なんでアメリカって太平洋戦争で東京じゃなくて先に沖縄に上陸したの?
一気に東京に上陸して制圧したほうが早くない?(489a:185)
「飛び石作戦」って戦術だったから
おいら的には中国から佐渡、新潟辺りに上陸するのがもっとも賢明な作戦だったと思うけどなぁ
いきなり首都に上陸しようとしても抵抗に遭ってこちらの損害が無駄に大きくなる。
そのため、別の場所に事前に上陸して、そちらに戦力を割かせるとか
占領した所から本命の作戦の支援基地を作るとか段階を踏まなきゃならない。
具体的には
湘南海岸や九十九里浜とかに上陸する作戦計画、コロネット作戦
が立案され、それに先立ち、九州南部に上陸するオリンピック作戦が立案された。
オリンピック作戦は、上陸占領後航空基地を作ってコロネット作戦をサポートする為の意味があった。
が、その前に原爆投下と日本の降伏があったんで実行されなかった。
いずれにせよ、無償の工業地帯からダイレクトに送られてくる日本機の大群と
戦わなくてはいけない。そのうえ、米軍は陸上部隊上陸後なら
その背後の工業地帯を叩くゆとりも無い。基地、港湾、飛行場、部隊攻撃で手一杯。
徹底的に大量動員、集中運用、効率化しても、
よくいって、史実程度のペースで爆撃ができれば恩の字。
損害は、沖縄+レイテ+硫黄島をはるかに超すだろうね。
南太平洋海戦の数日前に飛鷹がエンジントラブルで海戦には不参加となりましたが、
このとき移乗された戦闘機、爆撃機はどのくらいですか?(489a:178)
南太平洋海戦について質問です。
数日前に飛鷹がエンジントラブルで海戦には不参加となりましたが、
搭載機の一部を隼鷹に移乗させたとされています。
このとき移乗されたのは雷撃機7は分かりますが、
ほかの戦闘機、爆撃機はどのくらいですか?
また、移乗されず飛鷹に残った機数はどのくらいですか?
戦史叢書「南東方面海軍作戦<2>ガ島撤収まで」によれば
10月22日、飛鷹はトラック帰投に際し零戦16・艦爆17を陸揚げして基地航空部隊の指揮下に入れ、零戦3・艦爆1・艦攻5を隼鷹に移載した。
搭載飛行機数は不明であるが、10月1日現在の搭載機定数(隼鷹)は、零戦21・艦爆18・艦攻9であった。
10月17日のルンガ泊地攻撃で隼鷹の艦攻は自爆7・不時着2の損害を出している。
日中戦争~太平洋戦争において、中国軍にエースパイロットが居たんだったら、その戦果を教えてください。(489a:104)
高志航とかが有名。詳しくは中国的天空を読むとごろごろってほどでないけど結構出て来る。
相手は日本海軍の96中攻とか、下駄履きとか、そして最後に零戦がやってくるって感じです。
柳哲生大佐
→ 11機と3分の1 1937年8月14日に、96中攻1機を2機と協力して撃墜したのが最初。
以後、劉粋剛、高志航亡き後の戦闘機隊の中核として、重慶、成都、蘭州の迎撃
戦で9機を確実に撃墜。残りは共同撃墜。
戦後は台湾に移住し将軍となる。
劉粋剛大尉
→ 確実11機、不確実2機
1937年8月21日の吉田小隊の96中攻1機を撃墜したのが初戦果で、此の後、吉田小隊
を共同で全滅させている。南京防空戦では、96艦爆を1機撃墜するなど「空の趙雲子龍」
と呼ばれたが、10月中旬、洛陽に向けて飛行中、夜間となり、爆音を聞いて連絡機と錯覚
した高平県城の町長が、目印にと火を掲げた所、これを飛行場と錯覚して突入、戦死。
王光復中尉
→ 8機と2分の1機。
1937年に4機撃墜、太平洋戦争中は、桂林、恩施、老河口などでP-40Eを駆り、隼を1機
(25戦隊の大元軍曹か二宮伍長)などを撃墜。また、地上攻撃の破壊も多数。
董明徳大佐
→ 7機(実際は11機と言われる)。
1937年8月15日に加賀の89式艦攻を2機撃墜したのが最初。
