 小説では小倉氏は予算室で仕事に邁進していたことになっている。 しかし、入社直後、彼が所属したのは東京支店の営業である。 さらに彼は入社3年後には組合の中央執行委員になり、組織部長の要職を得ている。

当時、小倉氏の下で組織副部長を勤めた塩月光男氏(現東京シティ・エアカーゴ・ターミナル顧問)は当時を振り返って次のように証言する。 「小倉氏は弁舌がたけ、毎日が政治学習だった。 当時、我々は専従ではなく、昼間の仕事の疲れを引きずりながら組合活動をしていたが、小倉氏の提起する、朝鮮戦争についてとか、破防法についてとか、そういう政治的テーマについては辟易した。

それを毎日徹夜同然にやるのだから本当に疲れた。 当時委員長だった萩原雄二郎氏は東大の学生時代、活動家であったこともあり、心情的に小倉氏の活動を容認していた。  それが小倉氏を増長させた」。 この萩原氏こそ小説の中の秋月という人物で、小倉氏を追いつめた人物の一人となっている。

小説では小倉氏は自分が知らない間に八馬委員長に次期委員長に立候補させられ、組合活動に入っていったことになっている。 だが、関係者の証言によるとかなり、事情は違う。まずは、小倉氏を無断で委員長にしたという八馬なる人物に登場してもらおう。 小倉氏の前任者は吉高諄氏(空港グランドサービス顧問)である。 その後労務課長になった経歴から言ってもモデルは吉高氏に間違いない。

吉高氏によると、後任は中町という人物に決めていた。 中町氏もいったんは内諾したものの、立候補締め切り直前になって、断ってきた。 困った吉高氏は数人の組合幹部と相談したところ、一人が「東京支店に小倉という活きのいいのがいる。 彼なら委員長が勤まる」という。

そこで小倉氏と会い、「実は後任の人選で困っている。引き受けてくれないだろうか」と談判した。 小倉氏は「実は近いうちに私は予算室に異動になる。異動になれば引き受けるが、だめだったら引き受けられない。 ここに私の印鑑がある。 後は吉高さんに御任せしますよ。 今日は子どもの具合が良くないので失礼します」と印鑑を預けて帰宅した。

吉高氏は予算室長の平田元氏と会い、「後任委員長の人選で困っている。 今小倉と会ってきたのだが、予算室に異動になれば引き受ける。 だめだったら辞退すると言っていた。どうなっているのですか」と尋ねたところ、平田室長は「まだ正式に決まったわけではないが、君は本当に困っているようだね。 分かった。 小倉君をうちに引き取ろう」と小倉氏の予算室異動が本決まりになり、吉高氏は預かった印鑑で小倉氏立候補の手続きをとったという。

吉高氏は「後になって思ったが、小倉は委員長立候補で予算室入りを担保したのでは。 予算室は現在の経営企画室で企業秘密がたくさんある所だから」と述懐する。 委員長になった小倉氏はストを背景にした過激な闘争で組合を指導していく。 当時、安保氏が労務課長だったが、組合の過激な闘争に胃潰瘍で倒れた。

当時の松男静鷹社長は委員長を辞めて四ヵ月の吉高氏を東京会館に呼びだし、「君は大変な人物を後任委員長に推薦してくれたな。 おかげで会社はてんてこ舞いだ。 君が責任をとって、安保君の代わりに労務課長になって小倉の暴走を止めてくれ」と詰め寄られた。吉高氏は「勘弁してくださいよ」と言いながらも、責任の一端は自分にあるのと自責の念から労務課長の内示を受けざるを得なかったと打ち明ける。

会社側にスト通告をしないヤマネコストが頻発する中、小倉氏の過激な闘争の中で会社が最も危機感を抱いたのは池田勇人首相の訪欧と皇太子のフィリピン訪問のフライトをターゲットに絞った37年11月のストであった。

60年安保、三井三池争議を経た当時の日本は高度経済成長の波に乗ろうとした時期で、その立役者が池田首相であった。 池田首相の訪欧は根底に日本がOECD(先進国経済開発機構)の仲間入りしたいという日本政府の悲願があり、池田首相は日本の工業技術の水準の高さをPRするためにトランジスターラジオを持参した。 欧州各国マスコミは池田首相を「トランジスターセールスマン」と揶揄した。 それだけ必死だったわけである。

昭和37、38年といえば、日本はまだ戦後の傷痕を引きずっていた。 特に戦争中、占領下に置いた東南アジア諸国との関係改善は急務であった。 反日感情が強い東南アジア諸国にあって、フィリピンはまだ対日感情がよい方であった。 政府はまずフィリピンに皇太子を訪問させ、東南アジア諸国との関係改善を図ろうとの外交政策が基本にあった。

その日本政府の外交の基本政策に小倉執行部はストをかけてきたのである。 当時の日本航空は大蔵省が筆頭株主の国策会社であり、代表権を持つ役員の人事権は運輸省にあった。戦後日本の制空権は米軍に奪われ、日本人による健全な航空会社育成との願いから昭和27年10月1日に設立されたのが日本航空である。 当然国際線は日航一社しか運航してなかった。

その日航が日本の外交の基本に関する首相フライト、皇室フライトをストで止めたとしたら、単に日航の存立基盤が問われるだけでなく外交問題にまで発展する。 当然、経営者の責任が問われるのは言を待たない。 政府からの圧力もあり、松尾社長は団交の席上で小倉委員長以下執行部に「外交問題に発展しかねない。 どうかストを解除してくれ」と土下座をしたという。 このような闘争に対して会社は譲歩に譲歩を重ねるしかない。

小倉委員長のいわば闘争至上主義に対して、組合内部から賛否両論が噴出した。 「小倉委員長は我々の要求を満たしてくれる。 よくやってくれている」という賞賛の声と、「国策会社である日航が総理フライト、皇室フライトを人質にとって闘争するのは禁じ手である。 その禁じ手を使った、小倉委員長は会社をつぶすつもりか」といった批判である。

日航は37、38年に大幅な赤字を出していたこともあり、批判勢力は日に日に強まり、とうとう組合分裂という事態にまで発展したのだ。 この日航の荒れた労使関係に政府のみならず経済界も無関心でいられなかった。 日経連は「日航には労務のプロがいない」ということで、伍堂照夫専務理事を日航に派遣した。 伍堂氏は強硬な組合分裂工作を進め、時には暴力団まがいの労務屋を使い、ピケを排除したりした。 このことが日航の労使関係を一層いびつなものにしたことは間違いない。

ここで重要なのは小倉委員長の過激な闘争の功罪である。 小倉委員長は総理フライト、皇室フライトへのストを要求貫徹の重要な戦術として選んだ。 当時国策会社であった日航が労組へ譲歩に譲歩を重ね、小倉執行部が賃金と厚生施設や生活条件の引き上げに大きな成果を上げたことは事実である。 そういう意味では「輝ける委員長」であった。

しかし、そうした一種の政治闘争がどういう結果をもたらすかについての見通しが全くなかったのだろうか。 ストに突入するまでもなく、ストを構えているということだけで、政府からの経営者への責任問題が浮上し、経済界も黙認できない事態を招くということを想像できなかったのか。 また、組合内部の分裂を招くという組織にとって致命的な結果が見通せなかったのか。

現実把握能力や分析力が致命的に欠け、指導者としての資質を疑わざるを得ない。 他にも闘争の戦術があったはずであり、それでも信念で総理・皇室フライトにストを構えるというのであれば小倉氏はアカのレッテルを貼られても仕方がないであろう。 第一、皇室・総理フライトめがけてストを構え、それで要求を貫徹するという発想自体、プロの活動家からしか生まれてこない。

実は吉高氏が重要なことを告白してくれた。 吉高氏は山崎豊子氏の取材を約3時間受けた。 海軍上がりの吉高氏は山崎氏の父が海軍の潜水艦乗りで戦死したことに強い興味を持っていたという。 しかも、吉高氏は戦後、引揚者の御世話をするボランテアをやっており、山崎氏の「大地の子」にいたく感激していた。 取材には日航広報部の須藤元次長(現パリ支店長)と新潮社の編集者が同席していた。

この席で山崎氏は小倉委員長時代の組合内部について質問したが、どうも、一方的に小倉氏に吹き込まれていることに気付き、「それは事実ではありません。 事実はこうです」と何度も説明したという。 最後に山崎氏は「小倉さんてどういう人ですか」と聞いたので、吉高氏は「連合赤軍の永田洋子を男にしたような人物です」と答えた。 山崎氏が「それはどういうことですか」と聞くと、「頭は切れて人を取り込むのはうまいが、目的のためには手段を選ばず、冷酷非常な人物です」ときっぱり答えた。 その時、吉高氏は一つのエピソードを紹介した。

松尾社長の長女は長らく白血病で入院していた。 団交中「社長の御長女危篤」の知らせが入ったので、労務課長だった吉高氏は小倉執行部で書記長を勤めていた相馬朝生氏に事情を説明し、団交を先延ばしするように要請した。 相馬氏は「わかりました。 中執に持ち帰り、検討しましょう」と中執にかけたが、小倉委員長は「相手の弱みに付け込んで要求を獲得するのが組合の闘争。 こういう時がチャンスだ」と団交継続を指示した。

中央執行委員の中には「委員長、こんな残酷な団交には出席できません」と言って泣きながら訴えるものもいたという。 結局、松尾社長は長女の死に目には会えなかった。 このエピソードを聞いた時、山崎氏は「どうしよう。 これじゃ、小説が成り立たない。 もう辞めましょう」と動揺を隠せなかったという。 吉高氏は「これで理解してくれた」と思っていたら、小説が自分が思っていたことと百八十度異なる展開になっており、呆れ果て、「彼女の小説家としての良心を疑う」とまで言っている。

小説では、委員長を辞めた後、恩地氏はカラチ転勤の辞令を受ける。 組合は不当配転のビラを配って抗議し、恩地氏はいったんは会社を辞めようかとまで苦悩するが、「自分を辞めさせるという会社の陰謀に乗らないためにカラチ行きをしぶしぶ承諾する」という展開になっている。 その時に恩地氏は桧山(松尾)社長に「二年間の赴任の約束を取り付けた」ということになっている。

その後恩地氏はテヘラン、ナイロビを盥回しとなり、“現代の流刑の徒”として描かれていく。 恩地氏は日本へ帰国するたびに二年間の約束を守らなかった桧山(松尾)社長に約束を履行するように迫り、桧山氏が死に至る病の病床では「面会謝絶」「絶対安静」という状況の中、病室から出てきた奥さんが恩地氏を病室に引き入れ、桧山氏は「恩地君すまんすまん」と両手を握って誤るシーンにつながっていく。

その間、八馬労務部次長がカラチ、テヘランなどに恩地氏を訪ねて、「転向すれば本社に帰す」と転向を迫るが、恩地氏は頑としてこれを拒絶する。 このあたりも検証が必要のようだ。 次は松尾氏が社長、会長時代秘書を務めた川野光斉氏(現アジア航空顧問)にご登場願うしかない。 

