■□■□■ 苗 字〔「戸籍制度」の基本知識〕(解法者)■□■□■

◆◆◆ 苗 字(1) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 3月14日(金)23時16分59秒 ◆◆◆

 「苗字」は古くは「名字」と呼ばれていた。鎌倉時代の『吾妻鏡』にも「名字」が使われており、室町時代中期の国語辞書である『節用集』でも「名字 又作名乗」とあり、同じく室町時代の国語辞書である『下学集』にも「名字名乗 二字同」と記述されている。
 「苗字」と「姓」の違いは、〈1〉「姓」は国家が中国の文化を移植・移入したのに対し、「苗字」は個々の武士の家が確立したことにより成立したもので、「姓」が上からのものであるに対し、「苗字」は下からのものである。〈2〉「姓」は天皇が下賜する公的な名であるのに対し「苗字」は私称する名である。〈3〉「姓」は父系血縁原理により継承される「氏」の名(氏名−ウジナ)であるに対し、「苗字」は「家」の名(家名)であるとされる(末尾の加藤晃の書籍)。
 「苗字」は武士の形成と関係が深いとされ、単独相続が原則になるにつれ、家産が長子に承継されるとともに永続性を持った「家」が出現し、「家」という組織体を呼称するものとして「苗字」が成立したのである。
「苗字」が「家名」とともに発展してきたことにより「家長父権」が芽生えてくるのは当然のことであった(末尾の福尾猛市郎の書籍161頁)。
 その後、「苗字」は武士階級のみならず一般庶民にも広がっていった。文明15年〔1483年〕3月16日の東寺百合文書に「苗字の禁制」の記録が見られるが、それだけ庶民にも「苗字」を附す者がいたことを示している(洞富雄(2) 179頁)。
 江戸時代には下層農民も「苗字」を有していたことが明確となっている。
 江戸時代には知行所を持っていた旗本や藩士が金を取って「苗字」を庶民に与えていた事例が多かったことから、幕府はこれを禁じる「お触書」を出している(享和元年〔1801年〕7月)(末尾の奥宮敬之の書籍 163頁)。しかし、これは表向きのことで、庶民が「苗字」を持つことが廃れることはなかった。東京都中野区江古田の氏神氷川神社の弘化3年〔1846年〕の造営奉納取立帳の全村85軒の戸主の全員に「苗字」が記載されていた。これは何も江戸近郊のことではなく、長野県松本平の南安曇郡の33ヵ村の講中2345人のうちわずか16人を除いて「苗字」を持っている(末尾の豊田武の書籍 140頁)。こういう例はゴマンとあったことが指摘されている。
 江戸時代の農民は何も上流階級に限らず総ての者に「苗字」があったと考えられるのである。江戸時代の農村において「支配者に名ばかりを載せ、苗字を書いてないのは下位者・使用人を賤しめての省略記載で、苗字の無記すなわち無姓ということにはならない」(末尾の洞富雄(1)−4頁〔同趣旨〕)。これを以って<例外>などという者がいるが(末尾の熊谷開作 138頁)、そういう例はこれに止まっていないから誤りである。

 ※ 『苗字と名前の歴史』坂田 聡 吉川弘文舘〔歴史文化ライブラリ− 211〕
   2006年4月1日
   『苗字の歴史』豊田 武 中央公論社〔中公新書 262〕1971年9月25日
   「日本近世の『家』と妻の性観念」柳谷慶子(『歴史評論』636号
   2003年4月1日12頁
   「江戸時代の一般庶民は果たして苗字を持たなかったか」洞 富雄
   (『日本歴史』50号 1952年7月1日4頁〔後に下記に所収〕
   (洞富雄(1)という)
   『庶民家族の歴史像』洞 富雄 校倉書房 1966年2月5日
   (洞富雄(2)という)
   「日本の姓氏」加藤 晃(『東アジアにおける社会と習俗』
   東アジア世界における古代史講座 第10巻〕井上光貞 学生社
   1984年12月20日 86頁)
   『苗字と名前を知る事典』奥宮敬之 東京堂出版 平成19年1月30日
   「江戸時代の夫婦の氏」熊谷開作(『婚姻法成立史序説』熊谷開作
   酒井書店 1970年12月10日)
   『日本家族制度史概説』福尾猛市郎 吉川弘文舘 昭和47年2月25日