6日後には毛利空曹の96中攻を撃墜、漢口で96艦戦を1機、重慶では96中攻を少なくとも
1機撃墜。
1939年秋、輸入したCW-21の事故で現役引退し、戦後台湾に移住。
周志開中佐
→ 6機。1939年12月22日に97重爆を1機撃墜、1942年にP-40で偵察機を1機撃墜。
1943年6月6日、90戦隊の赤沼小隊99双軽の迎撃で館野機を撃墜などP-40初のエース。
12月24日に日本機に撃墜。
高志航大佐
→ 5機。1937年8月14日に96中攻を1機撃墜。15日に加賀の89艦攻1機、この攻撃で負傷するも、
復活し、初日に水偵1機撃墜など。11月23日にI16の故障で被爆し、死亡。
後、ひとり居ますが、戦果的に?です。
(489a:128:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
東京大空襲では米軍はわざと住宅地を焼いたのでしょうか。(489a:16)
陸軍省とかを爆撃すればいいと思うのですが
当時はそういうピンポイント爆撃がうまくできなかったんだよ
だから低高度から「まんべんなく焼く」ことにしたんだ
昼間高高度精密爆撃が上手くいかず
相手国の一般住民を殺傷したり、生活基盤を破壊することによって
直接ダメージや士気減退効果を与える方針に変わってますので。
わざとです。
正確に爆撃できない以上、その方が効果が高いと信じられるようになったからです。
一般市民を攻撃する事で工業力へだけでなく精神的な効果も期待していました。
結果としては人道面でリスクを犯す割に、費用や兵士の犠牲に対し効果は差が無い
と戦後の調査で結論付けられています。
一応、住宅地の中にある軍需工場を狙ったというのが建前
たしかに、東京の下町には小さな工場(こうば)が今も住宅地の中に点在してる
戦艦大和の最後について質問です。魚雷を左舷に受け続けたのですが、
米軍は武蔵戦でのデータからそのような方法を考え出したのでしょうか?(488:821)
イロイロ書物を漁ると、狙ってやった説と
意図せずそうなったと書いてあるものがあるのですが
どちらもあるということは、推測の域を出ないことでしょうか?
歴史群像2007年8月号の「戦艦大和を撃沈せよ」の40ページの記述では
武蔵の撃沈データから、大和攻撃時の雷撃は片舷に集中すべき との
結論を導き出した、となっている。
しかし実際の攻撃については、48ページに大和被弾状況報告についての日米の相違記載があるが
大和攻撃時に アメリカ側の記録は両舷に満遍なく魚雷を命中させたことになっているが
日本側の記録では左舷に命中魚雷が集中していることになっている。
おそらくは、どの記録を主とするかで評価が変わっているのでは
どうして大鳳はマリアナで中継基地としての使われ方をしなかったんですか? (487:451)
単艦で前に出しても、効果的な数の効果的な数の攻撃隊を出せないし、袋叩きにされるだけたから。
レイテのシブヤン海海空戦で大和はほぼ無傷、武蔵は満身創痍の損傷を受けましたが
どうしてああも、損害に差があったんでしょうか?(487:264)
旗艦のため、輪形陣の中央にいた大和よりも外側にいた武蔵のほうが
攻撃し易かったから。
太平洋戦争末期の米軍機による民間人の殺傷や家屋の破壊になにかメリットはあったのですか?(487:109)
太平洋戦争末期などで、
米軍機が逃げ惑う日本国民や家屋に空から機銃掃射していたガンカメラ映像を見たことがありますが、
民間人の殺傷や家屋の破壊になにかメリットはあったのですか?
エリア88の主人公が、
「人間一人殺すのに20ミリ弾ばら撒いてちゃ採算が合わん」
と、言っていましたが、このように弾丸の無駄遣いではないですか?
