中川昭一氏は麻布(中高校)―東大―興銀(日本興業銀行=富士・一勧と合併してみずほ銀行となる)というコースを歩んだ。麻布中学受験のときは母、貞子さん(一郎氏夫人)が、参考書を取り寄せて受験勉強させたという。貞子さんの願いは「お父さん(一郎氏)は九大だったから、東大を目指して」だったという。
昭一氏は高卒後いったん慶大経済学部に進んだ。その後、「慶応の学生たちの遊び優先ムードがイヤで」東大法学部に入り直したという。母親の希望に沿うべく人並み以上の努力をしたのだが、それを本人の意思だったと説明するのは「親孝行の極致」だろう。
父、一郎氏は、広尾町の農家に生まれ育った。農作業や家事の手伝いに忙殺されながら受験勉強をした苦労話が自慢で、政治家や新聞記者たちに繰り返し聞かせていた。しかし貞子さんはそれがいちばん嫌い。とくに昭一氏ら、子どもに対しては封印した。昭一氏が育ったのは、貞子さんがしつらえた温室の中だったのだ。
政治家となってからの昭一氏は順風満帆だった。一九九八年七月末、四十五歳になったばかりで小渕恵三内閣の農水相に起用された。以後、経産相(小泉純一郎再改造内閣、第二次小泉内閣、第二次小泉改造内閣、第三次小泉内閣)農水省(第三次小泉改造内閣)自民党政調会長(安倍晋三内閣時代)財務・金融大臣(麻生太郎内閣)と政府・自民党の要職に位置し続けた。
小泉氏は「昭一」と呼び捨てにして可愛がった。同世代の安倍、麻生両氏も、「盟友」として頼りにした。首相にはならなかったが、「世襲政治の時代」を代表する政治家だったのである。
温室育ちの世襲政治家たちは、「仲間」をかぎ分ける嗅覚的なものを持っているようだ。見分けるだけなら罪が軽いが、仲間とだけ付き合おうとする。一郎氏のような苦労した人間との付き合いは「重苦しい」らしいのだ。
家業としての政治を受け継いでいるだけの彼らには、政治家になりたい動機、政治理念・政策体系を持たない。そこで便利なのがタカ派路線である。隣国・北朝鮮の首領・金正日が、拉致や核・ミサイル開発などで、「脅威」をつくり出し、彼らの援軍になってくれている。上手く利用して「戦う政治家」を装えば、国民の支持を獲得できたのである。
しかし「金正日と戦う」だけでは、「弱いイヌほどよく吠える」に似ている。中川氏は、酒と睡眠薬・向精神薬に依存しなければならないほど弱い人間だった。週刊誌などが「緩慢な自殺」と書いているのは、ほぼ実態に近いのではないか。
この中川氏と「超親密」だったのが安倍、麻生の両首相経験者。安倍氏は機能性胃腸炎の悪化という理由で、政権を投げだした。逆に麻生氏は「経済危機」を理由に、組閣直後の総選挙を回避し、ぎりぎりまで引き延ばした。ともに、温室育ちの弱さを露呈した判断と行動だった。中川氏のローマでの酩酊会見と併せて、「自民党政権をつぶした三人の戦犯」と非難されるべきだろう。
中川氏急死を報じた五日付北海道新聞朝刊は二面に「評伝 大志と重圧のはざま 次の首相・夢届かず」を掲載、三面には「中川昭一氏が急死 熱く語った天下国家」までつけ加えた。
「死んだら神になる」のは、靖国神社のA級戦犯だけにしてもらいたい。靖国のA級戦犯合祀(し)についていえば、どうして戦死者の遺族から抗議の声が出ないのか不思議でならない。東條英機以下のA級戦犯は、戦死者でないのだから、そもそも靖国に祀(まつ)られる資格がないのである。
(このコラムは「あさひかわ新聞」10月12日号に掲載されたものです)