1991年からはじまって現在に至る日朝国交正常化交渉の歴史を記す。
著者によれば、日朝交渉の予備会談では四つの議題が合意された。(1)日朝国交正常化に関する基本問題(朝鮮植民地支配への謝罪の問題)、(2)日朝国交正常化に伴う経済的諸問題(賠償・財産請求権の問題)、(3)日朝国交正常化に関連する国際問題(核査察問題)、(4)その他、双方が関心を有する諸問題(在日朝鮮人の法的地位、日本人配偶者問題など)。著者はこの四つの議題設定、とりわけ植民地支配の謝罪と補償の問題が入っていることについて高く評価しつつ、拉致問題ばかりを問題にする現在の日本政府と国民に対して「四つの議題を自ら設定した初心を忘れないようにすべきである」と説教する。また、日朝交渉が1992年に決裂した理由について、日本側が「李恩恵」の問題をつきつけたからだ、という一般的な説とは異なり、日本側が核問題を取りあげて北朝鮮を孤立させようとしたからだ、という朝鮮総連の説明を紹介している。
1994年に戦争の危機が高まった際、日本政府は、戦争を回避するために努力するのではなく、「有事」への対応策を検討しただけだったという。その後の北朝鮮の食糧危機に対して日本がコメ支援したことについては、余剰米対策としての側面があったために北朝鮮に感謝されなかった、と指摘。
1997年に横田めぐみさんの拉致疑惑が浮上したことや、1998年に「テポドン」が発射されたことは、著者の立場からは日朝交渉を妨げる問題としてのみ取りあげられる。拉致やミサイルの問題そのものは分析されない。「こうして、拉致問題の解明とテポドン発射の中止を北朝鮮に求めることが日本政府の大きな課題になった。しかし、日朝交渉とKEDOという場を閉じてしまった日本には、北朝鮮側に働きかけるのに有効な場さえなかった」と、すべてが日本政府の責任であるかのように整理されるだけである。
韓国の「太陽政策」やアメリカのペリー報告に背中を押され、2000年には再び日朝交渉が再開された。同年の南北首脳会談も日朝国交正常化へ向けての大きな圧力となった。2000年末にアメリカでブッシュ政権が誕生し、米朝和解は頓挫。北朝鮮は代わって日本との関係改善を摸索する。その結果が 2002年の日朝首脳会談となる。しかしこの会談で明らかになった「拉致被害者5人生存・8人死亡」という事実は、日本の対北朝鮮世論を決定的に悪化させた。著者はこれをメディアの反北朝鮮キャンペーンのせいにしている。あらゆる問題を無視して日朝国交正常化を自己目的化する立場が破綻したのだ、とは決して気づかない。
ともあれ、著者の立場がどれほど偏っているとしても、本書が日朝国交正常化交渉の歴史をよく整理しているのは確かだ。
出版:平凡社新書、2004年2月
推薦度:★★★★
北朝鮮は大規模な水害が伝えられた1995年以降深刻な食糧危機に陥っている。韓国の「同胞仏教助け合い運動」は中朝国境で北朝鮮から脱出してきた住民にインタビューし、300万人以上が餓死した、と推計した。1997年に韓国に亡命した黄ジャンヨプ氏は、95年に50万人、96年に100万人が餓死したという統計を携えてきた、と発言している。
食糧危機は1996年と1997年が最も深刻だった。2000年は11月に発表された国連食糧農業機関(FAO)と世界食糧計画(WFP)の報告書によれば、この時期の食糧供給量は必要最低限より25パーセントも少なかった。1998年と1999年には状況が若干改善したが、2000年には旱魃のため再び食糧生産が落ち込んだ。
この食糧危機に対しては国際的な食糧援助が行われており、日本政府も1995年以降数回にわたってコメ支援を実施している。2000年10月にはWFPの要請に応じる形で50万トンの支援を決めた。
北朝鮮への食糧援助に関しては「本当に必要な人たちには届いていないのではないか」という声もある。国境なき医師団(MSF)や反飢餓行動(ACF)は北朝鮮当局が援助活動を統制しようとすることに反発して援助活動を停止している。
食糧危機をきっかけとして、北朝鮮の住民が数万人単位で中国へと脱出するようになった。一時的に援助を受けて再び北朝鮮へ帰る者、中国で潜伏生活を送る者、韓国をはじめとする第三国への亡命を図る者などがいる。
中国政府は脱出した人たちを難民として認めるのではなく、不法入国者として取り締まり、強制送還している。強制送還されれば暴力的な取り調べを受け、強制収容所に送られるのは確実である。
2001年6月、中国で潜伏生活を送っていたチャン・キルスさんの一家が北京のUNHCR事務所に駆け込み、韓国への亡命を求めた。2002年に入ると同様に中国内の各国大使館に駆け込む事件が急増し、2002年5月にはキム・ハンミちゃんの一家が瀋陽の日本総領事館に駆け込んだ。中国当局の取り締まりが厳しくなり、潜伏生活や第三国経由の亡命が難しくなったことや、支援団体による援助が限界に達してきたことが背景にある。
北朝鮮には「出身成分」と呼ばれる厳しい身分制度が存在する。住民は「核心階層」「監視対象=動揺分子」「特別監視対象=敵対分子」という三つの階層に分かれている。1945年8月15日以前に労働者や貧農だった者は核心階層、知識人や中小企業者だった者は動揺分子、地主や宗教者は敵対分子とされ、その分類は子孫にも受け継がれる。
住民の相互監視体制も徹底しており、言論の自由は存在しない。