当時の日本は家内手工業制、工場で軍需品を生産する他に
国民の各家庭で内職みたいに生産を行なったりもしていた。
空襲などで一般家屋が爆撃対象になったのも、それに関連する。
(総力戦では相手国民攻撃して国力奪わないと終わらないっていうのも理由にあったけど)
また、航空機からだとよっぽど地上に近づかないと、
地上にいる人間が、一般人なんだか兵士なんだか見分けが付かない。
兵士だったら殺しておこう、みたいな認識で掃射していたようで
セーラー服着てた女学生が、水兵と誤認されて撃たれたらしい記録もあったりする。
接近してきたパイロットと目が合い、撃たれると思ったら、パイロットは「あっ」という顔をして、
機銃を撃たず上空へ去っていったという話もある。
もっとも一部米軍パイロットの中には人種差別感情から
一般人だろうと子供だろうと、兵士と区別することなくというか、どっちだろうと
構わないみたいな認識で機銃掃射していた者もいるらしく、そちらは
コクピットから笑いながら掃射しているのが見えた、という話もある。
「東京の草」という遊び? はあったそうです。
脚を出して原っぱで草を引っ掛けて帰るという。
低空を低速で脚まで出して撃墜もされないんですから、戦闘機の
本来の相手である日本軍機というものがいないわけで。
戦闘意欲をもて余すところはあった模様。それで子供を殺してい
たことはスルーしてますが。
個人経営の傭兵にとっての20ミリ弾と、補給に問題の無い正規軍の
12.7ミリでは「採算」の定義も違いますし。機銃弾はともかく、昔は搭
載兵器の爆弾を使わずに帰ってきても着陸時には事故を避けるため
に捨ててました。
当時の日本は家内手工業制、工場で軍需品を生産する他に
国民の各家庭で内職みたいに生産を行なったりもしていた。
空襲などで一般家屋が爆撃対象になったのも、それに関連する。
ルメイなんかはそう言ってるが、実際には住宅地帯と工場地帯は分かれていた。
少なくとも名古屋等の大都市ではそうだった。
各家庭に旋盤等が有って軍需生産していたわけじゃない(どこまで含めるかにもよるが)。
これらの理由は後付けされたものであって、本当のところは単純に一般市民を殺すことによって
戦力や士気の減退を狙ったもの。
魚雷艇の場合、雷撃距離はどのくらいなのでしょうか?(486:805)
魚雷攻撃について質問なのですが、大戦中の雷撃機による魚雷攻撃では
パイロットの手記を読むと敵艦船から4~500m前後まで肉薄し、対空砲火に蜂の巣覚悟で突っ込んだりしていますが、
これが魚雷艇の場合、雷撃距離はどうなのでしょうか?
いくら魚雷艇が小型で素早いと言っても航空機と比べると大きくて遅く(時速70~80km程度)、闇夜や
荒天に紛れて行動しても自ずと限界があると思われるのですが…。
海自が、既にミサイル全盛となった1990年頃まで使っていた魚雷艇の攻撃方法も気になります。
大戦中の魚雷艇に関して言えば、「雷撃距離」の規定はないでしょう。
そもそも魚雷艇でまともに大型艦艇と戦闘することは、どこの国でも想定していないはずです。
機動艇(=哨戒任務)にいざという時のために魚雷を載っけておこう、ぐらいの感じでしょうから
島陰に隠れたり、(無防備な)港湾に侵入したりしてゲリラ的に使用するとか
相手が極端に弱っていたり、無防備だったり、もしくは特攻的な任務などの場合で使われていますが
いずれも特殊な例でしょう。
レイテ海戦のスリガオ海峡海戦では海峡に侵入してきた西村艦隊に向けて、まず魚雷艇部隊が雷撃をかけている。
しかしこれは夜間と、回避運動がとりにくい海峡だから行われた攻撃で、結局損害を出しただけで艦隊に損害を与えられずに終わった。
沖縄湾に展開していた米軍艦艇を狙って、多数の潜水艦で飽和攻撃をするということはできなかったんでしょうか?(486:710)
あの、厨な質問かもしれませんが沖縄戦では多数の米軍艦艇が沖縄湾に展開していた
わけですからそれを狙って、多数の潜水艦で遠距離から酸素魚雷で飽和攻撃をすると
いうことはできなかったんでしょうか?勿論、特攻機の攻撃中のドサクサの隙をぬってですが。
沖縄戦の頃に、多数の潜水艦を突入させるような力は、日本海軍には残ってないです
一応、沖縄戦にも、残存潜水艦隊が投入されてはいますが、戦果らしい戦果もなく、大部分を失っていたり
沖縄戦の頃になると日本の潜水艦は米軍の対潜部隊のただのカモ。
当然相手も厳重に警戒してるので、近づけません。
近いことは考えていたらしいです。日本の例だと沖縄ではなくて
フィリピンなんですが、特殊潜航艇を集団で使って島嶼海を通る船団を攻撃したというのが
あります。
また、近い例としてドイツもノルマンディーというか北フランスに連合軍が上陸してきそうなので
特殊潜航艇を配備していました。
ノルマンディ上陸の時、何百隻もいたUボートでさえほとんど何もできてないですから。
当然アメリカだって警戒しているわけで、そうしたある程度警戒された状況では
浮上すれば航空機、潜航しても潜望鏡でさえレーダーで探知される状況で
近づくことさえほとんどできませんでした。
東京大空襲では、B-29が発砲してこないのを見て日本側の攻撃機のパイロットは
「敵は非武装だ」という風に連絡をしたりしなかったんでしょうか?(486:524)
東京大空襲では、B-29は爆弾搭載量を増やす為に全ての機銃を降ろしたそうですが
この日の日本側の攻撃機のパイロットはB-29が発砲してこないのを見て
「敵は非武装だ!温存してある機も出せ!」という風に連絡をしたりしなかったんでしょうか?
