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【特集・連載】1971年9月27日 日の丸旅客機YS11の挫折 早すぎた量産打ち切り2007年6月27日 紙面から
霞が関の官庁街とオフィス街の境目となる東京都港区の虎ノ門交差点。人や車がひっきりなしに行き交う一角で現在、ビルの建て替え工事が進んでいる。ここにかつて、日本初の純国産旅客機「YS11」を手がける拠点があったことを知る人は多くはない。 「日本航空機製造株式会社(日航製)」。通産省(現・経済産業省)が中心になり一九五九年、新三菱重工(現・三菱重工)、川崎航空機(現・川崎重工)、富士重工ら機体製造会社にも出資を募って設立した特殊法人だ。 航空関係者にとって悲願だった“日の丸旅客機”は試作機を含めて百八十二機製造、世界中の空に送り出した。六四年に運輸当局の検査に合格、同年開かれた東京オリンピックでは聖火を輸送するなど華々しく活躍した。同じ年に開業した東海道新幹線とともに戦後復興の象徴として、国民の熱い歓迎を受けた。「キーン」という独特のエンジン音は熱烈なファンを集め丈夫な「名機」との評価もあったが、その後、「日本の翼」は失速する。後継となる独自開発の国産旅客機がないまま、国内での営業は昨年九月に幕を下ろしてしまった。 「日航製はすでに資本金(七十八億円)をはるかに超える損失が発生、このまま放置すれば経営継続は不可能」−。七一年九月二十七日、通産省の航空機工業審議会はYS11事業の赤字が危機的であると指摘、国が中心となって税金による赤字の穴埋めが必要と答申した。事業の将来は「販売済みの交換部品販売や債権回収を行う」と“店じまい”を勧告、日の丸旅客機計画の挫折が既定事実化した。累積赤字約三百六十億円。うち政府補助金など国民負担は約三百億円にも上った。 「上司からは『決まったよ』と聞かされただけ。相談はなかった」。日航製の取締役技術部長だった島文雄(88)はもの静かな口調ながら悔しさをにじませた。 なぜ事業は赤字まみれになってしまったのか―。YS11は国内機体製造六社が設計・製造を分担し、三菱重工小牧工場で機体を組み立てる分業システム。六五年から全日空、フィリピンの航空会社などに販売を開始。最盛期の六八年には四十四機を生産、四十九機を販売するなど活況を呈し、売り込み先は北米、南米、アフリカ、欧州と広がった。 しかし、販売数とは裏腹に赤字はかさむばかりだった。島は「(新参者の購入に応じる航空会社は)経営難で資金力の乏しい二流、三流のところが多かった。分割払いにしたものの、支払いも滞ることが少なくなかった」と振り返る。 例えば、ペルーのランサ航空。購入余力がないため機体をリースしたが、リース料の支払いが滞った末に倒産。資金回収は困難になり、機体は債権者に押さえられてしまった。島は取り戻すため長時間の裁判に忙殺された。 さらに過酷だったのが同業他社との販売競争。航空先進国の欧米には、YS11に競合するメーカーとしてフォッカー(オランダ)などめじろ押しだった。日航製が売り込み先を決め、セールスに入ろうとすると先回りし、驚くような低価格での販売や、低金利の長期分割払いを提示した。対抗するには、出血覚悟の条件を提案せざるを得なかった。 YS11はエンジンが英ロールス・ロイス製なのをはじめ、操縦席の計器類など主要備品は輸入品に頼っていたため価格は割高。試作機で五億六千−五億八千万円もした。対するフォッカー製は三億円強。日航製は一億円前後も値引きしたが、これらは当然、赤字を増やすことになった。 YS11の設計士で日本航空機開発協会常務理事も務めた鳥養(とりかい)鶴雄(76)は「機体メーカー各社は(商品を高く買ってくれる)防衛産業向けの商売に慣れていたためコスト意識に乏しかった」と指摘する。 「造れば造るほど赤字」。赤字拡大に対して野党やマスコミ、さらに世論は批判一色になった。通産省と機体メーカーは計二十三億円もの増資を行うなど量産を支援したが、七〇年になるとさすがの通産省も腰が引けだし、生産打ち切りに傾いた。七一年のドル切り下げで、ドル建て債権を多く持っていた日航製は損失が拡大、ついに“店じまい”勧告が出されるに至る。 鳥養は量産中止の判断を今も悔しがる。「航空機は最初の百機近くまでは赤字が累積するもの。続けていれば部品価格も生産工程数も下がり、展望が見えてくるはずだったが…」。島も「ある程度赤字覚悟で続ける粘りが必要だった。四、五百機造れば何とかなったのではないか」と口にした。 実際、売上高でボーイング社を抑えて世界一(二〇〇五年)の座に昇りつめたエアバス社は、仏独政府の手厚い支援を受けながら三十年掛けて伸びてきた。業界三位のボンバルディア(カナダ)、四位のエンブラエル(ブラジル)なども成長する過程で政府の支援が大きく、早々と見切りをつけた日本政府と対照的だ。 YS11後、政府は旅客機の独自開発をあきらめ、他国との共同開発路線に転換した。結果的に中途半端な国策事業に終わり、国民負担など授業料は高くついた。 現在は、ボーイングの機体製造の一部を担うほか、YS11以来の国産旅客機となる「MRJ」計画が三菱重工を中心に商品化に向け、検討が進んではいる。だが、市場戦略に最も重要とされる部分、航空会社とのパイプづくりや販売後のアフターケアのノウハウなどYS11の貴重な経験が生かされてはいない。 一貫して国産旅客機復活のために活動してきた鳥養は、過去の失敗を踏まえつつ、後輩に辛口のエールを送る。「いい飛行機は造れてももうかる飛行機にならないとだめなんだよ」 =文中敬称略 (上田融) <プレーバック> 国内営業終了、自衛隊などで多数現役日本の航空産業は零戦や隼(はやぶさ)など軍用機で世界に誇る技術を持っていたが、戦後はGHQにより日本企業の飛行機製造が禁止された。この禁止措置の解除を受けて、1956年に通産省(現・経済産業省)が国産民間機計画を打ち出した。同省は、技術の最先端である航空産業の振興で(1)関連産業のすそ野の拡大(2)輸出振興による外貨の獲得・国際収支の改善を目指した。主導したのは故赤沢璋一航空機武器課長で、「YS11の生みの親」とされる。 YS11は、地方空港を結ぶことを想定した双発プロペラ機で定員六十人余。日本国内での営業は昨年9月に終了。昨年12月現在、自衛隊や海上保安庁の28機は現役で海外でも17機が活躍。 名機の評判があった一方で、開発以後の販売戦略や、アフターサービスをどうするか、といった視点が欠けていたため、国の対応は後手を踏んだ。その結果、赤字を拡大させ、国産独自開発計画はとん挫した形に終わった。
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