9. 雨の降る朝



日曜日、目が覚めると突然雨のようなキスが降ってきた。
「わっ!先輩!!」
僕は不意打ちのキスに驚き、ベッドから飛び起き四つん這いの格好で逃げ回った。
あまりにも必死で我ながらみっともない姿だったと思う。
彼はいとも簡単に遠ざかる僕の足首を掴むと、自分の方へと強引に引っ張った。
「あっ」
僕はシーツの上をずるずると滑って、不本意なことに彼にどんどん近づいていく。
瞬く間に上から覆い被されて、僕は籠の中の小鳥そのもの。
逃げ道がなくなってしまった。
その状態で落ち着くと、僕は起きてから急に動いたせいかくらくらしてきた。
「う・・・。先輩、急に何するんですか?」
暗くなっていく視界に手を当てながら、僕は弱々しい声で抗議した。
「一緒に出かけよう」
嬉しそうにそう言う彼を見上げて僕は、下から覗いても目が見えないなんてうまいことカットしてあるなあこの髪型、と思っていた。
「どこに?」
ぼんやりとしている僕ににこりと微笑むと、彼は僕の手を引きバスルームへと連れて行った。
洗面台の前に立たされ、僕は鏡に映る実際に見るよりも背の高い彼を見ていた。
「顔を洗えってことですか?」
「そう。支度が出来たらご飯を食べて、出掛ける」
それだけ言うと、彼はバスルームから出て行った。
「だから、どこに行くのか教えてよ・・・」
彼のいなくなったバスルームでそう呟くと、僕は黙って顔を洗い始めた。
顔を洗って思考がクリアになってくると、僕は改めて先ほどのことを思い出していた。
許可なくキスしてくる冷たい唇とか、細い割には力強い腕とか、僕の意思は全く気にしていない彼の強引な態度・・・。
怒りたいはずなのに、怒れない自分がいた。
それどころか、彼のそういった一面を見るたびに強く惹かれていく。
図書室でいつも見ていた物静かな彼からは想像がつかなかった。
こんなにも子どもっぽくて、淋しがり屋だなんて。
鏡に映るほんのり赤い自分の顔を見たとき、僕はふと思った。
あれ・・・?僕ってマゾだったの?
頭を抱えたくなるような事実を振り払うように、僕はもう一度顔を洗った。
リビングに出ると彼の姿がなかったので、僕はベッドルームへと続くドアを開けた。
すると、彼はクローゼットを全開にして今日着る服を選んでいるところだった。
やけに暗いクローゼットだなあと思っていたら、かかっている服が綺麗に黒一色だった。
僕は思わずそれを凝視した。
噂は本当だった。
彼は、黒い服しか着ないのだ。
彼はかちゃかちゃとハンガーにかかっている服を出してはしまって、どれを着るのか決め兼ねているようだった。
「あの・・・先輩」
僕の声が耳に入ると彼は振り向いた。
「これは?」
そう言って差し出したシャツは、彼が昨日着ていたシャツとどう違うのかさっぱりわからなかった。
「えっと・・・それでいいと思います」
僕は適当に返事した。
彼はクローゼットに向き直ると、その黒いシャツにするりと袖を通した。
インナーもスキニーパンツも黒で、真っ黒黒だ。
本当に魔術でも使えそうだ。
よし、とこっちを向く彼に向かって僕は質問を投げかける。
「どうして黒い服しか着ないんですか?」
「落ち着くから」
沈黙が流れた。
彼の言葉にこの会話を終わらせたいという響きがあったので、僕はそれ以上聞くのを止めた。
困っている僕を笑うと、彼は僕に歩み寄ってきた。
「シャルルも着替えよう」
彼は何を思ったのか、はいと返事をしようとした僕のパジャマのボタンに手を掛けた。
「うわっ!ちょっと、服くらい自分で着替えます!!」
派手に身をよじる僕に負けたのか、彼は残念そうにため息をついた。
「じゃあ服くらい僕に選ばせてよね」
「え、別にいいですけど」
確かに彼は(真っ黒だけど)いつも洗練されたスタイリッシュな格好をしていた。
まさか僕の私服に文句をつける気なのだろうか。
しゃがみ込んで僕のトランクの中を漁りながら、彼はへえと声を漏らした。
そしてまた無言で僕の服を出したり畳んだりしていた。
僕は頭の上にはてなマークを乗せたまま彼の背後に立ち尽くしていた。
しばらくそんな光景が続くと、彼はぼんやりと言った。
「君の私服って数えるくらいしか見たことないけど・・・すごくセンスがよくて可愛い。自分に似合う服を着ていると思う」
彼は僕をちらりとも見ずに褒めた。
トランクの中というよりは、頭の中に浮かぶ僕の映像を見て言っているようだった。
服を一枚一枚じっくりと見つめ、脳内の僕に照らし合わせている。
「上品な形のパンツとか、淡い色がシャルルらしい」
「らしい」。そう言った彼の僕に関する情報が、どれだけ少なく、狭い世界で得たものかを僕は知っている。
彼はその頼りない情報を元に、僕というイメージを構成している。