当日は強風で、レーダーが使い物にならず月島に火の手が上がった段階で空襲警報がやっと出たそうです。
そのため初期対応が遅かったため、離陸した戦闘機が、火の手と合わせた強風でろくに迎撃戦闘できなかったとの事。
さらにいうと夜間戦闘になれたベテランの数が少なく、有効な誘導が出来なかったので、気が付いたとしても
増援を出す頃には、爆撃が終わって帰った後でしょう。
全てを降ろしたわけではなく、尾部銃は残っている
また、大本営は本土決戦に備えて戦闘機の温存策を取っており、出撃数がごく少ない
また出撃したパイロットの手記を読むと一人で多数機を相手にしているわけだから、B-29側の火網が前より減ったと
気付く余裕もなかったようだ
しかも硫黄島陥落後はブラックウイドーなどの夜間戦闘機が護衛についたりしてる
WW2のスキップボミングについて教えてください(486:396)
ググッてみたのですが諸説あるようです。
ビスマルク海海戦で初めて日本の輸送船に大規模に使われた、までは共通ですが
1)ビスマルク海海戦以後、米軍の(日本のソフトスキン)への標準的攻撃法になり
大量の船腹が沈められた
2)ビスマルク海海戦は特殊な例で、危険な攻撃法であったため、以後組織的には行われなくなった。
3)米海軍、もしくは単発機は行わなかったが、米陸軍のB25による攻撃でよく使われた
どれが本当なのでしょうか?
2)が一番近いと思います。
ビスマルク海海戦(日本側で言う「ダンピールの惨劇」)以降スキップボミングは
攻撃法としてあまり用いられていないようです。
その理由は明確ではないのですが、おそらくスキップボミング自体が変則的な
攻撃法であったため、これ以降大規模に用いる必要がなくなったのではないかと。
また、考案者であるウィリアム・ベン少佐が1943年1月に事故死したのも
関係あるかもしれません。
(486:411:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
敵機動部隊を攻撃に向かう攻撃隊と護衛戦闘機隊が、その途上、まさに自分達の母艦を攻撃に向かう敵攻撃隊とすれ違う場面で戦闘機隊が編隊を離脱して引き返し、敵攻撃隊を排除、一方攻撃隊は援護なしで敵艦隊攻撃を強行し、ほぼ壊滅してしまったのですが、これは指揮官の判断として正しかったのでしょうか?(485:906)
昔の太平洋戦争題材の映画で、
敵機動部隊を攻撃に向かう攻撃隊と護衛戦闘機隊が、
その途上、まさに自分達の母艦を攻撃に向かう敵攻撃隊とすれ違う場面がありました。
その映画では、我が家が丸焼けになっては元も子もないと戦闘機隊が編隊を離脱して引き返し、
敵攻撃隊を排除、一方攻撃隊は援護なしで敵艦隊攻撃を強行し、ほぼ壊滅してしまったのですが、
これは指揮官の判断として正しかったのでしょうか?
