2. 悪魔の消失



翌日、僕は朝からとんでもないものを見てしまった。
昨晩リュカたちとあんな話を延々としていたせいだろうか。
「ああ、遅刻しそう・・・」
寝坊をした僕は、廊下を足早に進んでいた。
「何で誰も起こしてくれないんだよ。・・・あ」
視線の先に見えた人影に怯えて、僕は一瞬足をこわばらせた。
向こうから、カラスが歩いてきたのだ。
僕は、平常心を保つのがやっとで、彼の顔を見ることができなかった。
顔の筋肉が強張って、いつも自分がどんな顔で歩いているのか、わからなくなった。
段々と大きくなる足音。
こんなにも穏やかな朝なのに、この一本道の廊下だけ、息苦しいほどに空気がぴんと張り詰めていた。
いよいよ彼とすれ違うところまで近付いたとき、僕は彼が左手に本を持っていることに気がついた。
もしかして、と考える暇もなかった。
彼が持っていたのは、紛れもなくフリー○ーソンの本だったから。
そしてすれ違った瞬間、びっくりするほどの冷たい風が、僕の頬を撫でていった。
僕はなんともいえない虚脱感に襲われ、思わず足を止めてしまった。
はっとしたとき、既に廊下はしんと静まり返っていた。
彼も、足を止めたのだ。
僕は、頭上から氷水をかけられたような感覚に鳥肌が立った。
怖くて振り返ることができなかった。
気付いたときには、僕はその場から逃げるように走り去っていた。
教室に着くと、僕は一目散にリュカの胸に飛び込んだ。
「わっ、何?!どうしたの?」
「怖かったー」
僕は、先ほどの出来事を全部リュカに話した。
「そうか・・・。本当にあの本だったんだ」
さすがのリュカも、青白い顔で苦笑いをしていた。

ある日の放課後、僕とリュカはいつものように図書室のカウンターに座って雑用をこなしていた。
カラスは今日もあの席にいて、例の本を読んでいる。
いつもと変わりない、静かな図書室だった。
こつこつという足音、椅子の擦れる音、リュカのキーボードを叩く音だけが、響く。
僕は、返却された本を一冊一冊チェックしていた。
「あの」
カウンターの向こうから声が聞こえて、僕は急いで返事をし、本を閉じて立ち上がった。
「この本借りたいんだけど・・・」
遠慮がちにそう言ってきた人物を見て、僕は困惑した。
さっきまで席にいたカラスが、来るはずのないカウンターの前に立っていたから。
カラスは、僕が図書委員になってから四年間、一度も本を借りに来たことがなかった。
なぜ今更本を借りに来たのだろう。
あまりの至近距離に、僕の体はあからさまに強張ってしまう。
隣でパソコンに向かっていたリュカもカラスに気づいて、なんともわざとらしい無表情で僕に視線を送ってきた。
「あ・・・この本ですね。ではこちらの用紙に本のタイトルと氏名とクラス、寮のルームナンバーを記入して下さい」
僕が用紙とペンを差し出すと、カラスは無言でペンを走らせた。
カラスが下を向いている間、僕とリュカは目だけで会話。
―リュカ、助けて!!
―無理だよ、どうすればいいのさ。
―わかんないけど、怖いよ!
―大丈夫だよ。多分殺されはしないから。
―そんな人事みたいに・・・
「あの」
カラスの無機質な声が、僕を呼んだ。
「はい!!」
僕は、思わずすごい勢いで振り向いた。
「インク、ないみたい・・・」
すごい勢いの僕に、カラスは少し驚いたようだった。
「あ、ごめんなさい!」
僕は早くこの情況をどうにかしたくて、急いでペンを探した。
しかし、焦れば焦るほどどこに何があるのかわからなくなって、棚から色々な物が落ちて静かな図書室に騒音が響くばかりだった。
「ああ、ごめんなさい。えっと・・・・」
「シャルル、ペン」
僕があまりに動揺しているせいか、とうとうリュカが自分のペンを差し出してきた。
「あった!」
僕はリュカのペンを見て、まるで自分で見つけたかのような反応をしていた。
すると、僕の顔が真っ赤に染まるよりも早く背中越しに笑い声が聞こえてきて僕ははっとした。
静かに振り返ると、あのカラスがくすくすと笑っていた。
それを見た瞬間、僕はとてつもない喜悦に胸が、震えた。
なぜかは・・・わからなかった。

