2009年09月07日

再掲 友愛社会をつくる真の「国民主権」と「三権分立」

前記事では、政権交代後(AC社会)とチェンジ前(BC社会)の違いを、主に精神論的に論じてみました。AC社会は、友愛社会、ホスピタリティ社会を目指し一人ひとりの個人に目を向けた政治が行われていくだろうと記しました。 


今日は、一人ひとりの国民が主権者である社会をどのようにしてつくるか、持続させるかという「システム(そうなる仕組み)」づくりの基本原則について書きたいと思います。 
ちょうど、本日の朝日新聞に「現状は国民主権ではない」という内容の社説が掲載されています。
 

09総選挙に問う―「政府」をつくり直さねば 
朝日新聞8月8日

■これまでの官僚依存の政治はもはや限界だ ■政党が主導権を発揮できる体制が問われる



<引用開始> 
長く日本の政治を支え、動かしてきた「官僚主導」が行き詰まっている。  官僚が国益を考え、最適の政策をつくり、それを実施する。明治以来の「天皇の官吏」から戦後の「全体の奉仕者」に変わっても、官僚機構が政策づくりの主導権を握り、政権党がそこに乗っかるという基本構図はあまり変わらなかった。  

<中略> 

官僚は政策に関する情報を独占する。社会保険庁での年金不祥事の深刻さを思うまでもない。そして、選挙で選ばれない官僚は、失政への責任を直接問われることもない。

 システムが壊れかけている。多くの人がそう考えているのに、岩盤のように固い官主導のシステムはいっこうに改まらない。政治に対する国民の不信の根源の一つがここにある。

 本来、議院内閣制のもとでは、政府を組織するのは議会で多数を握る政党であり、その政権党が官僚機構を主導して政策を実施していくべきなのだ。なのに、政党の側にその役割を果たす意欲が乏しかったどころか、むしろ官ともたれあってきたことが、こうした現実の背景にある。 <引用終了> 

今までの「官僚主権システム」を、「国民主権システム」にチェンジさせるためには、私たち国民が、日本国憲法に書かれた基本原則に立ち戻る必要があると私は思います。 
とはいえ、私は憲法学者でも政治家でもありません。私が、これが基本原則であると言っても、誰一人耳を貸してくれないに違いありません。 


そこで、です。引用が多くなりますが、私が過去に学んだ「法政大学大学院、国民主権論講義(講師;菅直人元民主党代表)」の重要な部分を紹介したいと思います。民主党が政権獲得後に段階的に行う、「官僚主権」から「国民主権」への移行の原点となる考え方を理解していただけることでしょう。 


<引用開始>(中略は省きます)

『国民主権論』 (2005411日〜・法政大学大学院)
法政大学大学院客員教授 菅 直人 

私はよく『三権分立』という言葉を取り上げます。そこでよく「皆さんは、国会は何をするところだと思いますか」と聴くと、答える人の十中八九どころではなく、大体100のうち98ぐらいまでは、「国会は法律をつくる立法府です」と答えるのです。私が採点すると、甘く採点して50点。正確に採点すると、これは×(※バツ)ですね。国会は、立法府である。では、立法府しかやっていないのかというと、私の本なり、いろいろなものを見られた方々はもうご存じかもしれませんが、普通の人は大体立法府だと答えるのです。多分、普通だったら(※マル)なのですね。しかし、国会の第一の仕事は立法ではありません。実際に衆議院選挙が終わって、最初に何をするか。議長を決めた後、総理大臣を決めるのです。つまり国民に代わって総理大臣を決めるのが、国会の第一の仕事なのです。ここがきれいに忘れられている。

霞が関の皆さんは「三権分立ですよ」、依然として議員の私に言うわけです。「国会の皆さんは、法律をつくる、審議をする、予算を議論する、それは大いにやってください。しかし、行政府の仕事は、大臣をはじめ私たち官僚の仕事ですから、それは国会議員の皆さんは立法府で、私たちは行政府なのです。三権分立は、中学で習ったでしょう」と言うわけです。大体よく勉強している人は、そこでコロッとだまされるわけです。 