もっと良い選択肢があるようにも思えるのですが。
結果次第。
敵艦隊に大損害を与えたのであれば、母艦は無事で敵は大損害だからひとまずOK。
ただし「攻撃隊」が貴重な場合は考慮の余地あり。
護衛戦闘機が同行していれば敵艦隊に大損害を与えられたのに、戦闘機隊が引き返した結果として
敵艦隊に損害を与えられなかったのであれば、その判断は誤り。
どっちみち攻撃機隊は大損害を受け、しかも敵には大した損害を与えられなかったのであれば、
母艦だけでも守ったのは正解だが、それをいうなら最初から出掛けなければ良かった。
要するに「もっとも良い選択肢」など後知恵で主張するだけの物であり、明瞭な誤りでない限り、
本当に正しかったか、何がベストだったかは誰にも分からない。
母艦に直援の護衛機がいるならそのまま攻撃すべき。
母艦が攻撃されるなんて想定内のはずだが。
他の方の言うとおり状況次第だが、あえていえば
空母の護衛は直衛部隊の仕事。
攻撃隊の護衛戦闘機は攻撃隊を守るのが仕事なのだから、勝手に離れるのは任務放棄とみなされかねない。
すれ違う状況では空母(経由で直衛部隊)に敵進路の連絡を入れ、直衛部隊に任せるのがすじ。
硫黄島がアメリカ軍に占領された後に日本軍の航空隊が硫黄島を攻撃するような作戦計画は無かったのですか?(484:799)
wikiの「硫黄島の戦い」の項目に
硫黄島経由でしばしば日本軍航空隊がサイパンのB-29の基地を攻撃した、との記述がありますが
硫黄島がアメリカ軍に占領された後に
日本軍の航空隊が硫黄島を攻撃するような作戦計画は無かったのですか?
航空隊は沖縄攻撃と本土防空で手一杯で
そんな余裕は無いとは思いますが…
計画だけならいっぱいあった
でも実行する戦力を特攻に回してしまった
渡辺洋二の本を読むといい
文春文庫に入っていたをじゃまいか
太平洋戦争直前、日米交渉が成立すれば南雲機動艦隊は何もせず戻ってくる事になっていますが、その場合、フィリピン、英マレー半島、蘭インドネシアに対する攻撃も停止する事になっていたのでしょうか? (484:794)
建前ではそうなっていた。
しかし実際には成立した場合にどうするかの詳細な行動指針は
何も与えられていなかったことが、当時の輸送船の船長の手記などに見られる。
だから万一交渉が成立した場合でも
武力衝突が一部に発生しただろうことは想像に難くない。
というかもう成立はないだろうという諦めムードが一般的だったし。
現在のサイパン島も森林に踏み込むと普通にごろごろしてるんですか?(484:283)
樹海に分け入ると白骨がごろごろという話を耳にしますが
現在のサイパン島も森林に踏み込むと普通にごろごろしてるんですか?
それが恐くてああいう島(サイパン島に限らず)に行くことができないんです
多いところでは千単位で玉砕してるじゃないですか
旅行会社のチラシででっかく「サイパン」とか書かれているのですが
それを見るとすぐ万歳突撃、玉砕、白骨ごろごろと連想してしまうので
今までずーっと恐かった(484:290)
白骨がごろごろしているかどうかは面積と、そこで死んだ人間の数
の比率で計算すればわかる事。
実際のところ、土や草木に埋まって隠れてるし、どこで死んだかも
正確な場所がわからないことが多く、
遺骨の捜索や発掘(して、日本に持ち帰る)している団体は
未だに全部の遺骨を探しきれず、大部分は不明、日本に未帰還のまま。
つまり、ゴロゴロ見つかるようなものではない。
実際行ったけど、見えるところに白骨なんて一度も見なかったよ。
冷静に考えれば、目に見えるところにあれば撤去するなり回収するなりする。
インパールみたいに、その土地の政府が大規模な遺骨回収を拒否したり、未開の地だったりするわけではないので。
沖縄戦では、10万人以上が、本当南部の狭い地域で亡くなっている。
たしかに戦後の一時期は、白骨ごろごろだったらしいが、さすがに目に付くところのものは、早いうちに回収して埋葬されてる。
今でも、山の中や壕の中を掘ると、石や砂に混じって、小指の先くらいに小さく砕けた遺骨が見つかることがあるけど、大柄の骨はまずない。
あるいは、簡単に見当たるような場所には無い。
樹海のことなのかサイパンなのか
樹海では白骨は見なかったが腐敗した首吊り死体を一日でニ体見つけたことがある
サイパンでは15年ほども前だが、現地の人の案内で道路脇の林に入り、人の大腿骨の一部かも知れない白骨を見た
日本側には連絡済みだが反応がなく、勝手に処分もできずに困っているとの話だった
ミッドウエーで赤城、加賀、蒼龍の甲板や格納庫に魚雷や爆弾が満載してなかったら、数発程度の500kg爆弾には充分に耐えられたんでしょうか? (484:232)
ミッドウエーで赤城、加賀、蒼龍は米軍の急降下爆撃を受けた際、甲板や格納庫に
完全武装の艦載機や魚雷や爆弾が満載してあった為に、それらが誘爆して沈没の
原因になってしまったと言われていますが、もし満載してなかったら、数発程度の
500kg爆弾には充分に耐えられたんでしょうか?
