全般
WW2のことですが「爆撃の先導機」とは具体的にどうやって目標を示すのでしょう?
信号弾みたいなものでしょうか?(488:913)
無線で指示したり、スモーク落としたりする。
先導機が最初に目標に対し爆撃し、その爆撃箇所へ後続も爆撃する。
夜間爆撃だと、火災を起こす目標指示弾を落とすこともある
確かに爆撃機編隊の中の先導機かそれ以外の先導機(T-33のような観測機)の二通りが考えられる。
前者は戦闘を飛ぶ先導機(隊長機みたいなものだと考えれば)が落としたらそれを見て他の機も投下する
第二次大戦時の機銃戦闘オンリーのレシプロ戦闘機は、多少の機銃弾の被弾には耐えられる設計だったのですか?(485:993)
当たり所によるとしか・・・・・・
コクピットから、パイロットを撃ち抜かれればまずおちる。
逆に防弾装甲のあるところを遠距離から打たれたら、まず大丈夫。
一般論としてWW2時の歩兵師団では、戦闘部隊と後方部隊の比率はどの程度なんでしょうか(485:904,905)
ww2の歩兵師団について
(国や時期などによって変化があるのは知っていますが)
独、米などの歩兵師団は凡そ12000~16000人程度で構成されていますよね。
1)これは輜重部隊や野戦病院などを含む数字でしょうか?
2)一般論としてWW2時の歩兵師団では、戦闘部隊と上記のような後方部隊の比率はどの程度なんでしょうか
補足
検索したところ、日本陸軍の歩兵師団では戦闘部隊1万、後方部隊5千との数値を見つけました。
これが正しいのか、正しいとしても当時の一般的な数値なのか、は解りませんでした。
1) 含む
2) 編成によってかなり違ってくるので一概にはいえない。そういうあいまいな聞き方すると回答が返ってきにくいよ。
WW2ドイツ歩兵連隊なら3000人中1200人ぐらいが戦闘要員
1)師団隷下の輜重部隊(段列など)や野戦救急部隊などは含まれる。
軍団や軍直轄の輜重部隊や野戦病院は含まれない。
2)時代、国、種類によって異なるが、だいたい2:1。つまり>>905は一般値に近い。
WW2の戦闘機で機銃の残弾数を表示出来る機体はあったでしょうか?(485:565)
また、あったのならその機種と、どのように残弾数を表示していたのかも
ドイツ戦闘機、Bf109F型以降やFw190、Me262なんかには残弾指示器がついてます。
縦型のバー表示になってますね。
(485:567:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
WW2で使われたエンジンのマーリン、ダブルワスプ、デュプレックスサイクロンやドイツ製の航空エンジンは、どのようなレアメタルを使ってましたか?(485:451)
その頃のエンジンの資料がなかったので、一世代前のエンジンになりますが。
P&Wツインワスプ。
クランク軸は鍛造合金鋼製。
排気弁にナトリウムを封入し、排気弁はステライト(コバルト、クロム、タングステンの合金)で溶着しています。
Wright ホワールウィンド。
クランク軸は特殊合金鋼製。補機台はマグネシウム合金。
排気弁にナトリウムを封入し、排気弁はステライト(コバルト、クロム、タングステンの合金)で溶着しています。
Allison V1710。
排気弁と弁座部はステライト(コバルト、クロム、タングステンの合金)で溶着。
弁の蓋とエンジン後方の後蓋はマグネシウム製で、接合棒とクランク軸がクロム・ニッケル・モリブデン鋼の鍛造品。
BMW9。
接合棒がニッケル・クロム鋼製、クランク軸がニッケル・クロム・タングステン鋼製。
クランク函はマグネシウム合金の鋳物。
Hispano-Suiza 12X
排気弁はニッケル・タングステン鋼製。
過給器の筐体は、エレクトロン(マグネシウム85パーセント以上、アルミニウム・亜鉛・カドミウム・マンガン
の合金)。
R.R.マーリン
排気弁にナトリウムを封入し、排気弁は燐青銅で、弁座にはクロムを利用したシルクロムを利用。
吸入、排気の弁棒端にはステライト(コバルトを主成分とし、クロム25~32パーセント、タングステン4~25パーセント)合金製。
クランク軸はニッケル・クロム鋼製、クランク軸受けは鉛青銅製。
Daimler Benz DB600
気筒とクランク函がシルミン・ガンマ合金(シリコンとアルミの合金)。
クランク軸はニッケル・クロム・タングステン鋼製。
追記。
エンジン関係だと、このスレに詳しい人々が居ますので、此処で再度質問した方が良いかも
知れませんね。
(485:629-630,687:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
の「Material」の項によると、ベアリングには銀とともにインジウムが使用されて良い耐久性を得ていたようです。
WWⅡの各国の出征中の兵士たちは、原則的には本国への一時帰国などは認められなかったのでしょうか?(485:154)
3年~5年間家に帰れなかったなんてことは、普通にあったこと?
