十字軍フォークルがラリラリ文化の幕開けだった
帰って来たヨッパライ/ザ・フォーク・クルセダース
68年 作詞・ザ・フォーク・パロディ・ギャング 作曲・加藤和彦
おらは死んじまっただ おらは死んじまっただ
おらは死んじまっただ 天国に行っただ
長い階段を 雲の階段を おらは登っただ ふらふらと
おらはヨタヨタと 登り続けただ やっと天国の門についただ
天国よいとこ一度はおいで 酒はうまいし ねえちゃんはきれいだ
おらが死んだのは 酔っぱらい運転で (効果音)
おらは死んじまっただ おらは死んじまっただ
おらは死んじまっただ 天国に行っただ
だけど天国にゃ こわい神様が 酒を取り上げて いつもどなるんだ
「なーおまえ 天国ちゅうとこは
そんな甘いもんやおまへんや もっとまじめにやれ」
天国よいとこ一度はおいで 酒はうまいし ねえちゃんはきれいだ
毎日酒を おらは飲みつづけ 神様の事を おらはわすれただ
「なーおまえ
まだそんな事ばかりやってんのでっか ほなら出てゆけ」
そんなわけで おらは追い出され 雲の階段を 降りて行っただ
長い階段を おらは降りただ ちょっとふみはずして (効果音)
おらの目がさめた 畑のど真ん中
おらは生きかえっただ おらは生きかえっただ (効果音)
ザ・フォーク・クルセダース
65 龍谷大学の学生だった加藤和彦を中心に京都で結成。
関西のアマチュア・フォーク・シーンを中心に活発な活動を展開。
67 グループ解散を決め、その記念に自主制作で『ハランチ/ザ・フォーク/クルセダース』を発表。収録曲「帰って来たヨ ッパライ」がラジオ関西の番組でオンエアされ、大反響。
11月、東芝が発売権を獲得、「帰って来たヨッパライ」発売。1年間の期限つきで解散を延期。
68 7月、『紀元弐仟年』を発表。
9月、公約通り、解散。メンバーは各々ソロ活動に入る。
日本におけるインディーズ・グループの草分け的存在。彼らの出現で音楽の世界に「アングラ」という言葉が使われるようになった。
これぞ元祖アングラ・ミュージックだ
マイナーをバカにするヤツはマイナーに泣くのだ
インディーズ・ブームというものがあった。インディーズなんていえばたしかになんとなくカッコよく聞こえるが、単に言葉をカッコよくすり替えたに過ぎない。つまりはマイナーってことじゃないか。
ホコ天、イカ天などの平成バンド・ブームが盛り上がっていた頃は、シロウトに毛が生えた程度のヘタクソバンドが随分マイナー、いや、インディーズからアルバムを出した。「オレたちゃ商業主義のメジャーはイヤだぜ! だからインディーズでやってんだ!」なんて“商売のレベル”に程遠いヤツらががえらそうな御託宣を並べてるのを聞くにつけ、「バカヤロー、豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえ!」とひとりで怒りまくっていたものだ。
実力もないくせに体裁ばかりを繕うマイナーバンドのほとんどは、ぼくの予想通りその威勢のいい口ほどもなくバンド・ブームの終焉とともに闇の彼方に葬り去られた。理の当然、ザマミロである。
一般の歌謡曲の枠からはずれたロックやポップスが業界のシステムに乗ったのはごく最近のことだ。アングラ・フォーク期のシンガーたちはメジャーになれなかったが、ニューミュージック時代初期のシンガーたちはむしろメジャーになることを拒んでいた。吉田拓郎や井上陽水はテレビに出ることを拒否していたのだ。<マイナーでいること>がステイタスでさえあったのだ。
だからマイナーのことをインディーズなんて言葉だけすり替えてメジャーをバカにするヤツはメジャーになれずに死ぬ運命にある。メジャーをバカにするヤツはマイナーに泣くのだ。はははザマミロ。
マイナーなはみだし歌謡がメジャーに成り上がった
日本の歌謡史では本来マイナーである<はみだし歌謡>がマイナーの壁を飛び越えてメジャーに成り上がる構図が日本のロックやフォークをおもしろくしてきた。いい見本が日本のはみだし歌謡界初の成り上がり者、ザ・フォーク・クルセダース(以下、フォークル)である。
もともとマイナーと同義語であるアングラという言葉が音楽に使われるようになったのはこのフォークルの登場がきっかけである。アングラ・フォークというと、一般には関西のシンガーを中心としたプロテスト・フォークの連中を示すことが多いが、フォークルがオーバーグラウンド化するきっかけとなった「帰って来たヨッパライ」は「学園紛争的プロテスト」とは無縁の歌だった。
