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2009/04/12

夫婦別姓旧慣習説に根拠はない-- 感想 後藤みち子『戦国を生きた公家の妻たち』その2

 (承前)

 第二の見解「皇后藤原氏ナランニ皇后ヲ王氏トスルハ甚タ不可ナリ皇后ヲ皇族部中ニ入ルゝハ王氏タルヲ以テノ故ニアラスシテ皇后タルヲ以テナリ」ですが、「王氏」というのは令制の「皇親」概念の範疇でしょう。
 この見解では明治聖后藤原美子(昭憲皇太后-従一位左大臣一条忠香女)、皇太后藤原夙子(英照皇太后-孝明女御明治養母-関白九条尚忠女)はあくまでも藤原氏ということです。皇后はその身位ゆえに皇族部なのであって、族姓ゆえに皇族なのではないと言ってます。臣下の女子は、皇后に立てられることによって皇親ないし王氏に族姓が変更されるのではないという趣旨になります。
 それは当然のことです。例えば光明皇后(聖武后孝謙生母藤原安宿媛)ですが、父右大臣藤原不比等の封戸を相続し、例えば天平十三年正月国分寺の丈六仏像を造る料に不比等の食封三千戸が施入されている。こうした財政支出が可能なのも藤原氏の成員であるからですし、『楽毅論』天平十六年十月三日の署名をみると「藤三娘」である。皇后は皇室の成員ですが、あたりまえのことですが皇后であっても自らを藤原氏と認識していたことがわかる。もし光明皇后が藤原氏でなく、ありえないことだが皇親になると仮定すると、天皇大権の掌握どころか、即位してもよかったということになります。そんなばかなことはありません。現実にはありえないことでしたが、仮に光明皇后は則天武后のように即位(武周革命)したら、藤原氏の王朝になります。唐が周に国号をあらためたように、日本から別の国号に改めることとなったでしょう。
 であるから、第三の見解も同様の趣旨でしょうが、これは正論です。したがってその限りにおいて、天皇・皇族の后妃、配偶者は「所生の氏」から族姓 を変更するものでないという論旨を認めますが、しかし、皇室のルールと、皇族以外の家継承のルールがまったく異なることをこの議論では無視してます。
 いうまでもなく日本的家制度が中国の宗族、韓国の門中と違う、最大の特徴が、非血縁継承があり、血筋が中切れになっても継承されていくことです。皇位継承は単系出自系譜という規則性を有しているので日本的家制度とは全然違う。異姓養子厳禁父系規則の貫徹する宗法・儒教文化と日本的家制度とも全然違う。日本的家制度は家職の継承に対応しているが、中国の宗族にはないわけです。さらにいえば令制以来の三后皇太夫人や後宮職員令にあるキサキの性格は、現代的な婚姻家族とは違う。立后それ自体が政治行為で、政治的班位としての性格が強い(三后は令旨を発給し、しりへの政という政治的権能を有する)。例えば光明皇后は聖武践祚の6年後、橘嘉智子が嵯峨践祚6年後、藤原穏子にいたっては醍醐践祚の26年後の立后ですから、立后は婚姻家族概念でなく皇太子(孫)を引き出す政治行為とみなしてよい。政治的な理由で一帝二妻后の例もある。また政治的理由で皇后が里第で籠居を余儀なくされるようなケースもあるわけで、嫡妻権が明確で婚姻家族理念に近い中国の王権とも性格が違います。
 であるから、皇室のルールがこうであると言っても、家族慣行の全く異なる民間にもそれを強要することは無理なのであり、この論理ははじめから破綻していたといえる。要するに家族制度は王権と民間とを区別して議論する必要があります。もちろん幕府が朱子学を官学としていたことから士族家族慣行と一般庶民の家族慣行には違いがある。武家には筋目論というのがあって、異姓養子が好ましくないなど宗法・儒教倫理は濃厚に認められますが、しかしながら例えば出羽米沢藩主(第四代)上杉綱憲の実父は忠臣蔵で有名な吉良義央で、実母が第二代米沢藩主上杉定勝女富子(第三代綱勝の妹)ですから、先々代からみて外孫、先代からみて外甥を養嗣子としたことになりますが、これは異姓養子ですが、非血縁継承ではなく、血縁としては女を介して繋がっているので女系継承ですが、このように幕府は異姓養子や女系継承を認めてしまっている事例があって、単系出自系譜、宗法・儒教倫理で貫徹されてわけではないという意味で、士族家族慣行も日本的家制度に接近したものと認識できます。

