陸軍
97式中戦車(チハ)には,砲塔前部に戦車砲,後部に車載機関銃がついています。
以前から疑問だったのですが,砲塔の後ろについている機関銃は実際役に立った事があったのでしょうか?(488:180)
確かに後ろは弱点で,そっちを守れるようになるのはいい事なんでしょうが,実際使えたものなのか疑問に思えましたもので。
チハタンスレで質問したのですが,どうもスレの雰囲気に合わなかったようで,初質に改めて投稿させていただきました。
よろしくお願いいたします。
あの砲塔後面の機銃は単独で使わず、必要な時に前に向けて車体前面の機銃と一緒に使う想定だったと何かで読んだ
チハに限らず旧軍戦車のほとんどは主砲同軸機銃がない上に、九七式車載重機関銃自体が軽機関銃であるZB26ベースだったため持続射撃力がなく(ベルト給弾でないし冷却も弱い)、
太平洋戦線でバズーカにすらボコられる原因となった
ないよりはるかにマシなわけで。
結局チハは同軸機銃積むにはいささか小さかったでFA
でも機銃は欲しかったんであのレイアウトになった。
もっとも、兵器単独としては使い勝手の悪い欠点だが、
こういう苦労を経て重量軽減したから量産に踏み切れたとも言える。
兵器の開発って単純じゃないよ、という好例。
チハタンでタイガーの正面装甲打ち抜くには何センチまで近寄ればいいですか?(487:722)
九七式57mm18.5口径戦車砲の装甲貫徹能力は100mで30mm
一方、VI号戦車の前面装甲は100mm
結論:砲口を押し当てて撃っても無理
ゼロ距離でも無理。大量の爆薬を積んで自爆すればなんとかなるかもしれない
フリマで連れが手に入れたお猪口について知りたいんですけど、本錫で出来ており、横に「朝鮮羅南?兵第七十三戦隊」らしき文字が旧字体でかいてあります。(485:578)
お猪口の中には、「記念」と彫ってあり、星のマークが入ってます。
多分なにかの戦争に関係するものなんだろうけど、買ったときは気づかなくて
うちに帰ってから私が見て気づいて、連れは捨てるってゆってます。
同じものが2個あります。1個50円でした。
捨てていいものか、しかるべきところやアンティークショップにやるべきか
ちょっとまよったので、捨てるのを一晩待ってもらって私が持ち帰りました。
この情報から何かわかりますか?
それかアンティーク板行ったほうがいいですか?
よろしくおねがいします。
そりゃ戦友会で作った記念品だろ。
ヤフオクで五千円くらい。
どうも、兵隊さんが除隊するときに周囲の人に配った兵隊盃といわれるものらしいです。
ttp://www.geocities.jp/yousan02/p2-1l.htm
朝鮮の羅南で編成された、歩兵第73連隊の関係者の物だと思いますよ。
ノモンハンの戦いにおいて、装甲の薄いBTやT-26の装甲を日本側の37mmや57mmでは打ち抜けたんでしょうか?(485:140)
37mmは射程が短すぎた上に徹甲弾の威力が足りなかった。
57mmはそもそも「対戦車能力」がほとんどない(事実上、口径57mmのグレネードランチャー
に過ぎない)。
ソビエト側の45mmに射程で負けてたことが致命的で、戦車戦では圧倒的に不利だった。
ちなみにチハの57mm砲の貫通力は500mで17mm。
37mmでも57mmでも有効射程内で当たれば何とか貫通できた。
でも、相手の45mm砲の有効射程は遥かに勝ってたので、勝負にならない。
なおチハの主砲の威力は1000mで12mmしかない。
陸軍中野学校の教官は軍人が多いのでしょうか?それとも一般の大学出身者が多いのでしょうか?(485:89)
っていうか、陸軍中野学校は軍人じゃないと入れない
でもって、その学生となった軍人も陸軍予備士官学校出が多かった
旧帝国陸軍では「建制崩し」を非常に嫌ったようですが(484:907)
旧帝国陸軍では、郷土連隊主義からくるセクショナリズムや
指揮系統を崩す事による攻勢移転が難しくなるという理由で
「建制崩し」を非常に嫌ったようですが
この後者の理由について質問させて下さい。
素人考えでは単純に指揮系統の確認を徹底さえすれば
大きな問題は起きないように思えるのですが
まず問題点となるのはどのような箇所なのでしょうか?