◆◆◆ 苗 字(2) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 3月15日(土)14時34分41秒 ◆◆◆

 明治3年〔1870年〕9月19日、明治新政府によって「自今平民苗字被差許事」と「苗字差戻」の布告がなされた。これまでの「苗字」は「氏」と定められた。「苗字」は明治4年の「戸籍法」制定に関係があった。こうして「苗字」が公認されたのである。ただ、この時点では「苗字」は強制ではなかった。
 国民皆姓がなされたのは、明治8年〔1875年〕2月13日の「平民苗字必称令」からである。それは〈1〉「戸籍」を編製するため。〈2〉徴兵制施行のため国民を苗字と名で把握するため、明治8年1月14日に陸軍省は太政官に「現今尚苗字無之者モ有之兵籍上取調方ニ於テ甚差支」と伺いを出している。〈3〉各種の国家機関の執行に苗字のある者とない者との混在は不都合であった、東京府の刑務所から同一監房内の受刑者が無姓同名で取扱に困る。〈4〉国民に苗字を必称する義務があることを義務づけた、〈5〉四民平等の要請、にあるとされる(末尾の井戸田博史の書籍 54頁)。
 しかし、〈1〉が主目的で後は副次的理由である。「戸籍制度」の創設と「徴兵制」とを結びつける者が多いが、当初の「戸籍制度」(壬申戸籍)は「徴兵制」に全く役に立たなかったことは、既に「日本の戸籍制度」で説明してある(後に投稿します)。何が何でも<軍国主義>に結び付けたいというのは学問的探究を越えて何か政治的意図があるかと疑いを持ってしまう。
 なお、特に〈4〉は問いを以って問いに答える類である。
 なお、「苗字」については「夫婦別姓」とも関連するので、以下の部分は拙稿「夫婦別姓」に詳述する。

 ※ 『家族の法と歴史』井戸田 博史 世界思想社 1993年3月20日


◆◆◆ 苗 字(3) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 3月16日(日)15時40分38秒 ◆◆◆

>外国の例(1)<

 「姓」は父系血縁原理により継承される「氏」の名(氏名−ウジナ)であるのに対し、「苗字」は「家」の名(家名)であることは前に説明したが、欧米ではどうなっているのだろうか。

1.ロ−マ時代
 ロ−マ時代の人の名前は、@ 氏族名(血統を示すもの)−ノ−メン、A 家名(苗字)−コグノ−メン、B 成人名−プレノ−メン、の3つがあるとされた。例えば、シ−ザ−は「ガイアス・ジュリアス・カエサル(GaiusJulius Caesar)」というが、日本風に言えば、徳川・源・家康ということになる。このうち「源」が氏族名ということになる。なお、成人名は生涯発表しなかった。
「家名」はもともと「あだ名」(身体的特徴−ノッポ、チビ、デブなど)から生まれたとされる。

2.フランス・ドイツ
 ロ−マの伸張に伴い、ロ−マ風の名前が普及したかといえば、そうではなかった。フランス(かってのガリア)は複雑でなかなか普及しなかったと言われている(末尾の木村健助の書籍 3頁)これはフランス(かってのガリア)が未開の地で民度が遅れていたことにある。ガリア人の名前は、
@単純名−Cotus、alba、Liscusなど、
A 複合名−Cingeto−rik,Orget0−rik(rikは王という意味)、
B 転化名−Cauar‐inusはCauarosという人名からの転化(inusは小という意味)で、勇者などからのものが多かった、
の3種があったとされている。5世紀末に西ロ−マ帝国が滅亡すると、ゲルマン人がやって来て、その習慣の「単純名」が一般化した。ゲルマン民族の故里のドイツでももちろん「単純名」だった。
 しかし、それまでの「単純名」では限度があったため、これに「あだ名」(身体的特徴−ノッポ、チビ、デブなど)が7.8世紀ころから普及して「単純名」に附加された。やがて、キリスト教が普及し、「洗礼名」が附されるようになった。ただ、これは13世紀以降のことで、かなり後世のことである。教会では「洗礼名」を優先し、「あだ名」を排斥したが、ロ−マ時代と同じく血統などを示す「家名」として定着していったのである。