川野氏によると、佐賀県出身の松尾(桧山)氏は「葉隠れ武士道の人だった」という。 小倉氏が委員長を辞めた後、社内の役員の大半は「小倉を解雇すべし」という意見だった。それに温情をかけたのが松尾氏だった。 松尾氏は「一芸に秀でるものはどこか取り柄があるものだ。 小倉君にもう一回チャンスを与えよう。外国にでも赴任させて、見聞を広めれば彼の人生も変わるだろう」と提案、小倉氏のカラチ赴任が決まった。

不当配転のビラを配っていた小倉氏を社長室に呼び、「君は大変なことをやったんだ。 外地で見聞を広め、これまでの人生を見詰め直し、今後の人生を考えてこい」と諄々と諭し、小倉氏も納得したという。 一社員に対しては異例とも言える社長主催の送別会までやり、小倉氏が赴任する時は、羽田空港まで見送りに行ったという。 松尾氏がテヘラン出張の折りには、小倉氏を会食に誘い、近況などを聞いて、激励してくれたという。

小説にある「恩地氏は日本へ帰国の折は桧山氏と会い、二年の約束を履行するよう迫った」とのくだりについて、川野氏は「松尾さんのスケジュールはすべて私が握っていた。  夜の席にも同席することが多かったが、小倉君が松尾さんにあったという事実はまったくない」と断言する。

また死の病床で奥さんの手招きで恩地氏は桧山氏と会い、「すまん、すまん」といわれたとする部分について、川野氏は「松尾さんが亡くなったのは会長に退いて間もない昭和47年12月31日の大晦日だが、病名は胆嚢機能不全。 松尾さんは胆石持ちだったが、知り合いの指圧師に指圧で胆石をばらす治療を受けていた。 それが、肝臓と癒着し、死に至った。 三ヶ月間入院し、面会謝絶で、見舞い客は私が応対していた。 

ちょうどその頃、日航はニューデリー、モスクワと連続事故を起こしたが、医師の厳命でそのことすら知らせなかった。 もちろん、テレビ、ラジオ、新聞は絶対に目に触れさせないようにしていた。 小説ではたまたま、秘書がいない間に奥さんが小倉君を病室に招き入れたことになっているが、仮に、私がいない隙に小倉君が病室に訪れたとしても、奥さんがそんな軽率な行動に出るはずがない」とキッパリ語る。 さらに川野氏は「小倉君は松尾さんの温情をあだで返した」と激怒する。

小説の中の八馬(吉高)氏がカラチ、テヘランに赴いて恩地氏に転向を迫るくだりについて、吉高氏は「私は40年から44年まではパリ支店勤務となり、労務の仕事から解放され、営業に精を出していた。 その私がカラチ、テヘランまで出かけて転向を条件に本社への人事異動を約束するなど全くの越権行為であり、まず、第一に小倉氏が転向するなど考えたこともなかった」とキッパリ否定する。

五巻の小説の中で一般読者が最も涙を流し、感動するのは三巻の「御巣鷹山編」である。昭和60年8月12日の航空機史上、最も最悪な日航ジャンボ機事故は国民の間にも記憶が生々しく、そこに綴られる被害者の人生ドラマと被害者を必死で御世話した御被災者相談室の社員の努力はどんな人の胸をも打つ。

あの小説の中で致命的な嘘がなければ、私は「最高の傑作」と賞賛したいのだが、ある嘘のため、三巻はある意味では被災者のみならず、献身的に尽くした御被災者の世話役を冒涜する作品になってしまった。

小説では主人公、恩地氏は事故当初から先遣隊として御巣鷹山に乗り込み、献身的に御被災者の面倒を見たことになっている。 ところが、日航の人事記録によると、小倉氏が先遣隊で御巣鷹山に乗り込むどころか、御被災者相談室に勤務したこともなければ、一日、二日でも被災者の面倒をみたことはまったくないのである。

日航の人事記録によると、カラチ、テヘラン、ナイロビ勤務の後、昭和48年7月1日付けで、営業本部長付き調査役として、本社に転勤になっている。 そして事故直後の60年9月1日付けで、再びナイロビ営業支店長の辞令が発令されている。 事故直後の混乱期の人事発令も不思議なものだが、「小倉氏はナイロビがすっかり気に入り、ことあるごとにナイロビへ行かせてくれとの希望を出していた。 小倉氏のナイロビ転勤は事故以前に決まっていたことでもあり、発令した」というのが当時の人事担当者の証言である。

外国勤務の場合、転勤先のビザ発給が遅れて、赴任が1、2ヶ月遅れることもあり、その間、御被災者の面倒を見た可能性はあるが、その際の人事発令は「ナイロビ営業支店長兼御被災者相談室付」ということである。

記者も何人かの御被災者相談室の社員に当たってみたが、「先遣隊で御巣鷹山に乗り込んだ」とか、御被災者相談室の担当として小倉氏が活動したという事実については、全てが否定するのである。 いずれにしろ、小説では小倉氏は翌年の春、国見(伊藤淳二)会長から会長室部長に抜擢されるまで、身を粉にして御被災者の面倒を見たことになっているが、山崎氏は小倉氏がいつもナイロビから駆けつけて御被災者の面倒でも看たというのであろうか。

事故直後から最も苦労したのは山岳会「山行会」のメンバーである。 その中でも岡崎彬氏の働きぶりは伝説にもなっている。 小説の中で「岡部」という名前で登場する人物がそのモデルと思われるのだが、岡崎氏は事故直後から定年退職する平成元年までの4年間、御巣鷹山の山中で山篭りをした。

実はこの岡崎氏は日中国交回復に尽力し、ロッキード事件直後、全日空の社長に就任した岡崎嘉平太氏の子息である。 貨物本部の勤務が長く、シカゴ支店勤務の頃、ボストン沖で無造作に捨てられているマグロを見て、「これを日本に送れば大きな利益につながる」とマグロの冷凍空輸を始め、これが大当たりしたことでも知られた人物だ。 現在は亡父の遺志を継ぎ、日中協会の理事を務めている。

御巣鷹山には常時、30─40人が山篭りをしていたが、小倉寛太郎氏が山行会を設立した経緯もあり、メンバーの半分が旧労(日航労組)の組合員だった。 61年のゴールデンウィークの数日前、小倉氏がナイロビ支店長から会長室部長へ転勤(小倉氏は4月15日付けでナイロビ営業支店長から本社の会長室部長に抜擢)したことを聞いて、岡崎氏は「小倉は登山の専門家だろう。 連休から御遺族の慰霊登山が本格的に始まり、また大変になる。 小倉を呼ぼう」と小倉氏を御巣鷹山に呼んだ。

ところが、小倉氏が到着してから、慰霊登山の対策会議を開いたところ、旧労のメンバーの態度が妙によそよそしい。 「小倉はおまえたちのボスじゃないのか」とメンバーに聞くと、「岡崎さんは何も知らないんですか。 あの人は僕らのハシゴを外した人なんですよ」という。 どうも昔、小倉氏に煽られてメンバーたちが過激な闘争に突っ走り、蒲田署に身柄を拘束されたが、小倉氏は最後まで責任を果たさなかった事を言っているらしかった。

御巣鷹山には伊藤武という人がいた。 伊藤氏は「伊藤会長」と呼ばれたが、山小屋の下から上の山小屋に「伊藤会長が山に登ります」という無線連絡が入った。 てっきり伊藤淳二会長の視察と思い込んだ小倉氏は、ボーイスカウトの服を脱ぎ、さっさと黒いスーツに着替えて、待機していた。 慰霊登山していた遺族からは「日航には黒い背広を着て登山する社員がいるのか」といやみを言われたため、岡崎氏は「小倉は役に立たないばかりか、ここに置いていたらまずい事になる」と思い、御引き取りを願った。 この二日間以外、小倉氏が御巣鷹山に姿を見せる事はなかった。

岡崎氏と、同じ山篭りをしていた天野英晴氏は山崎氏からそれぞれ3、4回取材を受けている。 いずれも新潮社の加藤という編集者と秘書の野上氏が同席した。 二人とも聞かれるまま、御巣鷹山の生活ぶりを詳細に説明した。

そのうち、山崎氏があまり日航の悪口を言うので、岡崎氏が「日航にはろくでもないやつはいるが、御巣鷹山では若い社員は人に言えないくらいの大変な苦労をした。 あまり悪口は言わないでください」と言っても、止めないので「あなたは小倉に相当吹き込まれているみたいですね」と切り替えしたという。 山崎氏が「小倉さんはどういう人ですか」と聞くので、「あなたみたいな有名人を取り込むのは天才的にうまいが、極悪人です。 会社をメチャメチャにしたうえ、仲間を煽るだけ煽っといて、最後は責任を持たない」と説明した。 最後は双方言い合いになり、岡崎氏は「あなたにはもう話す事はない」と打ち切ったという。

週刊新潮で連載中、御巣鷹山で岡崎氏や天野氏が体験したこと、また、岩田正次氏という御遺族相談室の世話役(この人も岡崎氏同様、伝説となっている人)が大阪で苦労した話を小倉氏の体験美談として綴られていくため、岡崎氏は何度も抗議の電話を山崎事務所にかけたが、「小説ですので」という返事が返ってきた。

「小説の体裁はとっているが、御巣鷹山や御遺族の名前は実名だ。 誰だって日航と思うじゃないか。 何より御遺族の世話をしたことのない小倉の美談になっているのは御遺族や御被災者相談室社員への冒涜である。 これも一種の盗作ではないのか。 我々は詐欺に遭ったようなものだ」との抗議に山崎氏は居留守を使い、野上氏が「私の立場では何ともいえない」と繰り返すだけ。 この直後に山崎氏は天野氏へ「岡崎さんって恐い人」と言っていたという。

岡崎氏は幾つかのエピソードを紹介する。 一つは本社の会長室から「伊藤(淳二)会長が山のことを聞きたいとおっしゃってる。 本社に上がってこい」との電話が入った。 岡崎氏は「山のことは山で話そう。 そちらが上がってこい」と切り返した。 岡崎氏には「トップが真っ先に現場へ駆けつけなければならないのになぜ、伊藤会長は御巣鷹山に来ないのだ。 山地社長、利光副社長、高木前社長は何回も来ているのに」という反発があった。

もう一つは小倉氏がテヘラン駐在中、出張でテヘランに行った。 小倉氏はこの頃には既に狩猟が趣味だったらしく、小倉邸に行って見ると、庭で実際に猟銃を撃って見せた。 岡崎氏にも撃つように薦め、手ほどきを示したという。「小倉は庭で猟銃が撃てるぐらいの豪邸に住んでいた。 それが“現代の流刑の徒”とは聞いてあきれる」と笑う。