耐えられたかもしれないけど、航空用燃料タンクに引火したら分からないね。
艦自体は、耐えられたかもしれないが、甲板に穴を空けられた時点で戦力外です。
そのときの米軍は延期信管を使った爆弾を使用していましたので、どちらにしろ、
甲板に大穴を明け、格納庫内の爆発で、整備員、各種機材に損害を与えるので、
戦闘継続は困難です。
戦時中、外地の捕虜を日本へ海上輸送すると嘘の電文を流したりして、潜水艦に輸送船団の攻撃を躊躇わせたりすることはできなかったんでしょうか? (482:905)
日本本土空襲で日本本土に不時着したアメリカ軍のパイロットを救出する為に救援機の支援あるいは、パイロットが徒歩で海岸線に出れば、救出の為の潜水艦が常時いる救出地点があったんでしょうか? (482:295)
うる覚えだが、海岸から4kmぐらいのところまで米の潜水艦が来ていた
また、空にはSB17がボートを抱いて待機してたりする
浜松湖で撃墜されたところをみると海岸線付近の上空まで進出していたんだろう
第二次世界大戦時の米海軍はやたら対空砲を乗せてますが、トップヘビーで問題にならなかったんですか?
もちろん問題になっている。
トップヘビー問題は日本は友鶴事件を契機に収束したが、アメリカはまだその怖さを知らなかった。
台風で3隻もの駆逐艦が沈没したのは燃料切れによる重心上昇とあいまってのトップヘビー問題が原因だし、
あまりにも大量に積み込まれた対空火器は、艦そのものの設計まで変更させることになった。
ボルチモア級重巡洋艦に対するオレゴン・シティ級
クリーブランド級軽巡洋艦に対するファーゴ級
アトランタ級防空巡洋艦に対するジュノー級
これらは皆、対空火器の積みすぎによるトップヘビー問題を根本的になんとかしようと
艦級そのものを変えてしまった例。
太平洋戦争で日本海軍の潜水艦隊が通商破壊戦を行っていましたが、連合軍の戦略に何らかの影響を与えたのでしょうか?
また影響を与えなかったとすれば、何が日本軍の間違いだったのでしょうか?
開戦から1年弱ほど仮装巡洋艦まで投入してインド洋でそれなりの成果を上げている。
そんでもって、インド洋に1個潜水艦隊規模を投入しての大々的な通商破壊作戦を行おうとして
準備中にガタルカナルでの戦いが起こり潜水艦がほとんどソロモン海に投入されたがそれでも細々と
1個潜水戦隊規模で通商破壊を行ってたのだが、連合軍の戦略に影響を与える程度の損害を与える
ことが出来なかった。
結局のところ、通商破壊を行うにしろ、太平洋には通商路がほとんど存在せず、前線の兵站への攻撃が
関の山だが、日本軍の方針として、商船よりも軍艦、それも大物狙いを優先した戦略方針に間違いが
あったとしか。
まあインド洋で大規模な通商破壊をやれればまた違った展開になるだろうけど、その際でも潜水艦の損害が
激増して、先細りになったであろうけどね。
大戦中の日本の正規空母の速力が34ノットくらいあるのはどういう要求によるものなのでしょうか?
