民主党の鳩山由紀夫政権がいよいよ始めるという子ども手当には、二重三重の恐怖を感じます。
なぜか。
まず第一には、その公的資金ばらまきのとてつもない巨額支出が国家財政を破壊し、国民一般への大増税を強いることへの恐れです。
ゼロ歳から15歳の日本の子どもすべてに1カ月2万6000円、
年間で31万2000円、16年間なら1人496万円、3人なら約1500万円という額がばらまかれるのです。
1年間では子ども手当の総額は5兆8千億円にも達するそうです。洋数字で示すと、5、800、000,000、000円となります。この金額は日本国を守る防衛費を1兆円以上も上回ります。日本国の政府予算全体の7%ほどにもなります。なにしろ日本政府の年間の税収が全体で40兆円だというのです。
どこからこんな巨額の公的資金が出てくるのでしょうか。
すでに大幅な赤字の日本の国家財政がますます赤字を増して、破綻へと向かうでしょう。
あるいはすでに消費税の引き上げが語られているように、政府歳入を増す増税を不可避とするでしょう。民主党政権はすでに児童手当の廃止、配偶者控除の廃止、扶養控除の一部廃止の方針を示しており、これらの措置はいずれも増税となります。
第二には、日本国民同士の間での差別や分裂への恐れです。
子ども手当はどうみても、0歳から15歳(事実上は16歳)までの子どもを持つ家庭と、持たない家庭の間に区分をつけ、持たない家庭から巨額の公的資金を収奪して、持つ家庭に与えるという措置です。
同じ日本国民でも16歳未満の子どもを持つ家庭は、持たない家庭よりも国家から「より大切」とされるわけです。
日本国民は年齢にかかわらず、家庭条件の差異にかかわらず、みな平等のはずです。その平等の大原則を無視して、一方を劣悪扱いし、その「劣悪」とされた日本国民の側はせっせと産み出した富や財を他方の側に差し出すことを強制されるのです。
子ども手当がどの国家にも必要な正常の福祉政策であるならば、弱き側、貧しき側が優先されて、受益者となるべきです。
であるのに鳩山政権の子ども手当は年収1億円の家庭にもばらまかれるのです。これでは福祉でさえありません。
子ども手当はそもそも子ども自身に与えられる資金でさえありません。子どもの親に与えられるのです。そのカネが本当に「子育て」に使われるのか。父親のパチンコ代や飲み代にはならないのか。母親のエステ代にはならないのか。
こうした不公正を子どもがすでに16歳以上になった専業主婦、
家庭への貢献、社会への貢献をほぼ終えて、いま生活が苦しくなる高齢の男女、さらには社会で最も活躍し、他者への貢献をしながら子どもを持たないという道を選んでいる職業人の男女らは黙って耐えねばならないのです。
第三は、国家権力による国民生活の最もプライベートな部分への介入の恐れです。
このバラマキ政策の背後には、人間が子どもを生むこと、育てることに、国家権力が踏み込み、その基本の判断を決めるという思考が浮かびあがっています。
子どもを生み、育てることに国家がまず第一に責任を持つ、あるいは子どもは国家が育てる、という発想がにじんでいるともいえましょう。これまた純粋な福祉政策であれば、国家が介入するのは自然ですが、その場合の基準はまず「弱く貧しい」当事者から優先することになります。だが民主党の子ども手当にはその前提がありません。
人間の社会でも国家でも出産や育児が不可欠であることは自明です。子どもは宝です。ですが出産や育児というのは人間の個人の最も深遠な判断に基づき、個人個人が決定を下す生き方といえる部分でしょう。国家に判断をゆだねられることではないでしょう。
ところが鳩山政権の子ども手当は、とにかく子ども全体に巨額の国費を出して、国に子育てを任せろ、という姿勢です。その実、子どもを健全に育てるための施策はなく、ただ巨額の金を出すだけ、そうなると、子どもをつくるという生殖行為にのみ国家がカネを出すという感じにさえなってきます。
しかしこれだけの国家資金を出すのですから、やがてその資金の使い方にまで国家は介入してくるでしょう。国家が子どもを育てるというのは、全体主義国家の特徴です。
人間を育てる。人間が生きる。その過程や内容は個人が最も個人であるべき領域です。親としての個人の価値観、社会人としての個人の判断、そして人間を人間たらしめる個々の人間の自助努力、自律努力ーーーこんな基本を軽視あるいは無視するかのように、子どもは国家の資金に頼ればよいと断ずる、そして国家が巨額の資金の投入で大きな一律の網をかぶせてくるという姿勢は、ナチスの国家社会主義までを連想させます。
まあ、それは誇張にしても、ジョージ・オーウェルの『1984年』ぐらいには、思いを馳せてしまいます。
なお竹中平蔵氏が説得力のある「子ども手当反対論」を総選挙の前に発表していたので、それを以下に紹介させていただきます。
