十勝毎日新聞社ニュース
“再起”ならず突然の悲報 中川氏死亡
「親子2代で…」
後援会、ただ呆然
「昭一が急死した」−。中川昭一さん(56)の訃報(ふほう)は4日午前、管内の後援会幹部ら支援者に瞬く間に広がった。衆院選の落選後も再起を期待する声は強く、本人も意欲を示す発言をしていた。敗戦の総括作業を進め、環境づくりを進めていた道半ばでの訃報。「なぜ」「どうして」。父と同じ50代という若さでの急死に、後援会関係者はただ言葉を失った。
衆院選に落選した後の1カ月間、中川さんは東京の事務所の整理などもあり、帯広と東京を行き来しながら過ごしていた。管内では選挙戦での協力に対して、全市町村の後援会や選挙対策本部の役員方などをお礼に回っていた。
中川さんの父一郎さんと親子2代にわたり、連合後援会の幹部を務めた海野利雄さんは「残念の一言では片付けられない」と肩を落とす。落選後はあいさつ回りに来た9月上旬など本人に2度会ったという。「選挙の後半から明るい様子だった。体の調子はどうだと聞いたら『よくなってきた』と答えていたので、元気になってくれればいいと思っていた」と話す。
1983年の初めての選挙では、後援会幹部として、道東一円が選挙区だった当時の道5区を組織づくりに走り回った。「他地区に比べて十勝が安泰なのは、農業の基本ができているから。父の跡を継いで、仕上げをしっかりやってくれた」と実績を強調。「わが子」のような存在だっただけに「ショックで言葉がない」と呆然(ぼうぜん)としていた。
十勝連合後援会の鈴木樹会長代行は「北海道で初めての総理大臣との期待を持っていた逸材だった」と語る。長く接した中川さんについて、「人柄はきまじめで、曲がったことができない人」と評す。落選を惜しみながら「農業問題など力を尽くしたが、今回の衆院選では選ばれなかった。悔しさもあり、思い悩んでいたのだろうか」と語った。
自民・保守系市議でつくる「中川昭一を支援する帯広市議の会」の会長を務めた鈴木孝昌さんは「衆院選後は顔を一度見ただけで特に話をしなかったが、地元にとって大変な人を亡くした」と惜しみ、「次(の衆院選)に向けても中川さんが軸だったが、全く白紙になってしまった」と今後の影響を懸念した。
83年に自殺した一郎氏=享年57=と重ね合わせる関係者も。後援会幹部は「(一郎氏が亡くなったのと)年も近い。親子2代でこうなるとは」と深いため息をついた。
茶道裏千家淡交会帯広支部長だった中川さんに対し、同会参与、余湖宗汀さんは「毎年の初点式(1月)にはほとんど出席されるなど、茶道に理解が深い方で、ショックを受けている。2002年に支部長を引き受けてくださり、翌年の淡交会北海道地区大会を成功に導いてくれた。支部創立60周年記念式典(18日)でおくやみの言葉、黙とうをささげたい」と語った。
中川さんの突然の訃報に帯広市内の後援会事務所には関係者が続々と詰め掛けた。事務所前で記者の質問に答える帯広連合後援会の岩野洋一会長(4日午後0時15分。帯広市東3南13の後援会事務所。金野和彦撮影)
帯広市東3南13の中川昭一さんの事務所には4日午前、岩野洋一帯広連合後援会会長ら複数の支援者・後援会や自民党の関係者らが訪れた。一様にショックを隠せない様子で、詰め掛けた報道陣の質問に対しても言葉少なだった。
午前10時をすぎると電話で連絡を受けたり、ニュースで一報を知った大谷亨道議、高橋勝坦帯広商工会議所会頭らが続々と事務所の中に。20人程度の報道陣は事務所内に入ることをシャットアウトされ、外から事態の推移を見守った。
正午すぎに報道陣の質問に応じた岩野さんによると、空路で東京に向かった高橋猛文幹事長がまだ東京の中川さんの自宅に到着していないこともあり、支援者と共に今後どうするかについて事務所内で指示を待っているという。
岩野さんは「午前8時半ごろ、高橋幹事長から電話で『中川前代議士が自宅で冷たくなっている』との連絡を受けた。本当に大きな衝撃を受け、声に出ない。後援会としては4日ほど前に幹部会を開き、4年後に向けて頑張ろうじゃないかとお話させていただいたばかり。あれだけの逆風の中で9万票もいただいた。頑張れば道は開けると思っていたが」と沈痛な面持ちで話していた。
※高橋勝坦帯広商工会議所会頭、高橋猛文幹事長の高の字は異体字です。
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