姜哲煥、安赫氏をはじめとする北朝鮮から脱出した人たちの証言により、北朝鮮には強制収容所が存在することも広く知られるようになった。姜哲煥氏は1977年に祖父が政治犯として摘発され、同時に家族全員が収容所に送られた。安赫氏は1986年に中国へ抜け出して数ヶ月遊びまわり、数ヶ月後に帰って自首したところスパイとして収容所に送られた。
在日朝鮮人は実際には南の出身者が多かったが、当時の韓国には帰国を受け入れる余裕はなかった。一方、日本には在日朝鮮人に対する差別や偏見が強く残っていた。そんな中で「地上の楽園」とまで宣伝された北朝鮮は在日朝鮮人を強く惹きつけた。マスメディアも「社会主義朝鮮」をバラ色に描いた。
ところが、実際に行ってみると北朝鮮は日本よりはるかに貧しく、元々の住民から差別されることにもなった。期待と現実の落差に失望し、不満を口にする者が多かったため、帰国者は徐々に公安当局の監視対象とされていった。
日本に残った帰国者の家族や親族は際限のない仕送りを強いられ、ときには投獄された帰国者の釈放のために献金を強要されることにもなった。帰国者は在日朝鮮人を統制するための「人質」として使われている。
いわゆる「日本人妻」に関しては、1997年、1998年、2000年にそれぞれ十数名ずつ日本への里帰りが実現した。しかし総数からすればほんの一部にすぎない。
1977年に新潟で行方不明になった横田めぐみさんは北朝鮮に拉致されたのではないか、という疑惑が1997年にマスコミや国会で取り上げられ、大きな問題となった。日本政府は「北朝鮮による拉致の疑いがある事案」を7件10人としている。
横田めぐみさんのケースに関しては拉致疑惑の根拠は間接的な証言しかない。韓国の国家安全企画部の高官が亡命した元北朝鮮工作員の話として伝えたものと、それとは別の元工作員である安明進氏が工作員養成機関の教官から聞いた話として伝えたものだけである。しかし1980年に原敕晁さんが行方不明になった事件に関しては、原さんになりすましてパスポートや運転免許証を取得していた辛光洙が1985年に韓国で逮捕され、その後2000年に非転向長期囚として北朝鮮へ帰国している。
1980年にヨーロッパで消息を絶っていた旅行者が1988年に「平壌で暮らしています」と家族に知らせてきたケースもある。第三者に投函を依頼したもので、自由に手紙を出せない環境にあることが推察される。このケースに関しては1970年にハイジャックで北朝鮮に渡った「よど号」グループの関与が確実視されている。
1963年に行方不明になった寺越外雄さんと寺越武志さんは1987年になって家族に手紙を送り、生存を知らせてきた。その後母親の寺越友枝さんと再会した寺越武志さんは拉致を否定し、遭難したところを救助されたのだと説明しているが、不自然な点が多い。
拉致されたのは日本人だけではない。韓国からは454人が拉致されたと言われる。女優の崔銀姫氏と映画監督の申相玉氏は1978年に拉致され、北朝鮮で映画の製作に従事させられた。日本でも公開された怪獣映画「プルガサリ」は申相玉監督が北朝鮮でつくったものである。
北朝鮮の民主化を目指して活動。東京での活動に関してはRENK東京のサイトに情報が出る。
かつて主体思想派だった活動家を中心とするグループ。
強制収容所の解体を目指す脱北者の団体。
1960年前後の「帰国運動」で北朝鮮に渡った人たち、再び日本に帰ってきた人たちに対する支援、北朝鮮に存在する強制収容所の告発など。関西支部のWebページもある。
北朝鮮からの脱出者の生活を支援・保護し、難民認定をめざすNGO。
2003年7月に拉致被害者家族を招いて集会を開催。
脱北して日本に戻ってきた元帰国者を支援。
中国に潜伏している脱北者や韓国に入った脱北者への支援を行う。
キリスト教系の団体。脱北者の韓国行きを積極的に支援。
北朝鮮の人権問題に焦点をあてたニュースサイト。
北朝鮮の人権問題に関して繰り返し声明を出している。日本支部のサイトに和訳が出る。
難民問題に関して何度か報告書を出している。
難民や収容所の問題に関して頻繁にプレスリリースを出している。
人道支援に関する資料や内外の援助団体のサイトへのリンクがある。
太陽光発電設備の援助と子どもの絵画の交流を続ける。
北朝鮮の医療機関に対し、医薬品や医療機器を援助。
韓国のNGOが展開する北朝鮮の羅津・先鋒地域の託児所・幼稚園への栄養食プランに参加している。
旧名は同胞仏教助け合い運動。仏教系の33団体によって結成され、北朝鮮への人道支援を展開している。
吉田康彦氏を中心とするグループ。人道支援の枠を超えて政治的な問題についても積極的に発言し、日本の反北朝鮮世論を批判している。
粉ミルク緊急支援キャンペーンを展開。サイトには世界食糧計画(WFP)や国連人道問題調整局(OCHA)など国際機関の報告書の翻訳が多く掲載されている。北朝鮮人道支援の会と同様に政治的声明を頻繁に出している。
拉致被害者の家族がつくる「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」を支援。略称「救う会」。
救う会の姉妹団体。北朝鮮による拉致が疑われる失踪事件を調査する。北朝鮮に住む拉致被害者に向けてラジオ放送も行っている。
1970年にハイジャック事件を起こして北朝鮮に渡った「よど号」グループのページ。
「キムイルソン主席が創始し、キムジョンイル総書記が発展させたチュチェ思想に関する国際的な研究普及活動について紹介します」とのこと。