ドイツでは地続きのせいか、休養や師団再編などで本国に帰ることがあったように思えます(映画等)が
実際はどうなのでしょうか?
それともある程度の余裕ができた時に、長期の休暇や本国での再編などで帰国させていたのでしょうか?
(国によって違うのかもしれませんが、東部戦線のドイツや中国戦線の日本、欧州でのアメリカ、イギリスあたりで)
東部戦線のドイツ軍だが、間隔は不明だけど休暇などで本国に帰る
ケースがある。
全滅した師団などを再編成する際にその師団に所属する休暇明けの兵士や
回復した傷病兵を基幹に行ってる。
米英は、一定サイクルで、前線勤務→休暇→再訓練→前線を繰り返すのが普通
なので、ある程度前線で勤務すれば、本国で家族や友人と過ごすこともできた
日本は、よほど運がよくない限り、本国での休暇は夢のまた夢
だが、少数ではあるが、帰国して休暇を取ることができた将兵もいる
アメリカは原則前線半年、後方で休養3ヶ月なはず
日本は悲惨でいつ帰れるかまったく分からなかった
欧州に派遣されたアメリカ軍兵士は最大で100万以上いたと思いますが、
こうした兵士たちの多くが大西洋を頻繁(といっても半年から1年?ごと)に往復していた、
と考えていいのでしょうか?(485:173)
さすがにそれは無理なので、たとえば欧州戦線米兵の場合、イギリス国内で休養
フランス全土がほぼ解放された後は、フランスの適当な都市
太平洋戦線の米兵だと、後方の、比較的安全な島で休暇
本国での休暇は難しいけれど、決して不可能ではなかった。
戦時中に、大西洋を渡って米本土に帰った兵士もたくさんいる。
米軍の場合、ベテラン兵士を定期的にリフレッシュさせた方が、
前線で使い潰して後釜に新兵を入れるより効率的という考えで、
この辺の福利厚生はしっかりしてる。
第二次大戦で日本軍もドイツ軍もアメリカ軍も37mm機関砲を航空機用機関銃として使用してますが、なぜ37mmなのでしょうか(481:642)
ドイツの急降下爆撃機や日本の屠龍 アメリカのP-39
みんな37mmですが、どうしてですか
とりあえず、37mmとなると「機関砲」ね。
で、航空機に積める大口径機関砲って言うとそのくらいが限度。
中には50mmとか75mm(これは大砲であって、機関砲じゃないけど)とかの
ものを積んでたのもあったけど、普通に積めて連射に機体が耐えられる
大きさ、というとその位になる。
ちょっとうろ覚えだが、先込め式の砲だった時代の砲弾の重量が口径を決めたと言う話だったかと。
昔の方は実体弾、要するにただの金属塊だから重量が威力の目安になる。
そうなると重量がたとえば1ポンド、2ポンドというふうに標準化され、その重さの砲弾がどれくらいの直径になるかで砲の口径が決められたということ。
ここに重量と口径の対照表があるが、なんとなく近い数値にはなってる。
ttp://sus3041.web.infoseek.co.jp/contents/faq/bore.htm
ちなみに英軍はたしか今でも何ミリ砲とは言わず何ポンド砲と呼ぶ。
アメリカにとって陸戦限定でドイツと日本どちらが辛かったか?
欧州戦線での戦死者は、太平洋戦争での戦死者の2倍
実質的な戦闘期間は、欧州戦線の方がかなり短かったので、どちらが激戦だったかは明らかかと
太平洋の場合は島嶼の争奪戦だから
一度制海権を失うと戦力の投入も移動も困難になる(夜間であったとしても)
アメリカはどのようにウラジオストクへ物質を輸送していたのですか?
ソ連船籍の船で輸送していた。
1941年12月8日以降日本にとってアメリカは敵国だったが、ソ連とは不可侵条約を結んでいたので公海を行くソ連船を止めることができなかった。
実際にはソ連の旗を掲げたアメリカ船も多かったらしいが。
ごく普通に千島を抜け宗谷海峡を通っていた。
上で出てるような理由で日本側は手出しができないので。
ちなみに、間宮海峡(タタール海峡)は冬は凍るので、船は通れなくなる。
アメリカ海軍の護衛空母はどうしてあんなに大量に建造されたのでしょうか?
(質問の続き)大西洋ではエアカバーのギャップは大きくないし、44年には解消されています。
太平洋でも日本潜水艦の戦力では船団に大きな脅威にならないのではないでしょうか?