3.ドイツ
 ゲルマン民族の故里のドイツでももちろん「単純名」だった。しかし、年を経るとともに交通の発達および定住の激減から、個人識別が「単純名」のみでは表せず、個人識別の表示をより精密にする必要が大きくなり、出身地、領有地、居住地、職業、特性などを示す「附加名」の使用が普及していったとされる。そして「附加名」の一つとして父の名を冠する血統を示すものとなって、「苗字」が定着していった。これは12世紀を終わるころである。

 ※ 『フランス法の氏名』木村健助 関西大学出版・広報部 昭和52年3月30日
   「ドイツにおける夫婦の氏」唄 孝一(『創立十周年記念論文集(法経篇)』
   都立大学創立十周年記念論文集編集委員会 昭和35年3月31日 163頁)


◆◆◆ 苗 字(4) 投稿者:解法者 投稿日:2008年 3月16日(日)15時38分3秒 ◆◆◆

>外国の例(2)<

4.イギリス
 キリスト教が支配的となった中世のイギリスにおいて、あだ名・地名・職業・父祖の名などから家名が生まれ、これを「ファミリ−・ネ−ム」と呼ぶ。さらに「洗礼名(クリスチャン・ネ−ム)」が宗教的意味から生まれた。そして、「ファミリ−・ネ−ム」を使用せず「洗礼名(クリスチャン・ネ−ム)」のみを使用する風習が一般的となった。これにドイツで「中間名」がキリスト教から独立するという意味で、「洗礼名」+「中間名」で呼称するということが一般的となった。

5.アメリカ
 アメリカではこの「中間名」を頭文字にするという習慣が普及して現在に至っている。「ジョン・エフ・ケネディ」元アメリカ大統領は「John・Fitzgerald・Kenndy」が正式名であるが、「John・F・Kenndy」が普通となり「Fitzgerald」を知る人は少ない。この場合の「ケネディ」が「家名」となる。つまり、「家名」が復活しているが、一般的に呼ぶときは「名」のみを呼ぶ。
 「家名」が発展したのは、中世の騎士が身分を誇ることから生まれた。ここのところは日本の「家名」と武士団の形成との関係に似ている。
 ところで、ロシア・北欧・東欧では「レフ・ニコラヴィッチ・トルストイ」は「トルストイ家のニコライの息子(ヴィッチ)のレフ」という。
「ミロシェヴィッチ」の「ヴィッチ」は息子の意味で、女子の場合は「ヴナ」を付ける。「ペトロヴナ(ペトロの娘)」という風にである。このように欧米でも地域によってずいぶんと異なるが、「家名(苗字)」を表示することは共通している(豊田武の前掲書 158頁)。

 中国では前に説明したとおり、「姓」と「氏」の区別は難しく現在では同じ意味に使われている。血統集団を表すものと考えてよい。朝鮮では「姓」は血統を示すもの、「氏」とは本貫(祖先の出身地)とされている。いずれも「家」という制度がないから、「苗字」はない。両国については、別に説明する。
 なお、スリランカで「チャンドラ・クマ−ル・アラシンゲ・アラチゲ・ウジタ」という者がいるが、これはチャンドラという名に、父・祖父・曽祖父の名に、家名(ウジタ)を順次加えていったと聞いたことがある。
 このように国によってずいぶん異なる。


◆◆◆ 知識文化人の誤謬 投稿者:解法者 投稿日:2008年 3月16日(日)15時26分46秒 ◆◆◆
 「夫婦別姓」もそうですが、何かあるとすぐに欧米の例を持ち出します。
「戸籍制度」と「身分登録制度」は国家が統制する点では同じですが、その歴史も内容も異なります。苗字も違います。夫婦別姓だって同じです。
 比較するのは大変重要なことですが、こうしたものを同一平面で論じることの<愚>に全く気が付いていません。
 これが果たして「知識文化人」と呼べるか疑問があります。


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