質問

質問者:shinokita 阪神大震災が起きた時、日増しに増加していく死者数を見て、人々はどう思ったか?
困り度:
  • 暇なときにでも
「これ以上死者が増えて欲しくない」とでも思ったのか?
 私には全くそうは思えなかった。寧ろ、もっと死ねばいいと思っていた。 私はこの場に於いてまで偽善者に成り下がろうとするつもりはない。
 本気でそう思ったまでだ。別に演じているつもりなどない。幾ら死者が出ようが誰が苦しもうが
私には関係なかった。
 そのころの私は人間自体を憎んでいた。単に個人を指すのではなく一般的にヒトとされている集合体そのものを忌み嫌っていた。だが、同時に政府の震災への対応の遅さに憤りもした。
 人間を憎んでいるにも関わらず、それは何故なのか? 私の論理には明らかな矛盾が潜んでいた。 私は必死で打開策を探した。現象のみを捉えると確かに矛盾は起こる。だが、二つの事象が明確である限り、どこかに必ず道理の行く説明というものが見つかる筈だ、と。自然災害に人間の責任はない。私は8歳の時、「人間はいつか自然によって罰せられるべきだ」
という主旨の詩を書いたが、それはこの震災の体験からだろう。
 その頃の私は小学校のクラスメイトが嫌いだった。そいつらのその小賢しさ、あざとさは吐き気を催す程気分の悪いモノだった。集合体の一部に表出した小賢しい人間の代表、それが政治家である。なんの役にも立たない、「立派」な学歴だけを担いだ大人達の名前を、必死で憶えたものだ。
 つまり、私は彼らが市民を助けなかったから憤ったのではなく、人間の悪そのものを再認識させられた事を嫌悪したのである。決して失望などではない。私は彼らに何も期待などしていない。大量の人間達が死んだ事への爽快感、そしてその嫌悪感を私はあの震災、いや「神」災で味わった。本当に私以外の誰一人、感じ得なかったのか?
神戸事件の時の高揚感と、阪神大震災の時のそれとが同一でなかったとは、誰が言い切れようか?
 実際に震災を体験した者達でなければ、決してその感覚を味わうことなど出来ない。
私は当時神戸市東灘区本山第二小学校の二年生だった。
学校から死人もでた。
友達の父親も死んだ。
町も崩壊した。
半分の家庭が家を失った

しかし、当時の私はそれで良かったと自分を納得させていたもんだ。
質問投稿日時:09/10/23 23:21
質問番号:5391414
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回答

 

回答者:sasa1919 質問はなく、意見投稿でつか?
種類:補足要求
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:09/10/25 00:45
回答番号:No.3
この回答へのお礼この回答にお礼をつける(質問者のみ)

回答

 

回答者:lions-123 >阪神大震災が起きた時、日増しに増加していく死者数を見て、人々はどう思ったか?

                 ↓
情報の質・量・スピードの大切さと怖さを痛感しました。

震災発生時は、私自身は家族を大阪に残し千葉県に単身赴任中でした。
<少し曖昧な記憶ですが・・・>

◇朝のニュースで、神戸の方で地震があった。
千葉や東京では良く地震があり割と平気に、ふ〜ん、そうなんだ程度。

◇次にニュースで、一部の被災現場が映っていたり、火の手が上がっているのを見て、この地震は意外と大きかったのでは・・・と、かすかに不安が。

◇家族が気になって電話を掛けようとしたが繋がらない(携帯電話・PHSは個人では持っていませんでいた)。
早朝だし、地震を聞いて皆が掛けたり掛かってくるのでパンク状態かも?

◇気になっていながらも、震源地は神戸とか淡路島なので、余り酷い影響はないだろうと思いながら、都内へ出社しました。

◇早朝のミーティングや、近郊に住む人の会話の中に、「地震で電話が繋がらないそうだが→此れで、携帯電話が良く売れるんでは・・・」との話や期待が嬉しそうにされている。
<不謹慎な話題と感想、人の不幸に付け込む嫌な根性・商売気に、私自身は内心で憤慨・呆気にとられていた記憶があります>

◇そして、気になる家族や家屋の影響を電話してみるが繋がらない。
ニュースを聞くが、時間を追って被害の大きさ、死者・行方不明者・ケガ人の数字が増加しており→不安と家族の安否情報の取れないもどかしさに悩み苦しんでいました。

その時に、改めて情報のありがたさとその情報の齎す影響力・怖さを感じました。
情報が途絶えると、不安と不信、デマや憶測がどれだけ出て混乱に拍車を掛けるかを体験しました。

◇不安とどうする事も出来ない不安な時間の経過、やがて携帯(仕事用に会社が貸与)にて、違反だがプライベートに使い、連絡が取れました。
「我が家では、今までで一番揺れが大きく長く感じたとの恐怖体験をしたそうです。また被害状況は台所の食器棚の中の食器が数枚割れた程度との事で安心しました。→後日、聞くと、この時のものと思われる外壁の一部に亀裂?2階寝室の壁に少し剥離があった模様(推測)」

*連絡が取れるまでの不安ともどかしさ。
*情報のありがたさと怖さ(質・量・スピードのある情報が不足すると流言・デマの原因になり、物事が混乱複雑になり二次災害にも繋がる)
*他県や遠い地震や災害への心配や同情は当事者に成った時に比べれば如何に傍観者的なものだったかを痛感。

情報の大切さ、多種の用意の重要性、日頃の準備と訓練の大切さ、人間の情報の無い時の弱さを知った。
そして、最後の最後には自分だと思うが・・・何処まで他人を気遣い助けられるかが人格・器量・優しさだと感じた。
さらには、震災を通じて、人が災害に逢った時、その無力さと、開き直った時、立ち直る時の逞しさを弱さと同時に人間の強さ・英知の素晴らしさも改めて知りました。
種類:アドバイス
どんな人:一般人
自信:参考意見
回答日時:09/10/24 08:47
回答番号:No.2
この回答へのお礼私の家は東灘区にあるマンションだったが酷かった。

私立だと他の地域からも沢山通っていたから被災していない奴も結構いて、何だか自分だけ損している気分だった。

まああの震災で人生狂わされた奴も結構いるよ

回答

 

回答者:black2005 取り込み中に悪いけど、ここはブログじゃないよ
間違えるなよ
種類:アドバイス
どんな人:一般人
自信:自信あり
回答日時:09/10/23 23:29
回答番号:No.1
この回答へのお礼はん?
屑がよ。
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