7. 甘い余韻



紅茶を淹れながら、先輩がため息混じりに言った。
「さっきはごめん。君があんまり泣くから・・・どうしたらいいのかわからなくて」
僕は、彼の横で紅茶の葉が踊るのをじっと見ていた。
というのは、恥ずかしくてそれこそどうしたらいいのかわからなかったから。
寝る前にリュカとキスをする習慣があったけど、それは頬にするごく一般的な挨拶のキスだったし、同性に、それもあんなに深く唇にキスされたのは初めてだったので僕は困惑していた。
さっきから体が妙な熱に支配されてしまって、意識が途切れ途切れだ。
僕は、一体どうしてしまったのだろう。
紅茶を淹れ終わると、彼はティーセットを持ってリビングへと歩いていった。
そしてそれをテーブルに置くと、再びキッチンに戻ってきて、にこにこしながら僕に聞いた。
「甘い物、好き?」
僕ははっとして縦に首を振った。
「ちょうどおやつの時間だから、ケーキ食べよう」
彼に言われて僕は、もうそんなに時間が経ったのかと思った。
真っ黒なカーテンが窓を遮っているので、外が見えないのだ。
今日は休校日だから何の問題もないのだけど。
心なしか嬉しそうな背中の彼が銀色の大きい冷蔵庫を開けた。
冷蔵庫はがばっと音を立てて、開いた口から白い冷気を吐き出している。
それがもやもやと床へ降りていき、彼の足元を覆った。
こうして白い靄の中に立つ彼を見ると、やはり幽霊のように見えた。
「ショートケーキとフルーツタルトとチーズケーキと・・・・どれがいい?」
僕は、全く生活感のない、糖分とは無関係そうな彼がそんな可愛い単語を口にしたのがおかしくて思わず吹き出した。
それと同時に、僕に気を遣ったのではなく、彼が本当にケーキが好きなのだとわかった。
「何かおかしかった?」
彼が少し驚いて振り向いた。
「いえ、すみません。ただ・・・ちょっと可愛かったから」
僕が笑いを堪えながらそう言うと彼は顔を赤くした。
色素の薄い彼の顔は、本当にびっくりするほど真っ赤だった。
しばらく彼が恥ずかしそうにして何も言わないので、僕は困ってしまった。
「冷蔵庫、冷気が逃げちゃいますよ」
ごまかすように僕がそう言うと、彼はああそうだった、と思い出したように冷蔵庫に向き直って、言った。
「ソファに座ってて」
僕はまたもやあのソファに座った。
なんだか、あんなに激しくキスをした場所でケーキを食べるのは変な気がした。
「お待たせ」
どん、とテーブルにホールのショートケーキが置かれて、僕は目が点になった。
・・・何だ?
ここはケーキ屋さんだったか?
どうして冷蔵庫にホールのケーキが入っているんだ?
あの冷蔵庫にはさっき言ったケーキの種類全てがホールで入っているのか?
こんなに大きいケーキをどうやって二人で食べるんだ?
ひょっとして、これから友達を大勢呼んで僕の歓迎パーティーでもしてくれるのだろうか。
そうだ、そうに違いない。
「どのくらい食べる?」
どうやらパーティーはなさそうだった。
「えっと・・・その、このくらい」
困惑しながらも、僕はペストリーで売っているごく普通のケーキの幅を指で示した。
そうか、そうだよな、びっくりしたよ。
食べたい分だけ切ってまた冷蔵庫に戻すんだよな。
ホールだったら普通みんなそうするじゃないか。
僕はなんて馬鹿なことを考えていたんだろう。
いくら彼が変わっているとはいえ、このサイズを一気に食べるはずがない。
「あとは僕が食べるね」
違った。
彼が全部食べるようだ。
僕はあまりに驚いたのでそのままソファに倒れこんだ。
「シャルル?」
大食いの先輩は僕の奇怪な行動を見て急いで駆け寄ってきた。
「大丈夫?」
ああ・・・そういえば僕はここに来てから彼に何度大丈夫という言葉を言わせただろう。
彼は倒れている僕の頬に優しく触れた。
「やっぱり僕と暮らすのは・・・不安?僕あまり人と関わらないし、変な癖があっても自分ではよくわからないんだ。だから、」
「違う・・・違います」
彼が今にも自分を否定してしまいそうなか細い声をしていたので、僕は思わず言葉を被せた。
僕は起き上がって、頬にあった彼の大きい割りに細くて骨っぽい手を握った。
「そのままで、いいです。先輩と暮らしたい。」
僕が告げると、彼は安心したように頬を緩めた。
「ただ、僕先輩のことまだよくわからないから・・・もっと知りたい。色々なこと」
そして僕はまた先ほどのような体勢になっていることに気がついた。
これは・・・まずい。
彼は感動して今にも抱きついてきそうだった。
「じゃあ、ケーキ食べましょう。暖まったら美味しくないです」
逃げるようにして僕はテーブルから彼が取り分けてくれたショートケーキの乗ったお皿を取った。
「あ、そうだね。食べよう。」
彼はそう言って僕の隣にすとんと座った。
そしてフォークを握ると、テーブルに乗っているずっしりと大きいケーキをすくって食べ始めた。
一見行儀の悪いように見える彼のその仕草が、目を見張るほど上品で僕はじっとそれを見ていた。
どんな仕草にもさり気ない気品を感じる。
きっと彼は、ずっとそういう環境で育ってきたのだろう。
面白いようにケーキはなくなっていき、原型を留めなくなった頃、僕は彼の空いたティーカップに紅茶を入れてあげるようになっていた。
「あ、紅茶なくなったので淹れてきますね」
立ち上がろうとして、僕は彼の右手に引き止められた。
「駄目。隣に、いて」
寂しそうな彼を振り返って、僕は失礼だとわかっていながらも、フォーク片手に僕の腕を掴んで、彼は今にも僕を食べてしまいそうだと思った。
僕が大人しくソファに座り直すと、彼は僕に言った。
「僕、図書室で三年半も待ったんだ。だから、もう君から離れたくない」
顔がよく見えない分、彼は雰囲気でものを言う。
僕が消えたら、彼は今度こそ本当に自殺してしまいそうなほど深刻だった。
そして僕は、彼が異常なほどの執着心の持ち主だということを思い出した。
僕はそれを少し厄介に思ったが、それ以上に彼に惹かれていた。
図書室で見た彼の淋しそうな姿とか、ものすごい甘党で紅茶にぼちゃぼちゃと砂糖を入れるところとか、遠慮している割にたまに自分勝手なところとか、全部含めて、愛おしい。
彼と暮らしたい、その言葉が次第に本心へと色濃く変わっていった。

