2009-10-22 09:47:24 gataro-cloneの投稿

「核なき世界」か「核の傘」か(下)/80年代来の運動の上に/主流になった廃絶論【しんぶん赤旗】

テーマ:電子版にない「しんぶん赤旗記事」


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以下は「核なき世界」か「核の傘」か(中)からの続き(テキストは「しんぶん赤旗記事情報/G-Search」から貼り付け)。

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「核なき世界」か「核の傘」か/下/80年代来の運動の上に/主流になった廃絶論
2009.10.17 日刊紙 2頁 総合 (全1,222字) 

 ワシントンのペンシルベニア通りと言えば、連邦議会議事堂からホワイトハウスに至る首都一番の目抜き通りです。マックス・カンペルマン元大使の事務所は、この通りに面した荘厳なビルの6階にありました。約束した時刻の10分前に受付に向かうと、こちらが名乗る前に「ミスター・サカグチ?」と声がかかりました。

(写真は国連総会で演説する鳩山由紀夫首相)

  一等地の部屋

 この階すべてが同氏の事務所。秘書に案内されてたどりついた、一番奥のカンペルマン氏の部屋は、ワシントン中心部が見渡せる、明るい部屋でした。

 こんな所に事務所を構えている元米政府高官が今や核兵器廃絶論者か…。1980年代のロンドン駐在記者時代から核問題を追ってきた者として、深い感慨がありました。

 当時は、「核廃絶を緊急課題に」との日本の反核運動の立場を伝えても、各国の反核運動家からでさえ「空想的だ」との声が返ってくるのが通例でした。核廃絶賛同の声に出会うには、場末の運動家の事務所にまで足を運ばなければなりませんでした。

 オバマ政権期の「核のない世界」論が、どこから出てきたのか。その源流をたどるのが今回の米国取材の狙いの一つでした。重要な出発点は、意外にも80年代のレーガン政権にありました。

 レーガンは人間的には興味深い人で、自伝『わがアメリカンドリーム』を精読したことがあります。そこでは、米国の核凍結運動が娘のパティが参加するまでに発展するもと、「核兵器のない世界」が「私の夢」になったと描かれています。ただし、それはレーガンが「第二の夢」と呼んだミサイル防衛配備と引き換えのものでした。

 その構図自体は変わらないものの、レーガン自身は核廃絶に対して相当本気だった事実に最近、米国で改めて光が当たっています。側近らの助言に反して「核廃絶」合意寸前にまでいった86年の米ソ・レイキャビク首脳会談。9・11米同時テロを受け、その精神をよみがえらせようという考えが、今日のオバマ政権の核廃絶論に連なっているというのが、カンペルマン氏の話でした。(インタビューは本紙4日付) 世界の核廃絶の機運を高める大きな契機となった、シュルツ、キッシンジャー両元国務長官ら4氏の2007年1月の共同論文は、カンペルマン氏ら17人が賛同署名した、事実上の「共同声明」でした。

 オバマ氏自身がコロンビア大学生時代に「核なき世界」への構想を温めたのも、核廃絶運動が大きく高揚した80年代です。いまオバマ政権が「核なき世界」を国の目標として掲げているのは、決して一個人の思いつきではなく、米主流を形成する人々の集団的検討を背景としています。

  運動をさらに

 鳩山由紀夫首相は9月24日の国連総会演説で、「唯一の被爆国」であり「非核三原則を掲げ続けている日本」は「核保有国と非核保有国の『架け橋』となって核軍縮の促進役となれる」と述べました。「核なき世界」をリードしてきた日本の世論と運動の一層の強化が期待されています。

 (おわり) (連載は坂口明が担当しました)

しんぶん赤旗




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