航空機をアメリカから、ヨーロッパや、太平洋の各戦線へ輸送するのに便利だったのと
大量の船団に護衛として付けるため。
アゾレスや、アイスランドに基地作ってエアギャップをなくしても常時、船団にエアカバー付け
られるわけじゃないので。
あと、同盟国(主にイギリス)に提供するためにっていうのもある。
でも貰ったイギリスは「内装が自国の求める仕様に達していない」と、半年あれば
完成するものを3ヶ月掛けて改造するとかいうよく分からんことをやっていた。
日独は対爆撃機用の大口径搭載の戦闘機などを開発していますが、米英には似たようなコンセプトの戦闘機はありませんか?(479:372)
P-39 エアラコブラ は正にそう
対爆撃機迎撃用大口径砲搭載戦闘機
P-38 ライトニング も、 P-47 サンダーボルト も、開発コンセプトとしては
「高高度で戦略爆撃機を迎撃する」ことが主眼にされていた。
ターボチャージャーが付いてるのはそのせい(P-39も元はそういう設計)
結果的にはどれも開発コンセプトとは違った用途に回されて活躍しているわけだが。
あと、試作だけど ベル YFM-1 エアラクーダ っていうゲテモノもある。
蛇の目については識者にお任せします。
(479:374)
英国の場合は、旋回機銃塔のみの戦闘機と言うのでお茶を濁しています。
ですので、対爆撃機用の大口径機関砲搭載の戦闘機はありません。
対戦車用では、HurricaneMk.IIdが翼下に40mmを搭載していますが。
計画機でも精々20mm砲が精精で、変った所では、Boulton Paul P.62と言う双発戦闘機が、
胴体背部の中央翼上に平べったい砲塔を搭載し、此処に20mm砲4門を搭載すると言う、
例のDefiantやRocの親玉みたいなものがあるくらいです。
(479:397:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
アメリカならP-38P-39P-54などなど、いっぱいある
砲の口径も37ミリやら57ミリやら機種によりさまざま
全部あとで12.7mmか20mmに置き換えられけどね
(479:418)
WWⅡ中の世界中の航路はどうなっていたのでしょうか?(483:224)
内海航路(青函や沖縄、朝鮮半島や満州)
外洋航路(英米大西洋航路など)
などは原則中断していたのでしょうか?
もし運行していたとしたら、護衛艦などが付いていたのでしょうか?
内航は続いていたが護衛など付くはずもなく、米潜水艦のよい餌だった
外航も続いていて、資源輸送やら人員輸送をやったが、日本の場合は護衛体制がボロボロなのでこれまた米潜水艦の餌
欧州方面はPQでぐぐれ
米とソ連を結ぶ極東、北極航路はかなり活発だったが日ソ中立条約で手出し不能
日米航路は例外的なものを除き、もちろん中断
戦争になっても輸出入を辞めるわけにはいかない。
特に日本や英国のような国では、戦争中は特に。
で、交戦国の輸送船は、船団組んで護衛を付けた。
速力のある輸送船は単独で運行しなるべく敵に出会わないようにしたが。
客船航路はどうだったのでしょうか?(483:228)
客船は舟脚が速いので原則単独航海
青函連絡船は1940年10月10日以後、客貨便4便、貨物便8便で合計12往復。
1943年3月以後は1日14往復で夜間航行まで行っています。
1944年4月以後は客貨便が4往復に削減され、貨物が14往復に増やされました。
更に1日21往復まで増やされましたが、1945年には第5青函丸が沈没、第9青函丸沈没で1日13往復に落ち込み、7月14~15日の空襲により、
第7、第8青函丸以外の連絡船が撃沈され、以後は1日6往復も難しくなります。
関釜連絡船は、1939年7月に1日3往復(夜間便1往復)の旅客便と2往復プラス臨時便の運行が行われていました。
1941年4月には貨物便は新型船就航で1往復に集約されました。
1942年11月からは便数はそのままですが、時刻が変更となり、1943年7月からは博多~釜山航路が補助航路として1往復開設されます。
以後、時刻などは変更されませんが、10月に崑崙丸が撃沈され、1945年4月には興安丸が触雷、新羅丸、金剛丸が運行不能や撃沈され、6月20日以後は、関釜、博釜
の両航路とも事実上運航停止となります。
稚泊連絡船は1941年12月以降、1往復が維持されていたものの1945年8月にソ連軍が侵攻した為、8月23日までに宗谷丸が3往復し、24日に
航路が閉鎖されました。
その他の外洋航路は船がないので、次第に縮小され、1945年以後は全く運行されていません。
因みに、米国や英国の場合は、独航船で運行することが多かったりしています。