シャワーを浴びて、パジャマに着替えて、一つしかないベッドを疑問に思った僕がどこで寝ればいいのかと聞いたところ、彼は当たり前のように答えた。
「僕と一緒に寝るんだよ」
開いた口が塞がらなかった。
「ダブルベッドじゃ不満?」
可愛く首を傾げている彼を見て、サイズの問題じゃない、と思ったが僕は何も言えなかった。
あんなキスをした人と、一緒のベッドで眠るなんて。
僕は、またもや昼間の熱に支配されてしまった。
「おいで」
硬直した僕の手を引いて、彼は半ば強引にベッドへ向かった。
そしてベッドに腰掛けると、立ち尽くす僕を脚の間に引き寄せた。
僕は急激に速くなる鼓動に、息が乱れるのを隠すので必死だった。
息がかかりそうなほど近くに彼の顔があって、僕は恥ずかしくて下を向いていた。
僕の髪か彼の髪かはわからないけど、シャンプーのいい香りが漂ってこの薄暗い部屋を満たしていた。
「君に一つお願いがあるんだけど」
「え?」
僕が彼の顔を見ると、彼は少し照れたようだった。
「これから毎日、眠る前に、君を抱き締めてもいいかな?」
反則だと思った。
これまで勝手に抱き締めたりキスしたりしたのに、ここでそれを言うのは。
だって、今頷いたら全て許してしまうことになりそうな気がするから。
僕は、黙っていた。
「駄目?嫌がるようなこと・・・何もしないから」
僕の額に額を摺り寄せて、彼は甘えるように言った。
ほんの少し傾ければ、またあの唇に触れそうな距離だった。
僕はこの空気にくらくらした。
何もかもが甘く、濃厚で、空間ごととろけそうだった。
眩暈がして、目の前がちかちかと光って今にも倒れそうだ。
「ずるい・・・こんなの」
僕は、吸い込まれるように彼の首筋に顔を埋めた。
それを「許可」と取ったのか、彼も僕の背中に腕を回してきた。
彼の熱い体が僕の体温と重なり、融合していくようだった。
あまりの心地よさに、ため息が出た。
もしかしたら、生まれる前、僕と彼は一つの体だったのではないだろうか。
本当なら、それはきっと運命という言葉で表されるのだろう。
彼の胸の中で、そんな馬鹿げたことを考えていた。
そして僕は、彼からあのケーキのような甘い匂いがしているのに気がついた。
ああ、そうか。
彼の匂いだったのか。
死の予感に似て、甘く、苦しい。
切迫に満ちた匂い。
僕はそのまま、その空気に包まれながら眠りに落ちた。

翌朝、僕はあの薄暗い部屋で、こっそりと目を覚ました。
カーテンの隙間からわずかに漏れる光が反射して、部屋を照らしていた。
目の前には、彼の死体のように真っ白な寝顔。
僕は少し怖くなって彼の頬に触れた。
指先に、ひんやりとした感覚が伝わる。
そのまま滑らかな肌に沿って首筋に指を下ろしていくと、暖かに強く脈打つ部分に触れた。
僕はほっとして目を閉じた。
すると、寝ぼけているのか彼がううん、と唸って僕の体をぎゅっと抱き寄せた。
僕はまだ眠かったので気にせず、夢路を辿ろうとしていた。
しかし、僕は気がついてしまった。
僕の太股に、彼の何か大きなものが当たっていることに。
 




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