イラク戦争でイラク軍はコテンパンにやられたんでしょうか?
それとも大した抵抗もしないうちに蜘蛛の子を散らすように逃げたんですか?
まずイラク軍といいますが、陸空海に共和国防衛隊、共和国特別防衛隊、フェダイーン=サダム、バース党民兵
など様々な組織に別かれています。独裁国家として命令系統はフセインとその親族、腹心が一手に握る形だったと
されており、横の調整には欠けていたとされています。
湾岸戦争後は装備の更新どころか充足もままならず極めて苦しい状況にあり、かつ、主敵は米国ではなく、
国内の反乱鎮圧とイランでした。
イラクの共和国防衛隊については2003年の4月頭にカルヴァラ北方でユーフラテス河に架かる橋梁(objective peach)
を米軍の先鋒が占領したその晩、旅団規模の機甲部隊で反撃した事例が知られています。装備の優劣はいかんとも
しがたく、橋梁の先で守っていた大隊か中隊に撃退されてしまっていますが。
また、どの組織がしたとははっきりしないがおそらくバース党民兵はウムカスル、ナシリヤで激烈な抵抗を
みせています。ウムカスルについてはイラクの港湾都市であり当初予定されていた人道支援物資の運び入れなどの
関係で何度か占領したと宣言してはまた戦闘がぶり返すという状況でした。
ナシリヤについては米海兵隊と激しい戦闘が続き、この最中、A-10がAAV7を誤射していたりしますね。
このほか、カルバラ市街を通過しようとした第三歩兵師団の1個旅団が予想外の抵抗に遭遇しバグダッド外縁への
進出が遅れたりなどもしています。
イラクにおいて治安維持が上手くいかないのは米側の兵力不足が原因なんでしょうか?
フセインが湾岸戦争のとき、クウェイトはもともとイラクの一部と主張したことで
分かるように、オスマン帝国の領土解体の仕方を列強が間違ったから。
クルド人の地域をトルコ、イラン、イラクと分割しちゃったり、19世紀にイラク南部あたりの
アラブ人がシーア派へ改宗してたのを無視しちゃったり、だけど石油の取れるクウェート
あたりは首長をつれてきて君主に据えたりといろいろやった。
つまり、フセインは国際社会での立ち回りはへぼの連続というか、向こう見ずすぎたが
国内統治については冷徹、冷厳、冷酷であり、バース党一党支配体制に部族統治、宗教統治を
盛り込んで権力構造の変遷に対応するなど苦労して統一を保っていた。
そして、イラクでは国連の経済制裁、米英軍による航空作戦により国内は疲弊し、占領を
理性的に受けれてチャンスとみ、活用しようとする社会階層で、かつ、米国にとって
戦争の果実を渡すに足るとみなせる者が失われていた(米国はシーア派宗教指導者なんて
腹の底では嫌い)。
んで、イランもシリアもヨルダンもサウジアラビアもトルコもそれぞれイラクの現況をみて
いろいろ容喙してくるわけです。