−イラクから帰って−
陸上自衛隊第一次イラク復興支援群長(一佐) 番匠 幸一郎
内外ニュース東京懇談会7月例会は14日、東京・キャピトル東急ホテルで行われ、陸上自衛隊第一次イラク復興支援群長の番匠幸一郎一佐が「イラクから帰って」と題して講演した。番匠氏は「現地に日の丸を掲げ、後続部隊のためによい基盤を作り、全員元気に帰ってくる、の3つを目標にして行った。われわれの支援活動は、サマーワの人だちから評価してもらえたと実感している」と語った。同氏は「後続隊の活動に対し、引き続き温かい支援をいただきたい」と結んだ。 (講演要旨は次の通り)
私どもは今年の2月中頃から5月末までイラクで活動してきた。出発の際、私は隊員に3つの目標を話した。現地に行って日の丸を早く掲げよう。われわれに続く部隊のためにいい基盤を作ろう。そして全員が元気で一緒に帰ってこよう、と。
現地に到着した翌日、イラクの旗と日の丸を掲げたが、じつは日本から準備していったイラクの旗には、真ん中に、サダム・フセインが書いたとされるコーランの一節がある。現地に着くと「その旗を使うのは適切ではない」というアドバイスを受けた。
われわれが持っていった旗のうち、オランダは青白赤、イラクは赤白黒の3色だ。そこでオランダ旗の青の部分を切り取り、イラクの旗の黒色のところをオランダの旗に縫い付けた。そして真ん中にマジックインクで緑色の星を描いた。われわれが交代する5月26日まで、その旗を毎日掲げていたわけである。
隊の編成は政府の基本法により約600名と定められていたので、その枠内で編成作業を進めた。私の連隊では1000名の中から約100名を連れて行くに当たって、8割くらいの隊員が 「ぜひ行きたい」と熱望したので、残留隊員を説得するのに困った。
モノについては、基本的には日本で準備した。砂漠、高温の中でどのようなものが必要なのかよく分からないので、日本から膨大な装備品を持って行くことになった。
全部で1万トンくらい、車両約200両、コンテナにして千本を超えるものを、8000キロ離れた現地に特って行くという、非常に大がかりな 「戦略展開」をすすめてきた。
訓練も工夫した。特に重視したのは射撃である。われわれの射撃は通常何百メートルか先の敵を狙撃するというのが中心の訓練である。今回は、もっと近い距離で敵か味方かを瞬時に識別しながら、パッと動作をするような射撃もしなければいけない。弾についても、短期間に通常の訓練の何年分かに当たる弾を使って、隊員に自信を深めさせ、練度を上げた。
千歳の基地から政府専用機でクウェートに向かい、そこで約1週間、現地の気象や交通事情の熟知、高温下の射撃訓練などを行った。
クウェートからイラクに入った。国境を越えた途端に様相が一変した。まず見えたのがT−62という旧ソ連の戦車の残骸であった。湾岸戦争当時のものと思われる戦車が、朽ち果てたまま放置されている。鉄塔が倒れ、送電線もちぎれたのが多い。高層ビルはまったくなく、土塀づくりの古い家にテントのようなものを張り、貧しい身なりの子供がいる、といった光景がずっと続いた。
クウェートからサマーワまでは約430キロ。東京から大阪の手前くらいの距離を約10時間、車を連ねて前進した。砂漠の2月はいい時期だそうで、黄色いタンポポのような花や白い花が至る所に咲いていた。しかし花を楽しむという感じではなくて、むしろ荒涼たる風景が続くのを驚きながら進んでいった。
サマーワはユーフラテス川沿いに開けたところで人口は15万人ほど。イラクでは中規模の都市である。ムサンナ県の県庁所在地で、もともと遊牧民と土着の農耕する人などが集まった町だ。時々
ニュースで伝えられるナジャフ、カルバラといった激戦のある土地からは、100キロくらいしか離れていない。
私たちの目の前を米軍の重車両がどんどん通過していく。戦闘が激しい時には頭上を戦闘機がバンバン飛んでいく状況もあった。
われわれは、サマーワの町から6キロほど離れた郊外の土漠の中に宿営地をつくった。もともとその土地は、湾岸戦争の時の陣地の跡だったと思われた。不発弾というか、放棄した弾のようなものが残っている場所もあった。地表面はフカフカ、固い土ではなかったので、整地して砂利を敷き、そこに建物を建てた。
最初は日中は最高30度、最低は3度か5度、と寒い日が続いた。だが日が経つと温度が上がり、5月末頃には日中の温度は50度、最低気温も30度くらいになった。空気の温度が50度だから、自分の体を触ると冷たく感じる。血圧もどんと下がる。血管がワーッと開いてくるのだと思う。
水をたくさん摂るのだが、手洗いにいくことはほとんどない。防弾チョッキを脱いだ途端にパッと乾き、あとは塩が噴き出て、真っ白になってしまう。
装備品にも影響が出た。高速走行用に空気圧を設定している車を長時聞とめておくと、タイヤが破裂してしまう。100円ライターを日なたに置いていたら爆発したとか、50度くらいしか測れない日本の寒暖計を屋外に置くと、赤球の部分が爆発してしまう。外気に当たると、ドライヤーを顔に吹き付けられたような状況であった。