以上の証言から山崎氏は岡崎、天野、岩田氏の活躍ぶりを小倉氏に置き換えて、第三巻をまとめたのは間違いない。 岡崎氏が抗議するように、事故で御被災者の面倒を見たこともない小倉氏を、あたかも一人で面倒見てきたことのように創作し、悲劇性を高めていったのは、読者のみならず、御被災者、世話役係りを冒涜するものではないのか。 山崎氏の明確な回答を得たいものである。

山崎氏は小倉氏を世話役係りにするため、巧妙なトリックを使っている。 事故直前に開かれたパーティを「国民航空創立35周年記念パーティー」にしていることだ。 パーティには運輸大臣ほか政界の大物、経済界からもVIPがたくさん出席し、各国の大使、公使も顔を揃えるにぎにぎしい会場になっている。 小倉氏はナイロビ駐在が長かったということで、駐日ケニア大使の接待係としてパーティの受け付けに座っている設定になっているわけだが、日航の創業記念日は10月1日であり、旧盆の忙しい8月12日に創業記念パーティを開くのは不自然である。

記者にとって、8月12日は生涯忘れられない1日である。 この日三つの重要な出来事が起ったからだ。 一つは当時戦後最大の倒産と言われた三光汽船の会社更正法申請、次に日航が午後の常務会で完全民営化移行を決めたこと。 それに航空機史上最悪の御巣鷹山事故が起きたことである。

三光汽船の会社更正法申請については日経と朝日新聞が8月11日付けの朝刊で「三光汽船、会社更正法申請へ」と特ダネを書いていた。 当時の三光汽船のオーナーは自民党の実力者の一人、河本敏男氏であり、運輸大臣は河本派の幹部、山下徳夫氏であった。 山下氏は旧盆ということもあって、選挙区の佐賀県伊万里市で田の草取りをやっており、マスコミ各社は運輸大臣、運輸省が派閥のボスである河本氏の三光汽船救済のため、何らかの政策を打ち出すのではと一斉に伊万里へ飛んだ。

山下大臣ものんびり田の草取りなどやってはいられないと、急きょ、上京することになり、現地入りした各社の記者は福岡発羽田行きの日航機に箱乗りしたのだ。 この羽田行きの日航機が羽田で整備を済ませ、大阪へ飛び立ったのが123便、つまり、御巣鷹山の事故機だったのである。 山下大臣ほか、箱乗りした各社の記者が青ざめたのも無理はない。

一方、日航は午後の常務会で完全民営化の方針を決め、夕方からは6月末の株主総会で日航常務から子会社の空港グランドサービスの社長に転出が決まった吉高(八馬)常務の壮行会を高輪プリンスホテルで開いていた。 これは身内のパーティで、運輸大臣や政財官界のVIPが出席するような性格のパーティではない。 まず、確実に言えるのは当時の運輸大臣、山下氏はどう物理的に考えても出席できようはずもない。 

記者は日航が完全民営化を決めたのを知っているのは記者しかいないとの確信のもと、デスクに「一面に出稿します。開けといて下さい」と連絡、その意義付きと背景を盛り込んだ記事を書いていた。 ようやく書き終えた頃に、「123便の機影がレーダーから消えた」の第一報。 記者の特ダネは幻と化したのである。

小説では35周年記念パーティで小倉氏は行天四郎と秘書部長の冷たい扱いに我慢しながら、ひたすら駐日ケニア大使の接待役を務めているうちに、事故の第一報が入り、先遣隊として御巣鷹山に乗り込むシナリオとなっている。

以上のことから、創立35周年記念パーティは創作と断定できるが、吉高氏の壮行会に小倉氏が出席したかどうかがポイントである。 これについても、吉高氏本人や出席者に聞いても小倉氏が出席していたという事実は全くない。 ここまでくれば悪意に満ちた捏造であると断言しても過言ではない。 逆によくもこうしたデッチ上げができるものだと感心してしまう。 この部分が全くの創作であるとすれば、あの小説は価値を半減するどころか、全く成り立たないのではないか。 山崎氏は「この部分はフィックション」と逃れるつもりだろうか。

このあたりの“創作”が第五巻の信憑性にまで響いてくる。小説では、国見(伊藤淳二)会長が辞任した後、恩地(小倉)氏はいったん、会長室部長から大阪の御被災者相談室長に転任することになっていたのを、行天四郎にひっくり返されて、不条理にもナイロビへの再転勤を命じられる。

しかし、経験のない御被災者相談室長の辞令が出ることは、仕事の性格上ありえないことだ。 記者が当時の山地進社長、利光松男副社長から聞いたことだが、「色々あったが、もう、小倉君も定年までそう長くはないのだから、日本でのんびり暮らしたらどうか」と意向を確かめたところ、小倉氏は「伊藤会長のいない日航には未練がありません。 ナイロビに行かせてください」と自らナイロビ行きを訴えたという。

そうなれば、話は全く逆で小倉氏の悲劇性など何もなくなってくる。 小倉氏はナイロビ駐在中、王侯貴族の生活をしていたと複数の日航社員が証言する。 まず、邸宅が海外駐在員でも考えられないくらいの豪華なたたずまいで、部屋には象牙、シマウマの敷物などが所狭しと飾ってあったという。

その象牙も我々がテレビなどで目にする様な代物ではなく、邸宅に招かれたことのある社員は「2、3メートルはあった」と証言する。 小倉氏はナイロビで「サバンナクラブ」を組織し、アフリカ大好き人間をメンバーにしていた。 例えば、映画監督の羽仁進氏、俳優の故渥美清氏などである。 

さらに、「ナイロビ・ツアーズ」という旅行会社を経営し、サバンナの動物視察ツアーを主催するなど商魂もたくましかった。 これは兼業を禁止する日航の就業規則には違反する行為だったが、日航はこれを黙認していたのだ。 さらに日本・東アジア協会を設立し、会長におさまるなど小倉氏にとって、ナイロビは天国であった。

小倉氏は小説の中で、日航の内部不正を摘発するために、会長室部長として七面六臂の活躍をする。 例えば、ニューヨークのグランドホテル(エセックスハウス)の買収に関する不当な取引きに対して、颯爽と単身ニューヨークに乗り込み、調査する。

だが、当時、エセックスハウスの支配人を3、4年勤めていた松原善朗ジャルパック取締役は「小倉氏がエセックスハウスに調査に来たことはない」とはっきり否定する。 となると、弁護士事務所などの調査で、買い取り価格を上積みさせ、国航(日航)開発の和合(石川)社長の懐に七億円が入ったという事実をつかんだというのは嘘になる。



 「行天四郎なる人物は架空の人」

 小説を読んだ人から一番多い質問は「恩地氏とは誰」という質問である。 その次が「行天四郎は」という問いである。 恩地氏は100%小倉氏に間違いないが、小倉氏の敵役で、小倉氏の人生を翻弄し、組合活動をバネに出世街道を驀進し、晩年は会長室部長だった小倉氏の活動の阻止に回る行天氏は小説の中で小倉氏の悲劇性を極限まで高める重要人物である。

その行天氏は誰をモデルにしているのか記者はいろんな人物を当てはめたが、結局行天氏は架空の人物であるとの結論に達せざるを得なかった。

御巣鷹山事故時の日航広報部長は渡会信二氏(元日航常務、現ジャルパック顧問)である。渡会氏の次は伊藤氏が選んだ須藤晨三氏(元日航専務、現ジャルホテルズ会長)である。渡会氏は日比谷高校─東大コースを歩んだエリートではあるが、本人に会えば分かるように、都会育ちのエリート坊やがそのまま、大人になり、おじいちゃんになったような人で、狡猾な行天氏とは対極の人である。

渡会氏は組合活動の経験がないどころか、本人が言うように組合音痴である。小説に出てくるような川野秘書課長と共謀し、銀座のホステスを運輸省航空局の石黒総務課長に御世話するといった危ない橋が渡れるような人ではない。 渡会氏は大学の同窓生達から「君はスチュワーデスを囲って、金も湯水のごとく使っていたんだってな。 うらやましいよ」などと冷やかされているというからえらい迷惑である。

次に須藤氏であるが、この人は人格者で、公平な人として社内でも人望があった。 教養人で、大人の風格があり、包容力は社内で一番だったであろう。 私生活がきれいなことは言うを待たず、第一須藤氏には組合の活動経験が全くない。 伊藤氏から選ばれたものの、伊藤氏のインチキさをいち早く見抜き、スジを通した人物である。

広報部長の最後は反伊藤の急先鋒に立ち、伊藤退任後は山地社長、利光副社長から強く続投を望まれながらも、「社員としてやってはいけないことをやってしまった。 後世に禍根を残す恐れがある」と広報部長を一年で辞めた人である。

この二人はどうしても当てはまらない。日航社内では「行天氏は何人かのキャラクターをミックスしたのでは」という指摘もある。 その中で挙げられるのが萩原雄二郎氏と塩月光男氏である。 しかし、二人は小説の中で別の人物として登場しており、どうも整合性がとれない。 いずれにしろ、日航では広報部長は役員ではなく、小説の中にある常務取締役広報部長兼秘書部長という肩書きは創業以来今日までなかった。

小説の中での行天氏の役回りは極めて重要である。 手練手管を使って上に取り入るばかりか、明らかに犯罪を犯している。 一例が運輸省航空局の石黒総務課長に銀座のホステス「雪江」を世話し、見返りに国内の路線権に手心を加えるように迫っている。 これは立派な贈収賄である。

しかも、白金のマンションを与える際にはペーパーカンパニーを作って、そこの社長にうだつの上がらない「針金課長」を据え、そこに本社から月額三千万円を振り込むという実に手の込んだ手口である。 針金課長はこの仕事がいやになり、福井・東尋防で投身自殺するが、自殺直前に東京地検に投函した告発状で、行天氏は政治家たちとのゴルフの早朝、東京地検に引っ張られるという設定になっている。

運輸省の石黒総務課長のモデルは明らかに黒野匡彦前運輸事務次官である。 黒野氏は昭和59年7月から61年6月まで航空局航空事業課長を務め、その後総務課長になった。 黒野氏が航空事業課長を務めていた時期、総務課長は井上徹太郎氏で、井上氏は平成3年6月大臣官房総務審議官として退官、現在は京浜急行の取締役である。

黒野氏は航空事業課長時代、国際線複数社体制と国内線の競争促進策を進めるため、それまで航空会社の事業分野を定めていた航空憲法(47年閣議決定、49年運輸相通達)を廃止。 御巣鷹山事故では安全対策に奔走、そして日航の経営混乱時にはそれの収拾に努めた人である。

その後、国鉄改革にも並々ならぬ手腕を発揮、後に航空局長から運輸事務次官に上り詰めた。 頭がシャープで、決断力に富み、ヅケヅケとものを言い、課長時代から「将来の次官候補」の呼び声の高かったエリート官僚であった。 当時の時代状況、航空局内の影響力からいっても小説に出てくる石黒総務課長のモデルは井上氏でなく黒野氏であることは間違いない。 それに行天氏の下で「雪江」の世話に奔走する国民航空の川野秘書課長とは元常務の平野聡氏(現顧問)である。