また、米国では人員輸送用に戦時標準船形の客船を建造し、師団を一気に輸送したりしています。
後、スウェーデンとドイツなどのバルト海航路、ポルトガルやスペイン本国と自国植民地の航路は連合国や枢軸国の了承の下、
運航されています。
この場合、船腹に大きく中立国の国旗を描き、夜間も灯火を赤々と点けた形での航行です。
こうした経路で、英国や米国から引き揚げた日本の外交官が、欧州に赴任するケースもあったりしました。
(483:239:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
独航とはつまり、英米や米仏といった民間人用の大西洋客船航路はWW2中も中断されなかったという認識でよろしいのでしょうか?(483:254)
あ、書き方悪かったですね。
民間人用の客船航路としては、既に閉鎖されています。
米国から英国などに行く民間人は、政府とか産業関係の人々が多く、民間人は軍属とかにでも
成らない限り、行くことが出来ません。
大戦後期では、そう言った人々は航空機(C-54やランカストリアンなど)での輸送も行われたり
していますが。
なお、中立国から交戦国に行く航路は一応生きています。
日本が太平洋戦争に参戦していない時代、英国やイタリアから日本に向けて航海する航路は維持出来ていました。
1940年11月に最後の日英航路の船舶が運航されています。
また、例えば、1941年まではスウェーデンから米国に行く航路がありますが、亡命者達の需要には全く応えられません。
スウェーデンでは数千人の亡命者に対し、数隻の船に数席の客席しかない状態でした。
南米なら少しだけ余裕はありましたが、それでもプラチナチケットであることには変わり有りません。
連合国の船で、独航船で撃沈されたのは、U32に撃沈されたエンプレス・オブ・ブリテンが最大の船ですね。
1940年にFw-200によって損傷を受け、その後、連絡を受けたU32が3本の魚雷で沈めたのがあります。
(483:272:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
欧州戦線
プライベートライアン見て思ったのですが、なぜ上陸する前に空爆しなかったのですか?(488:772)
ノルマンディの海岸地帯のうち、「プライベートライアン」の舞台になっている
「オマハ海岸」(オマハはコードネームで本来の地名ではない)だけは事前の
防衛強化策でトーチカ等が整備されていたのに、当日の朝爆撃した爆撃機部隊が
先導機(爆撃する目標を後続の部隊全体に指示する役)が目標を取り違えて
海岸ではなく海岸から陸地に進んだところにある予備陣地(海岸が陥落したら
撤退してそこで第2時防衛線を張る)を爆撃目標に指示し、爆撃部隊はそこに爆弾を
落とした。
そのため海岸陣地はほぼ無傷で、艦砲射撃も少し離れたところにある砲台を恐れて
艦が海岸へあまり接近出来なかったので大した効果がなかった。
なので、最も防備の堅い所に真正面から上陸作戦仕掛けたのであんなことに。
北アフリカ戦線にもL3タンケッテは投入されましたか?(487:71)
第2次大戦のイタリア海軍ですが、地中海の制海権を取れなかった理由は(486:577)
- 制空権を取れなかったから
- レーダーがなかったから
- 燃料が不足気味だったから
というところが主因でしょうか?
素直に戦力不足だったと言うべきと思うなぁ
第二次エチオピア戦争の時イギリスはどうしてスエズ運河を封鎖しなかったのでしょうか?(485:333)
エチオピアに武器援助したり、イタリアに経済制裁なんて回りくどい事しなくても、
地中海から出れなくすればエチオピアでも勝てた気がするのですが
エチオピアのために欧州の均衡を崩したくないと思ったから。
大戦中、イギリスの潜水艦はUボートほど活躍できなかったんでしょうか?(484:678)
そんなことはありません。イギリスの潜水艦は北海等では哨戒に
地中海では通商破壊などで大活躍しています
有名どころではリュッツォーを大破させたスピアフィッシュ
地中海の通商破壊で活躍したアップホルダー
足柄をしとめたトレンチャントなどがいます
特にマルタを根拠地に北アフリカ向け輸送船の通商破壊を行った
アップホルダーを始めとするイギリス潜水艦の活躍は
船体と同じ重さの金に相当するとまで言われています
ドイツはV2ロケットをイギリスの軍港に集中的に撃ち込んで、艦船を撃沈しようとはしなかったんでしょうか?
V2にはそこまでの命中精度がない。
そりゃ一箇所に何十発も撃ち込めば1発くらいは当たったかもしれないが、
どう考えてもV2の無駄遣いだろう。
連合軍はノルマンディーから上陸したわけですが、ベルギー・オランダあたりからの上陸は考えてなかったのでしょうか?