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民主党が、衆院選マニフェストの枠組みを公表した。すでに各方面からマニフェスト評価が始まっているが、その多くは財源が不明確であるという点に集中している。確かに、財源問題は重要だ。しかしそれ以前に、行おうとしている政策そのものの評価を忘れてはならない。「子供手当」と「消費税」問題という関心の高い2つの政策について評価してみよう。
いわゆる子供手当は、誕生から15歳までの子供全員に月額2万6000円を支給するものだ。まさに、民主党の政策の大看板という位置づけになっている。一方で、その財源は配偶者控除を見直すことによって調達するという。マニフェスト案を見る限り、この目的は「安心して出産し、子供が育てられる社会をつくる」とされている。生活が一番というこれまでの主張と重なっている。
しかし、よく考えてみるとこの政策は、子供を持たない家庭から、子供を持つ家庭への所得のトランスファー(移転)である。高所得者から低所得者への移転ならまだ理解できるが、子供のない家庭は一種のペナルティーを受け、子供の多い家庭は恩恵を受けるという仕組みだ。豊かで子供の多い家庭が多くの支給を受け、貧しくて子供のいない家庭が負担するという制度であるとすれば、一体どこまで支持されるだろうか。
≪「大きすぎる政府」では…≫
他方、出生率を高めるための人口政策として意味があるという見方もあろう。そうであるなら、いったい出生率をどの程度引き上げる効果があると民主党は考えているのだろうか。税収40兆円強しかない財政のなかで、5兆円もの高額を費やすのだから、政策効果についての明確な説明が要るのではないか。
子供手当については、なによりもその金額が極めて大きいことを指摘しなければならない。月額2万6000円であれば、例えば子供3人の家庭は年間約100万円の補助を受けられる。0歳から15歳まで16年間の補助総額は1500万円にもなる。他の手当も含めれば、もっと大きな金額になる。地方在住の場合、この金額があれば住宅購入が可能になる。つまり、今回の子供手当というのは3人子供を持てば住宅一軒を国がプレゼントします、というのに等しいほどの大型補助なのである。民主党の「大きすぎる政府」に影響され、自民党も幼児教育無償化などを打ち出しているところに、いまの政治の節操のなさが感じられる。
消費税をめぐっては、自民党が民主党を財源問題に引っ張り込みたいという意図で、「増税」を明確に打ち出している。これに対し民主党は、4年間増税をしないことを明確化。ただし議論は容認するという方針に微調整を行ったところだ。
まず自民党に関して言えば、ここまで財政の大盤振る舞いをしたうえで安易な増税を行えば、増税幅は相当に大きなものになり経済に大打撃を与える可能性がある。自民党の増税論は、一見見識ある政策のようで、国民生活を大幅に悪くするという意味で実のところ極めて無責任な政策だ。例えば、現状40兆円もの赤字を増税でファイナンスしようとすれば、単純計算で消費税約17%の引き上げが必要になる。つまり日本は、社会保障費の負担増を賄う以前に、消費税率20%を超える高負担の国になってしまう。増税は大きなデフレ効果をもたらし、結果的に国民の生活水準の大幅な引き下げの下で財政を健全化するというものだ。国債が暴落して大混乱に陥るよりはマシかもしれないが、いま財政をばらまいて短期の生活水準を引き上げ、後にそれを引き下げるという意味では類似点もある。
≪財政の健全化が見えず≫
一方の民主党のマクロ経済運営はどうか。増税を先行させないということだけが明言されているが、その後のシナリオは全く分からない。主要国の実例を踏まえたこれまでの分析からすると、増税先行型の財政再建は必ず失敗する。これを成功させるには、成長による増収、歳出の削減、最後の手段としての増税、という3つを適切に組み合わせるしかない。しかし民主党のマニフェストには、成長を高めるための政策がほとんど見られず、かつ明確なシナリオは示されないのである。
自民党も民主党も、当面政府の支出を拡大させて国民生活に「保護」を与えようとしている。しかもその程度は、相当に大きい。であるならば、財政の健全化をどのようなマクロ経済シナリオの下で実現するのか、道筋が示されねばならない。しかし、自民党は国民の生活水準を引き下げるような悪い政策を提示し、民主党はそもそもそれすら提示しない。選挙で選択を迫られる国民にとっては、文字通り究極の選択である。
数年のうちに、日本の公的部門の債務総額は、家計の資産総額1500兆円を超えることになる。有権者の資産の裏打ちのない借金を、政府が背負う時代に入る。政治の責任ある行動が問われている。(たけなか へいぞう)
by minimomi
鳩山政権の「子ども手当」の恐…