「針金課長」は明らかに実在せず、筋書きを面白くするために登場させた架空の人物である。 当時小説に出てくるような話を聞いたことがないため、改めて関係者に問いただしたところ、みなきっぱりと否定する。 記者は長年、黒野氏の知己を得ているが、黒野氏がこうした危ないことをやるとは到底思えない。 航空自由化の礎を築いた黒野氏はむしろ、日航にとってはマイナスの政策を推し進めたのであり、激しい競争の航空業界にあって、品性下劣な便宜供与を受けていれば、確実にライバル会社から刺されることぐらい、黒野氏ほどの人物が分からないはずがない。



 「堂本社長についての考察」

 小説に出てくる堂本社長とは明らかに高木養根氏である。 小説では高木氏を「爬虫類の目をした」とか、「転向者」「御巣鷹山事故の犠牲者への巡礼は延命のため」とか感情的とも思える表現で、描かれている。小倉氏が高木氏のことを「爬虫類の目をした男」とよく言っていたことから、著者は小倉氏にかなり洗脳されていたと考えられる。

高木氏は飛騨高山出身で一高卒業後、京大の文学部に入学した。 西田幾太郎哲学に引かれてのことである。 そこで遭遇したのが思想弾圧事件として有名な滝川幸辰事件であった。 滝川事件とは滝川教授が書いた刑法、それも姦通罪に関する著書が「危険思想」として公安当局から発禁処分になり、それに抗議して法学部の全教授が辞表を提出、学生もストなどの抗議行動をとった事件である。

記者も最近まで高木氏をこの事件の首謀者と思っていたが、高木社長時代の秘書部長だった塩月氏と、秘書だった町田彰佑氏(現ジャルホテルズ社長)によると、高木氏はたまたま学生集会に出くわし、プロの活動家たちのアジ演説に「そうだ、そうだ」と手をたたいていただけだという。 そこに官憲が踏み込み、高木氏も逮捕されたというのだ。

逮捕された学生の中でプロの活動家たちは直ちに「転向声明」を出し、1週間前後で釈放されたが、高木氏だけは10ヶ月もの間、独房につながれた。 官憲は高木氏にも転向を迫ったが、高木氏には転向する理由がなかったからだ。 放校処分となった高木氏は一高時代の恩師と相談、東大に再入学した。

小説では堂本社長は東都大学(東大)時代に治安維持法に引っ掛かり、転向したとなっているが、事実とはかなりかけ離れている。 「ただ学生集会に遭遇し、参加しただけで10ヶ月もの間、独房暮らしを送るぐらいなら、早々と転向声明でも出した方が」と思うのは我々が凡人だからだろう。 高木氏には「愚」がつくほど一徹の所があり、塩月、町田氏が口を揃えるように「経営者というより哲学者、求道者だった」のだ。 いずれにしろ、滝川事件の影響からか高木氏は極端に官僚を嫌うようになり、社長時代、いつも運輸省とけんかばかりしていた。

小説では御巣鷹山事故後に犠牲者の御霊を弔うため、全国行脚したのは「延命のため、ひいては院政を敷くため」と描かれ、ある日の夜、八馬(吉高)氏が訪れて、「社長、巡礼は続けてください。 延命のため、ひいては院政を敷くためです」と忠告するシーンまである。

実は高木氏は御巣鷹山事故の三年前、羽田沖事故に遭っている。機長の心身症で起きたこの事故は「機長、何するんですか」との言葉とともに、「逆噴射」の言葉が流行した記憶に新しい事故である。 この時はあまり報道されなかったが、実はこの事故の犠牲者になった24人の御霊を弔うため、高木氏は全国行脚していたのだ。

従って、御巣鷹山事故の時も高木氏の全国行脚は事故を起こした会社のトップの当然の行為として、出てきたものである。 事故直後の社長記者会見で、各社の質問は経営者としてどう責任を取るのかに厳しい質問が集中、その中で高木氏は辞意を表明した。 羽田沖事故で全国行脚をしたことを知っていた私は「今回も犠牲者の御霊を弔うために全国行脚されるのですか」と質したところ、「当然です。 私の巡礼で霊を慰めることができるとは思えないが、誠意を尽くしたい」とこの時ばかりはすがすがしい表情で答えたのを覚えている。

事故を起こした会社のトップとはいえ、一人で520人の霊を慰める巡礼の旅は私には気の遠くなる行為である。 記者には、神の命によって大きな岩を山の頂上にまで運び、それが再び落下すればまた、上まで運び永遠に繰り返すギリシャ神話のシジホスに似た行為に映ってしまう。 小説に書かれているように、犠牲にあった520人の被災者には様々な人生ドラマがあった。 それだけに、一人一人の霊を慰めるためにこずかれながら、また厳しい糾弾に遭いながら針のムシロに座る所業は普通の人には出来ない。 記者なら途中で自殺していたであろう。 そこが高木氏の人格の高潔なところであり、哲学者、求道者と呼ばれるゆえんである。

とはいえ、高木氏は戦犯である。 高木氏を擁護することは下手な誤解を招きかねない。ただ、吉高氏も言っているように「高木さんにはどうやって罪を償うかしか頭にはなかったと思う。とても延命など考える余裕すらなく、そんな状況でもなかった」。さらに吉高氏は「小説では私が高木さんに延命のため、将来院政を敷くため巡礼をと進めたことになっているが、当時の状況を考えれば全く陳腐な話だ。第一私はもう日航の常務を辞め、空港グランドサービスの社長に就任していた。 その私が忠告に行くなどありえないこと」と断言する。

事実、高木氏は政府の「年末の臨時株主総会で新経営体制が確立するまで現職でいて欲しい」との懇請に対して、自らの進退については「即辞任」を強硬に主張していたのだ。 誤解を恐れずに言えば、被災者のお世話などやったことのない小倉氏が一人で御被災者の世話をやったように書くことと、「爬虫類の目」をしながらも余生を黙々と御被災者の御霊を弔う旅に出かけた高木氏の人格と比較したらどちらが人の心を打つであろうか。



 「ドル先物為替予約の経緯について」

 国民(日本)航空の経営のでたらめさの象徴として描かれているのが、昭和60年8月に日本産業銀行(興銀)などと契約したドル先物の為替予約である。

記者の取材によると、為替予約は御巣鷹山事故の直前に結ばれた。 当時、為替水準は1ドル240─260円で、ドルの支出の多い航空会社にとって、円安に振れるのが最も痛かった。 そこで興銀、第一勧銀などの薦めもあり、日航はドルの為替予約に踏み切ることにした。

今後10年間、航空機などの購入に必要なドルの三分の一を先物で予約しておこうという発想からだった。 残り三分の二は時価の相場で取引きするから円高に振れてもその分のリスクヘッジにはなるというのが日航側の判断だった。 10年ものの為替予約ということで、5年ものより有利な1ドル185円で契約が成立した。 

ところが、この直後の9月には円高を容認するというより、円高を推進するプラザ合意が先進国蔵相会議で決まり、円は急激に高騰、翌翌年の昭和62年の初頭には140円の水準にまでなった。 つまり、この頃には予約したドルは約45円の為替差損が生じていたのである。

事故直後の混乱期や経営者の交代でしばらくはこの問題は社内でも気付く人はいなかった。 しかし、当時の監査役の服部功(小説では和光)氏の報告で61年秋には伊藤会長、山地社長、利光副社長の知るところとなり、調査したが、先物予約の債権が米国で小口化され、回収は不可能ということが分かった。 この時、日航では伊藤、山地、利光、それに財務担当の長岡聡常務、服部監査役の五人がこの資料を持ち、各資料には公にならないよう通しナンバーが付けられた。

これが公になったのは伊藤氏が辞表を提出した直後の62年3月の下旬であった。 毎日新聞にリークされ、毎日は一面頭で報じた。 直ちに当時の社会党代議士だった井上一成氏が国会で質問しようとしたが、国会の日程等の都合もあって、井上代議士は質問書を提出するに留まった。 運輸省はその回答書を策定、5月8日の閣議に添付資料として配った。記者の記憶では井上代議士の質問書は事実関係の確認と経営責任の追及で、運輸省の回答は事実関係の調査結果と、「一企業の経営判断であり、運輸省がその責任を問う立場にない」というものであった。 残念ながら運輸省の文書課ではその資料を廃棄処分にしており、今では確認しようがない。

この時、分かったことは井上代議士が持っていた資料のコピーは通しナンバーから伊藤会長からもれていることだった。 井上代議士は選挙地盤が大阪で、大阪に本社を持つ鐘紡、伊藤氏とは入魂であった。 毎日新聞の資料もその後、伊藤会長のコピーと分かった。 つまり、伊藤氏は辞任を余儀なくされたため、その腹いせで、毎日にリークし、井上代議士に責任を追求させようとしたのだ。

いずれにしろ、小説にあるように井之出(井上)議員が国会で追求し、海野(山地)社長がこの追求にしどろもどろに答えたという事実は全くない。 ここで著者は海野、三成(利光)副社長が責任を逃れるために「経営責任はない」ということを閣議決定に持ち込んだという筋書きにしているが、ここらあたりに著者の幼稚な論理構成が見て取れる。

しかも、あとがきで著者は「事故後も、ドルの十年先物予約を続け、膨大な為替差損を出しながら“閣議決定”によって政治決着をつけたことは、企業倫理の欠如であり、事故に対する贖罪の意識の希薄さは言語に絶する」と断罪している。

この問題で第一義的に責任を負うべきは高木養根前社長と長岡聡常務で、伊藤会長も含め山地社長、利光副社長には責任はない。 事故後も続けていたことを知らなかった責任を問うとすれば、山地、利光両氏とともに伊藤氏も同罪である。 なぜ、山地、利光両氏の二人だけが責任逃れしなければならない理由があったのか。

著者は閣議決定に持ち込んだことを重大視してるようだが、ここらあたりにも著者の巧妙な論理のすり替えが見て取れる。 井上代議士の質問書に対する運輸省の回答書はあくまでも添付資料である。 一般に閣議決定は閣議が法律、政令、省令などの改正や新法の国会提出などを決める際に、用いられる行政用語であるが、広義ではこうした議員の質問書に対する答弁書も閣議請議書に登録されれば、閣議決定の範疇に入る。

しかし、小説にあるような利根川(中曽根)総理、十時(後藤田)官房長官、自民党の実力者、竹丸(金丸)氏らが海野(山地)社長、三成(利光)副社長の意向を受けて、閣議決定したのではなく、井上代議士が質問書を出したのに対し、運輸省がその答弁書を策定。その答弁書は建前として内閣の答弁となるので、閣議に添付資料として配布するため、一応、運輸省が事務的に閣議請議書に登録したのが真相である。