補給を考えてロッテルダムやアントワープとかの港湾設備がある地方からのほうが良いように見えるのですが……
まず、その辺に上陸するには海を長距離(っていっても対した距離じゃないけど)越えてく
必要がある。
それに、デンマーク海峡から北海南部までは引きこもり状態だとはいえまだまだ
ドイツ海軍の勢力圏内だから、完璧な制海権を必要とする大規模上陸には困難が
伴う。
なによりオランダは国全体が湿地と低地で、運河と沼だらけだから上陸したあと
大部隊が纏まって行動するのが困難だし、フランス北部からベルギーにかけては
ドイツが上陸を想定して警戒している。
奇襲上陸が可能で上陸後の部隊展開も容易、制海権がほぼ完璧におさえられる場所、
というとノルマンディーが最適だった訳。
ちなみにドイツ軍がそう考えているであろうことを予測して、ノルマンディ上陸の
前にはカレー~ベルギー北海岸のどこかに上陸する計画である、っていう偽情報が
ありとあらゆる手段で流された。
パットン将軍はこの偽上陸計画の「総司令官」とされて実際にはありもしない作戦の
ために各地を奔走した(偽情報をらしく見せかけるため)。
英本土から離れすぎなので、たどり着くまでに見つかる可能性が高い。
港湾施設があるところは当然のことながら防備が厚く、道路網も発達しているので兵力を集中させ易い。
つまり自殺行為。
敵の最も手薄なところを狙うのは基本中の基本。
港湾を占領するのはその後でいい。
ノルマンディの場合は「港がなければ持ってくればいいじゃない」ということで、マルベリーという巨大な埠頭を持って行って海岸沖に設置した。
大戦中にイタリアに停泊したアメリカ軍が戦艦盗まれた、という都市伝説を聞いたことがあるのですが、(479:583)
まあこれ自体はネタとして、なんかこの話の元となるような事件はあったんですか?
元ネタは塩野七生のエッセイです。
で、このBlogでその話について検証してます。
ttp://navy.ap.teacup.com/yamanekocave/255.html
(479:586:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
「戦車を高射砲で攻撃するなんて卑怯だ」「高射砲でしか撃破できない戦車の方がよっぽど卑怯だ」って何のやりとり? (481:884)
確か『砂漠のキツネ』(フジ出版社)に出てくる英軍戦車兵の捕虜とドイツ軍の尋問官の会話だったと思います。
戦車はマチルダで、高射砲はいうまでもなく8.8cmFlakね。
(481:887:名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
ロンメルの副官、シュミット中尉の回想によるようです。
バトルアックス作戦における208高地の戦いで
捕虜となった英軍戦車兵が英語で
「私の意見では、高射砲で戦車を撃つのは卑怯ですな」
と言ったのに対し、その訳を脇で聞いた独軍砲兵が、
「なる程。だったら88mm高射砲以外には撃ち抜けない
装甲の戦車で攻めてくるやつは、それ以上に卑怯だよ。」
と言った・・・というのが原典のようです。
ソースはタミヤのFlaK36/37の説明書です。
解説は菊地氏による。
連合国
アメリカで一般的に(学卒の一般人)入隊してから戦闘機パイロットが実戦投入されるまでの期間は
どれくらいだったのでしょうか?(487:455)
大戦末期での枢軸と連合国ではパイロッットの養成期間にかなりの開きがあったと聞きます。
(うろ覚えなのですが、アメリカでは実戦投入まで360時間の飛行時間だったと思います)
アメリカで一般的に(学卒の一般人)入隊してから戦闘機パイロットが実戦投入されるまでの期間は
どれくらいだったのでしょうか?ご存知の方がいたら宜しくお願いします。
1943年の例ですが。
短くても1年~1年半程度は前線に出るまでに掛かっています。
陸軍入隊後、先ず、初期教練を受けます(1ヶ月程度)。
その後で、5ヶ月間、試験と地上訓練を受け、適性が決められます。
午前中は気象学、航空学、機械学などの講習と口頭試問が繰り返され、午後は身体訓練として、
腕立て伏せ、懸垂、腹筋、屈伸、ウエスト運動、その場での駆け足、壁に手をついて体重を掛けたまま
頭をそらせる運動を数時間やった後、10km弱のランニング。
最初の体力テストと筆記試験で全体の半数が篩い落とされ(つまり、其の儘歩兵行き)、残った者の
うち、40%以上が初級訓練、基礎訓練、上級訓練の何処かで篩い落とされることになります。
最初のテストは、第1部で一般知識、グラフと図を読む能力、機械の原理の理解力、地図と写真を読む
能力、認識の速さと正確さ、専門知識の理解力を判定され、第2部では筋肉の運動協調が可能か、圧力
に耐えられるか、指は器用か、次々に変化する刺激に素早く正確に反応出来るか、第3部が心理学者との
個別面談となります。
次いで身体検査で、テストの前後に脈拍数と血圧を検査され、色覚、遠視、近視、遠近調節、奥行き感覚
のテストが行われます。
この段階で20%が不合格となり、操縦士以外の砲手や通信士、航空機関士などへの道を歩むか、歩兵に
行かされます。
これらのテストをパスすると、漸く初等練習機の同乗飛行が開始され、単独飛行に進みます。
この段階でも不合格者は別のコースへ鞍替えさせられることになります。
ここまで生き延びれば、希望コースの訓練順位を提出させられます。
操縦士、航空士、爆撃手のうち、成績優秀者は航空士コースへ、それ以外は、適性と各人の
希望、定員数の順番で、他のコースに振り分けられます。
5ヶ月初期訓練の後、2ヶ月は飛行訓練の初期段階、初等練習機による12週間の訓練、次いで
上級訓練が1~2ヶ月、以後、各機種毎の転換訓練となり、前線の需要にも依りますが、3ヶ月
くらいで卒業となり、前線に配属準備が完了します。
(487:537:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
横ですが、以前の眠い人さんのレスに
>米陸軍航空隊は,
>特に旅客機操縦士は基より,農業機パイロット,大学生など
>民間にいる軽飛行機の操縦士を徴募することで,急速に養成が可能となっている訳です.