フォークルは65年、大学一年生だった加藤和彦が雑誌「メンズクラブ」でメンバーを募集し結成したアマチュア・グループである。関西のフォーク・シーンではかなり名の知れた存在だったようだが、あくまでアマチュアのスタンスで活動していた。実際、大学生であった彼らは卒業を機にグループを解散させるつもりだったのだ。解散の記念に、と『ハレンチ/ザ・フォーク・クルセダース』を自主制作し、300枚プレスした。自主制作でレコードを作ること自体、当時はきわめて進んでいることだった。それでも運命のイタズラがなければ、フォークルは関西ローカルで“ちょっと進んだアマチュア・グループ”というささやかな伝説を残して終わっていたに違いない。アマチュアとはそういうもんだ。
運命のイタズラとは、この自主制作盤『ハレンチ/ザ・フォーク・クルセダース』に収録されていた「帰って来たヨッパライ」が、ラジオ関西の「電話リクエスト」という番組でオンエアされ大反響を得たことである。メディアに徹底的に嫌われていた(?)アングラ・フォークだが、そのムーヴメントに火を付けたのが他ならぬ「ラジオ」というメディアだったのはいかにも皮肉なはなしだ。
ラジオの反響を伝え聞いたレコード各社争奪戦の末、メジャーでの発売権を得たのは東芝レコードだった。後にタイマーズの「原発の歌」を発売自粛した、あの会社である。東芝から全国配給された「帰って来たヨッパライ」はまたたく間に全国的に大ヒット、280万枚も売れたという。自主制作盤のプレス数がわずか300枚だったことを考えればその凄さがわかる。まあ、そんな事実を持ちだすまでもなく、当時の流行歌としては空前の大ヒットであったことは間違いない。
この歌の全国的なヒットによって引くに引けなくなったフォークルは、1年の期限つきで解散を延期、プロとして活動をすることになる。
実験音楽だったのか、それともラリってたのか
ある評論家はフォークルを「日本のビートルズとよべる唯一のグループ」と評したが、言いえて妙である。60年代後期のビートルズは実験精神が旺盛だったが、この歌にもビートルズと同質の実験精神を感じる。SE(サウンド・エフェクト)の大胆な導入は明らかにサイケデリックの影響を受けている。
当時、日本ではまだ文化としてのサイケは一般的ではなかったが、音楽の世界では一足早くサイケの波がビートルズなどを媒介にして入り込んできていたのだ。「帰って来たヨッパライ」はあまり金をかけられない自主制作で作ったとは信じられないほど手の込んだつくりである。
それにテープの早回しでケロケロいってる加藤のヴォーカルと、それにおかしくも妙にはまっているシュールな歌詞。あまりにもサイケなこの歌の健全とは程遠いアブナイ音像世界は、彼らがマイナーだからこそできたラリラリ・実験音楽だろう。まさか、ハイミナール飲んでレコーディングしたんじゃないだろうな。
いかにも<体制>が毛嫌いしそうなサイケでアグレッシヴなこの歌は、ラジオ関西の一件がなければ従来のメジャー会社はまず発売しなかっただろう。ユーモアを解さないカタブツのクレームに「これは冗談でした」と逃げられるようなハンパな歌ではなかったのだ。メジャーはアブナイ橋は決して渡らない。
アングラのレールを敷いたフォークルは救世主である!
280万枚も売れただけあってこの歌の知名度はバツグンだ。「ワケのわからない変な歌だ」というお年寄りやカタブツもいたが、ハイミナール飲んでラリっていたフーテンや、闘争準備に入っていた大学生には圧倒的な支持を得た。当時幼稚園児だったぼくも、この歌はよく憶えている。親にねだってこの歌とドリフの「ズンドコ節」のシングル盤を買ってもらった憶えがある。
いずれにしても、フォークルのこの成り上がり・サクセスストーリーは、その後に続くプロテスト系フォーク・シンガーたちの乗るレールを敷いたことだけはたしかなようだ。同じはみだし歌謡である関西アングラ・フォークが、マイナーながら世間に対する発表手段を持ちえたのは、彼らの敷いたレールがあったからこそである。そして、そのレールに乗った岡林や高石を始めとした数多くのフォーク・シンガーがメジャー=オーバーグラウンド化していったのである。フォークルはマイナー・ミュージックを救済する十字軍だったのだ。
ところで、メジャーでレコードを出した時に「グループのプロとしての活動は一年だけ」と公約した彼らは、68年7月、東芝での唯一のアルバム『紀元弐阡年』(もちろん「帰って来たヨッパライ」も収録されていた)を発表した後、公約通りに同年9月にグループを解散した。もっともプロでの成功に気を良くしたメンバーは各々ソロでプロ活動を続け、特に加藤和彦は後に日本のポップス界のカリスマと化したのは周知の事実である。
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