砂嵐もベビーパウダーのような細かい粒子で、突然黄色の風が吹いてくる。日本では武器の手入れには薄い油を塗るのだが、向こうで油を塗っていると砂をかんでしまい、作動不良を起こしてしまう。だから砂をきちんと拭き取ることが必要であった。
現地の治安については、イラクの中では比較的安定している地域だといわれていたが、実際そのように思った。バクダッドを含んだ北の方、スンニトライアンクルの辺では、毎日のように自爆テロとか激しい戦闘が行われているが、われわれのいた所ではそのようなことはなかった。
ただ銃声はほとんど毎日聞こえていた。何事かと調べたら、彼らは銃を家庭でも持っている。日常も平気で持ち歩く。いわゆる“刀狩り”も十分できていない。もともと自分の身を守るために武器を持つことは許されているので、爆竹代わりというと変だけれども、冠婚葬祭で銃を撃つ。冠婚葬祭の時はだいたい銃を上に向けて撃つので、特に大きな問題はない。
しかし、いずれにしても決して油断してはならないと終始考えていた。自分たちが脇をしっかり締めて、われわれを襲ったら痛い目にあうぞ、という構えをしっかりとみせることが重要だという態度で臨んでいた。宿宮地は砦のようにつくった。鉄条網を張り、壕を掘り、土手をつくり、周りをハイテクセンサーで囲み、誰も入ってこられないようにした。
われわれが行った時には、38力国の部隊が現地で展開していた。隊員たちには、軍隊のオリンピックと同じだ、金メダルを取るつもりでやるぞ、とよく言っていた。車の整列、テントの設営などは直線・直角。規律、宿営地の精強性において、絶対に隙を見せない。各国の軍隊の人たちがわれわれの宿営地を見学にきたが、「これはイラクにおけるモデル駐屯地だ。日本の自衛隊の宿営地を見に行け」と言い伝えてくれる人もいた。
現地での活動は、給水、医療、施設の作業などであった。復興支援が遅いとか、現地のニーズに合っていないとか言われたが、そんなことはまったくないと思っている。迫撃砲の対応のため、活動をやめて(宿営地の)中に閉じこもっているのでは…とも言われたが、給水については一日もやめたことはないし、医療、施設支援についても基本的には作業や調整を休むことはしていない。
日本から鯉のぼりを持って行き、5月5日にユーフラテス川に掛けた。近隣の学校を訪問してミニコンサートをしたり、歯磨き指導、折り紙、繩跳びを教えたりなどもした。われわれは復興支援という直接的なものと同時に、イラクの人たちのやる気とか夢の後押しをすることも重要なことだと考え、現地の人だちとの交流を深めてきた。
今回、私たちは本当に幸せだったという気がする。多くの方々から支援をいただき、私たちは活動できた。陸海空の仲間、海上自衛隊の『おおすみ』が装備品を完璧な状態で届けてくれた。航空自衛隊は政府専用機でわれわれを送ってくれ、タリルという所までC−130でモノとか隊員の輸送をやってくれた。
宿営地では外務省の外交官5名が一緒に働いた。われわれ(自衛隊)の歴史で初めてかもしれない。家族にも地域の皆さんにも「黄色いハンカチ運動」でサポートしていただいた。
また、現地に行って派遣の意義を実感させてもらった。子供たちは非常に喜んでくれたし、われわれのつくった水によって病気がなおったとか、体の調子がよくなったとかということもよく聞いた。学校、道路などの修復も感謝された。だから99・9%の現地の人たちに評価してもらったと実感している。
現地で一緒に仕事をしていたイギリス、オランダ、アメリカの人だちからも「日本はよく来てくれた」と感謝の声をよく聞いた。
私は日本人、あるいは自衛官でよかったと思っている。現地の人たちはわれわれに手を振ってくれる。これは日本人全体に対して振ってくれているのではないかと感じた。今年は日露戦争百年だが、日露戦争で戦った日本人の生ぎざまをアラブの人たちはきっと忘れてはいない。
また大東亜戦争後の混乱と荒廃の中から、今の日本の姿に復興したプロセスを、イラクの人たちは見ているだろう。最近のことになると、サマーワには日本のODAで建てられた総合病院がある。そこで働いていた日本人の素晴らしさを、サマーワの人たちは今も語り草にしている。
自衛官でよかったというのは、向こうで迫撃砲を撃たれることもあったが、隊員は全然ひるまない。ある時イギリス軍の大佐と話していると、「最初から平和任務だと思って取り組む部隊は失敗する。軍事組織という気概を持ち、しっかりと訓練のできた部隊であれば絶対に成功する」と。私は「自衛隊は後者である」と断言した。
日本に帰ってきてからほとんどの隊員たちは 「また行きたいなあ」と言っている。私もこの隊員だちと一緒ならば、どこに行っても仕事ができるような気がする。私は第二次隊の隊長に指揮権を渡して帰ってきたが、これから三次隊、四次隊とつながっていく。彼らにも引き続き、温かい支援をいただきたい。
(週刊「世界と日本」1633号。講演録はじゅん刊「世界と日本」1024号に掲載) 戻る
|