また大規模な軍隊における指揮系統の柔軟性は低かったのでしょうか?
もし低かったのであるならば郷土連隊主義を除いて
その主たる原因はなんでしょうか?
そしてその原因を取り除く手段として有効な手法
(若しくは旧陸軍が実際に採った手法)はどのようなものがあるのでしょうか?
質問事項が多くてすみませんが、宜しくお願いします。
たぶん、既に読んでるんじゃないかと思うんですが、佐々木春隆の
光人社NF文庫から出て来る中国戦線、連隊作戦主任物を読むとその疑問は氷解するはず。
結局、中隊長や大隊長の人柄、連隊とのこれまでのいきさつ、師団とのからみなどで
人が動くってのが大きいのではないかとおもいます。
建制というのは普段から相手を良く知り、何が得意で何を必要とするかを互いに通じ合う
枠組みでもあるので、いきなし知らない人がそこに放り込まれると困るのでしょう。
ことに戦場では自分や周りの者の命がかかっていますから、なおさらなのでしょう。
指揮の柔軟性については師団を最低限の物だけそろえて、戦局と作戦の必要に応じて
その他の能力を供給する仕組みを第二次世界大戦の米陸軍がとっていますが、実際には
特定の歩兵師団の特定の戦車大隊と戦車駆逐大隊という組み合わせが良くみられるそうです。
砲兵とかは軍団砲兵なんかがありますからそうとばかりは言えないんですが。この辺は
ネットの上でかなり詳しく日時まで追っているものがありますから、それをみると良いのでは
ないかと思います。
砲工学校と陸軍野戦砲兵学校の違いについて
陸軍砲工学校の学生は砲科、工兵科の少尉で、砲工兵各科の勤務に必要な学術を教授する学校となります。
但し、時には中、大尉クラスを学生とすることがあります。
普通科の修学期間は1年ですが、このうち、各兵科毎に3分の1以内を選抜し、更に在学期間1年の高等科に進ませ、
更に枢要な学術を修めさせる様になります。
また、高等科卒業者或は憲兵科を除く尉官中、技術将校に適任な者を選び、員外学生として必須な学科を研究させ
ています。
その修業期間は高等科卒業者の場合、3年3ヶ月、歩・騎・航空・輜重兵科尉官の場合は、5年3ヶ月が通常になります。
員外学生は砲工学校で約3ヶ月乃至2年3ヶ月修学の後、帝国大学に派遣し、学術を更に研鑽させます。
また、幾人かは海外駐在員として外国留学させることがあります。
一方の陸軍野戦砲兵学校は、学生に射撃、戦術、観測通信、馭法並びに照空などを教授して、之を各隊に普及し、且つ
これら諸学術の研究を行う学校です。
学生は5種あります。
甲種学生は、砲兵科大尉が資格者で、主に射撃と戦術を学び、期間は7ヶ月。
乙種学生は、砲兵科大、中尉が資格者で、主に射撃法を学び、期間は5ヶ月。
観測通信学生は、砲兵科中、少尉が資格者で、主に通信観測術を学び、期間は6ヶ月。
馭法学生は、砲兵科中、少尉が有資格者で、主に馬術と馭法を学び、期間は11ヶ月。
高射砲学生は、砲兵科中、少尉が有資格者で、主に高射法に関する学術を学び、期間は5ヶ月。
即ち、前者は高等研究機関で、ほぼ全兵科から学生を募り、技術の検討を行う場。
後者は、砲兵の専門教育機関で、砲兵がその技術を磨く為の場になります。
1941年の日本陸軍の将兵の給与について、二等兵6円、陸軍大将550円との資料があるのですが、1945年までこの給与額は常に一定だったのでしょうか(479:521)
俸給に関しては、少尉以上は終戦まで改定されていません。
しかし、下士官や兵に関しては戦時に5割以上の増俸になっています。
また、俸給とは別に戦地増俸と呼ばれる手当が支給されていましたが、これが
戦中に俸給相当額以上に引上げられています。
ですので、陸軍二等兵の俸給は(手元の資料では月額5円50銭となっている)
戦中には20円以上払われていました。
軍の俸給にはその他細々とした加俸や手当がありました。
(479:557:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
開戦前ならともかく、M4やらパンターやらT-34やら出てきた大戦中盤以降になっても、日本軍の戦車デザインに進歩が見られないように思うのですが、なんででしょうか? (480:452)
日本には「T-34ショック」は生じてないのでパンターのような方向性への進化は
起きようがない。
ドイツから情報は入っていたらしいが。
替わりに「M3スチュアートショック」「M4シャーマンショック」が発生し、それらは
一式砲戦車(とりあえず対戦車戦闘できる長砲身の砲載せろ)や三式中戦車(泥縄的に75mmカノン砲装備に改良)
三式砲戦車(砲塔廻んなくてもいいから三式中戦車の数が欲しい)となって結実してる。
これらはドイツで言うならIV号F2型や75mmL48装備の対戦車自走砲/駆逐戦車の位置にある
だろう。
そして、これらの上位機種として四式や五式といった重戦車が開発されていた。
この2種は戦前からの重戦車開発の流れと戦争での戦訓が合わさったものなので、ティーゲルに
相当する位置にある。
あと、「戦争で対峙したソビエトの戦車にショックを受け、急遽それまでの設計思想を捨てて改良した」
と言う位置には、ノモンハンでの「BTショック」を受けて開発された九七式改や一式戦車が
ある。
戦場では陸軍は食事はどうしてたんでしょうか?(482:373)
昨日、陸軍兵食レシピより陸軍スイトンを作って食べたのですが
とてもおいしかったです。
そこで質問なんですが、戦場では陸軍は食事はどうしてたんでしょうか?