そこには工作などは一切なく、むしろ広義の閣議決定を仕掛けたのは伊藤氏の意向を受けた井上代議士であった。 高木前社長と長岡常務とともに責任を負うべきはこの問題で伊藤会長のご機嫌を取るため、正義の味方ぶった行動をとっていた服部監査役であろう。

服部氏は為替予約を決済する稟議書に監査役の立場で署名し、翌61年6月の株主総会では60年度決算報告に対し、「問題なし」と結論づけ、署名しているではないか。 しかも、この為替予約が自民党の実力者、竹丸(金丸)氏の政治資金になったとのストーリー展開は面白いが、やはり陳腐である。

著者は怪しいインドネシア人やヘイマン島を登場させ、読者を「さもありそうな世界」に誘っているが、為替予約のシステムの中にどうやってさや抜きができるのか、伺ってみたいものである。 専門家は「為替予約のイロハのイも分かっていない」と笑っているのだが。



 「国見会長について」

 主人公の恩地(小倉)氏と同時に極限にまで美化されているのが国見(伊藤)会長である。当時を知る記者はこの小説を読んで何度吹き出したことか。小説の中では伊藤氏は事故の一周忌で御巣鷹山に上り、御被災者に対し「全力を挙げて償いをさせていただきます」と礼を尽くしたことになっている。 本当に伊藤氏は御被災者と対面したり、御巣鷹山に行った事があるのか。 答えは「ノー」である。

記者は事故一周忌の61年8月12日に伊藤氏と東京のパレスホテルの839号室で会談していた。 記者は「今日は御巣鷹山の現地では慰霊祭が行なわれているのに、会長は出席しなくて大丈夫かな」との自責の念に似た感情に駆られながら、会談に望んだ。

というのも、前年12月17日の臨時株主総会で副会長に選任されて以来、何回も取材の申し込みをしながら、一回も会えなかったからである。 今回は先方から会いたいとの申し出があった。 まず最初に電話があったのが鐘紡秘書室長で、日航の秘書部と広報部を取り仕切っていた白井章善氏からであった。

7月の中旬、白井氏から「伊藤が日航改革について、航空業界に最も詳しい高尾さんから意見を伺いたいといっている。 鐘紡の株主総会が7月末ですので、追って日程は連絡を差し上げたいと思います」との電話があった。 記者は二つ返事でOKしたが、二回目の連絡は会談の前日の8月11日だった。  場所はパレスホテル、時間は11時半。 「明日は一周忌なのに大丈夫かな」と思いながら、「取材が入っていますが、日程を調整してそちらを優先させます」と答えた。

会談は昼食を挟んで約二時間に及んだ。伊藤会長の悩みは労務問題、特に客室乗務員の昇格問題で、地上職最大組合の全日本航空労組(全労、12000人)が反対している事だった。伊藤氏は副会長に就任すると同時に客室乗務員組合に「差別昇格の解消」を約束していた。伊藤氏の案はパーサーに200人、チーフパーサーに100人を昇格させるというものだったが、その大半は客室乗務員組合のメンバーだった。 それに反旗を翻したのが全労だった。

客室乗務員の当時の勢力比は全労3000人に対し、客乗組合2000人。 会社側はそれまで労使協調路線の全労を昇格などで優遇し、よくストを打つ、客乗組合を冷遇していた。 この案に対し、全労は「現場で客乗組合の時間外就労拒否闘争などであおりをくっている全労の組合員は必死に頑張っている。

仕事を熱心にしないものをなぜ優遇するのだ」というのが全労の言い分だった。全労は6月末には「我々の進むべき道」と題する伊藤労政反対の声明を出し、サンケイ新聞が一面アタマで報じており、両者の関係はかなり険悪化していた。

伊藤氏の疑問に対して、記者は「現在の労政は四つある組合を統合する第一ステップだと理解している。 会長は春の全労の大会で、諸君は日航改革の新撰組でなく阪本竜馬たれと言っておられる。 とすれば、組合統合の青写真を示し、組合幹部に対し真意を粘り強く説得する必要があるのではないですか。 しかし、200人、100人というのはちょっと刺激的ではないですか」と答えておいた。

いろんな問題で意見を交わした後、「会長、6月末に出た吉原公一郎氏の「日本航空会長室」という本はまずかったんではないですか」と記者は直言した。 吉原氏の本は利光副社長を民族派の頭目としてやり玉に挙げ、「伊藤会長は利光を粛正すべし」と書いてあった。 それも巻末のあとがきで「この本の原稿は伊藤会長に目を通してもらった」とわざわざ断っていたからだ。

当然、役員や幹部社員は伊藤氏の意向を受けて吉原氏が書いたものと思い、「これから利光派への粛清が始まる」との憶測を呼び、社内に動揺が走っていたからだ。 記者は「これから三人で改革を進めなければならないという時にああいう本が出て、しかも社員らは会長の意向を受けて書かれたと思っている」と説明すると、伊藤氏は「私が目を通したのは私へのインタビューの部分だけです。 あの人(吉原氏)は組織の人(共産党員)で、私の言いなりになるような人ではありませんよ」と答えた。

実は「日本航空会長室」には記者のことを書いたくだりがあった。 記者が執拗に乗員組合などに攻撃を加え、そのニュースの出所が日航広報部だというのだ。 「高尾記者は毎晩広報部員と銀座で飲み明かしているといった噂もある」といった悪意に満ちた記事である。

記者は伊藤会長に「あの本には参りましたよ。 僕のことも書いているんですからね」と感想を言うと、「いやー、有名になると人は何をかかれるか分かりません。 私も近く私を隠れ共産党員と批判する本が出ようとしているんですよ」と意外な返事が返ってきた。「へー、それでどうされるんですか」と尋ねると、伊藤氏は「今事実関係を調査中です。間違いがあれば断固法的措置を取ります」とキッパリ答えた。

記者が伊藤会長と会った事は日航社内に直ちに伝わった。 当時、絶対権力者であった伊藤氏が何を言ったかはみな一番知りたいところであり、逆取材を受けるはめになった。 言っていい事と言ってはいけない事を峻別しながら、逆取材に対応したが、関連会社の役員との取材中、記者は本の事を思い出し、「そう言えば伊藤さん、変なことを言ってましたよ。 隠れ共産党員だと批判する本が出るそうですよ」と言うと、「その本なんですが、実は鐘紡が買い占め、そのコピーが社内に出回っているんですよ」とその役員は打ち明けた。 「そのコピーはあなたも持っているんですか」と尋ねると、「持っています。 しかし、今手渡すわけにはいきません。 二日後渡します」と答えた。

コピーを手に入れた記者は数部コピーし、大阪社会部時代に可愛がっていた記者を呼びだし、取材の協力をお願いした。 本の著者は当時ラジオ日本の報道課長、福田博幸氏で、出版元は青山書房。 タイトルは「日航機事故を利用したのは誰か」で、内容は鐘紡の伊藤淳二会長のペンダゴン経営を「資産を切り売りする蜘蛛巣経営」と酷評し、日航での伊藤氏の左翼優遇の労政を厳しく批判したものだった。

鐘紡はいち早くこの情報をキャッチし、永田正夫専務が出版社社長と買い取りの交渉に入り、15000部を1000万円で購入するということにした。 本はすべて鐘紡の物流子会社で溶解処分された。 ところがこの直前、何も知らない社員が十数部の見本を福田氏に届け、福田氏は取材でお世話になった人に「謹呈本」として送っていた。 これがコピーとして出回ったのである。 「天網恢恢疎にして漏らさず」である。 このことは警視庁の公安筋もつかんでいた。

著者、出版社の取材を終えた社会部記者は伊藤氏を追いかけたが、当時の伊藤氏は自宅へはめったに帰らず、都内の一流ホテルを転々としており、なかなか捕まらなかった。  記者はその数日後の9月1日利光宅へ夜回りをかけた。

記者は「ところで、伊藤さんはいかがですか」と聞くと、利光氏は「淳ちゃんは頑張っているよ。 家内と二人で8月の夏休みに彼の故郷である長野県の牟岐というところにいったが、あそこは野麦峠、そう女工哀史の世界だね。 彼のヒューマニズムの原点は女工哀史だね」とにこやかに答えた。 「しかし、利光さん、そのヒューマニストの伊藤氏が何故、本なんか買い占めるのですか」と畳み掛けると、利光氏の表情が一変し、「高尾さん、それ知っているのか。 書くのか」と眼光鋭く迫ってきた。

「今詰めているところです。 一両日中には出せるでしょう」と答えると、「書くのであれば致命的に書いてくれ。 これこそ批判は絶対に許さないという暴君のやる事だ。  まさに焚書坑儘だ。 あんなひどいやつはいない。 労務の専門家とか言ってるが何も分かってない。 客室乗務員の昇格問題も俺と山ちゃん(山地社長)が全労と7人、30人でまとめたものを、いったんはあいつも承諾した。 人事も発令したんだが、それを白紙撤回したんだよ。 いったん発令した人事を白紙撤回するとは前代未聞で聞いたことがない。 それにあいつは佐藤正忠(雑誌経済界主幹)を使ってこんなものを書かせやがった」と興奮しながら一枚の紙を見せた。 

記者は我が目を疑った。 そこには次のようなことが書かれていた。



                 「誓約書」

「私は伊藤淳二会長を人生の師と仰ぎ、いったんことがあればともに殉死する事を誓います」

         8月16日         日本航空副社長    利光松男
                 
                       立会人  経済界主幹 佐藤正忠
     
     日本航空会長  伊藤淳二殿

記者は「なぜこんなヤクザみたいなことを誓ったのですか」と聞いた。 利光氏は「うちの連中が利光さん、今ことを構えれば犬死にします。 我慢してください。 というもんで、恥を忍んで書いたんだよ」とポツリと答えた。

記者は帰りの車の中で誓約書を一字一句漏らすまいと思ってメモをとり、社へ戻った。 まだ部長がいたので報告すると、「それは異常だ。 正気の沙汰とは思えない。 まず、本の買い占め事件から書け」と指示があった。

まだ社会部記者は伊藤氏を捕まえていない。 翌2日夕方、社会部記者から「伊藤を捕まえました。 伊藤は最近、永田から報告があったと言ってます」との連絡があった。 「今日組みの紙面でいこう」。 こういう出版妨害事件を一面で扱えないのが経済新聞の辛さである。 しかし、社会面の半分を割き、伊藤氏も含めた関係者の談話もきちんと載せた立派な紙面作りとなった。

鐘紡の一役員の臨時的に使える金は内規で五百万円が上限だった。 永田専務の行為は明らかに役員の忠実義務違反にあたる。 本の買い占め事件が発覚した直後の9月25日、鐘紡は取締役会でこの上限を一千万円に引き上げた。

この時から記者と伊藤氏の戦争が始まったわけだが、運輸省記者クラブの交通政策研究会の経済部記者と伊藤氏とは就任直後から対立の構図があった。 伊藤氏の広報戦略はまず、知り合いや気の合った記者からのインタビューを受け、「伊藤神話」を作り上げる。  いくら担当といっても知らない記者は信用できないらしく、当分会ってくれない。

