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●今月のVOICE 2001年4月号
和田 薫さん 株式会社ハーモニープロモーション
 連載開始から20回目を数える本頁だか、今月号のゲストには二つの「初」を携えてご登場いただくことになる。まず第一に「初めてのマネージャー」であること。そして「初めての30代」であること。シャ乱Qやモーニング娘。を手掛けたことで、TVや雑誌に取り上げられることも多い和田 薫さんは、一般的にも今、最も注目を集めているマネージャーの一人。今回はじっくり「マネージャーとは何か?」をお聞きします。

インタビュー/山中 聡(FMP広報担当常務理事)
撮影/鎌田秀子

PROFILE
和田 薫(わだ かおる)
 1965年生まれ。ロックンローラー族から生まれたアイドル、ミッキーの付き添いでTBSドラマ『刑事ヨロシク』の撮影現場を訪れたことがきっかけで、プロダクションに入社。その後、当時ポリスターの宣伝部長だった山崎直樹氏と出会い、テレビ制作会社を経て、87年に(株)アップフロントエージェンシーに入社。98年からは同グループ内で独立を果たし、(株)ハーモニープロモーションを設立。

ローラー族、ADからマネージャーへ

●音楽業界を目指したのは、どんな理由からだったんですか。

「僕はこの業界に全く興味がなかったんですよ。特に音楽が好きだということもありませんでしたし。これは恥ずかしい話なんですけど、昔流行ったロックンローラー族ってご存知ですか? あれだったんですよ、僕。その前は暴走族に入っていました(笑)。
 それで当時の仲間で、ミッキーという金髪の男の子がいまして……彼が久世光彦さん演出のドラマに出演することになったんですね。その頃、彼は家出をしているような状態だったんで、僕が代わりに連絡を取ってあげていたんです。“調布の日活スタジオに何時に来てください”みたいな連絡ですね。結構ちゃんとした役だったので、彼が現場に行かないと(ドラマに出演していた)ビートたけしさんも岸本加世子さんも困るわけですよ(笑)。これは大変だとヘンな責任感も出てきまして。もちろん彼はフリーみたいな立場だったんですけど、ドラマで人気が出てきて、色々なプロダクションから声がかかり始めていました。僕はまだ高校生だったんですけど、“君も一緒に来ないか”と言われて、安易な気持ちでプロダクションに入ったのが最初なんです」

●確かテレビ制作会社にもいらしたんですよね。

「テリー伊藤さんがいたIVSというところです。当時は音楽出版もあってタレントも抱えてたんですけど、僕は結局1年間ADをやりました。その時、山崎直樹(現アップフロントエージェンシー会長)に“だったらうちに…”と声をかけられて、後はずっとアップフロントです」

●アップフロントに入られてから、まず最初に担当したアーティストはどなたですか。

「初めは宣伝部に配属されたんですよ。それなりにチョコチョコ仕事は取ってきてましたので、会社の中では重宝がられていました。マネージャーをやれと言われたのは、半年ぐらいしてからです。兵藤ゆきが一番最初の担当ですね。1年半ぐらいやりました。年上の人に付くということを経験して、すごく勉強になりましたね。彼女がテレビのバラエティ番組で一番忙しかった時だったので相当ハードでしたけど、マネージャーの基礎の基礎、気の遣い方の部分を教えられました。
 その後が森高千里なんです。これは長かったですね。2年半から3年ぐらいですか。兵藤に礼儀を教えられたとしたら、森高ではクリエイティヴを覚えました。レコード会社の彼女の担当ディレクターが、今アップフロントの社長をやっている瀬戸(由紀男)だったんですけど、実質上のチーフマネージャーは彼だったんです。彼のアーティストの見せ方には独特なものがあって、森高で言えばミニスカートだったりするんですけど、必ず音楽的なベースをきちんと作ってから見せていくんですね。それと基本的に仕事はノーから始まるんです。音制連の会員の方は皆さんそうだと思いますが、要はイエスから入らないわけですよね。ノーからどういう風にアーティストを出していくかということなんです。アーティストはこうやればこう見えるんだということを、森高時代に一番学びました。僕にとって非常にエポックメーキングになった時代です」

基準は“面白さ”