目の前にいる僕と彼の中での僕を、必死で繋ぎ合わせようとしている。
何度か見かけた慣れない僕の姿を、懸命に留めようとしたのだろうか。
焼き付けて、閉じ込めてしまいたい気持ちだったのだろうか。
なんて健気なのだろう。
僕は急に胸がいっぱいになって、彼の細い背中を静かに抱きしめた。
そうせずにはいられなかった。
「シャルル?」
伝えたくても、僕の中に生まれたこのささやかな気持ちはあまりにも柔らかく不安定で、言葉にしたらいとも容易く崩れてしまいそうだった。
だから僕は黙っていた。
彼も背中越しに振り向いて僕の名前を呼んだきり、何も言わなかった。
冷たい彼の手が僕の手を包み込んでも、僕の中は波がさざめいたように揺れて治まることはなかった。
しばらく目を閉じて彼の体温を感じ取っていると、突然彼が小さく呻いて体を強張らせた。
「先輩?」
「シャルル、足痺れた・・・」
「ええっ!」
僕は思わず体を離したが、彼はしゃがんだまま固まっていた。
その姿があまりにも可愛くて僕は笑いを堪えることができなかった。
「ぶふっ」
「わ、笑ったな・・・」
彼は怨めしそうに僕を見たが、相変わらずの体勢だった。
「だって先輩・・・可愛い!」
そういって指で彼の足を突いて遊んでいると、痺れが治ってきたのか彼は僕の方を向き腕を強く掴んできた。
「こっちに来なさい」
「うわっ」
「お仕置き」
腕を引かれ、僕は勢いよく彼の目の前に跪くような格好で崩れ落ちた。
そして彼は僕のパジャマの裾を持つと、勢いよく捲り上げた。
何をされるのかわからなくて怯えていると、僕のパジャマはそのまま腕から抜き取られてしまった。
「わっ!何するんですか!!」
「何って、着替え」
そう言って悪戯に笑う彼の顔が悪魔に見えた。
「へ・・・変態!!」
僕が逃げようと彼に背を向けると、今度は下のパジャマに手を掛けたれ引っ張られた。
「あっ・・・嫌だ!」
既に上半身裸の僕は、パンツ一丁になるまいと必死にパジャマを掴んだ。
普段人前で着替えたりすることがない僕は、肌を他人に見られることに慣れていないので、本当に顔から火が出るのではないかと思うほど恥ずかしかった。
「シャルル・・・体がピンク色だよ。可愛い」
「うるさい!!・・・ああっ!」
彼は笑いながら容赦なく僕の下のパジャマを剥ぎ取った。
そして床に倒れたパンツ一丁の僕を、彼はにやにやしながら見下ろした。
駄目だ。
この人は本当に変態、いや悪魔だ・・・。
「綺麗な体だね。・・・何だか変な気持ちになりそう」
さらっと危険なことを言うと、彼は僕のすぐ側にしゃがみこんで僕の体を舐め回すように見始めた。
僕は動物園の檻の中にいるような気持ちになった。
「そんなにじろじろ見ないで下さい」
「可愛いからしばらく視姦しててもいい?」
「シカン・・・?もう、何でもいいですから早く服を下さい!」
「ふふ。ここ、舐めてあげたいな」
甘い声でそんなことを言うと、彼は僕の胸の突起を撫でるように触った。
あまりにも驚いて声が出ない僕を尻目に、彼は嬉しそうに立ち上がると僕のトランクから服を持ってきた。
「ほら、変なことしないから起き上がってごらん。服を着せてあげる」
もう十分「変なこと」したくせに・・・。
これ以上体を見られるのも触られるのも嫌なので、僕は大人しく体を起こした。
彼はまず、僕に白いウインドカラーのワイシャツと白い細身のパンツを着せた。
そして次に黒いサスペンダーをして、黒のスカーフを襟元に器用に巻いた。
「ベッドに座って」
僕は黙ってベッドに座ると、彼に足を持ち上げられて、黒のレースアップブーツを履かされた。
「最後に・・・このジャケットは寒くなったら着ればいいから持ってて」
そう言った彼に白いジャケットを渡された。
「うん。全体的に白いけどゴシックで可愛い」
彼は満足げに頷いたが、僕はこのまま葬式にでも行くのかと思っていた。
そして服を着て落ち着いた僕は、やたら上機嫌な彼を見て眉間にしわを寄せた。
「僕、先輩の着せ替え人形じゃないんですよ」
「僕が足痺れてるのに突いたりするからだよ」
彼は笑うと、僕の手を握り優しく引き寄せた。
そして、彼の薄い唇が近づいてきて僕の唇に触れた。
それはゆっくりとした瞬きほどの間だった。
「さぁ、行こう。もたもたしてたら夕方になっちゃうよ」
彼は僕の手を引き、ドアを開けた。
廊下に出てからも僕は、彼の中で僕にキスをするという行為は呼吸するのと同じくらい自然なことになっているのだろうかと、そればかり考えていた。
僕は彼にキスされる度に、こんなにもどきどきしているのに。
 




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