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100年前の安重根義挙への連帯

林田力2009/10/23
 孟子に「舎生取義」(しゃせいしゅぎ)という言葉がある。「命を犠牲にしても正義を行う」という意味である。また、論語には「殺身成仁」(さっしんせいじん)という言葉がある。「身を殺して仁を成す」という意味である。これらの言葉を用いて100年前に日本人から賞賛された人物がいる。韓国の独立運動家・安重根(アン・ジュングン)である。
 
 安重根は1909年10月26日に中国・ハルビンで伊藤博文を射殺した。伊藤は初代韓国統監であり、和服を着せられた韓国皇太子と一緒に写っている写真が示すように日本の韓国侵略の象徴的人物であった。その伊藤を射殺した安重根を幸徳秋水は以下の漢詩で称えた。

 舎生取義 殺身成仁 安君一挙 天地皆震

 幸徳は1901年に刊行した『廿世紀之怪物帝国主義』において日本の侵略的傾向を強く批判していた。対外膨張を国家の発展と無批判に肯定する世論の中で、帝国主義は国内の貧富差から目を背け、専制政治家の名誉心と野心を満足させるための手段であると冷静に分析した。

 幸徳にとって日本の侵略と戦う韓国の人民は共感と連帯の対象であった。幸徳が逮捕された大逆事件と韓国が植民地化された韓国併合は共に1910年の出来事である。日本でも韓国でも侵略と差別に反対する人民は弾圧されていった。
 
 他民族を支配・搾取する政府が自国民を守ることはない。支配・搾取の対象は自国民にも向けられる。平和憲法を有する現代の日本でも経済進出という形での帝国主義的側面は存在する。また、過去の戦争犯罪の追及も十分ではない。そのために海外の市民運動が「反日」という形で噴出することは当然である。反日の声に嫌韓や嫌中で条件反射するのではなく、共感と連帯で応えられるか。100年前の幸徳に学ぶべきことは多い。

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[52910] 日清戦争
名前:明石晶
日時:2009/10/23 21:20
そもそも日清戦争のおかげで朝鮮は独立できたわけですが、独立
後はいったい何をやってたんですかね。
閔姫が国をボロボロにしただけじゃないですか。
で、独立能力がないと判断され、金玉均も「もはや日本に頼るし
かない」と考え、併合に至ると。


自分たちで独立もできず、独立後も自分たちで国を運営できない。
その不甲斐なさをまず省みたらどうですか。


日本人はあなた方朝鮮人が優越感を感じるためのおもちゃではあ
りません。
しかも、勝手に日本に居座り「強制連行された」と嘘をつく。
韓国に住んで日本を批判するならまだしも、日本にお世話になっ
ていながら、あることないことでっち上げ、日本を批判して自尊
心を満たす。卑怯そのものです。

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[52909] 小中華主義から脱却できない人
名前:明石晶
日時:2009/10/23 21:14
>[52905] ああ、痛恨の至りなり、憤懣の極みなり。
>名前:李喜鳳
>日時:2009/10/23 20:02


自らの民族の落ち度、情けなさを隠蔽し、全て日本の責任に押し付ければ済む
と考えている朝鮮人の本領発揮ですね。
現在の金正日体制を妥当する勢力がほとんど現れず、日本で生命の危機もない
環境で「差別だ差別だ」と繰り返す在日朝鮮人の現状を見ると、昔も今も変わ
らないなと感じます。




> 明石晶様が次のように書かれました。
>>「伊藤博文は朝鮮併合反対派だったんですけどね。」
>
>そのような事実はありません。


伊藤博文が朝鮮併合に反対していたのは事実です。
その理由は、莫大な金がかかるからですね。
未開の地、朝鮮半島を開拓するとなると日本からの持ち出しが大きくなり、日
本人の経済負担が重くなるからです。
ちなみに、寺内正毅が賛成派でした。

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[52905] ああ、痛恨の至りなり、憤懣の極みなり。
名前:李喜鳳
日時:2009/10/23 20:02
明石晶様が次のように書かれました。
    >「伊藤博文は朝鮮併合反対派だったんですけどね。」
そのような事実はありません。