●森高さんの担当を外れた後は……。

「その後に、山崎から“もう森高は外れろ”みたいなことを言われまして。そろそろ新人を担当しろと。森高とはすごいうまくハモッていましたし、スタッフとも本当に楽しく仕事をしていましたから、色々と抵抗したんですけどね。この時は正直言って、アップフロントを辞めようと思いました(笑)。結局、自分に言い聞かせるようにして、次に担当したのがシャ乱Qだったんです。
 ここからは森高で学んだものを、いかに男性バンドで見せいくのかが勝負になりましたね。それと森高では断わるのが仕事というマネージメントをやっていたので、今度はすべてイエスと言おうと思ったんです(笑)。ノーとイエスを両方極めたら、中間も分かるはずだと。最初、2年ぐらいは売れませんでしたけど、いい経験になりました。僕は全然バンドに興味はなかったですし、バンドをやっいてる奴らの気持ちなんてこれっぽっちも分からなかったですけど、あのメンバー5人と一緒にワゴン車で北は北海道から南は九州まで行きましたし、そういった意味では同じ釜の飯を食ったというか、非常に熱い時期を過ごせたなあと思っています。売れるまでは好きにできましたしね。売れるとたくさんの大人の方がやって来て(笑)、これやれ、あれやれと言うんですが、それまでは僕のことを、ほぼ誰も止めない状態でしたから。あとは売れるというのはこういうことなんだというノウハウを実体験できたことが大きかったです。バックオーダーが今日は何枚来た、9000枚になった、1万枚になったという毎日をドキドキしながら過ごせたのは本当に有意義だったと思います」

●今はご自身の会社でグループ内独立という形をとられているんですよね。

「シャ乱Qの担当を外れる時に“代わりに会社作れ”と山崎に言われたんです。僕は一番最初に入ったプロダクションで、資金繰りの苦労を間近で見ているので、会社なんて作りたくなかったんですよ。でも、要するに自分の給料は自分で稼げということで、色々とシステムを説明されて……僕は未だに騙されたと思っているんですけど(笑)。結局、会社を設立して、外部のチーフマネージャーみたいな形でアップフロントの人間を使いながら担当したのが、初期のモーニング娘。です」

●業界全体の雰囲気を、今どのように感じていますか。

「レコード会社という存在が非常に弱体化していることは感じます。何かを発信してものを考えているという感覚は、一部のレコード会社のみのものになってきていると思いますね。僕が次にやろうと思っている新人がいるんですけど、もうレコード会社なしで仕事をしようと考えてますから」

●メーカー的な部分もすべて自分でやるということですか。

「インディーズです。メジャーを通さなくてもいいんじゃないかということを、1回試してみたいなあと。もちろん色々な方の協力は必要なんですけど、1人でどれだけできるのか試しにやってみようというのが次のテーマなんです」

●新しいことに踏み出す時に、一番の基準になるのは“面白さ”ですか。

「そうですね。僕はお金もそんなに好きじゃないと思うんですよ。お金に生きようと思えば、それなりの生き方もあると思いますが、別にお金も好きじゃないですし、マニアックな意味では音楽も好きではないんです。ただ、いいものはいいと思うし、自分が興味を持つ音楽というのは、これは売れるんじゃないか、多くの人に届けたいなと思えるものなんです。やっぱり何が大事かというと“面白い”という以外ないのかも知れません。
  例えばさっきお話した新人をレコード会社に持って行けば、何千万かはいただけるわけですよね。“最初から番組のタイアップを3本ぐらいは絶対つけますから”と約束したりすれば。でもその結果、色々なことに縛られるようになる。決算だからCDを出してくれとか、ここでベスト出してくれとか、レコード会社の事情も聞かなかくてはいけない。参加する人数も一気に増えるでしょう。それよりは、そのアーティストと1対1で話し合いながら、好きな時に好きなことができる環境を大事にしたいんです。成功するか失敗するかは分からないですけど、とにかく一度トライしてみたいんですよ」

我はマネージャーである

●和田さんはテレビ媒体をうまくプロモーションに使っていますが、テレビとアーティストの関係についてお伺いできればと思います。

「僕はテレビを作る側にいたことがあるので、バラエティのディレクターの方でも話せば分かり合える部分があるんです。でも多くのプロダクションの方々は、アーティストをカッコ良く撮って欲しい、こんなことは聞かないでくれ、といった感じで一方通行になっているんじゃないでしょうか。僕はうちのタレントによく言うんです、“テレビというのはテレビ局のものだからな”と。テレビ局のプロデューサーは視聴率という数字を背負ってるんです。数字が悪ければ番組が終わる。もしくは人事異動させられるわけです。毎回勝負しているんですよ。だからまずお互いに理解して、いかにうまく見せられるかということを考えるのが大事なことだと思うんです」