巡洋艦と遭遇した際に逃げられる足と、合成風力を作るための高速性が要求されました。
日本はどの空母でも同じように発艦できるよう、合成風力が同じ値になるように速力を調整します。
向かい風が強いときは速力を落とし、弱いときは速力を上げます。
零戦は向かい風12m/秒=43.2km/時、つまり合成風力23ノット強での離陸距離70mを要求されています。
九九艦爆は同10m/秒で離陸距離100m(ただし爆弾搭載せず)。
実際には機動部隊所属艦中最も低速な艦の「最大戦速」、つまり過負荷でない戦隊レベルの最高速度での運用が通常。
これ、正規空母なら30ノット。つまり最大34ノットの「4ノット」は余裕分とみていい。
米軍はなぜ空襲する前に警告のビラを空から撒いたのか
都市空襲だけ見ると市民を焼き殺すのが目的に見えるが、ビラを撒く=脅迫する事で得られる効果もある。
例えば、
1)都市郊外に避難させることで、都市近辺に集中する重工業・工場の労働者(や家族)を減らしたり、避難のため労働効率を落とさせることが出来る
2)米軍が好き勝手に行動できる=日本軍は当てにならないといった不信感の醸成、戦争に勝てないといった不安の醸成(厭戦気分ってやつです)
ビラ単独で何かの効果を得るものでも、都市空襲での免罪符を得るつもりのものでもなく、いわばタイマンで殴りあいしていても、拳(爆撃)を振るうだけでなく、口(ビラ)ででも追い込みかけるようなものと見てみれば良いかと思われ
太平洋戦争の終戦時、米軍は原爆を何発持ってましたか? 落とす気になってたら8月9月で何発投下できたのでしょうか?
0発。ウラニウムは製法自体もまだ統一されておらず、供給が間に合いません。
プルトニウム(ファットマン型)は、爆弾のパーツ自体はすでにティニアン島に届いていました。
肝心のプルトニウムコアも8月13日には完成しており、ティニアンに運んで組み立てればいい状態。
といっても1週間程度かかると考えると、3発目の使用は8月20日以降。
どう急いでも8月15日の終戦には間に合わなかったでしょう。
あ号作戦を、攻撃隊のパイロット達は「この作戦は失敗する、あほう作戦だw」と揶揄していたそうですが、何故パイロット達は作戦が失敗すると分かっていたんですか?
操縦桿を握った事も無い(飛行機の操縦が出来ない)高級将校が
飛行機のカタログスペックの航続距離だけ見て立案した作戦だった為。
確かに、当時の日本海軍空母機の航続距離だけ見れば、
アウトレンジ作戦は可能と言えるが、これだけの長距離を飛ぶと
ちょうどパイロットの疲労がピークに達した頃に敵艦隊の上空に到達する事になる。
酷評すれば、ヒューマンファクターというものを全く考慮していない
スペック厨ミリオタ的発想のDQN作戦だったわけですな
実際にマリアナ沖海戦に参加したベテラン艦爆乗り・阿部善次氏曰く
「真珠湾のベテランが揃っていたって絶対無理」
真珠湾奇襲攻撃で「第一次攻撃隊」「第二次攻撃隊」のように複数回に分けて攻撃を行ったのはなぜですか?
二回目の攻撃ともなれば、敵も準備してくるわけで攻撃隊の危険度も大きいし、攻撃は集中して一回で行ってもよいような気がします。
つ発艦能力
第一波で抵抗拠点を潰して第二波で戦果拡張
まず攻撃時の混乱で十分な戦果が挙げられない可能性が一つ。
例えばもう十分にダメージを与えた目標を引き続き攻撃してしまうとか。
だがそれ以上に、物理的に全機を一度に投入することができないのである。
正規空母クラスは大体搭載量の半数強くらいしか一度に発艦させられない。
発艦スペースとその後方の駐機スペースの兼ね合いから。
一隻の空母から艦載機が数十分の間に発艦できる数には限りがあります。
一攻撃隊の発艦に何時間もかかっていたのでは先に発艦した攻撃機の燃料を無駄に消費してしまうだけでなく、攻撃隊全体の滞空時間を著しく下げてしまうからです。
一攻撃隊の数は空母の数と発艦能力、それと目標までの距離(滞空時間)の兼ね合いによって自ずと限界が決まってしまいます。
南太平洋海戦後に、一時的に日米の空母戦力が拮抗しましたが、今の内にアメリカと講和をしようという考えは日本には無かったんでしょうか?
アメリカにその意思が無いから無理。
色々と戦略眼の無さが指摘される日本海軍and陸軍だが、
アメリカが戦力を整えるまで、守りに入っている事だけは認識していた。