つーのがありますけど、それなのに初等練習機に乗せるとかやったわけですか?
無駄では?
民間パイロットの技量はバラバラなので初等練習機で確認する必要があった
具体的な数値が思い出せないがエリミネート率は結構高かった
米軍ではないが、かのサン=テグジュペリは民間パイロットとしての操縦経験が豊富だったにも
関わらず、志願した後で初等訓練段階をどうしても突破できず、結局はコネで偵察機部隊に潜り込んだりしている
取り敢ず、経験者であれば、地上訓練を少しやって軍に慣れさせ、初等訓練で軍用機に慣れさせて、
どの機種に進ませるべきか程度の訓練を行った上で、高等練習に行きます。
勿論、民間の大型機パイロットであれば、戦闘機よりも輸送機や爆撃機パイロットとして引く手数多
だったりしますが…。
上の例に挙げたのは、全くの素人が一から飛行機を飛ばした場合として書いた例になります。
大戦中は、軍用機パイロットはもとより民間旅客機やら農業機やらのパイロットですら払底するくらい、
飛行機が必要とされた訳です。
(487:738:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
海軍軍縮条約でフランスが日本よりも少ない艦隊に甘んじたのはなぜですか?(487:333)
海軍軍縮条約で、
英米:5、日:3、仏伊:1.67
と決まったらしいですが、イタリアはともかく、世界中に植民地を持ち、強力な海軍が必要なはずのフランスが日本よりも
少ない艦隊に甘んじたのはなぜですか?英米くらい海軍を持っててもおかしくないような・・・?
地中海で争ってるイタリア並みの戦力で充分だったから。
あとマジノ線作ってるのでとにかく金が無かった。
アメリカやイギリスは海という防壁で囲まれてるけど、フランスは仮想敵国と直接国境を接している。
そうなれば遠くの植民地を守るための海軍と、自国の国境と領土を守るための陸軍のどちらを優先させるかは言うまでもないよな。
おまけに第一次大戦で荒廃した地域を復興させねばならず、にもかかわらず労働力である成人男子が大量に死んでいる。
いくらドイツから賠償金を搾り取ったとはいえ、そんな状況では予算には限りがある。
一国の軍備は、その国が置かれている状況から生まれる必要性と可能性をもとに計画されます。
当時のフランスが置かれていた状況は、5年間に亘る長い長い総力戦にやっと勝利したばかりで、
宿敵ドイツは倒したものの、国土の大半を蹂躙され、多くの若者を失い、国民は疲弊しきっていました。
つまり、巨額の費用を要する巨大な軍備を維持する必要性が当面なくなったうえ、国土の荒廃と
国民の疲弊を癒し、膨大な戦費の清算を急ぐために、軍備を縮小して国家の再建に財源を回すことが
緊急の課題だったのです。
いかにフランスが欧州で最も豊かな国の一つでも、この状況で英米に匹敵する艦隊を整備することなど
全く不可能でした。
この状況は、欧州のもう一つの戦勝国である英国にとっても、ほとんど同じでした。
WW1後に締結された一連の軍縮条約は、誰よりも英仏両国の市民に歓迎されたのです。
米軍がナチスの強制収容所を解放したときに、収容所を市民に見学?させてますけど
これって一体どんな意図があったんですか?(487:52)
「そんなことをしていたなんて知らなかった」「党がやっていたことで自分達は無関係だ」
という反応がほとんどだったので、
「たとえ知らなかったとしても無関係でもお前らの政府が何をやっていたのかをよく認識しろ」
ということ。
ドイツ国民が支持してきたナチスの蛮行と、それを見てみぬふりをしてきた事実を思い知らせて反抗の芽を摘もうとした。
終戦直後は人狼部隊もわずかながら活動していたため、抵抗運動が起きる可能性を潰すことは重要だった。
ドイツ人に罪悪感を起こさせ
戦後処理を連合軍有利に進めるための工作です
一種の洗脳と言えなくもない
WW2時のアメリカの戦車で白星だけのマーキングと星をわざわざ円で囲ったマークがあるけどどういう違いがあるんですか(484:797)
米軍には黒人兵部隊もあったの?