各自、飯合を持っていてご飯は自分で炊くイメージですが
ご飯は自分で炊いて、オカズ、汁物は調理班が作って配ったのでしょうか?
海軍は船に厨房、コックがいるのはわかりますが
陸軍の食事事情がよくわかりません。
毎日米を配っていたんでしょうかね?
状況によって異なる。
ある程度の集団で炊事した場合もあれば、個々で炊飯した場合も。
米も大隊でまとめて運ぶ場合や兵士がきれいな靴下に1足につき1回分の米を入れて持ち歩く場合も。
おかずは個々人の炊さんの場合は、乾燥野菜(切干し大根など)と粉味噌で作った味噌汁とか、牛缶など。
兵個人が持つ携行口糧の定数は甲(麦入り精米870g)と乙(乾パン230g×3食分)を合わせて2日分、
副食として牛缶1個、干し肉または干し魚、乾燥野菜、調味料(粉味噌や粉醤油)。
実際は3日~5日分を持つこともあった。
蛇足
麦飯870gというのは「2合(米220g+麦70g)×3食分」で6合分の米麦
個人携帯用の牛缶は150g
携帯糧食6日分の内訳
精米 870g×3日分
麦飯にすると水分が多くなり腐りやすいので野戦では原則として米オンリーとのこと
乾麺麭 690g×1日分
圧搾口糧 690g×2日分
1食分は圧搾膨張玄米(54g×3包)+圧搾田麩(8g×3個)+圧搾梅干(4g×1個)+圧搾砂糖(8g×5個)
缶詰肉 150g×1日分
牛肉大和煮缶詰
乾燥肉 30g×6日分
携帯粉味噌 30g×6日分
今のインスタントみそ汁(焼麩1gとワカメ3g入り)
携帯砂糖 20g×6日分
砂糖をプレート状に固めたもの(4枚/日)
携帯食塩 5g×6日分
食塩を焼き固めてプレート状にしたもの
乾燥魚肉 90g×6日分
おそらく鰹節
味噌 75g×6日分
栄養食 45g×6日分
卵黄粉・粉乳・水飴にビタミンとバターを練り込み低温乾燥し表面を糖衣したもの
学研の歴史群像太平洋戦史シリーズ39「帝国陸軍戦場の衣食住」から引用
ちなみに、この「戦場の衣食住」は軍板住人必読の良書だと思う
旧日本軍が実用化したボディアーマーとはどの様なものだったのですか?(483:807)
餓死寸前の日本兵が三八式を引きずって山野を朦朧と歩いていますが、なんで小銃なんてめちゃ重いもの最初に捨てないんですか?(484:198)
紙1枚、ボタン1個でも捨てたいほど苦しかったと聞きます
どうせ弾薬も残ってないでしょうし
何かあるんですか?
