3. 崩れゆく感覚



「今日で本の期限過ぎちゃうね・・・」
カフェテリアで柔らかな太陽の光を浴びながら朝食を取っていると、リュカが深刻そうに言った。
僕はハーブチキンを口に含んでいたので何も言えず、リュカを見て眉をしかめただけだった。
・・・しまった、今日だったのか。
「もし今日カラスが本を返しに来なかったら、委員長のシャルルが寮まで取りに行くんだよな?」
朝食を滅多に取らないアルフォンスまでもが、早起きをして、僕の身に何か起きないかと期待している。
「僕、何で委員長なんて引き受けたんだろう」
僕が深いため息をつくと、アルフォンスはコーヒーを一口飲んでから「運命だよ、運命」となぜか満足げに両手を組んで頷いた。
「コーヒーだけなら部屋でも飲めるのに、わざわざカフェテリアまで来るなよ」
僕はアルフォンスを睨み付けた。
「だって、お前、今日何か起きるかもしれないだろ」
縁起の悪いことを嬉しそうに言っているアルフォンスに、何も言う気がなくなって、僕はため息をつきながら最後のハーブチキンを鋭いフォークで突き刺した。
彼の目的が何なのかわからないままニ週間が過ぎようとしていて、僕は相変わらずのん気にこの二人と他愛のない話をしている。
くだらない噂だけがどんどん大きくなって、僕の思考を時々歪めた。
今や彼は大統領を暗殺した張本人にまで昇格していた。
その事件のとき、彼はまだ未熟な精子と卵子でしかないというのに。
ぼんやりと彼の笑顔を思い出して、なんだか胸が苦しくなった。
なぜ本を借りに来たのだろう。
なぜ急に図書室から姿を消したのだろう。
彼は・・・元気にしているだろうか。
そこまで考えたとき、アルフォンスの派手な笑い声で僕は我に返った。
僕は・・・今何を考えようとしていた?
突然、心臓が痛いほどにばくばくと音を立て始めた。
「そろそろ行かないと授業に遅刻するよ」
「もうそんな時間か」
二人が立ち上がって、行くよと僕の顔を見たので僕も頷いて立ち上がった。

そして、ついにそのときはやってきてしまった。
カラスが本を返しに来なかったのだ。
リュカは、僕に何と声を掛けたらいいのかわからないという感じで、黙ってパソコンの周りの整理をしていた。
僕も何だか怖くなってきて、リュカの名前を呼ぼうとした口を閉じて押し黙った。
窓の外を見ると、雲が多いせいかいつもよりも濃い闇が広がっていた。
風が低い音で唸り、枯葉をがざがざと揺らしている。
珍しく図書室に人気はなかった。
何だかまるで、この日のために用意されたような不気味なシチュエーションだった。
パソコンの周りを片付け終わってやることのなくなったリュカが、とうとう口を開いた。
「シャルル・・・僕もついて行こうか?」
優しく僕の髪に触れてきたリュカに、女の子みたいに扱うなよ、と思いながら「一人で大丈夫だよ」と強がってみせた。
その途端、リュカの腕が伸びてきてあっという間に僕を包み込んだ。
制服から伝わるリュカの体温に、思わずうっとりと融けそうになっていると、頭上からため息が聞こえてきた。
「ムーミンがいても、目を合わせてはいけないよ。きっと食べられてしまうから」
ふざけたことを言っているのに心底心配している口調だったので、僕はうん、とだけ言って背中に腕を回した。
そして、僕たちは図書室に鍵を掛けると薄暗い廊下を歩き出した。
六年生の寮棟は、下級生の寮棟とは離れたところに建っているので、その分かれ道まで来ると、リュカと別れなくてはいけない。
「やっぱり僕も行こうか?」
リュカが辛そうに僕を見る。
僕は黙って首を横に振った。
「何かあったら大きい声で叫ぶんだよ?」
「あはは。僕女の子じゃないからっ」
「そうだった」
そうして僕たちは手を振り別れた。
六年生の寮棟に入るのはこれが初めてだった。
造りは下級生の寮棟となんら変わりないのだが、全室一人部屋というだけあって、怖いくらいに静かだ。
点々と光る頼りないアンティークのランプが、色の暗い石畳をぼんやりと照らしていた。
途中、談話室を通り過ぎたが、時間が遅いのか人の気配はなかった。
六年生にもなると、勉強や家の仕事のことなどで忙しくなって、あまり友達と集まる機会がなくなると聞いていたが、まさかこんなに空気が違うなんて・・・。
「あ、あった」
図書カードに書いてあるルームナンバーと、ドアについているプレートを何度も見直す。
「ここ・・・だよな」
僕は、どす黒い大きな扉の迫力に息を呑んだ。
一瞬、ノックするのを躊躇ったが、別に殺されるわけじゃないし、みんな大げさに言ってるだけだ、そう自分に言い聞かせると、僕は心を決めた。
大きく深呼吸をすると、思い切ってドアをノックした。
無機質な音が、虚しく廊下に響き渡った。
僕は、心臓を痛いくらいに弾ませながら、返事を待った。
しかし、しばらく経っても返事がない。
拍子抜けした僕は、もう一度ノックをした。
再び、無機質な音が廊下に響く。
あまりにも大きく響くその音が、得体の知れない何かの気を引いてしまいそうで、僕は急に怖くなった。
お願いだから早く出てよ・・・。
そう願ってもう一度ノックをしてみるも、やはり返事はなかった。
僕は段々と無視をされているような気分になり、悲しくなってきた。
「まさかこの時間にいないのかな・・・」
最後に、駄目元でドアノブを握ってみた。
すると、冷たいドアノブがゆっくりと金属音を立てて、下りた。
「え・・・」
重そうな扉が、不気味な音を立てて薄く開いた。
鍵が、かけられていない。
僕は、あまりの驚きに言葉が喉に詰まって出てこなかった。
ドアが開いたのはいいが、勝手に人の部屋に入ってはいけない、という小心者のモラルと、入ってみたいという好奇心が、僕の中で葛藤した。
しかし、本を返してもらわなくてはいけないという口実にも似た使命が、僕の好奇心をあおった。
「失礼します・・・」
小声でそう言うと、僕はカラスの部屋へ入ろうと、遠慮がちにドアを開いた。
開いたドアから、真っ暗な部屋の中へと光の道ができていく。
そして思い切って部屋に入った途端、不思議な甘い匂いが僕の鼻をくすぐった。
・・・何の匂い?
嗅いだことがあるけど、思い出せない。
生クリームみたいな・・・重くて、甘い匂い。
匂いの正体を突き止めようと、部屋の奥に足を踏み出した途端、それきり僕の足は動かなくなってしまった。
暗くてよく見えないが、そこに・・・何かある。
僕の心臓は急速に縮まり、息が、うまくできなくなった。
怖いくらいに視覚以外の感覚が冴え渡った。
しかし、僕の耳に聞こえてくるのは甲高い耳鳴りの音だけだ。
あとは、先ほどよりも強く感じる甘い匂いと、後ろに誰かいるような気配がするだけだった。
恐怖で固まったまましばらく時間が経つと、目が慣れてきて闇に紛れた黒い影を捉えた。
・・・カラスだ。
カラスが、そこに倒れている。
細長い手足が床に虚しく横たわっていて、黒い衣服の隙間から発光しているように見えるのは、カラスの肌だ。
理解した途端、僕の足は意識とは裏腹にカラスの元へと向かっていた。
床に膝をついて、そっとカラスの頬に触れた。
すると突然、触れた指先に想像していなかった感覚が伝わり、僕の思考回路は停止した。
 




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