伊藤博文は、「大阪会議」を斡旋した人物であり、維新の三傑なき後の指導者として辣腕を振るいました。

「大阪会議」―つまり、江華島事件のあとの、閔姫虐殺につながり…そうして、
侵略の第一歩としての「日韓議定書」を強要し、その総仕上げとして
1905年、「第二次日韓条約(乙巳保護条約)」を結ぶにいたりますが、
伊藤博文は、この条約の特命大使を自らかって出たのでした。


日清戦争を契機に日本の資本主義経済は飛躍的な発展を遂げましたが…
「三国干渉」から危機に直面したと感じ、
「将来はどうしても商業上、工業上等に付いて着目する点は、支那を除いて無し」として
『併合』に向かって邁進していったのです。


11月10日ソウル入りし、15日、韓国皇帝に謁見した伊藤博文は、「保護条約」締結を強要しますが、断られ、

11月17日、駐屯日本軍に王宮を包囲させたうえで、直接、朝鮮政府の閣議の席に乗り込み、
大臣一人一人に、条約に賛成か反対かと審問していったのですが、
それは恫喝するという態度であり、
挙句は、参政大臣(総理大臣)に暴行をはたらきました。
調印書を筒にして、頭を殴ったのです。儒教の国においてありえない失態です。
屈辱のため席をけって退室した参政大臣は卒倒してしまいました。)

   * これは、日本国の官による資料からの抜粋です。
   「伊藤特派大使内謁見始末」『日本外交資料集成』6の上、所収)

つまり、皇帝、総理大臣抜きの調印とあいなったわけです。


これは、すみやかに朝鮮民衆の知るところとなり、
11月20日、皇城新聞社長、張志淵みずからが筆をとり記事にしました。
「ああ、痛恨の至りなり、分懣の極みなり。…略…。痛なる哉、恨なる哉、同胞よ、同胞よ、…略…」


伊藤博文が恐れたように、義兵の反乱は相ついでいきました。
その流れのなかで、安重根による伊藤博文の暗殺がおこりました。


林田記者が、ここで幸徳秋水について書いてくださり、読者として胸を熱しています。


朝鮮において、日本が義和団(義兵闘争を日本ではこう呼ぶ)鎮圧たけなわのころ、
日本において、幸徳秋水は新聞『萬朝報』に、「非戦争主義」という一文を書き、
帝国主義の軍隊に痛烈な非難の矢を放ちました。
当時としては侵略的国家主義と対決した、稀なる知識人でした。

その幸徳秋水が、「日韓併合」直前に、大逆事件という冤罪によって逮捕・処刑さてしまった
とは象徴的であるといえるでしょう。


また、石川啄木は、「地図の上、朝鮮国にくろぐろと、墨をぬりつつ、秋風を聴く」と、歌に詠みましたが、
生前、表に現われることはありませんでした。
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[52893] 皮肉にも伊藤博文暗殺が、朝鮮併合への道を作った
名前:明石晶
日時:2009/10/23 12:48
伊藤博文は朝鮮併合反対派だったんですけどね。
伊藤が暗殺されたことによって反対派の勢力が弱まり、朝鮮併合
への道が開かれたのです。
日本の教科書やマスコミはこのことに触れませんけど。


「日本人の偉い人を暗殺したから英雄」と思考停止で英雄扱いし
ている韓国に「連帯」などと主張しているうちは、日本における
嫌韓もなくならないでしょうね。
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[52892] 安重根 義士 逝去100年
名前:八代勝美
日時:2009/10/23 12:21
  安義士が、旅順刑務所で処刑されてから100年が経過した。
 安義士の「東洋平和論」今でも そのまま通用するものである。
 1945年以前でも、安氏が書いたもの 紹介され その意味すると ころ伝えられておれば、中華民国、朝鮮にたいする偏見など多少 は緩和したとおもわれるが、当時 帝国大学を頂点とする
知識人(単なる物知りか?)は目を向けなかった。
  1945年以降でも 研究対象としてすら 取り上げられていない ことに 日本における知的荒廃 感ずる。

   安重根事件公判記」(発行所 ソウル正音社 正音文庫78)
及び「安重根 遺稿集」( 発行所 ソウル學民社)を読み
  日本でも 安義士研究会など発足させればと思う。





  
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10月12日〜10月17日 

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