いじめをなくしてもいじめ問題は解決しない
ストレスの発散のさせ方を知らず、酒を飲み過ぎ、食生活が乱れている…、
それで胃潰瘍になったサラリーマンが
「胃があるから胃潰瘍になるんだ。胃なんかなければいい」という。

あるいは、信号無視で事故を起こした暴走族が
「信号がなければ、信号無視もない。信号があるのがいけないんだ」という。

こういう例なら誰でもおかしな理屈だと思うでしょう。

では、「いじめがあるのがいけない」「体罰があるのがいけない」「校則があるのがいけない」という
新聞論調も、実はこれと同じだ、ということはお分かりでしょうか。

   
 
体罰と暴行は「目的」が違う
以前、兵庫県の高校で、遅刻した女生徒が鉄の門扉にはさまれて死亡するという事故がありました。この時やはり出てきたのが、マスコミの「校則不要論」です。

胃も信号も校則も、大切な目的があって存在します。
胃は食物を消化するため、信号は交差点での安全と混雑緩和のため、
校則はスムーズな学校運営を行うために、それぞれ存在します。

校則は、生徒を殺すのが目的ではありません。
事故が起きたのは、使い方が悪かったからであり、校則そのものが
悪かったわけではありません。
それを「校則不要論」に短絡させる新聞の論説委員は、
自分たちが信号無用論の暴走族と同レベルの論理能力しかないことを
告白しているようなものです。

体罰と暴行も、目的を考えればその違いが分かります。

体罰と暴行は、確かに、外見は似ています。

どちらも「有形力の行使」ですから。

しかし、目的がまったく違います。

暴行が自分の利益を目的としているのに対し、体罰は相手(子ども)の利益を
目的としていますから、全く別物です。

体罰は子どもの進歩を促すための強制であって、その時は不快でも、
それで得られる「進歩向上」という子どもの利益がはるかにまさるのです。

体罰を行う側には、なんの利益もありません。

子どもに悪態をつかれ、親に文句をいわれ、教師なら学校をクビになることだって
あります。それでも体罰を行う側に喜びがあるとしたら、ずっとあとになって、
子どもが大きくなってから、「あの時はありがとうございました」と感謝されること
ぐらいのものです…。  

体罰で生徒がケガをしたり、死んだりするのは、その使い方がまずかったということであって、体罰そのものを否定するのは大間違いです。
いじめには目的がある
いじめも同じです。  
いじめは、人類の歴史とともに、地球上のあらゆる所で数十万年間存在してきました。
それは、いじめが人類の生存に関わる重要な目的を持っているからです。
その目的を考えれば、いじめ問題の答えはおのずと出てきます。  

いじめは、弱い子の弱点を突き、その進歩を促す大切なトレーニングなのです。  

いじめられると、怒り、悲しみ、不安、といった不快感が生じますが、その不快感が
子どもを行動にかりたて、いじめられっ子を進歩させます。

そして、ある程度進歩が認めれるようになると、もうそのことでは、いじめられなくなります。

その結果、いじめられた側は、いじめた側よりもずっと大きな利益を得るわけです。
いじめられるのは、「嫌なこと」ではあっても「ありがたいこと」なのです。  

弱点を克服させるのがいじめの目的ですから、「いじめをなくせ」というのは
とんでもない話です。
「子どもの弱点なんて、後の人生で克服すればいいじゃないか」などと思っては
いけません。
本能というものは、実にうまく、また冷酷にできていて、
チャンスを逃すと一生取り返しがつかないからです。

子供時代というのは、一人前の大人になるためのトレーニングをしている時期であり、
この時期に人間性の基礎ができあがってしまうのです。  

我々の経験からすると、男の子は3歳ぐらいから「男」になりはじめるようです。
いつそれが終わるのかはよく分かりませんが、たぶん小学生いっぱいぐらいまで
でしょう。

今、巷にあふれているナサケナイ男どもは、この大切な時期に男になりそこねた者たちであり、もう手遅れです。
いじめは進歩のきっかけ  
私たちも子どもの頃、下の子をいじめたものです。
それが子どもの本能だからです。
(子どもが本能通りに行動する時、その子は「君子」であると「中庸」ではいっています)

それに対し、親や先生に弱い者をいじめるなといわれ、いい子をしているのは
「郷原」(徳の賊)なのです。
なぜなら、いじめっ子は、いじめられっ子が自分の弱点を克服して進歩したと
認めた途端、急にいじめることができなくなるようにできているからです。
いじめられっ子は、いじめっ子の態度から
「学びて、時にこれを習う」を実践したことになるのです。

このように教育もしつけも、「今」を考えると戦術を誤ってしまいます。
子どもが泣こうが騒ごうが、それに左右されることのない確固たる戦略に
基づいて事を進めねばなりません。