60年10月に副会長就任が決まった直後から、各社とも事実上の会長としてインタビューを日航広報部に申し入れた。 しかし、日航広報部は何の権限もなかった。 むしろ鐘紡の白井秘書室長に実権があった。 伊藤氏が「神話」を作り上げるために活用したのが雑誌、経済界の佐藤正忠氏である。 経済界は歯の浮くようなちょうちん記事を臆面もなくよく掲載した。

それに大阪時代に繊維を担当した事のある記者である。 例えば朝日新聞の早房長治編集委員である。 交研の現場記者が会えないのに諸先輩のインタビュー記事が出る。 現場記者はデスクにどやされ、顔色無しである。

副会長、会長として交研の記者会見に応じたのは61年2月、同年9月と辞任を表明した62年3月14日の三回だけだった。 それも2月と9月は交研の強力な申し出によって実現したのである。 当時、「伊藤氏が会わなければ山地氏と語ろう」と交研の有志で「山地会」を作り、居酒屋で記者たちの不満を山地氏にぶつけたものである。

61年9月末の伊藤会見は最初からトゲトゲしかった。 人事の白紙撤回事件、本の買い占め事件が明らかになっていたからだ。 まず、先陣は記者が切った。 「客室乗務員の昇格問題で、会長はいったん発令した人事を白紙撤回されたが、異常な事態だと思う。 狙いはどこにあるのか」。 「掛け違えたボタンは早めに直すべきだと思い、撤回した。これから全労、客乗組合と精力的に話し合い、まとめていきたい」と押し殺すような声で答えた。

別の記者が「最近、機長組合と先任機関士組合の設立を認められたが、組合を統合していくという会長の方針に反するのでは」。 「機長組合は組合統合の母体となるべき組織だ。統合への第一ステップだ」。

別の記者が「鐘紡によって日航を批判する本が買い占められたが、出版妨害事件ではないのか」と核心に迫った。 伊藤氏は「鐘紡は本の内容に事実関係に間違いがありますよ、と出版社の社長に説明、出版会社の社長も、それは困った、どうすればいいんですかというので鐘紡が出版社が損をしないようにと相手側と話をまとめた。 航空会社でも食中毒などが発生した場合、臨時の支出がある。 今回もそういう臨時の支出と考えて欲しい」と筋違いの弁明を繰返した。

次に別の記者が「会長は買い占めをいつ知ったんですか」と聞いた。 「日経の取材を受け始めて知った」とぬけぬけと答えた。 記者は「会長、あなたは私と8月12日にパレスホテルで会いましたね。 その時あなたは事実関係を調べている。 間違いがあれば断固法的措置を取るとおっしゃいましたね。 ということは既にその時知っていたという事ではないですか」。 伊藤氏の顔が紅潮し、「私はそんなことは言っていない。 高尾さん、あなたが会いたいというから私は会ったんだ」と声を荒げた。 「それは逆ですよ。あなたの方から会いたいという申し出があったから、会ったんですよ。 それを逆に言うようだったらあなたは信用できない」。 記者も相当興奮していた。 一触即発の雰囲気に須藤広報部長が「色々質問がおありのようですが、会長には次の予定もございますのでこの辺で」と水を入れた。

この後、鐘紡の白井彰善秘書室長が広報部へ飛んできて「君たちはどんな広報をやっているのだ。 あんな失礼な質問を許していいと思っているのか。 広報部長、次長、課長、君らは全員クビだ」と怒鳴り散らした。 広報部員たちはこの一言で切れた。 「本の買い占め事件は鐘紡が勝手にやった事。 それを何故我々が責任を負わなければならないんだ」。 この時以来、広報部は反伊藤の先兵となっていく。

殉死誓約書事件は伊藤会長の人格を決定的に傷つけるものだが、ヤクザまがいの珍事を新聞が書くわけにはいかない。 しかし、伊藤会長、佐藤氏は自ら墓穴を掘っていく。

まず、伊藤氏だが、加藤六月代議士の事務所で、「トロイカ体制がうまく行っていないとの情報があるが、大丈夫か」と問われたのに対し、「大丈夫です。 利光副社長は私に忠誠を誓っています」と殉死誓約書を見せている。 これを見ていた秘書が週刊新潮に通報した。

また佐藤氏は誌面で経営者同士をけんかさせ、自分が間に入って念書を取り、それを誌面に掲載して自分の力を誇示するという変な癖があった。  殉死誓約書も数人の経営者に見せ、これがライバル誌、雑誌財界の知るところとなった。 時を前後して殉死誓約書事件は週刊新潮、財界の記事となり、伊藤氏への信頼は音を立てて崩れていく。

我々は伊藤氏と日航の経営混乱を経営の視点から捉えていったが、政府の伊藤問題への関心はナショナルセキュリティ(国家安全保障)にあった。 伊藤氏は61年4月15日付けで小倉氏を会長室部長へ、小倉執行部の時の書記長だった相馬朝生氏を運航本部業務部長に抜擢したが、その年のサミットへの中曽根フライトの乗客リストや運航スケジュールなどが自民党本部より先に共産党本部に伝わるという出来事が起きた。

日航の常電導の新交通システム、エイチ・エスエス・ティーの技術が旧ソ連へもれたとの噂もあった。 61年6月に取締役空港本部長に就任した村田芳彦氏が自衛隊基地であった旧千歳空港に挨拶に行った際、自衛隊幹部から「共産党が経営の中枢に入っているお宅とはこれからは距離を置いて付き合っていきます」と言われている。

この頃、伊藤氏に連れられて山地、利光氏の三人が共産党本部にわざわざ出向き、伊藤氏が不破哲三委員長に共産党の網領にサインをねだったことが明らかになり、自民党をはじめ各党、政府の不安感を一層増幅させたのも確かだ。

こうした事態を重く見た日航は政府フライトのスケジュールなどの統轄を運航本部から経営企画室へ移したが、同年11月の訪中中曽根フライトの運航は全日空機に決まった。 一応、建前は「国際線複数社体制を促進するため」という事になっているが、政府部内では日航経営陣への不信感があった。 このことが、数年先の政府専用機購入へとつながっていく。

こうしたことから伊藤氏が更迭されるのは時間の問題だった。 当時の官房長官は警察官僚のドン、後藤田正晴氏であり、当然、裏では内閣情報調査室が専門の調査員2人を付け、諜報活動に動いた。 一方、当時の運輸相、橋本龍太郎氏の立場は年齢が一回り上の慶大の先輩という事もあり、やや違ったスタンスから伊藤氏を見ていた。 自民党からの突き上げで、「伊藤更迭」は避けられない、との判断はあったが、「できる事なら花道を」と考えていた。

橋本氏は61年11月、大臣室に伊藤氏を呼び、新経営陣の結束と、鐘紡会長との職務分担をはっきりさせるよう伊藤氏に忠告した。 というのも、橋本氏が何かの用で伊藤氏との連絡を取ろうとした時、日航の秘書部に電話をしても、「うちでは会長とは連絡できません。 鐘紡の秘書に聞いてください」という返事が再三あったからだ。

橋本氏にしてみれば、航空会社それも、ナショナルフラッグキャリアの日航の最高実力者が所在がつかめないという事は、由々しき問題だった。 とはいえ、橋本氏は日航の完全民営化を伊藤氏の手でやらせ、それを花道に62年6月の株主総会で「名誉ある退任」のシナリオを描いていたのだが、伊藤氏は3月14日突然辞任表明の挙に打って出た。

城山三郎氏の小説、「役員室午後三時」の主人公のモデルは伊藤淳二氏と言われている。もともと鐘紡は武藤家のオーナー会社だったが、伊藤氏は実権を掌握するため、いったん会社を辞める。 そこで反対派を糾合、二代目の武藤糸治社長と対決するが、武藤氏は折れ、伊藤氏を取締役で復帰させる。

武藤氏がイタリア出張の折、伊藤氏は臨時取締役会を召集、武藤氏の解任決議を行い、自らが社長の椅子に座る。 この時、伊藤氏は45歳の若さである。 伊藤氏は労組を労使協調型とするため、上部団体のゼンセン同盟から鐘紡労組を脱退させるという荒業を使う。この結果、鐘紡労組は伊藤氏の説く労使運命共同体という労使協調路線となり、数年後、鐘紡労組はゼンセン同盟に復帰する。

「役員室午後三時」にはネタ本があった。 清水一行氏の「鐘の音」。 この本は単行本では出たが、その後の清水氏の「清水一行全集」からは消えていた。 このことは当時、関西財界では誰でもが知っていることであった。 経営手法では古い価値観を重んじる関西財界では伊藤氏がオーナーの武藤糸治氏の寝首を掻いた事は到底、許せることではなかった。

このため、伊藤氏は60歳以上になっても関西財界の要職を占める事は出来なかった。 いずれは中央財界に打って出たいというのが伊藤氏の野心であり、その時、降ってわいて起きたのが御巣鷹山事故だった。

御巣鷹山事故後、政府、運輸省は日航トップの人選に難航を極めていた。 「日航の経営の混乱と事故体質は労使関係にある」との発想から、次期社長は労務に明るい人に絞られていた。

その筆頭に上がったのが山下勇・三井造船会長(後JR東日本会長)である。 ついで国鉄改革で辣腕を振るった亀井正夫・住友金属会長、若手経営者のリーダーと目された牛尾治郎・ウシオ電気社長などが候補として上がった。 変わったところでは、宮田義二・元鉄鋼労連委員長(松下政経塾長)、若狭得二・全日空会長などの名も挙がった。

しかし、航空史上最悪の御巣鷹山事故後の遺族との補償問題などを考えると敢えて「火中のクリ」を拾う人はいなかった。 そこで中曽根総理は懐刀である瀬島竜三・伊藤忠相談役に密かに人選を進めるように指示、こうして浮かんできたのが伊藤氏である。

伊藤氏を真っ先に担いだのが前野徹・東急エージェンシー社長である。 かつて前野氏はニュービジネス研究会という団体の会長に伊藤氏を担いだ事があり、入魂の中であった。これに小山五郎・三井銀行相談役、五島昇・東急社長、佐藤正忠・経済界主幹らが応援団として加わった。 これらはほとんどが中曽根首相の行革グループであり、政界では山口敏男代議士、マスコミ界では屋山太郎・時事通信解説委員などが駆けつけた。

このころ、山下徳夫運輸相は事実上、人選のメンバーから外されたが、時々刻々の情報は瀬島氏から山下氏へと伝えられた。 小説では伊藤氏は4人目の候補として紹介されているが、いつも山下氏から連絡を受けていた塩月氏によると、24番目の候補だったという。

