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2009.10.17

【除幕式】新選組最期の洛中屋敷跡標石

 明日、京都の新選組史蹟で建碑除幕式が行われます。来てください。中村武生が銘を書きました。

除幕式日時:2009年(平成21)10月18日 15:00から

監修:中村 武生
(京都女子大学非常勤講師・NPO法人京都歴史地理同考会理事長)

建碑場所:京都市下京区西洞院塩小路下ル南不動堂町802 ハトヤ瑞鳳閣前

碑文
(表)此付近 新選組最後の洛中屋敷跡
(右)旧平安京左京八条二坊十五町
(左)旧山城国葛野郡不動堂村
(裏)二〇〇九年一〇月 ハトヤ瑞鳳閣建之

(解説文)当地は古代の表記でいえば、平安京左京八条二坊十五町にあたります。

 中世には八条院町とよばれ、鋳物生産が多数行われた、いわば工業地帯でした。
 が、戦国時代には農村化し、江戸時代までに葛野郡不動堂村が成立しました。

 しかし豊臣期に構築された、京都全域を囲い込む惣構(城壁・環濠)「御土居堀」の郭内に位置していたため、「洛中」(都市)扱いを受けました。

 幕末期、新選組がこの地域に屋敷を営みました。池田屋事件や禁門の変などでの活躍や、局長近藤勇の政治的力量が高く評価され、慶応3年(1867)6月、将軍徳川慶喜の直属の軍隊となりました。

 これにあわせての新屋敷建設です。いわば最盛期の邸宅といえます。

 近藤勇の甥で隊士だった宮川信吉の書翰によれば、同年6月15日に入居しています。 

 位置については、同書翰に「七条通り下ル」、幹部永倉新八の手記に「七条堀川下ル」とあり、当地付近に営まれたことは確実です。

 が、厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明です。  価値の低い記録による復元・叙述は、極力さけなければなりません。

 同年12月の王政復古政変により、新選組はわずか半年で当屋敷を離れます。

 翌年1月の鳥羽伏見戦争の敗北ののちは、関東へ下り、解体の道を歩みます。

 当屋敷は維持されず早々に消失して、静かな農村に戻ったことでしょう。
 が、明治になり、近くに七条停車場(現京都駅)が設置され、しばらくして地域一帯が京都市内に編入されます。

 当地付近は、地域史上はじめて京都屈指の「人の集まる場」となり、今に至ります。

                                  歴史地理史学者 中村武生

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