装備は勝手に捨てちゃいけない。
こと日本軍においては小銃は菊の御紋がついた陛下からの預かりものであり捨てるものは許されなかった。
指揮官によっては遺棄した小銃を奪還するために突撃させたり。
陛下が下賜なされた装備を捨てるなんてとんでもない話です。
汚れがあったら上官に殴られた、なんてこともザラにある時代ですよ。
他の人が言っているように日本軍では装備を勝手に捨てる等の行為は重罪になる。
が、他の国でも厳しく罰せられることはあった。
また、武器を持っていない丸腰だと不安だった、と言う人も居る。
海軍
日本の伊勢級戦艦は完全に航空母艦に改装する場合、排水量や速力、搭載基数や武装はどうなる予定だったのでしょうか?(489a:711)
日本の伊勢級戦艦は史実では大戦途中、航空母艦へ改装する予定だったそうですが
完全に航空母艦に改装する場合、排水量や速力、搭載基数や武装はどうなる予定だったのでしょうか?
「丸スペシャル」等に掲載されている完成予想図を見る限りでは、スペック的には
隼鷹級空母と同程度になる予定だった。
軍施設や軍港近辺の住民に対しては、ある程度軍の行動や内情を知られることは止むを得ないとされていたのですか?(489a:279)
映画「太平洋の嵐」で、ミッドウェイに出撃していく空母機動部隊に対し、
「がんばれよー!」と漁船のおっちゃん達が旗を振って声援を送り、艦上の将兵もそれに応えるシーンがあったのですが、
軍施設や軍港近辺の住民に対しては、ある程度軍の行動や内情を知られることは止むを得ないとされていたのですか?
映画には脚本とか演出ってもんがあって、嘘をついてもいいことになってるんだ
基本的には秘密。軍施設に働くものには緘口令が敷かれているし
軍施設周辺だけ列車の窓のブラインドを閉めさせたりして隠すことも多い。
だが、艦の移動やら何やらで地元の人間はある程度は気付く。
あと、真珠湾の時は秘密が保たれていたが
ミッドウェイの時はかなり漏洩し、
多くの民間人がミッドウェイ作戦について事前に知っていたという。
そもそも海軍記念日に堂々と出撃すれば、旗くらいふるよ。
帝国海軍軍人は、陸軍と比べ、
衣食住の面で恵まれていたと聞きましたが、それはなぜですか?(489a:175)
辺境に遠征する陸軍師団に比べ、
少なくとも艦内にいればメシには困らなかったということでしょうか?
食事については海軍には専門の調理員が配置され、また配食も陸軍に比べて
豪華だったそうなので、そこからでしょう。
少なくとも艦内にいればメシには困らなかったということでしょうか?
それもある。海の真ん中では食糧を大量に得られないから(補給艦との邂逅は別)
必要数をきちんと艦内に積み込む。そのため、艦内にいるうちは飢える事は無い。
また、根拠地隊や陸航隊のような陸上基地でも、自前の船を持つ海軍では
陸軍よりも補給面で恵まれていた。
帝国海軍随一の幸運艦と呼ばれる不沈の駆逐艦「雪風」ですが、
他の艦船の乗組員は、雪風を「死神」と呼び、
その同行を嫌がったと聞きましたが、それはなぜですか?(487:754)
雪風だけ無事で、他の艦がズタボロになるのが連続したら、
無事な艦が疫病神に見えるから。
自分が沈まないだけで周りは沈む
もっとも国民に親しまれ、帝国海軍の象徴とされていた軍艦は?(487:351)
太平洋戦争当時、
戦艦大和の存在は国民には秘匿とされていたようですが、
では、もっとも国民に親しまれ、
帝国海軍の象徴とされていた軍艦はどの艦だったのでしょうか?