 「いったいどこに三権分立と書いてあるのだ」と、「憲法何条に三権分立と書いてあるのだ」と。皆さん、憲法をよく見てください。三権分立なんてことは、一言も書いてありません。書いてあることは、「国会が内閣をつくるその総理大臣を指名する」と書いてある。そして「総理大臣になった人が、大臣を任命して構成される内閣は、連帯して国会に責任に負う」と書いてある。 


実はこの『三権分立』という言葉ほど、私が経験した中で言えば、日本の国民主権の1つの一番大きなルートを遮断している。そしてその代わりに何があるか。今度は行政というのは、霞が関の皆さんが主にやる仕事だということになっている。誰かおかしいと思う人はいますか。憲法上ですよ。実は憲法六十五条(【行政権と内閣】)には、『行政権は、内閣に属する』と書いてあるのです。内閣に属すると書いてあるのです。内閣というのは、定義があるのです。内閣というのは、総理大臣と大臣です。霞が関のお役人がやるとは書いていない。行政権は、内閣にあるのです。いつの間にか、霞が関にあるように思い込まされている。


憲法六十五条には、行政権は内閣に属すると書いてあるのであって、内閣を構成するのは官僚ではありません。1人も入っていません。一般職は、大臣にはなれませんからね。つまり、行政権を握っているのは、官僚ではなく政治なのです。政と官という言葉もありますけれども、官僚ではありません。政治なのです。その政治を決めるのが、国民なのです。 


この三権分立という言葉が、いかに多くの呪縛(じゅばく)を国会議員に対しても、あるいは一般国民、マスコミに対しても影響している。私も、本物の学者ではないという言い方は変ですが、三権分立が細かくどういうことを意味しているか、辞書ぐらいは見てみましたけれども、つまりは権限を1つの機関が全部持てば集中しやすいから、2つとか3つに分けて、国によっては5つくらいに分かれていますけれども、そういう形で国民の人権が、過大に1つの機関によって侵されないために、国民の権利を守るために分権の三権分立になっているのだと。物の本には書いてありますが、それを見事に使いこなしているのは、霞が関のお役人で、これが実態ですね。 


私は国民主権論というのは単に「もっと民主的にやりましょう」という、そういう立場を越えてやはり自分たちでこの国をもう一度建て直すには、自分たちがこの国を治めるのだと、そしてそのルールを自分たちでつくるのだという気概を持ってやることが、条文がどうであっても国民主権になっていくだろうと、なっていってもらいたいと私は思っております。 


国民が持っている自分の主権というものを譲り渡すわけでもなく、国民の主権を選挙によって国家主権に一体化させるわけでもない。あくまで国民主権というものを自分自身が、市民1人ひとりが、国民1人ひとりが持ちながら、ある部分で信託をする。ご存じだと思いますが、信託という概念は譲渡ではありません。最終的に自分の権限を持ったまま、ある意味でそれの運用を任せるという考え方です。 


東京の武蔵野市に住んでいる私の場合は自分の持つ主権をある部分は国の政府に、または国に国会を含めて信託する。ある部分は、東京都に信託する。ある部分は、武蔵野市に信託する。つまり自分の主権者たる存在を、その主権者という形は、しっかり握り締めたまま複数の機関にその自分の一部主権を信託する。その信託行為というのがこの代表機関、つまり選挙によって選ぶ形で信託します。
<引用終了>


※『国民主権論』全15講座のうちの第1講、第2講合計37,253字から2,016字を引用しました。※は筆者注


私が、解説をする必要はないと思います。要約すれば、今まで私たちは官僚に「コロッとだまされていた」のです。これからは、目を見開き官僚を使いこなす政治家に国民としての主権を信託する、つまり、一票を投じるということです。 


本日、中田横浜市長はテレビ番組で「若者は、政治が(政治家が)何を言っているのか分からない。(だから一票を投じない)」。その結果、「ノイジー・マイノリティ(騒がしい少数派)の意見が中心の政治になっている」というような発言をされました。 


閉塞感と孤独感が溢れる今の日本社会を、躍動感と連帯感溢れる希望社会、友愛社会にチェンジするには政権交代しかありません。そのためには、一人ひとりの主権者である国民が必ず一票を投じることしかない、私はそう確信しています。