伊藤氏は引き受けるにあたり、いくつかの条件を提示した。まず、鐘紡の会長を兼務する事、それに政府が全面的なバックアップ体制を保障する事などである。 瀬島氏も山下氏もこの条件を快く引き受け、全面的な協力を約束した。

瀬島氏は全国民に強力な印象を与えるため、知り合いのNHK記者を事務所があるキャピトル東急ホテルに招き、伊藤氏への独占インタビューをさせた。 日曜日の午後七時のニュースで全国放送され、日航社員たちは晴天の霹靂のトップ交代に動揺を隠せなかった。

伊藤氏の会見は午後十時から都内のホテルで行なわれたが、社長に就任する山地氏の会見は深夜になっても開かれなかった。 というのも、高木氏の後任として自然自分が社長になるものと思っていた町田直副社長が辞任に応じなかったからである。 町田氏にはそれまで運輸省と旧安倍派が後ろ楯になっていた。 というのも、町田氏の妻は水田三喜男元蔵相の妹で、旧福田派の大幹部だったという事情があった。

中曽根首相と町田氏は東大法学部の同窓生である。 ところが中曽根氏が運輸相時代、町田氏は運輸省の官房長といった巡り合わせとなった。 この時、町田氏は運輸相と二人きりになると、「ねえ、中曽根君」と親しげな会話を交わした。 権威主義者の中曽根氏にはこのことが痛くカンに触ったらしく、「君、立場をわきまえてくれ」などと叱咤した。

事務次官退官後、町田氏は日航の副社長になったが、御巣鷹山事故直後、町田氏は大変な失態を演じた。 遺族の遺体が安置されていた群馬県藤岡市の体育館は40度を越える猛暑に見舞われていた。 窓を閉め切っているため、風は一切入って来ない。 たまりかねた町田氏は無意識のうち扇子を取り出し、パタパタとやりだしたのだ。 それも悲しみにうちひしがれた遺族の前で、その光景が写真週刊誌の格好の餌食となった。

写真週刊誌を見た中曽根首相は「一体日航は何を考えているのか。 町田はクビだ」と激怒した。 高木氏の後継者の人選は町田氏を抜きに進められていたのだが、町田氏本人と運輸省、旧安倍派はかすかな望みを持っていた。 というのも、高木氏と運輸省の関係悪化を町田氏なら改善してくれるとの期待があったからだ。

伊藤氏副会長就任の工作は旧安倍派には内密に進められ、発表に怒った安倍晋太郎氏が中曽根氏に抗議したが、後の祭り。 その日中京方面に出張していた町田氏は深夜に東京駅に着いたが、そこで待ち受けていた山下運輸相、安倍氏、三塚博氏らが懸命に町田氏を説得したが、町田氏はなかなか了承せず、帰宅した。 その翌日、安倍、三塚氏ら安倍派の幹部が引き続き説得を試み、山地氏の会見が行われたのは翌日の深夜になったというわけだ。

一方、山地氏について政府は当初、副社長として送り込む予定だった。 当時の官房長官は後藤田正晴氏であり、後藤田氏が総務長官時代、山地氏は総務庁事務次官として、後藤田氏を支えた。 後藤田氏は山地氏を「官僚中の官僚」といたく可愛がった。

事故後政府の日航首脳人事は民間人から1人、官僚から1人、プロパーから1人、という線で進められたが、官僚から1人というのは町田氏ではなく日航顧問の山地氏だった。 後藤田氏としてみればいずれ山地氏を日航の社長に据えたいという思いは強かったが、事故後の社長ではどんなドロをかぶるか分からない。できれば副社長で数年帝王学を学ばせ、一段落したら社長に就任させるのが無難と思っていた。

日航プロパーで最初に候補に上がったのは亀田重雄・旅行開発(現ジャルパック)会長であった。 亀田氏は日航の営業の草分け的存在で、当時営業出身者たちで「亀の子会」という会合が作られた。

その第一の幹部が利光氏だった。 山下運輸相は亀田氏と会い、社長就任を打診したが、「私はもう年齢も70に近い。 とてもその重責には耐えられない」と断った。 「他に適任者はいるのか」との山下運輸相の質問に対して、「子会社の日航商事の社長をやっている利光なら務まると思います」と答え、山下氏は早速、利光氏と会った。

利光氏は「社長という任は重過ぎます。 私はその器にはありません。 私ができるのは社内融和です。 副社長だったら務まります」。 これで伊藤副会長、山地社長、利光副社長が決まった。

伊藤、山地、利光の三人を選任する臨時株主総会は60年12月17日に開かれた。 翌18日、三人を歓迎する社員集会が羽田で開かれ、山地社長は「花村会長はお父さん、伊藤副会長は長男、私は次男坊、利光副社長は三男坊」と三人の結束をアピール、万雷の拍手を浴びた。

伊藤氏にとって目の上のたんこぶは花村会長だった。 伊藤氏はそれまでに「会長は最高経営方針決定者で人事権を持つ。 社長は最高執行責任者」との通達を出したが、これは伊藤氏の「会長は立法府、社長は行政府、監査役は司法府」という独特の三権分立理論を経営に置き換えた哲学であった。

しかし、会長は依然、花村氏である。そこで伊藤氏は花村氏追い出しにかかった。 花村氏は当時、日経連の副会長で、事務総長。財界政治部長といわれ、自民党はじめ、各党への企業の献金のリストを作り、一人で采配していた実力者である。 自民党の実力者といえども文句が言える人ではなかった。

その花村追い出しの道具に使われたのが、萩原雄二郎、橋爪孝之、平沢秀雄の三専務である。 まず、三人が会長室に呼び出された。伊藤副会長は「日航改革を進めるにあたって人心の一新が必要だ。 高木社長、町田副社長も責任をとって辞めた。 三専務がそのまま居残るというのはいかがなものだろうか。 進退を考えて欲しい」と事実上、更迭を宣告した。 この席上で、萩原専務が「それは官邸の意向ですか」と尋ねたが、伊藤氏はこの質問を無視した。

外堀は埋められた。このころ、雑誌・経済界は「地位に恋々として老醜をさらす花村仁八郎」などのどぎついキャンペーン記事を連載した。一部の新聞も花村氏の進退問題について言及、世論は「花村辞任すべし」との傾向になっていった。

思い余った花村氏は3月中旬運輸省に出向き、三塚運輸相に辞表を提出。記者会見で、「私は地位には恋々とはしていない。 会長というのは社長に社業を任せ、大所高所から社長にアドバイスするもの。 アメリカ的経営が日本の経営風土になじむとは思えない」と暗に伊藤式経営を批判した。 会見後、記者団に花村氏は「女、子どもを相手にしてきた経営者が日航の経営ができるはずがない」と語り、また、「マスコミを利用する人間は必ずマスコミに裏切られる」との名言を吐き、運輸省を後にした。

ここで、佐藤正忠氏とはどんな男かを紹介しよう。 佐藤氏はかつて中曽根派から衆院選挙に立候補、落選したことがある。 この時、公職選挙法違反、つまり買収で公民権停止処分を受けた。 その後、雑誌・経済界の主幹になったが、記事を金もうけにする典型的な財界ゴロとして有名である。 その典型的な例はイトマン事件で首謀者の伊藤某からマスコミ対策として、2億円もらった事は記憶に新しい。 その手口と人物像については作家、高杉良氏が小説「濁流」で紹介している。

中曽根首相時代、たいした用もないのに総理官邸によく出かけた。 総理と会えば必ず、新聞の「首相の一日」という欄に出てくる。 「俺は中曽根とこんなに親しいんだ」と財界人らに印象づけるためである。

記者は伊藤氏の退任する直前の62年1月、当時会長室部長、小倉氏とサシで会った事がある。 その時、記者が「伊藤さんも佐藤正忠の様な男を使っていては自分の首を絞める事になる」と忠告したところ、小倉氏は「私には大学時代の友人でたくさん経営者がいる。みんな同じ事を言っている」と困った表情をしていた。

伊藤辞任後、元運輸相で当時総務庁長官だった山下徳夫氏は、ある夜、当時秘書部長だった塩月光男氏をある料亭に招いた。 山下氏は塩月氏を上座に据え、額をタタミにこすり付けた。 「とんでもない男(伊藤淳二氏)を日航の経営者として招いた。 塩月さんはじめ、日航の社員に大変迷惑をかけた。 申し訳ない。 この通りだ」。 塩月氏はただ恐縮するばかりで、「先生、手を上げてください」というのが精一杯だった。

小説では以上の本の買い占め事件、佐藤正忠氏を使った殉死誓約書事件、花村追い出し工作などは一切、触れられていない。 伊藤氏の経営哲学、手口、そして人間性を知るのに最もふさわしいエピソードなのにそれを全く捨象したのは、自分の構想した小説が成り立たなくなるとの判断からだろうか。

数年間の取材を費やしたのだから、こうした事実関係を知らなかったでは済まされない。「知らなかった」で済ますとすれば、よほどずさんな取材しかやっていなかったという事だ。 また、知っていいて敢えて無視したとすれば小説を書くに当たって、一方的な情報を頼りに、故意に事実を曲げた視点で書こうとしていたと疑われても仕方がない。 ジャーナリストも作家も同じだがまず、事実を直視する事から始まる。



 「轟鉄也氏」の暗躍について

 行天氏と同様、「魑魅魍魎の世界」で暗躍するのが、「ジャパン・エア・ツーリスト専務」の轟鉄也氏である。 轟氏は毎夜、銀座で豪遊し、銀座のホステスを愛人として囲っている。三成(利光)副社長から政治献金1億円の調達を任せた田丸(安藤光郎)常務の指示で、三千万円を調達するよう要請される。

この轟氏のモデルは「ジャパン・ツアー・システム」の副社長、大島利徳氏である。 まず、大島氏の反論を聞いていただこう。 大島氏は心臓の持病があり、今年7月も大手術をした。 24年前から酒をピタリと断っており、それ以後、銀座のクラブなど一回も行った事はないという。 「その私が銀座のホステスなど愛人にするわけがない」と言う。

安藤常務から3千万円の政治資金調達を依頼されたかの問いには、「確かに私は幾人かの政治家との交友はある。 その政治家たちに票で協力した事はあるが、カネで御手伝いした事はない」とキッパリ否定する。 さらに「御巣鷹山事故直後、利光氏がなぜ1億円もの政治資金が必要だったのか。 むしろ政治資金が必要だったのは伊藤氏の方だ。 利光氏が政治家工作をやらねばならない理由はどこにもなかった。 ストリーがあまりにも馬鹿げている」と指摘する。

ここにも山崎氏の巧妙なトリックが使われている。 田丸(安藤)氏はまた、格安航空チケット会社などに二千万円の資金調達を指示するが、安藤氏が常務(国際営業担当)に昇格したのは91年6月である。