いじめを悪いものと否定するのは、とんでもない間違いです。
いじめっ子もいじめられっ子も本能に反する
いじめが大きな問題となったのは、子どもが遺書を残して自殺し、
それをマスコミが大騒ぎしたからです。
そして、そのヒステリックな報道が自殺の連鎖反応を引き起こし、
遺書のほうもマスコミ受けを狙って過激になってきました。

しかし、ちょっと冷静になって考えてみてください。
あれが普通の意味での「遺書」と呼べるでしょうか。

自分の命と引き換えに「犯人」に社会的制裁を加えるようにし向けた
内容になっています。

本来、生きて、自分でやるべきことから逃げながら、
最もいやらしい方法でいじめっ子に復讐するというやり方は感心しません。

今問題になっている「いじめ」には、
(1)いじめっ子のいじめ方がおかしい
(2)いじめられっ子のいじめられ方がおかしい という(本能に反する)
2つの特徴があります。  

まずいじめっ子ですが、  
@強い者が弱い者を  
A大勢で  
B無目的に  
Cとめどなくいじめる、
ということがあり、  
D金品を要求する、
こともあります。

これらはすべて本能に反しています。  
人間が本能の通りに行動するなら、強者が弱者を攻撃するのは、
秩序維持、弱者保護、弱者の進歩を促す場合、しかありません。

今問題になっているいじめを見て、誰もが不快になるのは、それが本能に
反したものだからです。

現代っ子は攻撃衝動をせき止められている  
本能には「自発性」があります。  

攻撃という人間にとって欠くべからざる重要な本能は、発散されないまませき
止められると、ほんのちょっとした刺激で触発され、ついには理由もないのに
攻撃行動が起きてしまいます。

けんかを禁じ、危ない遊びをさせず、平等主義とやらで100m競走で順位をつける
ことさえ悪とするような環境では、子どもの攻撃衝動の発散の場は無くなって
しまいます。

最近の若者が、すぐに「チョームカツク」のはこのためです。

こうしてせき止められたムカツク若者の攻撃衝動は、
いじめとなり、家庭内暴力、おやじ狩り、暴走行為、いたずら電話、ホームレス
襲撃となり、果ては、女子高生コンクリート詰め殺人のような事件となるのです。  

さて、いじめられっ子の方には、  
@反撃せず(何も行動しない)  
A他人が仇を打ってくれるのを期待し  
B時につらすぎて自殺してしまう

という特徴があります。

自殺するぐらいの決心があるなら、いじめっ子にせめて一撃なりとも加えれば
いいのに、それをしないで遺書に怨みを書き残して死ぬ、というのは全く本能
に反します。

本当なら、いじめをきっかけにして成長しなければならないのですから。  

さて、いじめる側もいじめられる側も本能に反する理由は何でしょう。  

本能を発揮するのは自分自身しかないのですから、
本能が正しく発生ない理由は本人の中にしかありません。

環境や教育のせいにせず、本人の本能が弱く、時に狂っているのだと考えれば、
現実をよりうまく説明できるし、それによって実際的な解決法も見えてきます。

本能をトレーニングする  
いじめ問題をすべて子ども自身のせいにするのは(特に、いじめられっ子にとって)
残酷なようですが、問題が本人のせいであれば、本人の力だけで解決できると
いう事になり、非常に実際的な方法が出てくることになります。  

では、どうしたら良いか。  

いじめられっ子の特徴は、逃げるばかりで立ち向かおうとしないことにあります。

一方、いじめっ子のほうも、まともな方法で問題を解決しようとせず、安易に目的を
達成しようとします。つまり、いじめっ子も、実は立ち向かわずに逃げています。  

逃げるのは弱いからです。

ならば強くすればいい。

弱いものを強くするのは、トレーニング以外にありません。

「本能の発生場所である脳幹をトレーニングで強くする」。

これがすべての解決策なのです。  

昔の子どもは、日常の遊び(特に危険な遊び)の中で脳のトレーニングを
無意識のうちに行っていました。
それが、行動せず、家の中に閉じこもり、ゲームに熱中し、
女のペットになってしまった今の子どもたちには、脳をトレーニングするメカニズム
が全く失われています。

先生と父親の「力」が子どもを本来の姿に戻す  
戦後民主主義などというあやふやな理念を捨て、先生や父親の「力」を素直に認め、
子どもに対する毅然とした態度を取り戻せばよいのです。

もちろん先生の体罰の権利も復活させます。

子どもを外に追いやれば、ほうっておいても子どもは自分の中に解決法を見つけてしまいます。
そうすれば、子どもは本来の子どもに戻り、いじめは本来のいじめに戻ります。  
大人の正しい力が、いかに子どもを成長させるかには、目を見張らせるものがあります。
その喜びは、教育の現場にたずさわる者にしか実感できないものなのです。

 
 
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