「へぇーヴィンセント」
「根暗な彼にぴったりな名前だね」
「そうかなぁ」
部屋に戻ってから三人で、カラスの図書カードを眺めていた。
本当は持ち出し禁止なんだけど。
「やっぱり六年生なんだね」
「てゆーか字、小せぇー」
「本当だ」
「おい、ところで何借りたんだ?本のタイトルタイトル・・・」
三人でタイトルの欄に目をやった。
「ムーミン谷の彗星・・・」
「・・・・」
「・・・・」
突っ込みようのないタイトルに困惑した僕たちが、しばらく口を開かなかったのは言うまでもない。
僕は、とりあえずお風呂に入ることにした。
今日のアロマキャンドルはムスクだった。
僕、ムスクってあまり好きじゃない。
むあっとしていて、なんだか犯されている気分になるから。
「何だ、今日は早いね」
お風呂から出ると、リュカはまだ紅茶片手にバゲットサンドを食べているところだった。
「今日はムスクだよ」
「あ、ネタバレ禁止」
「あは。ごめん」
その夜、僕はなぜカラスが本を借りに来たのかずっと考えていた。
あのタイトルからすると、本を読むことが目的なのではない気がする。
本を借りるという行為に意味があるのだ。
仮にそうだとしたなら、どういう目的で・・・?
果たして、彼は本を返しにくるのだろうか。
期限は、二週間後。

ムーミン谷の彗星を借りに来た次の日から、カラスは図書室にぱったりと姿を見せなくなった。
僕は、嫌な予感がしていた。
「カラス、何で来なくなったんだろうね」
気がつけば、リュカはそればかり口にするようになっていた。
僕は口にするのが怖くて、できるだけカラスの話題を避けていた。
しかし、アルフォンスのお陰で学校中にこの噂が広まって、今やその話題を避けることは難しかった。
噂は大まかに言うと、三種類あった。
一つ目は、実はカラスが狙っていたのは僕で、本を借りるふりをして僕に呪いをかけると同時にこの世から消滅した、というもの。
ニつ目は、実はカラスはムーミンシリーズが大好きだったのだが、恥ずかしくて借りることができず、今日までかかってしまい、今は天にも昇る気分で部屋に引き篭りムーミンを読んでいる、というもの。
三つ目は、図書室で本を借りる、というのが例の組織の合言葉になっていて、その借りた記録がリュカのパソコンに入力されるのをハッキングしていて、作戦が開始される、というもの。
はっきり言ってどれも暇つぶしの噂でしかないのだが、あの日から彼が学校内で目撃されていないのも確かなのだ。
そして僕は、アルフォンスが噂を流した次の日から、図書室に押し寄せる上級生の訪問者に嫌気がさしていた。
「君呪われてるの?」
「君はカラスの何?」
それが質問のほとんどだった。
しかし、それほど彼の存在は謎のヴェールに包まれていたし、容姿も神秘的で、まあ一言で言うと魅力的だったのだ。
アルフォンスの情報によると、非公認ではあるが、彼の信者も複数いることが判明した。
・・・例の本を持っているというだけで、その集団に関与している事実もなければ、何か呪文が使える事実もないのに、こんなに大事になっていることがなんだか馬鹿馬鹿しく思えてきた。
「本を借りたわけだし、部屋に篭るのは別におかしくはないと思うけど、授業にまで出てこなくなったのはおかしい・・・そう思わない?」
カラスのいなくなった図書室で、リュカが小声で言ってきた。
「何かの儀式をしてたりして・・・」
僕が冗談で言うと、リュカが「ムーミンを呼び出す儀式?」などと言うので、僕は彼が魔道士のような格好をしてムーミンを呼び出すために何かぶつぶつ呪文を唱えている姿を想像して、吹き出してしまった。
「もし本当にそうなら彼は確実にイギリス人だね」
「それにしても・・・」
リュカが突然真顔で辺りを見回した。
「何か・・・静かだ」
僕もつられて辺りを見回した。
一見、カラスという一人の人間がこの空間からいなくなっただけなのだが、ここにいる誰もが、カラスの不在に戸惑っているような、妙な雰囲気だった。
取り分け存在感があったわけでもなく、ただ毎日同じ場所に座っていただけなのだが。
しかし、やはりいつもそこにあるものが、突然消えてしまったら誰だって不安に駆られるのだろう。
実際、いつもカラスが座っていた席は図書室の常連だったら誰もが知っていたので、気味悪がって座る者はいなかった。
「主のいなくなった池みたいだね」
「うん・・・」
僕とリュカは、しばらくカラスの席を眺めていた。
 




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