 
 日本的家制度の起源(非血縁継承と女系継承)
 
 日本は律令制度を導入しても、親族構造を宗法によって再編することはなかった。宇根俊範(註1)の指摘するように九世紀以後の「氏族」の性格は甚だ曖昧であり、奈良貴族と平安貴族はストレートに直結しないというのである。「氏族」の特性のひとつとされる「同一の祖先から出た」ということが九世紀以後の新氏族にはあてはまらないからである。
 我が国は大化元年の「男女の法」が「良民の男女に生まれた子は父に配ける」と定め父系規則であり。律令国家の良民の族姓秩序は父系相承規則である(なお「氏」というのは厳密にいうと「氏族」という広義の概念のなかでも天武八姓の忌寸以上のカバネを有し、五位以上の官人を出す資格と、氏女を貢上する資格を有する範囲をいうのであって、臣・連・造等の卑姓氏族を含まない)。
 しかしながら、九世紀以降の改賜姓の在り方、十世紀以降、天皇の改賜姓権能が有名無実化していくと、中小氏族が門閥の厚い壁ゆえ、系譜を仮冒して大族に結びつかんとしたために「氏族」が父系出自のリニージとは言い難いケースが少なくないのである。宇根は改賜姓の具体的事例を列挙しているが、ここでは局務家についてのみ引用する。院政期以後になると史官や外記局などの実務官人は「官職請負」的な、ほぼ特定の氏によって担われることになるが、局務(太政官外記局を統括する大外記)中原朝臣・清原真人がそうである。

 宇根によると「局務家の清原真人は延暦十七年(798)にはじまる清原真人と直接系譜的につながるものではなく、その前身は海宿祢で、寛弘元年(1004)十二月、直講、外記等を歴任した海宿祢広澄が清原真人姓に改姓したものである。」「中原朝臣も、その前身は大和国十市郡に本貫ををもつ十市氏であり、天慶年間に少外記有象が宿祢姓を賜与され、更に天禄二年(971)にウジ名を中原に改め、天延二年(974)に至って中原朝臣となったものである。これも推測を加えるならば『三代実録』にみえる助教中原朝臣月雄らの系譜にむすびつけたものかも知れない。」(註2)とされている。
 局務家清原真人と、舎人親王裔の皇別氏族(王氏)で崇文の治の大立者右大臣清原真人夏野や、夏野とは別系だが、やはり舎人親王裔である清少納言の父清原元輔の清原氏とは系譜で繋がらないということである。
 舎人親王系皇別氏族清原氏と、局務家清原氏は同一姓氏であるが同一の祖先でないから父系出自集団のリネージとみなすわけにはいかない。これと同様の例は少なくないのであるから、九世紀以後の氏族の性格は曖昧なものであった。

 11世紀になると諸道博士の家で非血縁養子が指摘されている。曽根良成によると史や外記などの実務官人の姓は、11世紀中葉を境とした時期に三善・中原・清原などの姓が、増加する。これらは、それらの一族が血縁者を飛躍的に拡大させた結果ではなく官司請負制のもとで請負の主体となった博士家の姓を名のった官人が増加したための現象だった。その実態は11世紀中葉までと同じく地方豪族出身の有能な官人だった。‥‥これは養子形式の門弟になることによって居姓の改姓を制限した延喜五年宣旨の空文化を図るものだった。〔違法であるが〕政府は暗黙のうちにこれを認めることにより、官司請負に必要な有能な実務官人を安定的に地方から補給できた」(註3)とする。
 