安藤氏は91年1月の湾岸戦争勃発で国際線の収入が激減し、それをカバーするため、当時台頭してきた格安航空チケット会社、エイチ・アイ・エス(HIS)などに安い航空券を大量に卸した。 このことがJTB(日本交通公社)など大手旅行代理店などを刺激、当時の利光社長から詰め腹を切らされた経緯がある。 安藤氏と格安航空チケット会社との関係が濃密になったのは湾岸戦争後であり、決して伊藤会長時代ではない。

また、小説では三成(利光)氏が筋の悪い女に引っ掛かり、大島氏を訪ねて、後始末をお願いするシーンがある。 小田急電鉄創業者の直系の孫である利光氏は親分肌で、確かに人間関係やお金にはややルーズな所はあった。 しかし、敬虔なクリスチャンである利光氏は、こと女性問題に関しては潔癖である。

利光氏が山地氏から社長の座を禅譲された時、微笑ましいエピソードがある。 腹心の河野明男取締役(後副社長、現顧問)が利光氏に「単刀直入に伺いますが、個人的なスキャンダルはないでしょうね」と聞いた。 利光氏は「一つだけ気になる事がある。 実は最近、銀座のあるクラブに行ったんだが、そこで長年ご無沙汰していたママと会った。 その数日後そのママから「副社長のご活躍ぶりは新聞などで拝見しています。 ますますのご活躍を」との手紙をもらったので、お礼の手紙を書いた。 それだけが気がかりだ」と答えたという。 スキャンダルでも何でもないことを心配する利光氏に女性スキャンダルがあるはずはない。

大島氏はかつて屋山太郎時事通信編集委員を名誉毀損で訴えた事がある。 大島氏が「沈まぬ太陽」に描かれていると同じような手法で私服を肥やしているといった事を書かれたからだ。 民事訴訟だったため、結審まで時間がかかったが、大島氏は屋山氏から「不適切な表現があった。 ご迷惑をかけた事をお詫びします」と一冊をとっている。

また、名古屋の旅行会社、サカエトラベル社長の後藤民夫氏が「SF券、CF券などを大量に流し、私服を肥やし、背任の疑いがある」と東京地検に告発した。 この時の告発の相手は大島氏のほか、利光氏とジャルパックの社長だった若木氏だったが、三人は東京地検の取り調べを受けている。 この結果が不起訴。大島氏は「裁判記録はいつでも公表する用意がある」と語る。

また大島氏は「三千万円のカネを作るには、大量のSF券、CF券を金券ショップに流さなければならない。 それは日航のチケットの相場は暴落を招き、自殺行為だ。 また3年に1度の国税による監査で明らかになるはず」と反論する。

この種の風評については依然から、乗員組合など代々木系の組合筋から流され、まことしやかに語り継がれている。 その最たる例が特別販売促進費(特販)とキックバックである。

かつて航空会社と旅行会社の間の決済はすべて現金で行われていた。 営業マンはスーツケースやアタッシュケースに札束を入れ、代理店の店頭で他社に取られた顧客を札束で自社便に取り戻すという行為が行われていた。 この際、航空会社と旅行会社の営業マンは手数料(国際線9%、国内線6%)の他、15%を旅行会社にキックバックし、うち5%を山分けをすることが横行していたという。

しかし、昭和45年キャセイ航空が国税庁に挙げられ、キャセイは「うちだけでなく、ナショナル・フラッグ・キャリアの日本航空もやっている」と供述、国税の査察が日航大阪支店国際代理店課に及んだ。

当時、同課の営業マンだった木村健氏(現アクセス社長)は「査察は3ヵ月に及び、個人の預金通帳まで調べられた。 それ以後、「不明朗な会計は問題」という事で、銀行振り込みとなり、個人の懐に入る事はなくなった」と証言する。 要は山崎氏は事実関係も調べないで、かつて行なわれていた不明朗な取引きが現在も続いているに違いないとの確信のもと、書いたとしか考えられない。

  木村氏は面白いエピソードを紹介してくれた。 伊藤会長時代、木村氏は国際線の運賃問題を担当するタリフ課長だった。 当時、急速な円高昂進で、日本発の運賃が相手国発の運賃をはるかに上回る水準に達し、方向別格差として大きな社会問題となっていた。 国際線の運賃はIATAの取り決めで、発地国通貨建てとなっており、円高の昂進分日本発の運賃が高くなった。

このことは利用者からの不満が高まり、是正が求められていた。 そうした頃、時事通信の記者が「日航は自社為替レートを1ドル296円で設定している。 内部資料を入手した。そのために運賃が高すぎるのでは」と取材に来た。 自社為替レートはFCUという単位で表していたものだが、実際はこれに方向別に乗数をかけ、運賃が決まる。 記者が示す内部資料に目を通すと運航本部業務部長の相馬朝夫氏の所からもれている事が分かった。資料は内部の極秘資料のため、配付した担当部門別に通しナンバーが付けられており、それで判明したわけだ。

直後に共産党機関紙の「赤旗」に大きく掲載され、1FCU=296円という数字が一人歩きする事になる。 同じ通信社でも共同通信と時事通信の違いは共同が配信先を日本新聞協会の会員に絞っているのに対し、時事通信は政党機関紙、企業などにも配信している事だ。 ここから推測されるのは相馬氏から共産党にこの数字が漏れ、赤旗が取材しても日航は協力しないだろうとの思いから時事通信に取材をお願いしたという事である。

既述の通り、中曽根総理のサミットフライトの運航スケジュールが自民党に届くより先、共産党に届き、また常電導の新交通システム、エイチ・エスエス・テイィの技術が旧ソ連に流れていることを考慮すると、十分にありうる推測である。



 「事実を取材して小説的に再構築した技法」への考察

 「沈まぬ太陽」は一体フィクションなのかノンフィクションなのか。 一応フィクションのスタイルはとっているが、この小説を読んだ人は舞台は日本航空でそこに登場する人物は実在の人物と思っている。 記者もたくさんの人に「恩地氏は」「行天氏は」と登場人物について聞かれる。 しかも、第三巻の御巣鷹山編の御被災者はほとんどが実名そのままである。

当時を知る記者は事実と照らし合わせて、どの部分が意図的に捻じ曲げられているかを証明してきた。 この小説の最大の罪は小倉寛太郎氏を極端にまで美化している事だろう。小説に描かれている小倉氏の組合活動、その後の行動はほとんどがでっち上げである。 フィクションにしろ一回も御被災者の世話役をやった事のない小倉氏を世話役の中心メンバーに仕立て上げた事はこの小説の致命的な欠陥だろう。

涙を誘う著者のテクニックには感心するばかりだが、それだけに基本的部分で嘘があったら、読者をだました事にならないだろうか。 少なくとも、リストラに次ぐリストラにもめげずにまじめに働いている多くの日航社員はこの小説を読んでどんな思いに駆られるであろうか。

それにしても、この小説の登場人物はあまりに類型的である。 小倉、伊藤両氏は神様のように描かれているが、行天(架空の人物)、八馬(吉高)、堂本(高木)、和合(石川)、石黒(黒野)、轟(大島)氏たちは悪の権化のように書かれている。 人間とはそう単純に割り切れる動物だろうか。

また道塚運輸大臣という人物が出てくるが、この人物は明らかに三塚博元運輸相のことである。 御巣鷹山事故当時から伊藤氏が辞任するまで小説では三塚氏一人が運輸大臣を勤めた事になっているが、事実は山下徳夫、三塚、橋本龍太郎の三氏が勤めた。 しかし、著者は政界との癒着との印象を強く打ち出すために三塚氏一人にしている。 こうした手法はあちこちに見うけられる。

記者が最も巧妙で、しかし、悪質だと思うのは行天氏のキャラクターとその役回りである。行天氏は小倉氏の行動を次々に邪魔をしてはのし上がっていくが、小倉氏の悲劇性のうちかなりの部分に影響を与えている。 架空の人物だから何をやらしてもいいという発想からか、最後は石黒(黒野)運輸省航空局総務課長の贈収賄事件にまで発展させていく。 これでは黒野氏の名誉毀損のみならず、運輸省の名誉まで傷つけられてしまう。

最近、黒野氏と会ったが、本人が怒っているのはもちろん、「高尾さん、この問題で何か書くのであれば、私の実名で事実関係をはっきりと否定して下さい」と言われた。 企業や役所にとって贈収賄事件で社員や職員が逮捕されるのは社会的ダメージが大きい。  罪深い小説である。



 「あとがき」

 小説を読みながら、また関係者の取材を続けながら、記者はある思いにとらわれた。 小倉氏、伊藤氏、そして山崎氏に共通する特徴的な性格を見出したからだ。 それを一言で言うと被害妄想、誇大妄想という事である。

伊藤氏は明治維新の志士、江藤新平の末裔である。 伊藤氏は祖母から「国賊になったおじい様の汚名をそそぐのですよ」と言われながら育ったと、ある雑誌のインタビューで答えている。

伊藤氏は江藤新平に関する本はすべて読破したと言っている。 伊藤氏の経営手法が江藤新平の生き方に似ているのはそのためだろう。 江藤新平の生涯を描いた司馬遼太郎氏は小説「歳月」の中で江藤新平の人格を次のように描いている。 以下は薩長閥をいかに退治するかの議論のくだりである。

「佐賀がひとたちたちあがれば、薩摩の久光党も西郷党もたちあがるだろう。 土佐はむろん板垣の号令のもとにたちあがる。 その連合をもって長州を討つ。 長州をほろぼしてのち、残る薩を土佐と連合して討ち、薩がほろんでのち、土佐閥・佐賀閥はみずから解散し、政治を天下公のものとする」 薩長の者がきけば戦慄するような策謀である。

しかし、実際はどうであろう。 実際は薩摩の内情や西郷の性格、意中などは、江藤にはよくわからないし、また土佐が無邪気にたちあがるかどうかについても、江藤にはその現実が把握されていない。 現実把握という知恵については江藤の頭脳はまるで欠落していた。 そういう知恵がないというよりも、江藤の思考法を傾がせている僻が、現実把握の知恵や心のゆとりといった機能を圧迫して閉鎖させていたといったほうがいいであろう。 

自然、江藤の思考法から出る策は、きわめて図式的であった。 その策は色彩があざやかで描線がくっきりしており、要するに論理こそ明快すぎるほどに明快であったが、しかし、現実から致命的に遊離していた。 逆に言えばその遊離しているところが論理的明快さとなり、その明快さが江藤の信念を固めさせ、ひいては他を酔わせた。 さらには敵に対し、策士の印象をあたえた。

要は三人に共通するのは現実把握の能力の欠如であり、自分達の描く描線の鮮やかさに酔いしれている事である。 伊藤氏の日航が置かれた政治状況や社会状況、それに社内の人心掌握と理解の欠如。 小倉氏の見通しのなさとごまかしの人生、山崎氏の確信犯とも言える事実を捻じ曲げた創作、劇画とも言えるストリー展開など鮮やかな共通項がある。 しかし、それに酔わされた周囲の人たちや読者こそが人生や人生観を誤り、大変な迷惑を被っていることを三人は肝に銘ずべきだ。