という感じで今日は行動。
病院では壮年のおじさんが病院での待ち時間に沸騰中。なんでこんなに診察待ちに時間がかかるのだと。
私は病院は混んでいるのが普通だと思っている。私自身、某クリニックで7時間待ちという空前絶後の待ち時間を体験しているし。
でも、この混雑はどんなに医療が進んでも、結局無くならないだろう。
第一、3人に1人という糖尿自身、研究はされても特効薬も効果の高い治療法もまだまだ。
せいぜいインスリン強化療法があるぐらいではないか。
ここは、病というものを哲学すると、結局病は撲滅できないものであると思うしかないのだと至る。
まず、天然痘とか、そういうものは撲滅に成功した。
しかし、それはそれで、天然痘の病原体は残っている以上、いつそれが悪用されるかわからないところはある。
どんなに注意しても、人間は元々壊れながら作り直している構造なので、そのバランスが崩れればガンになるし、その作り直す作用で繁殖しようとするのがウイルスであるし、作り直す方が壊れる方に追いつかないとインスリンが作れなくなる。
つい我々は健康を当たり前のものと考えてしまう。
しかし、我々の健康は、えばんげりおんでも言っていた、ホメオタシスとトランジスタシスよりも厳しく、バランスはきわどい均衡の中で保たれているにすぎないのだと思う。
なぜ病気になったか、ではない。たまたま身体の様々なバランスの崩れを病気としているだけで、バランスしているというのは案外もろいものだと思う。
そこから、夏目漱石と森鴎外を考えてしまうと、ああ、医者も患者も業というものなんだなと思う。
夏目漱石に医者が言ったのは、節制であった。
今でも糖尿の2型の患者に節制を言う医者は多い。
だが、節制しなさいと言われて、いいえ節制していますから、と言い返せる人間はいないだろう。
第一、そんなに節制が万病のくすりなら、なぜこんなに人が死ぬのか。みんな暴飲暴食をしているのか? 国民の1/3も?
1/3が暴飲暴食の不健康な生活というのなら、じゃあその人がそうせざるを得ないところに病理を考えるべきではないのか。
ご存じの通り、夏目漱石は胃潰瘍で死んだ。だが、あの時代にH2ブロッカーがあったら?
今死因が「胃潰瘍」と言われたら、医者がヤブすぎると言われても仕方がないと思う。
ただ、それが胃ガンというやっかいなものになったとしても、そのガンで死ぬというのも少しずつ減っている。
私がいつも思うのが、医者ってずるいなあ、と思うときがあること。
特に節制と遺伝的要素を言うとき、実はその医者は敗北を言っているのだと思う。
節制は患者への責任転嫁であると思う。だいたいにおいて、節制をしているはずの禅僧でさえ死ぬではないか。それを言っちゃあおしめーよー、と思ってしまう。
もちろん食事療法を否定しないけど、でもかなり否定していいと思う。なぜなら、糖尿の機序はわかっているのに、QOL、生の質を下げてまで糖尿とつきあえと言われたら、医者もずいぶんだなと思うのだ。
じゃああんたつきあってみろよと。つきあうなんて生やさしいものではない苦しみを嫁に見ている私は、今ある慢性病に「つきあえ」という論はすべて不愉快である。
統合失調だってそうだ。つきあえるものではない。生きるか死ぬかぐらいにつらいこともあるのだ。
たとえるなら、骨折なんかは添え木をしたりギブスをしたりして直す。ボルトで固定することもある。でも、骨折はだいたいなんとか元に戻れる。
それが、骨折をつきあえと言う医者がいたら? しかもギブスも作らず、ボルトも入れずに。
骨が折れていることが明らかなのにレントゲン写真も無視して「あー、不注意だねー。偽関節できるけど、まあそれとつきあって。痛み止め出すから」といったら、その医者は普通バカだと思われるだろう。
すべての病気は、基本的に健康という危ういバランスの崩れである以上、それが崩れた人間に「つきあえ」とか言っても、何の解決にもならないどころか、患者から見れば「まあ医者も他人事だからなあ」と思ってしまう。
それを理解している医者もいる。幸いなことに、ちゃんと生の質を見極めている医者に嫁はかかっている。
不健康な生活は好きでやっているわけではない。ストレスは都会田舎にかかわらず受けるわけだし、締切や納期を守り、品質を守った仕事をするためには、無理はどうしても出てくる。
ほとんどすべての人間は望んで病気になったわけではないし、皆それぞれにやむを得ない事情を抱えている。
それを「不摂生が悪い」と言われ、「一生つきあいなさい」といわれたら、たまらないよ。
それに遺伝的要素と言われたって、遺伝子の変異もまた未知の領域であり、それもまた未知の世界に責任を転嫁しているのだと思う。