 従ってすでに平安時代に実系系譜で繋がらなくても同一姓氏が許されていること。11世紀になると違法であるにも関わらず、諸道博士の家で非血縁の門弟が博士家の姓を名乗る実務官人が増加した歴史的事実から、日本的家制度の特徴である非血縁継承は少なくとも11世紀に起源があると断定してよいと考える。
 
 次に鎌倉時代の武家の継承であるが、明石一紀(註4)の論説が参考になるので引用する。
 鎌倉幕府法は男子がいない場合、嫡子として兄弟の子をはじめ「一族並二傍輩」の男子を養子とするのが一般的であった。原則は同姓養子であるが、他人養子といって非血縁の傍輩を養子とする(異姓養子)や女人養子といって女性が養子を取って継がせることは禁止していなかった。のみならず、平安末期から女系の妹の子(甥)や女子の子(外孫)を跡取り養子とする方法が多くとられるようになったという。
 明石が列挙されている事例は中原広季(大江広元の養父)は外孫藤原親能を、大友経家(頼朝より豊前と豊後の守護を命じられ九州大友氏の祖となった)は外孫藤原能直を、宇都宮朝定は外孫三浦朝行を、得川頼有(清和源氏の新田氏から分立したは得川氏の祖)外孫岩松政経を、大屋秀忠(藤原氏秀郷流)は外孫和田秀宗をそれぞれ養子とし跡を継がしめている。これを明石一紀は婿養子への過渡的な養子制とみなしている。
 中央の貴族社会で限嗣単独相続となったのは、室町時代以後だから、限嗣単独相続の日本的家制度の成立は室町から戦国時代以後となるが、武家においても非血縁継承や女系継承のある原型は少なくとも12~13世紀に遡ることができると私は考える。
 また、婚入配偶者たる嫁が亡者の遺跡を相続し、家連続者となり新たに婿を迎えて血筋が中切れでも家産が継承される事例の原型と思える歴史的事例として、室町幕府管領家畠山氏を挙げることができる。
 畠山氏はもとは桓武平氏、秩父氏の一族で武蔵国男衾郡畠山荘の荘司となって畠山氏を称し、畠山重忠は源頼朝の有力御家人となり、戦功多く鎌倉武士の鑑と称揚されたが、元久二年(1205)六月畠山重忠の子息重保が、北条時政の後妻牧の方の女婿で時政が将軍に擁立しようとした平賀朝雅(信濃源氏)と争ったため、北条時政夫妻に叛意を疑われ武蔵二俣川で追討軍に滅ぼされた後、後家(北条時政女)に遺跡を継がせて、足利義兼の長子義純を婿として子孫に畠山を名乗らせている。
 明石(註5)は、秩父一門の平姓系図の畠山氏と、足利一門・管領家の源姓系図の畠山氏は全く別の存在で、義純は重忠を先祖とは認めていないので源氏畠山家を新しく興したという解釈を示している。

 そういう解釈は無難かもしれないが、名字(家名といってもよい)と家産を継承しているのである。私は畠山氏は平姓から源姓に血筋が切り替わったという見方をとってさしつかえないと思う。
 要するに平姓畠山氏は婚入配偶者で後家の北条時政女が足利義純を娶ったため、平姓から源姓に切り替わる非血縁継承となったのである。家の非血縁継承の重要な先例だと思う。--つづく
 
(註1)宇根俊範「律令制下における賜姓について-宿禰賜姓-」『ヒストリア』99 関連して宇根俊範「律令制下における賜姓についてー朝臣賜姓ー」『史学研究』(広島大)147 1980
(註2)宇根俊範「律令制下における賜姓について-宿禰賜姓-」『ヒストリア』99
(註3)曽根良成「官司請負下の実務官人と家業の継承」『古代文化』37-12、1985
(註4)明石一紀「鎌倉武士の「家」-父系集団から単独的イエへ」伊藤聖子・河野信子編『女と男の時空-日本女性史再考③おんなとおとこの誕生-古代から中世へ(上)』藤原書店2000 256頁以下
(註5)明石一紀 前掲論文

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