それはあった。
第二次大戦時米軍には約25万名の黒人兵がいたが、その多くは補給や建設,危険度や疲労が高い割に日の当たらない弾薬輸送など非戦闘任務に就いていた。
当時の偏見として戦場は白人の男がその勇気を示す場所だから,臆病で信用できない黒人は後方任務で充分と思われてたわけ。
また(現代のガタイのいいブラザー像からあんまし想像がつかないが)栄養状態の不良が原因で身体的に徴兵検査を撥ねられる割合が高かったらしい。
全般的な前線勤務率は低く、黒人運動の指導者が「黒人兵を名誉ある前線任務に就かせろ!」運動をしたぐらいだった。
欧州戦線には黒人兵の師団が派遣されたが、その戦績は芳しいものではなかった。
ただし、イタリアで爆撃機護衛任務についていた黒人兵の戦闘機隊「ブラックイーグルス」は勇猛さで名高かった。
あと、硫黄島の守備隊の話では、初めに上陸して来たのは肌の色が黒いのと赤いので、戦闘が一段落したら白いのがやってきたということだが、米軍側では、硫黄島では事前に猛砲撃を加えたので、上陸時の日本軍の抵抗は微弱と思われていたために起きた事。「黒人兵が弾除け代わりにされた」というのは俗説に過ぎない。
そもそも、弾除け代わりの兵士などという発想は負けている側のもので、優位な状況ならできるだけ強力な兵力を送り込み橋頭堡の迅速な拡大を狙うもの。
詳しくは
『二次大戦下の「アメリカ民主主義」―総力戦の中の自由』
参照。
日系人問題・黒人問題について詳しく扱われている。
第二次大戦中の米軍兵器の生産管理手法はどのような物だったのでしょうか?
なるべく具体的に教えて下さい。
戦前の自動車や電化製品の部品の互換性向上、作業標準化を各産業が応用し、
限定された種類の製品を大量生産するシステムが生まれています。
また、工作機械の操作は、単能機械の電化が進んだため、比較的容易になりました。
これを受けて、労働過程の細分化や単純化を進め、時間=動作研究に基づいた作業分析
を行い、労働者の適正な配置を行っています。
具体的には、非熟練労働者を有効活用すべく、可能な限り小さな組立てに分割するサブ組立
方式が発達します。
これにより、組立てに必要とされる熟練のレベルが大きく下がり、労働者の職業訓練期間が
短くなりました。
部分組立はそれぞれ本工場ではないフィーダープラントで行われ、それには本工場から指導員が
派遣されたほか、フォーディズムの導入は積極的に図られる事になります。
また航空機工場の場合、生産に際しての教育は、数週間(日本では1週間ほど)の教育が行われ、
リベット工として作業に従事、その後、溶接工に進む過程と、板金を打ち抜き、ヤスリを掛ける作業から
入り、ドリルプレス工へと進み、更に教育を受ける事で検査工やフライス盤を操作する機械工に進んで
行きます。
メーカー同士も生産ノウハウを共有するため、主要会社同士で構成される生産協議会が設立
され、主要機種の生産融通や、部品の共有化、互換性の向上を図っています。
工場内では、男女混合作業チームを作り、体力を要する「男性の仕事」と、それ以外の「女性の仕事」
を切り離す試みも行われています。
女性の組み立て工のグループに肉体労働専門の非熟練男性労働者を配し、資材運搬や部品運搬を
彼等に担当させ、女性は組立てに専念すると言った手法も採られています。
(初心者スレ476:眠い人 ◆gQikaJHtf2)
F8Fは捕獲した零戦の影響受けて作られたって言う人と、捕獲したFw190の影響受けたって言う人がいるけど、どっちが正しいんでしょうか?
wikipediaではFw190の影響と書いてありました。
零戦に関しては「これに格闘戦でやりあえるようなものを」と
FW190に関しては「極端に絞ったスリムな機体に大馬力エンジンを積む」というコンセプトを
それぞれ参考にしたということで、どちらの影響も受けているというのが正しいところでは。
どっちか一方だけではなくて。
どちらも参考にしていない。その両説ともその両機種が好きな人間が流したデマであると言う説
もあります。
単に、開発時に手に入る優秀なエンジンを使い、F4Fしか使えない小型軽量な空母で運用可能な
戦闘機を目指したらああなっただけ。と言う話です。
つまり、Fw190や零戦など眼中に無くても、大馬力エンジンに軽量な機体を組み合わせる発想に
辿り着ける理由はあったことになります。
太平洋戦争時の米空母飛行隊(VF-5とかVT-8とか)は良く空母間を異動したり陸上基地へ展開したりしていますが、こういった異動は誰の決裁によって行われるものですか。(483:57)
最終的には任務群司令
アメリカの場合、海軍所属部隊の編成は海軍省が管轄する。
つまりハロルド・スターク大将(1939/08/01~1942/03/02)か
アーネスト・キング大将(元帥)(1942/03/02~1945/12/15)。
まあ最終的に権限を統括するのはアメリカ合衆国大統領なんだが。
また、具体的な作戦運用については国防長官を通した大統領の指示の元
各司令官が権限を持つ。
枢軸国
アンシュルス後のオーストリア軍はドイツ軍に編入されたと思うんですが、
オーストリア側の将兵の階級は編入先のドイツ軍でも同じだったんでしょうか?(511:16)
旧オーストリア軍出身でドイツ軍の要職についた将官はいますか?