「長門」と「陸奥」です
正確に言うと一号艦(大和の仮称)という長門型を超える大型戦艦の存在は一般にも知られていた。
伏せられていたのは名称や詳細な性能等だが、これも呉などの海軍と密接な関係にある都市の住民には公然の秘密だった。
ワシントン条約によって長らく戦艦の新造が無かったために
日本最強の戦艦として長く留まった「長門」と「陸奥」が国民に親しまれ
海軍の象徴となっていた。
戦前だと海軍兵学校卒と東京帝大卒どっちが立場上だったの?(485:196)
田舎だと東京に行くだけで近所の人が集まって万歳三唱したそうですが
どっちが尊敬されてたのかな
海軍兵学校は、現在の大学相当、旧帝大は大学院相当。
そもそも大学と兵学校は目的も管轄も別物なんだから比べようがない。
ただ、その入学難度から一高、帝大に匹敵するとか
陸士海兵は貧乏人の帝大とかはよく言われていた。
旧日本海軍には何歳から入ることができたのでしょうか?(480:128)
年齢の下限を教えてください。
時期によって異なるけど、大戦末期だと、海軍特別少年兵(通称「特年兵」)の満14歳が最年少
開戦時は16歳が志願兵の最低年齢だったからね
終戦で実現しなかったが、徴兵年齢の引き下げも計画されている
大戦中の日本の軍艦を良く見ると、艦橋の窓などは、ガラスがはまってたりはまってなかったりします。
あれはどういう仕組みなんですか?(481:338)
1、アタッチメントのようにガラス丸ごと外す
2、跳ね上げ(もしくは跳ね下げ)るように、バタンと内側に折りたたむ
3、上(か下)方向にスライドさせられる
どういう仕組みなんですかねぇ・・・・
はずして、窓の下に置いてます。
戦闘時に割れて、内部に飛び散ると危険なため、
戦闘が予想される前に、艦橋勤務の下士官兵がはずし、
該当の窓の下の部分に立てかけておいておきます。
日露戦争以前に既に海軍は「大和」という軍艦を保有していたのですか?(482:275)
軍歌『日本海軍』の五番、
「大和」魂一筋に 国に心を「筑波」山
「千歳」に残す芳名は 「吉野」の花もよそならず
とありますが、同曲は日露戦争以前に作られたとありますが、
既に海軍は「大和」という軍艦を保有していたのですか?
1887年に葛城級2番艦のスループとして、就役しています。
有名な戦艦大和は、同名の軍艦としては2代目に当たります。
初代軍艦大和(巡洋艦)は、明治20年11月6日に竣工しています。
その後、海防艦、ついで特務艦(測量艦)に変更され、昭和10年4月1日に除籍。
長らく港に係留されていましたが、昭和20年9月18日、嵐のために沈没しています。
「大和」(建造時の正式名称は「大和艦」)
3檣汽帆兼用鉄骨木皮スループ、排水量1480トン、速力13ノット
17センチ砲2門、12センチ砲5門
明治16年2月23日 起工
明治18年5月1日 進水
明治20年11月6日 竣工
明治31年3月21日 三等海防艦に類別
大正元年8月28日 二等海防艦に類別
大正11年4月1日 特務艦(測量艦)に類別(日本海にある「大和堆」は測量艦大和が発見したもの)
昭和10年4月1日 除籍、司法省に譲渡され浦賀港内に係留され少年刑務所の宿泊船として使用
昭和20年9月18日 台風のため横浜港内で沈没(昭和25年解体)
太平洋戦争中の日本海軍の常備食はおにぎりですか?(482:379)
戦闘時でなければ普通の食事が出る。
土曜カレー(現代は金曜になったが)や肉じゃがなどが有名。
戦闘時の配食は牛缶を混ぜこんだおにぎりが多い。
銀シャリ握り飯なのは戦闘直前か戦闘の真っ最中な
戦闘応急配食には状況の応じて第1種から第5種まであるが、第1種から第4種までは
240gの白米から2,3個の握り飯を作り、1食分として配食する。
第5種は乾パン、缶詰、水を容器に入れ各所に置いておく。
大和型の存在は秘匿されていた、という定説は、実際のところどうだったんでしょうか?(483:395)
太平洋戦争において、大和型の存在は秘匿されていたので、一般の国民はその存在を戦後数年経てから初めて知った。
というのほぼ定説になっていると私は思っていたのですが、実際のところどうだったんでしょうか?
確かに軍人や工廠で働く人間等、知り得る立場にある人間はいたのでしょうが、
非常に厳重な緘口令がしかれていた(宣誓等)んですよね?