●確かにそうですよね。僕たちはちょっと中途半端になっているのかも知れない。消費されるのを怖がるぐらいなら、徹底的にテレビを拒否してしまえばいいわけですし。

「テレビが最大のプロモーション・メディアであることは確かだと思うんです。消費されるというのは、要は出演したのにCDの売れなかった場合のことを言っているんだと思うんですが、やっぱり売れないのは楽曲が悪いからだと僕は思いますね。または楽曲が良くても、周りの状況が固まってないのに、テレビに出たら売れると考えている……これは大きな間違いなんです。状況とタイミングさえ合えれば、テレビがものすごい起爆剤になるとことは間違いないですよ」

●今までのご経験も踏まえて、マネージャーという仕事とは何だと思いますか。

「僕は二通りあると思うんです。“我はマネージャーである”と胸を張っている人と、そうではない人と。本当に才能のあるアーティストたちには、“我はマネージャー”という人はいらないんですよ、絶対に。これは否定的な意味ではないんです。そちらの方がアーティストとの関係が長く続く場合も多いですから。逆に“我はマネージャー”とやっている人は、どんどん担当が入れ替わっていきますよね。僕もシャ乱Qやモーニング娘。はもうやっていないわけです。やる時だけガガガガッとやったら“あとはよろしく”というタイプですから。だから担当しているものが一貫してないんですよね。今はEE JUMPという男女が混ざったユニットをやっていますが、どこかを変えていきたいんですね。こういうタイプは音事協の方々のほうが多いんじゃないでしょうか(笑)。うちは音制連の会員社なんですよね?(笑)」

●最後に10年後、20年後の個人的な夢を教えてください。

「いやあ、想像したことないですね。僕は明日死んでもいいと思っているので、未来へのヴィジョンは全くないですね」

●お話しを伺っていて、たぶんそういうお答えが返ってくると思っていました(笑)。



BACK TRACK 言葉の背景

 まさに十代の頃から音楽業界を駆け抜けてきた感が強い和田さん。しかし、本文でも触れられている通り、現在は若きプロダクション経営者でもある。そこで、会社のスタッフの育成に話を移してみると――。
「うちのスタッフは全員女の子なんです。なぜかというと、僕が男に厳し過ぎて、すぐに辞めてしまうんです。育てられないんですよ、スタッフを。年を取った時に誰にも食わしてもらえないだろうなという恐怖感(笑)。これがここ5年ぐらいの、僕のテーマですね。自分が現役だと思っているので、若いスタッフに対してライバル心があることが原因でしょうか。
 僕なんか山崎に育ててもらって、自由な場も与えてもらっていますからね。例えばシャ乱Qにしても、僕が契約してきたわけではないですし。それをボーンと渡される醍醐味ってあるじゃないですか。与えられた試練というか、何かをクリアできたことによって一つのものが生まれる楽しさがある。今度は自分が逆の立場にならなきゃいけないことは分かっているんですけどね。
 一度つんくに怒られたこともあるんですよ。モーニング娘。が2作目を出す時かな、“和田さんが何かを言うと、みんなが反対意見を言えなくなるんです”と言われて、ハッと思ったんですね。“僕が考えている方向をつぶさないでくださいよ”とはっきり言われて、“ああ、俺もそろそろ人がこうやりたいという意見を聞ける立場にならないといけないんだ”と分かったんです。この時のことは、今でもつんくに感謝しているんですよ」



今月のTRACK DOWN

 昔、レコード会社でパシリながら『オレたちひょうきん族』のテーマ曲や挿入歌などを局の方と一緒になって作る仕事を経験した事がある。音楽とお笑いがものすごくうまく混在していて、同時に番組に出演する事自体を皆楽しみにしていた。テレビ局の方々の熱い思いやお笑いの方々のエネルギーを目の当りにして、僕自身もパワーアップできた。
 最近、音楽業界の殻にこもってばかりでイカンな〜と。和田さんのエネルギーを肌で感じられて得しちゃいました。 (山中 聡)





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