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中川氏の思い出

2009/10/10 23:59

 

やっぱり、中川昭一氏の思い出を書かせていただこうと思う。死後、中川氏がどんなに真面目で勉強家で、繊細で純粋だったかが、産経新聞をはじめ、多数のメディアが伝えているので、ほんの数えるほどしか、お目にかかったことのない私が、いまさら、付け加えることはないのだが、亡くなった人の思い出を話すことは、その方の供養にもなると以前、母や父が亡くなったとき、僧侶が言っていたので、少しでも供養になればと思って書かせていただくことにした。

初めてお目にかかったのは、中川氏が、閣僚として初めて、OECD閣僚会議に出席したときだった。何年か忘れたが、農水相か経産相だったと思う。パリの日本大使館から、「明日朝、大臣がお目にかかりたいから、宿舎のホテルに来て欲しい」といわれた。わが社は同行記者が来ていなかったので、同行記者を対象にした大臣のブリフに現地の記者が呼ばれることがあるので、そうしたブリフだと思って行ったら、私一人だった。産経新聞の愛読者だと、照れくさそうにおっしゃった。そのとき、フランスのさまざまなことを聞かれたが、驚いたことに、メモを詳細に取り出したことだった。

記者として大臣の話のメモを取るのは私の方だったので、これは、間違ったことを言っては大変だと思って、緊張してお話したことを覚えている。その後もお目にかかるたびに、メモを取られた。一時帰国したときに、やはり、外務省のお役人といっしょに大臣室でお弁当の昼食をご馳走になったことがあるが、その時も、熱心にメモを取られた。

パリではOECDの閣僚理事会やジュネーブでのWTO閣僚会議があるたびに、お目にかかった。あるとき、ちょうど激しい腰痛をかかえておられていたので、大変だなと思った。パリに一軒だけあるお蕎麦屋で会食したこともあるが、周囲が、自分が飲みたいからか、しきりに、「大臣、もう一本、頼みましょう」などと言って、ワインを勧めていたが、ご自分から積極的に飲んではいられなかった。政治家は勧められたら、断れないから大変だな、とそのとき、つくづく思った。それに、中川さんは優しい人だったので、他人を傷つけたくなかったし、そういう人の本性がわかっていただけに、かえって断れなかったのだと思う。

一番の思い出は、携帯に電話がかかってきて、フォアグラについて熱心に質問された時だ。フォアグラはロックフォール・チーズなどとともにフランスの珍味だが、おりから、鳥インフルエンザが流行しており、、仏遊禽類章職業間委員会(CIFOG)というところが、ガチョウやカモの肝から生産されるフォアグラの安全性を強調していた。そんなお話をお目にかかったときにした後だったと思う。その数年前には米国が欧州連合EU)が米国産の成長促進ホルモンを使った牛肉を禁輸した報復措置としてフォアグラやロックフォールなどの米国への輸入を禁止し、WTOなどでも問題になっていた。

中川さんは、電話で、フォアグラの安全性について詳細に質問された。日本に輸出されるのは加工食品の缶詰のものが多いし、高級レストランで出される「生フォアグラ」も実際は熱を通したものだから、大丈夫といった話をした。中川さんは、加熱の温度についても詳細に訊かれた。もし、フォアグラを食べた日本人が鳥インフルエンザに感染したら、大変だと非常に心配しておられた。ああ、この人は本当に日本人のことを心配しておられるんだな、と頭が下がる思いだった。こういう政治家がいる限り、日本の将来も安泰だと思ったものだ。

電話は日本時間の真夜中の3時ごろだった。「こんな遅くまでお仕事ですか」とお伺いすると、「やることが多くてね。ちょっと不眠症気味」ともおっしゃったが、メモをみながら、疑問点を質していられるのだと思った。あるいは、朝刊の最終版の締め切り時間が終わったころを見計らっての、こちらに配慮した時間だったのかもしれない。

拙書「エリゼ宮物語」をお送りしたとき、ご自分のブログで、コメントを書いてくださった。それが、また、驚いたことに、本当に熱心に読んでくださった方しか書けないコメントだった。というのも、この本はフランス革命前に建てられた「エリゼ宮」の住人の話を書いたので、ルイ15世の愛人のポンパドールやナポレオン、それに代々のフランス大統領のエピソードが中心だが、私が、もっとも熱を入れて書いたのが、ドゴールだったからだ。中川さんは、そのことを喝破していた。お忙しいのに、拙書にまで、時間を割いてくださったことに感謝感激した。中川さんに、選挙戦中、土下座を迫った講演会の人がいたそうだが、土下座を断固、拒否した中川さんに拍手喝さいを送る。中川さんには土下座は似合わない。

最後にお目にかかったのは、一時帰国した時で、ちょうと自民党政調会長に就任したばかりの時だった。部屋がお祝いのランの花で埋まっていた。その白い花に囲まれた中川さんの少年のような笑顔が忘れられない。

合掌

 

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コメント(2)

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2009/10/12 10:41

Commented by inakasodachi さん

はじめまして
中川さんにお会いしたことすらない田舎育ちです。
この時代はありがたいことに活字メディアではなくとも情報に接することができます。中川さんに関するエピソードもいろいろな方が語られることに接することで、多分より真実に近づくことが出来るものと考えます。
本ブログでの情報も山口さんでなければ書けぬ事。ご提示いただき本当に有難うございます。
なくなった中川さんが自分の長兄と同じ年であることもあり、喪失感は計り知れません。名の通った方がなくなられて涙をしたのは、本田美奈子.赤塚不二夫以来です。
ともに拝ませてください、合掌

 
 

2009/10/17 23:05

Commented by hakodadi さん

残念なことに、こちらのブログの文章には単純な変換ミスや誤用が多いですね。今回も
「喝破」の意味を取り違えています
講演会→後援会
ですね。
前にも「函館サミット」→「北海道・洞爺湖サミット」の間違いを指摘させていただいたことがあります。ジャーナリストとして恥ずかしくありませんか。ご自分の書いた文章は一度は読み返してから投稿されてはいかがでしょうか。

 
 
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