高位ではないけどオーストリア系の軍人だとスコルツェニーやノヴォトニーがいる。
戦争直前、戦時中の、ソ連参戦前の、ソ連人?(ソヴィエトロシアのロシア人とか)の扱いはどのようなものだったのでしょうか?(488:919)
やはり他の中立国人と同じ扱いだったのでしょうか?
また、白系ロシア人の扱いはどのようなものだったのでしょうか?
ソヴィエトロシアの人との扱いの差。見たいな物は、あったのでしょうか?
さらに、ソ連参戦後、そして、降伏後の、上記2種類のロシア人(ソ連人?)に扱いは、
どのように変化したのでしょうか?
参考になるサイト、書籍等があれば、お教え願えませんでしょうか?
日本とソビエトは成立時から不倶戴天の敵同士といえたが、日ソ基本条約以降国交があった。
でも当然、小競り合いを繰り返した仮想敵国なのでビザは下りにくかったはず。
白系ロシア人もソビエトの敵なので敵の敵は味方で協力関係にあった。
日本側は白系ロシア人を諜報戦などに積極的に利用した。浅野部隊とかそういうやつ
ソ連開戦後はもちろん敵性国民、占領期は占領国民です。
詳しくは該当スレで聞いてください
書籍なら、スタルヒンの自伝とかが参考になるんじゃまいか?
イタリアのスピカ級は改装前の千鳥とほぼ同じサイズで、同程度の武装を積んでいるにもかかわらず、復元性などに問題があったなどの話を聞かないのですが(486:781)
実際の所はどうなのでしょうか?
もし、なんの問題もなかったとしたら、千鳥とは何が違っていたのでしょうか?
日本近海と、地中海では、そもそも、要求される復元性のレベルが違う
では、スピカを日本近海に持っていくと転覆の恐れがあるということですか?(486:785)
冬場は、シーステイト5がざらの日本海だと、十分ありうるでしょうね。
建物疎開の移転費や学童疎開の生活費などの保証をされていたのでしょうか。(486:369,370)
疎開について質問します。
1.建物疎開で住宅の撤去が命じられた場合、居住者の移転費・移転先などの保証はされたのでしょうか。
2.学童(集団)疎開により、田舎の寺院などで児童が集団生活をしていましたが、
受け入れ側には行政から生活費などの保証をされていたのでしょうか。
1は少額の移転費のみ
2はそんなもんない。だからみんな飢えていた
広島に原爆が投下された直後に助けを求める放送がラジオであったそうですが、その放送内容を詳しく書いてあるHP等はありますか?(484:906)
「幻の声」でぐぐれ
独UボートU-864は1945年にJumo004Bジェットエンジン、V-2誘導装置、水銀65tを日本に輸送中に撃沈されたということですが、これらは莫大な価値があると思うのですが、日本政府が一体いくらで購入したとかの記録は残っているのでしょうか?(484:453)
他の件はともかく、本件は1944年に締結された、
「日独製造権および原材料供給協定」による、両国勝利の後による日本政府支払い、
それまではドイツ政府の立替払いによる、結果的に空手形になったものなので、結局
日本政府の支払いは無しだ。
当時日本には闇市というものがあって政府の決定した価格の数倍の値段で食料品などが提供されていたようですが、国民みなでこの闇市を利用しなければならないほど普通の商店から物がなくなってしまっていたのでしょうか?(479:521)
戦時中は配給制といって、米麦みたいな食料品や必需品は買える量が決まってたり、切符がないと購入できない仕組みになってた。
逆に言えば最低限の買い物はできる仕組みなってたわけ。
それが戦局が悪化して遅配や欠配が続くようになったので、本来勝手に売り買いできないものを農家と直接交渉して買ってたりした。
戦時中は監視が厳しかったので、闇市という具体的な場所があったわけではない。
焼け跡などで勝手に店を構えて、進駐軍の横流し品や配給制度の目を逃れた食料品などを売る闇市が生まれたのは終戦後。
戦前生まれの親戚とか祖父母がご健在で、そういうことに興味があるなら今の内にこういう話は聞いといたほうがいいぞ。