工員とかには当然、緘口令が布かれてた。
呉とか地元の住人は「なんだか凄い新鋭艦があるぞ」位の認識はあった。
建造中、ドッグ付近を通る電車の窓を閉めさせられたとかあったし。
それ以外の地域は恐らく君の予想通りだ。
仰る通りです。
戦時中の日本の戦艦は長門と陸奥の二枚看板でした。
大和は№A-140F5、1号艦と呼ばれていた頃からその存在は極秘とされ、
関係者以外にその存在を知られる事なき様、予算まで偽装して通したほどでした。
しかし長門を超える戦艦があるという噂は広まっていたようで、
特に関西方面、瀬戸内海周辺の住民には
とんでもなく大きな戦艦をみたがなんだったのか
と書き残してる人も存在します。
航空隊
彗星を雷撃機に転用する動きが無かったのは何故でしょうか?(489a:435)
急降下爆撃機として開発したため雷撃機としては考えてなかったため。
爆弾倉に魚雷が入らず、さりとて流星みたいに吊り下げる事も
胴体下のクリアランスの問題からできないってのが詳細な説明。
雷撃ができないような設計にする事で急降下爆撃機としての性能を高めていた
とも言える。
彗星に雷撃性能が無かったわけではないと思います。
ただ、 金星積んだ三三型で、マックスの搭載重量が750kg、
(胴体下はマックス500kg)
はたして、800kgの魚雷積んで空母から離陸出来たかどうか。
452氏も指摘しておられるように、中翼の彗星では(流星は逆ガル)
雷装はきびしいものがあるかもしれませんね。
以前、海軍の試作機「震電」が銀色の塗装で飛んでいる様子を
正面から描いたような絵が本が出たと思うのですが
題名が思い出せません。(488:47)
塗装が格好良かったのでもう一度見てみたいのです。
ご存知の方教えてください。
学研の陸海軍試作戦闘機て言う本じゃないかと
日本飛行機の無線機の性能が劣っていたのは、有名ですが
実際はどれくらい役に立たなかったのか、または立ったのかを示す事例はないでしょうか?(488:913)
また全く使えないとするなら、その原因(特にハイテクとは思えないし)や
いつまでも装備し続けた理由などご存知の方いないでしょうか?
もう無線機なんて重たくなるだけだから積まなかった。
原因は日本の基礎工業力が低くてまともな無線を作れなかったからだが、
終戦後に単にアースの取り方が間違っていたのも大きな原因だと判明した。
初めから積まない事があるといっても部隊の装備品なので勝手に廃棄するのは厳禁ね。
アースの取り方が不味かったため、エンジンの回転を上げると
ノイズで通話が不能になった。
そのため一部の乗員は役立たずの通信機を下ろして出撃することもあった。
不調の無線機を地上で試験するとちゃんと使えたりして首を捻っていたのだが
後にコードの絶縁やノイズに対する対策が甘かった事が判明した。
地上との無線交信は機体同士の空中電話より大分マシだったとか。
邪魔だっつってアンテナをちょん切ったりしてたそうな。
しかし、343海軍航空隊では、改良された無線電話を活用したロッテ戦を
行っていたという話も。
ずんぐりむっくりでデブな雷電って対戦闘機戦闘とか苦手だったの?(488:32)
それなりにいけそうな気もするんだけど
何で苦手だって思うの?
一撃離脱型の戦闘機だから格闘戦は苦手だけどさ
渡辺洋二の「雷電」(文春文庫)を薦める
「対戦闘機に不向き」を性能と実戦結果の両面からいやというほど実証している
帝国陸海軍の航空機による特攻隊には、援護機は付いていたのでしょうか?(479:447)
もしいたとしたら、作戦を放棄して逃げ出す者を監視する意味合いが強かったのでしょうか?
余裕があれば掩護は付ける。
敵の迎撃戦闘機を追い払って、特攻隊本隊の攻撃の成功率を上げることが最大の目的で、戦果確認が副次的な目的。
逃亡しようにも、逃げるところなんてどこにもないので、わざわざ監視を付ける意味なんて無いよ。
特攻隊は別に懲罰目的で指名されたわけじゃないんだし。
旧日本軍機で一番巨大だったのは何ですか?(479:566)
二式大型飛行艇あたりですか?
九二式重爆撃機。
ttp://military.sakura.ne.jp/ac/ki20.htm
ちなみに、サイズだけならB-29よりも大きかった。
旧軍(日本)の戦闘機は 異なる口径の機銃を搭載していますが、どう使い分けるのですか?(482:51)
またそれは同一口径の米軍などと比べ
どちらが有利なのですか?
零戦の場合だと、7.7mmであたりをつけて、20mmでトドメとかよく言われる。
実際、20mmは搭載弾数が少ないので、7.7mmを多用してたみたい。
ゼロはドーントレスとかだと後部射手をやっつけて7.7mmのみでゆっくり退治とかよくやる手だったそうだね。
ひどくうろ覚えで、正確には該当書籍を当たって欲しいが、
大空のサムライなんかだと、
「20mmは初速が遅いからションベンみたいに垂れて当たらない。
7.7mmの方が当てやすい。
米軍のハーモニカみたいに小口径並べてあるのは理にかなってる」
みたいな事書いてあった希ガス。