だってそんなに遺伝的要素で病になるのなら、遺伝システムという不安定なものをなぜ遺伝的アルゴリズムで我々が採用して生きているのか、説明が付かない。
男女という性で遺伝システムを作り、変異を吸収したり逆に作ったりして、それで現在の人間や様々な動物が種を保っているのだから、遺伝的要素というのはもっと中立的に病に働くのだと思う。
それに、ハンセン病という最大のタブーだって、元々はその遺伝病説だったではないか。
人間は、科学の中で医学を使い、研究し、病に立ち向かっている。
しかし、病は決して無くならない。
それは、不安定なバランスの上の健康であることと、それと病気と言うより病名は単に死の理由として存在している部分もあると思うからだ。
人はいずれ死ぬ。その死の理由は、もっと千差万別だろう。
だが、近代という死を排除し、病を排除し、本来人間がもっとも考えなくてはならない運命や業から目をそらさせる文明が、結局合理的に死を説明し死を排除するために病名、「死因」を発明したのだと思う。
医者なら、臨床に置いて、一人として同じ病気がないことを知っているはずだ。あたりまえだ、同じ人間はいないからだ。それが診察という行為であり、そしてそのことをもっとも知るのが医学生の時における、解剖だろう。
人間もまた自然の縮小であり、自然そのものである。
自然である以上、世界と同じく、計算不可能なのだ。
とすると、森鴎外に対する悪口になってしまいそうになるが、ここはぐっと堪える。
だが、漱石の「死因」のお粗末さを考えるとき、医学もまだ途上であるのだし、そういうところで未知の領域や、不摂生を強いられる生というどうしようもないものに原因を転嫁し、死を性の中で意識し組み込むしか病に立ち向かい続ける慢性病患者に酷ではないか。
医者は、もっと「一緒にくじけずに立ち向かおう」と力を込めて言うべきではないのか。医者もまた、運命や生に対しては、医学という武器を持っていても、患者の心にたいするデリカシーを失ってしまってはそれを生かせないと思う。
しかし、立ち向かったところで、悪化と死はさけられない。人はいずれみな死ぬのだ。医者は皆、そこで無力を感じていると思う。
医者もまた、その人生という後退戦で、たまにその戦いを応援できる支援射撃なのだから、やはりデリカシーと信頼を失うことをもっとも恐れるべきだと思う。
そして、その信頼を持ってしても、不老不死に近づくことは、後退戦で後退の限界、陥落としての死までの時間が延びるだけにすぎない。
人間の健康は当たり前ではない。常にどこかが病んでいる。そして、それが拡大して、死に至る。
となると、やはり病院は無くならないし、また病院の霊安室も病院の一部として使われ続ける。
そして、人間の科学は進んだとしても、病、怪我、死は撲滅できない。何度も言うが、それが生の一部として切り離せないのだから。
こんな事をなぜ書いたかというと、2型糖尿病は自己責任、などという人がいたから。
確かに古代ローマでは帝王病だったからそう思うのかもしれない。
しかし、現代でそれは、まあ病気になったらまともな健康保険もないアメリカと同じく、病んだらすぐに死んでくれれば看病や治療のコストがかからず、健康な自分たちの負担が軽くていい、という程度の考えだと思う。
そういうアメリカンな考え方は、日本でも増えつつあるのかもしれない。
だが、生きることは、死ぬことを内包しているのだ。
健康な人でも、体の中ではさまざまな免疫や代謝のシステムが、常に稼働し、常にその稼働中のシステムを止めることなく運転しながら更新しているのだ。
健康は宝だと思う。でも、その宝を当たり前に考えるのは、もう今の時代、やめようよと思うのだ。
ちなみに嫁の主治医は、「まず心の健康が大事。インスリンの加減はその次だから」という、ラガーマンみたいな体つきなのにずいぶん心にしみることを言ってくれる医者である。
いろんな死を見てきたんだろうな、と思う。
ちなみに、医者もストレスが強い仕事で、自殺率も結構高いという。
だから、病は治せて当たり前という患者も、節制と遺伝的要素に転嫁する医者も、病を考え直して欲しいと思う。
人間の身体は、まだPCや電化製品のようには治せない、非対称なものなのだから。
そして、私はこういう慢性病と「つきあう」なんて遠慮したいと思っている。
むしろ病を憎み、病をねじ伏せ、病を管理して、そしてそれが尽きるまで生きようと思っています。
そんな「つきあう」ことができるほど、病気は生やさしくないし、こんなに苦労させられていないと思うのです。
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1 ■無題
あんた、いい線いってるよ!
(カロリーメイトCMの劇団ひとり風)